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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「天皇陵」の謎

2016年12月26日 23時18分54秒 | 〃 (歴史の本)
 「神武天皇陵」について、数回前に書いた。そこで最後に「もう少し書く」と書いた話。「天皇陵」の「治定」に関しては、現代の考古学的見地から否定的な古墳が多い。今回はその話を中心に。

 この問題については、矢澤高太郎「天皇陵の謎を追う」という本が2016年4月に中公文庫から刊行されている。それを読んだら、同じ著者に「天皇陵の謎」(2011、文春新書)というもあると知った。そこで両書を読んでみたのが、夏のころ。後で書くように、この本にはどうかと思うところもあるんだけど、この問題に関して判りやすく入手しやすい類書はないと思う。古代史マニアだけが読むのではもったいないと思うから、歴史や社会問題に関心の深い人に紹介しておく次第である。
 
 この本では、両書を合わせると、全天皇陵の現状が扱われている。そこで判ることは、天皇陵の治定はほとんどが疑わしいという事実である。著者は読売新聞の考古学記者として、多くの考古学者と接し、数多くの発掘に立ち会った。その結果知りえた「天皇陵の真実」について、このままでいいのかと公憤を感じてまとめたのがこの二つの本である。僕が一番面白かったのは、主題そのものよりも、ここに登場する多くの(今は亡き)考古学者・歴史学者の素顔である。それはさておき…。

 「天皇陵の謎」の冒頭で、故・森浩一氏の「古墳の発掘」(1965)という本に出ている一覧表を紹介している。それによると、9代の開化天皇から42代の文武天皇の中で、全32陵中(皇極と斉明は同一人物なので重複)学問的に確実と言えるのは「天智天皇陵」と「天武・持統合葬陵」だけというのである。9代以前の8人は、そもそも実在しない前提なので、要するに古代の天皇陵はほぼ間違っているのだ。

 もっともそれは厳格に過ぎる考え方で、用明天皇(「聖徳太子」の父)や推古天皇、舒明天皇などの陵は、今では正しかろうということになっているという。そして、その理由が細かく語られる。そもそも何でそこに決まったのか。そして今はそれをどう考えるのか。でも、それをここで全部書いても仕方ないし、僕もそこまで関心はない。ただ、継体天皇陵欽明天皇陵に関しては書いておきたい。

 神話上の天皇も含む皇統では第26代となる継体天皇。この人ほど古代史で謎に包まれた大王はいないだろう。そもそも「継体」という贈り名が意味深である。それ以前の雄略天皇系の系統が武烈天皇で絶え、そこに「応神天皇5世の子孫」とあるが近江で生まれ越前で育った王があとを継いだ。古代の史書を信用すれば、かすかに王統が続いているともいえるが、それにしてもほとんど中央政界に縁がない地方実力者が乗り込んできたのは間違いない。この系譜は後から作られたと仮定すれば、戦前の憲法にいう「万世一系の天皇」は単なる神話であって、実は継体から新王朝が始まったことになる。

 そういう継体天皇だから、即位後19年も大和に入ることができなかった。また有名な「磐井の乱」が北九州で起きたのも、その治世である。半島情勢も絡んで、継体王朝を認めない勢力が強かったことを想像させる。そんな継体天皇だから、古墳は大和には作られなかった。大阪府茨木市の「太田茶臼山古墳」(三島藍野陵)とされている。でも、学者は一致して、1.5キロ離れた「今城塚古墳」が真の継体陵だと推定している。考古学というより、史書の解釈の間違いということらしい。
(今城塚古墳)
 今城塚(いまきづか)古墳は、戦国時代に畿内の有力者だった三好長慶が城に用いて荒廃してしまったらしい。そこで江戸時代の学者は、真の継体陵は別だと思ったらしいのである。ところで、それだけなら「間違い」というだけなんだけど、今城塚は「陵墓参考地」にもならなかったので、なんとすでに発掘調査されている。多くの天皇陵は厳重に侵入禁止になっているのに、真の王陵と思われる今城塚は発掘できてしまった。そして「高槻市立今城塚古墳公園」として公開されているのである。
(今城塚古墳公園の埴輪像)
 その継体天皇の皇后は、前大王武烈の姉妹(姉か妹かは両説あり)、手白香(たしらか)皇女とされる。つまり、前王朝と女系でつながって、初めて旧体制に受け入れられたということである。二人の間に生まれたのが欽明天皇。継体天皇には長男安閑天皇、次男宣化天皇がいたため、欽明との間に皇位争いがあったという説もあるが、ともかく最終的には欽明の治世となる。その時代に仏教伝来や蘇我氏の台頭があり、敏達天皇や推古天皇の父として飛鳥時代につながる古代王権を確立した。

 その欽明天皇陵についても、真陵は現在のものではなく、見瀬丸山古墳だという説が昔からある。ちょっと細かくなるのでここでは詳しく書かないことにする。見瀬丸山古墳は陵墓参考地なので、普通は見られないはずだが、この古墳に関しては現地近くの子どもが偶然石室への入り口が開いていたのを発見し、父親が写真撮影したという「事件」がかつてあった。その後、写真がマスコミで報道され大きな反響があったのだが、1991年のできごとを覚えている人はどれぐらいいるだろうか。

 今も宮内庁では、何事につけ天皇陵への参拝を行っている。「天皇霊」に報告するということなのだろうが、そうなると治定が間違っているとするとどうなるのか。真の天皇霊を差し置いて、間違った墓に参拝しているということになるではないか。という風に、著者は怒っていて、宮内庁に再考を促しているのがこの2冊の本だということになる。でも、「天皇霊」などというものの評価以前に、そもそも「霊」なるものはあるのか。霊なんてないとすれば、誰がどこに拝もうが拝まなかろうが、御利益も祟りもないだろう。僕は純粋に古代ミステリーとして興味深いと思っているだけである。

 ところで、もう一点著者が大きく取り上げている問題がある。それは天皇陵の形の変遷。日本の国家形成時代には、有名な「前方後円墳」だった。それが蘇我氏の台頭とともに「方墳」とされ、さらに大化の改新後には大王の陵墓は「八角形」と定められたというのである。いや、それは知らなかった。ところが、近代になって、考古学の未発達の時代に、その時代の王陵が「上円下方墳」と誤認されたという。そして、それに基づいて近代の天皇墓も設計されたため、明治、大正、昭和の各天皇も「上円下方墳」で作られてしまった。それは錯誤によるものだから、再検討されるべきだというのである。

 ま、正直僕はどうでもいいような気がしたのだが、そういうことにこだわる人には重大な議論なんだろう。著者は読売の記者として、朝日に強烈なライバル意識があり、随所に考古学と関係ない朝日の論調批判が織り交ぜられている。それに記述が一般には細かすぎると思うので、飽きてしまうところもある。だから、皆が皆読むべき本でもないと思うけど、先に書いたように類書がない。古代史ファンには興味深いと思う。「天皇制」どころか、お墓一般に対しても、所詮関心の向かない人間としては、どうも飽きてしまったので、これまで書かなかった。でも、天皇陵のほとんどは間違いだという歴史関係者には周知のことも、そんなには知られてはいないかと思って書いておく次第。
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