尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ピエール・ルメートル「われらが痛みの鏡」

2022年01月27日 22時41分56秒 | 〃 (ミステリー)
 ずっとミステリーを読んできて、次はピエール・ルメートルわれらが痛みの鏡」(Miroir de nos peines、2020、ハヤカワ文庫)である。2021年6月に翻訳が出たが、ほとんど評判にならなかった。これは「天国でまた会おう」「炎の色」に続くフランス現代史ミステリー三部作の最後の作品であるが、まあ普通の意味ではミステリーではない。第二次世界大戦勃発後の、いわゆる「奇妙な戦争」から「電撃戦」に掛けての数ヶ月を描く戦争文学と言うべきだろう。
(上巻)
 ピエール・ルメートル(Pierre Lemaitre、1951~)は、日本では「その女アレックス」が翻訳されて大評判になったミステリー作家である。これはカミーユ・ヴェルーヴェン警部シリーズというジャンル小説である。ルメートルは40歳を超えて小説を書き出したが、その後2013年に「天国でまた会おう」が大評判となってゴンクール賞を取ってしまった。この賞は基本的には純文学系の新人賞だから、驚くような選考である。そして、いよいよ三部作を完成させたのである。今までこのブログでもルメートルに関しては「傑作ミステリー「その女アレックス」」、「「天国でまた会おう」「炎の色」-ピエール・ルメートルを読む」を書いた。

 「天国でまた会おう」は第一次大戦で顔を負傷した傷痍軍人がフランス社会に壮大な詐欺を仕掛ける物語だった。「炎の色」は第一部の主人公の姉が父親が遺した銀行の財産をだまし取られ、復讐を仕掛けて行く物語。どちらもいわゆる本格ミステリーではないが、人生を掛けたコンゲームという意味で、ミステリーの一種だろう。それに対して「われらが痛みの鏡」には、確かに幾つもの犯罪と謎が登場し詐欺師も活躍する物語だが、戦争を舞台にした人間模様を描くという色彩が強い。この三部作はハヤカワ・ミステリ文庫の棚に並んでいるが、ミステリー・ファンよりも、フランス現代史に関心がある人の方が面白く読めると思う。
(下巻)
 今回の主人公は1作目に出てきた少女ルイーズである。ルイーズの母は家の一部を傷痍軍人に貸し出していた。そこに住む主人公が顔面を隠す仮面を作るときに手伝っていたのがルイーズ。そこに住み続け、小学校教師をしながら、向かいにあるレストランで週末だけウェートレスをしている。そこで毎週通ってきている老医者がいて、あるときルイーズにとんでもない話を持ち掛ける。そこからルイーズの人生は変転を重ね、母の隠された人生を垣間見ることになった。

 一方、フランスの東部戦線、いわゆるマジノ線でドイツと対峙している兵士たちがいる。そこでは宣戦布告以後も戦闘が起こらず「奇妙な戦争」と呼ばれる日々が続いていた。軍曹ガブリエルと兵長ラウール・ランドラードはそこにいて、戦闘のない日々に飽いている。ラウールはいかさま賭博などでもうけて、さらに物資の横流しなどで軍内で勢力を振るっている。マジノ線はドイツ軍が突破できないと言われていたが、ある日ドイツ軍の大戦車隊が押し寄せる。フランス軍は壊滅してしまって二人は独自の戦いを行うが、結局は敗走。その間に無人の館に入り込んで略奪して逮捕されてしまう。

 ルイーズの話と二人の兵士の話が交互に進むので、一体どこで絡んでくるのかと思う。そこにさらにデジレ・ミゴーなる詐欺師、あるときは難事件の弁護士、あるときは情報省のスポークスマン、そしてあるときは難民キャンプを運営する司祭と幾つもの顔を持つ弁舌爽やかな若い男が登場し、フランス社会の欺瞞性、偽善とともに、そこに潜む気高さや宗教性などを示して行く。兵士二人は刑務所に閉じ込められるが、戦況が悪化する一方で他の刑務所に移送される。それを警護する機動憲兵隊の曹長フェルナンにも様々な事情がある。これらの人々はラスト近くで一堂に会することになる。
(ピエール・ルメートル)
 そのラスト近くまで、流れるように進行して行く大河小説で、フランスでは最高傑作の声もあるとか。しかし、日本人として言えば1作目、2作目、3作目という順番で面白いというのが実感だろう。この小説は時代背景としては1940年4月から6月まで、パリが占領されてフランスがナチス・ドイツに屈するまでとなっている。フランス政府、フランス軍はドイツ軍を押しとどめている、兵器も十分、英仏軍は善戦していると言い続けている。まるで大日本帝国の大本営発表みたいである。ひたすら負けているのに、悪いのは国内に「第五列」(スパイ)がいたからだと言い張っている。これもまた日本で見聞きしたような風景だ。

 日本での「電撃戦」への関心はドイツを中心にしたものが多かった。フランス国内がこんなに乱れきっていたことは僕も知らなかった。まるでソ連軍が「満州国」に侵攻した時の大混乱に近いと言ったら大げさ過ぎるけれど、まあとにかく国内で膨大な難民が発生した。オランダ、ベルギー、ルクセンブルクからも難民が押し寄せたが、次第に厄介視されていく。そんなフランスの情けない偽善ぶりが容赦なく暴かれていく。そのような「反仏小説」として読み応えがあった。戦争のさなかに何が起きるか。人間の運命をめぐる壮絶な物語だった。
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