戦後70年である、「野火」も再映画化されたということで、夏以来、大岡昇平(1909~1988)の小説を読み直している。読み直すというのは、高校時代に「俘虜記」と「野火」を読んでいるからである。それは「新潮日本文学」という全集の「大岡昇平集」に入っていた。その本には「酸素」と「花影」という小説も入っていたのだが、先の戦争小説2編を読んだところで、僕はリタイアしてしまった。珍しいことである。取り掛かれば、一応最後まで読むようにしているのだが。でも、特に「俘虜記」にはかなりビックリし、とても付いていけない感じを持ちながらも、一応読み切った。「野火」は普通の意味で傑作だから、読み切れたけど、そこで力尽きたわけである。いやあ、高校生には無理だったんだなあ。

大岡昇平という人は、詳しくはまた別に書くけど、戦前に中原中也や小林秀雄などと一番若い友人として交際していた。でも、本人は詩を書いたり評論を書いたりはせず、フランス文学を専攻してスタンダールを研究していた。国民新聞社に一時勤めたが、その後帝国酸素という日仏合弁の企業に就職して神戸に赴き、そこで結婚した。だから、戦争などというものがなければ、中也研究者がちょっと関心を持つ程度の文学の周辺にいた人物だったかもしれない。しかし、1944年(昭和19年)になって、35歳の「老兵」まで召集されたのである。そして、何の因果か、前線に送られることになってしまい、7月にフィリピンのマニラに到着した。この月はサイパン島が陥落した時点であり、「次はフィリピン」である。すでに日本の制海権は失われていて、フィリピンに行きついたこと自体が喜ぶべきことだった。
大岡らは、ミンドロ島(ルソン島の真南にある島で、あまり開発されていなかった)に配属され、もしかしたら米軍は、レイテ島を制圧した後、この島を見逃してルソン島に直接向かうかもしれなかった。しかし、はかない望みは断たれ、12月15日に米軍はミンドロ島に上陸したのだった。もう補給の断たれた日本軍に反撃力はなく、ジャングルに退くしかなかった。そして、次第に追いつめられていき、大岡昇平は1月に米軍の捕虜となったわけである。日本軍は捕虜になることを禁じていたわけだが、マラリヤにかかり気を失った状態で捕まる。その直前に、大岡は一人になってジャングルをさまよい、若き米兵に遭遇する。向こうは気が付いていないので、大岡昇平が銃を撃つことは可能だったが、結局撃つことはなかった。それを何故だろうと考え抜くことで、作家・大岡昇平が誕生したのである。
1945年12月に日本に帰還し、後の「俘虜記」の第1章になる「捉まるまで」を書き、小林秀雄に認められた。ただし、占領中で発表は少し遅れ、48年の2月に「文学界」に発表され、大評判となった。続けて、捕虜収容所時代の追想をまとめていき、「俘虜記」「続俘虜記」「新しき俘虜と古い俘虜」と刊行された。今は全部まとめて「俘虜記」として、新潮文庫に大きな活字に改版されて生き残っている。日本軍人にとって捕虜になることは大変なことだったが、大岡は英語ができ、演芸大会用の台本も書けたから、収容所内では恵まれていた。それでも、一度は「やはり殺されるのか」と思っている。そのうちに、だんだん米軍のやり方に慣れていき、そこに日本人のさまざまな姿を見たのである。
今の時点で思うと、原爆や沖縄戦やシベリア抑留のような戦争体験は、戦後すぐには公表できなかった。大岡は激戦地に送られたが、米軍の捕虜となったので、早く報告ができたわけである。この「俘虜記」は、戦場体験を文学として表現した戦後最初の作品と言っていいと思う。(その他、梅崎春生「桜島」などもあるが、日本軍を描いても戦場体験ではなかった。)
そういう重大な意味を持つ小説だけど、「捉まるまで」は一種異様な小説(あるいは戦場に関する哲学的考察)である。とにかく、なんで米兵を撃たなかったをめぐって、延々と自己省察を繰り広げる。この執拗な省察は一度は読むべきものだと思う。「戦後文学」は今ではあまり読まれていないと思うけど、これだけはどこかで読むべきだ。でも「俘虜記」全体は、ようやく帰還できるまで、長い期間を対象にしていて、かなり長い。文庫本で500頁以上もある。と思ったら、これ以外に戦争を扱った短編があって、それが「靴の話」というタイトルで集英社文庫にあることに気付いた。ここに「捉まるまで」が入っているのである。200頁ほどの「大岡昇平戦争小説集」と副題が付いた文庫本をまず読むのがいいのではないかと思う。人がどのように戦場に連れて行かれるのかが詳細に報告されている。
大岡昇平は、1967年に再びミンドロ島を訪れる機会を得た。その記録が「ミンドロ島ふたたび」で、昔は中公文庫に入っていた(今はない。)これもこの機会に読んでみた。「俘虜記」だけでは、何と理性的、理知的な戦争文学なんだろうと思ってしまうんだけど、これは紀行だから違っている。還らぬ「戦友」を想って慟哭する大岡昇平の真実の姿があると思った。と同時に、この本には当時のフィリピン国民の日本人への悪感情が正直に記録されている。もう忘れてしまった人が多いと思うが、1970年ころまでフィリピンはアジアでも最も厳しい対日感情を持つ国だった。アメリカの植民地で、独立も約束されていたので、もともと親米感情の基盤があった。そこに侵略して、強引な統治をおこなっただけでなく、米軍が上陸した後に撤退する日本軍は住民を巻き込んで虐殺を行った。昔の新聞を見ると「マニラ大虐殺」と呼ばれている。南京やシンガポールは知られているが、このフィリピンでの出来事は忘れられてしまっているのではないか。戦後70年経ち、今のフィリピンはむしろ中国の海洋進出に脅威を感じているようだけど、過去の厳しい感情を日本側が全く忘れていいはずがない。その意味でも「ミンドロ島ふたたび」は、忘れてはならない本だろう。

1952年に刊行され、読売文学賞を受賞した「野火」に触れる時間がなくなった。これは傑作なので、あえて紹介するまでもないだろう。新潮文庫と岩波文庫で読める。岩波文庫には「ハムレット日記」が併録されていて、著者は「荒野をさまよう狂気」という意味で、レイテ島の戦場をさまよう日本兵は歴史的にハムレットに比べられるものなのだ。なるほど。飢餓や病気の描写も心に残るが、やはり「キリスト教」をめぐる「神」という問題がこの小説の最も重大なテーマだと思う。だから、今僕が述べることは少ない。ただ、戦後日本文学史の中でも、安部公房「砂の女」、三島由紀夫「金閣寺」、遠藤周作「沈黙」、小島信夫「抱擁家族」、島尾敏雄「死の棘」などといった、有無を言わせぬ戦後文学の大傑作という評価は永遠に揺るがない。だから、いつの時代も読み直しが行われ、読み継がれていく作品だろう。




大岡昇平という人は、詳しくはまた別に書くけど、戦前に中原中也や小林秀雄などと一番若い友人として交際していた。でも、本人は詩を書いたり評論を書いたりはせず、フランス文学を専攻してスタンダールを研究していた。国民新聞社に一時勤めたが、その後帝国酸素という日仏合弁の企業に就職して神戸に赴き、そこで結婚した。だから、戦争などというものがなければ、中也研究者がちょっと関心を持つ程度の文学の周辺にいた人物だったかもしれない。しかし、1944年(昭和19年)になって、35歳の「老兵」まで召集されたのである。そして、何の因果か、前線に送られることになってしまい、7月にフィリピンのマニラに到着した。この月はサイパン島が陥落した時点であり、「次はフィリピン」である。すでに日本の制海権は失われていて、フィリピンに行きついたこと自体が喜ぶべきことだった。
大岡らは、ミンドロ島(ルソン島の真南にある島で、あまり開発されていなかった)に配属され、もしかしたら米軍は、レイテ島を制圧した後、この島を見逃してルソン島に直接向かうかもしれなかった。しかし、はかない望みは断たれ、12月15日に米軍はミンドロ島に上陸したのだった。もう補給の断たれた日本軍に反撃力はなく、ジャングルに退くしかなかった。そして、次第に追いつめられていき、大岡昇平は1月に米軍の捕虜となったわけである。日本軍は捕虜になることを禁じていたわけだが、マラリヤにかかり気を失った状態で捕まる。その直前に、大岡は一人になってジャングルをさまよい、若き米兵に遭遇する。向こうは気が付いていないので、大岡昇平が銃を撃つことは可能だったが、結局撃つことはなかった。それを何故だろうと考え抜くことで、作家・大岡昇平が誕生したのである。
1945年12月に日本に帰還し、後の「俘虜記」の第1章になる「捉まるまで」を書き、小林秀雄に認められた。ただし、占領中で発表は少し遅れ、48年の2月に「文学界」に発表され、大評判となった。続けて、捕虜収容所時代の追想をまとめていき、「俘虜記」「続俘虜記」「新しき俘虜と古い俘虜」と刊行された。今は全部まとめて「俘虜記」として、新潮文庫に大きな活字に改版されて生き残っている。日本軍人にとって捕虜になることは大変なことだったが、大岡は英語ができ、演芸大会用の台本も書けたから、収容所内では恵まれていた。それでも、一度は「やはり殺されるのか」と思っている。そのうちに、だんだん米軍のやり方に慣れていき、そこに日本人のさまざまな姿を見たのである。
今の時点で思うと、原爆や沖縄戦やシベリア抑留のような戦争体験は、戦後すぐには公表できなかった。大岡は激戦地に送られたが、米軍の捕虜となったので、早く報告ができたわけである。この「俘虜記」は、戦場体験を文学として表現した戦後最初の作品と言っていいと思う。(その他、梅崎春生「桜島」などもあるが、日本軍を描いても戦場体験ではなかった。)
そういう重大な意味を持つ小説だけど、「捉まるまで」は一種異様な小説(あるいは戦場に関する哲学的考察)である。とにかく、なんで米兵を撃たなかったをめぐって、延々と自己省察を繰り広げる。この執拗な省察は一度は読むべきものだと思う。「戦後文学」は今ではあまり読まれていないと思うけど、これだけはどこかで読むべきだ。でも「俘虜記」全体は、ようやく帰還できるまで、長い期間を対象にしていて、かなり長い。文庫本で500頁以上もある。と思ったら、これ以外に戦争を扱った短編があって、それが「靴の話」というタイトルで集英社文庫にあることに気付いた。ここに「捉まるまで」が入っているのである。200頁ほどの「大岡昇平戦争小説集」と副題が付いた文庫本をまず読むのがいいのではないかと思う。人がどのように戦場に連れて行かれるのかが詳細に報告されている。
大岡昇平は、1967年に再びミンドロ島を訪れる機会を得た。その記録が「ミンドロ島ふたたび」で、昔は中公文庫に入っていた(今はない。)これもこの機会に読んでみた。「俘虜記」だけでは、何と理性的、理知的な戦争文学なんだろうと思ってしまうんだけど、これは紀行だから違っている。還らぬ「戦友」を想って慟哭する大岡昇平の真実の姿があると思った。と同時に、この本には当時のフィリピン国民の日本人への悪感情が正直に記録されている。もう忘れてしまった人が多いと思うが、1970年ころまでフィリピンはアジアでも最も厳しい対日感情を持つ国だった。アメリカの植民地で、独立も約束されていたので、もともと親米感情の基盤があった。そこに侵略して、強引な統治をおこなっただけでなく、米軍が上陸した後に撤退する日本軍は住民を巻き込んで虐殺を行った。昔の新聞を見ると「マニラ大虐殺」と呼ばれている。南京やシンガポールは知られているが、このフィリピンでの出来事は忘れられてしまっているのではないか。戦後70年経ち、今のフィリピンはむしろ中国の海洋進出に脅威を感じているようだけど、過去の厳しい感情を日本側が全く忘れていいはずがない。その意味でも「ミンドロ島ふたたび」は、忘れてはならない本だろう。

1952年に刊行され、読売文学賞を受賞した「野火」に触れる時間がなくなった。これは傑作なので、あえて紹介するまでもないだろう。新潮文庫と岩波文庫で読める。岩波文庫には「ハムレット日記」が併録されていて、著者は「荒野をさまよう狂気」という意味で、レイテ島の戦場をさまよう日本兵は歴史的にハムレットに比べられるものなのだ。なるほど。飢餓や病気の描写も心に残るが、やはり「キリスト教」をめぐる「神」という問題がこの小説の最も重大なテーマだと思う。だから、今僕が述べることは少ない。ただ、戦後日本文学史の中でも、安部公房「砂の女」、三島由紀夫「金閣寺」、遠藤周作「沈黙」、小島信夫「抱擁家族」、島尾敏雄「死の棘」などといった、有無を言わせぬ戦後文学の大傑作という評価は永遠に揺るがない。だから、いつの時代も読み直しが行われ、読み継がれていく作品だろう。
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