尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

左幸子監督『遠い一本の道』(1977)、感慨覚える国労映画

2024年02月11日 22時19分23秒 |  〃  (旧作日本映画)
 国立映画アーカイブで『日本の女性映画人(2)――1970-1980年代』という特集上映が始まった。有名な映画なら同時代に見てる映画も多いが、久しぶりに見直す意味もあるので(それに見てない映画もあるし)、何本か見ようと思っている。2月10日に左幸子監督『遠い一本の道』を再見したので、今回はそのまとめ。非常に複雑な感慨を覚えた映画で、公開当時に見ているが見直す意味が大きかった。もう一回、16日(金)19時に上映があるので紹介しておきたい。

 今回の特集趣旨の「女性映画人」という観点からすると、『遠い一本の道』は女性監督作品で初めてベストテンに入選した映画である。キネマ旬報ベストテンを基準にすると、1977年の第10位に入選している。同じ年に宮城まり子監督『ねむの木の詩がきこえる』が7位に入っているが、これはドキュメンタリー映画なので劇映画としては史上初である。その次は20年後の1997年の河瀬直美監督『萌の朱雀』(10位)なので、映画史的に非常に先駆的なのである。

 『遠い一本の道』は国労(国鉄労働組合)と左プロの合作で、日本の左派独立プロ映画の中でももっとも組合色が強い映画だろう。左幸子(ひだり・さちこ 1930~2001)は1977年に羽仁進監督と離婚して、その頃は社会党左派的な色彩を強めていた。元夫の両親羽仁説子、五郎が左派言論人として知られていたのに、子どもの羽仁進は非政治的だった。それに対して左幸子が政治的になったのは因縁を感じた。今は忘れられた感もあるが、今村昌平監督『にっぽん昆虫記』でベルリン映画祭女優賞を受賞した。これは日本の女優が三大映画祭で受賞した最初で、もっと評価されるべき女優だと思う。

 映画は国労の全面的協力のもと、有名な劇作家宮本研の脚本を左幸子が製作、監督、主演して作られた。北海道を舞台に、70年代の「マル生運動」さなかの揺れる国鉄労働者を描いている。ところどころはドキュメンタリー的に撮影されていて、記録映像的にも貴重。主人公滝ノ上市蔵井川比佐志)は、保線職員である。鉄道映画は数多いが運転士や車掌、あるいは駅長などが取り上げられることが多く、保線職員を描く映画は他にないのでは? 戦時中に高小卒で就職し、そのまま勤続30年を迎えた。その表彰式が札幌で行われる日から映画は始まる。恐らく実際の映像で式典が進み、職員は夫婦同伴で表彰される。
(保線労働の様子)
 映画の舞台は追分駅で、札幌の東にあって室蘭本線と石勝線が分岐する地点である。北海道に多かった鉄道に依存した町で、勤続式典は重大事だ。滝ノ上の妻里子左幸子)は和服を新調して、久しぶりの札幌行きを楽しみにしている。ウキウキする妻とどこか無愛想な夫の様子をバスのバックミラーに映る姿で見せる。その夜は家でお祝いをするが、そこに札幌のデパートで働く娘由紀市毛良枝)が恋人の佐多長塚京三)と現れる。この機会に夫に承知させようという里子のアイディアだったが、市蔵は怒って追い返しちゃぶ台をひっくり返してしまう。
(表彰式に向かうバスの中)
 里子は夫を大切にしているが、自分のように結婚するまで顔も見たことがなかった結婚を娘にさせたくないのである。しかし職場で悩み多い市蔵は時々怒りを里子にぶつける。試験を受けても落ちるばかりで、一生保線職員で終わるのか。仕事に誇りを持ちつつも、当局は「合理化」を進めて、現場職員の経験よりも機械導入に熱心である。このままではどんどん人員削減になりそうで、それを防ぐためには皆が組合に団結して闘う必要がある。市蔵はそう思っているが、薄給のため里子は内職せざるを得ない。国労の家族会も要求をぶつけるが、その中で「内職せずに食べていけるように、夫の給料をもっと上げて欲しい」と言う。
(市蔵と里子)
 今から見ると、左翼労働組合の主張が「妻が家庭で主婦に専念出来るだけの給与を夫に支払え」というのは不可解である。当時赤字を抱えていた国鉄で、大々的な給料増が実現する可能性はなかっただろう。しかし、ストがあれば妻も家族会に団結し、闘争中の夫たちのためにおにぎりを作るのが当然のこととされる。子どももそれを見ていて、「お母さんはストの手伝いでおにぎりを作ってる時が一番生き生きしている」と言う。「性別分業」は全く疑いの対象ではなく、むしろ「金持ち階級のように、われわれ貧困階級も夫が働き妻が家庭を守る暮らしが可能になる社会」が左翼の目標だったのだ。

 このように左派労働組合のジェンダー意識が意図せず記録されているのが貴重なのである。そのような「国鉄労働者一家」的な共同体的労働を当局は解体したいと思っている。全国あらゆる職場で進行していた「職能給」的な給与体系にしたいのである。そのためには労働者を「階級的労働組合」から「労使協調的労働組合」に誘導していく必要がある。そこで70年代初期に、当局挙げて国労からの脱退、鉄労(第二組合)への加入を管理職自身が強引に勧めて回る「生産性向上運動」(マル生運動)が起こった。さすがにそれは問題化して、「組織的な不当労働行為」として当局側が謝罪せざるを得なくなった。

 その当時のギスギスした職場環境、マル生運動の実態が、この映画には残されている。他にない貴重な映画だと思う。マル生運動を「粉砕」した国労などは、1975年にストライキ権を求めて「スト権スト」に突入した。里子たちももちろん支援のため、おにぎりを作っていた。そして、そのスト権ストに敗北し、国鉄労働運動は転機を迎える。国鉄内の組合運動は複雑に分かれていて、ここで細かく説明する余裕も知識もない。ただ、この映画が作られて10年後の1987年には、国鉄が分割民営化されてしまうとは、映画製作時には誰も思ってなかっただろう。そして「国労」そのものが激しい弾圧にあうことになる。それは国家的不当労働行為とも言え、僕は今でも納得していないが、やはり国鉄労働運動も問題を抱えていたことが映画で理解出来る。
(「軍艦島」)
 さて、もう一つこの映画が貴重なことは、長崎県の「軍艦島」(端島)の当時の貴重な映像が残されているのである。娘由紀はやはり佐多と結婚することになり(市蔵はひそかに佐多の職場の林業を見に行っている)、佐多の両親がいる長崎で挙式することになる。佐多は端島が閉山した後、夕張炭鉱に移ったがそこも不況のため夕張の林野庁で働いていた。「ひかりは西へ」と国鉄は新幹線の博多延伸を宣伝していた。一度新幹線に乗りたかった里子は夫と博多まで新幹線で行く。結婚式翌日に、佐多は本当の生まれ故郷「軍艦島」に案内するのである。当時も無人だが、まだ個人的な訪問、あるいは映画撮影も可能だったのか。

 そこで見た昔の学校の様子、朽ち果てた炭鉱アパートの現状を見て、皆は大きなショックを受ける。労働者はいつも使い捨てなんだという歴史を突きつける。山田洋次監督『家族』(1970)は長崎から北海道へと延々と家族が移り住む様子を描いたが、この映画は逆に北海道から長崎へ映像が替わる。しかし、働く庶民に冷厳な日本社会という構図は同じだろう。僕は当時見て、テーマとメッセージに感動出来たと思うが、今見るとやはり古かったかな、これでは負けるなとも思った。数多い左派独立プロ映画の最後尾に位置する映画で、それが女性監督初のベストテン入選映画でもあったのは興味深い。長塚京三、市毛良枝が若いのも驚き。

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