尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「蜜柑とユウウツ」を見る

2015年06月20日 23時03分58秒 | 演劇
 「グループる・ばる」の「蜜柑とユウウツ-茨城のり子異聞ー」を見た。東京芸術劇場シアターイースト。19日。てがみ座主宰の長田育恵作の戯曲をマキノノゾミが演出。「グループる・ばる」というのは、女優三人のユニットグループで、茨木のり子さんに関する劇を作ろうという試みを見事に成功させたと思う。もっとも茨木のり子という詩人をあらかじめ知っている人向けかも知れないとは思う。
 
 舞台は故・茨木のり子家の一角に固定されている。そこに何人かの人が訪れてドラマが進行する。でも、何人かの人といっても、生きている人ばかりではなく、もう亡くなっている人や庭のミカンの樹の精まで出てくることにやがて気付かされる。冒頭で、茨木のり子の亡くなった後に残された遺稿集があるらしいと、出版社の社長と甥がやってきて家の中を探し回る。その「最後の詩集」はあるのか、それは何か。知ってる人には知ってる話だけど、そこをメインにして、茨木のり子の人生を振り返っていく。

 茨木のり子(1926~2006)という詩人は、父は医者で、夫も医者、実生活上は恵まれていた。といった私生活上の知識はほとんどないんだけど、僕は高校の頃から愛読してきた。何人もの人に現代詩文庫の茨木のり子詩集を贈ったことがある。あるいは卒業式を迎えると、きまって「汲むという詩を書いたり読んだりもしてきた。感受性豊かでユーモアもあるけど、一本筋が通り真っ直ぐ生きてきた人のように思える。だからこそ、評伝劇になるんだろうかと思う。だから、この劇では「のり子」と同じ読みもできる「紀子」(岡本麓)と「典子」(田岡美也子)という二人を登場させ、詩人ノリコ(松金よね子)を相対化させ、あなたは恵まれているとたびたび突っ込ませている。また谷川俊太郎と連れ立って現れる「岸田葉子」という女性(詩人で画家という設定)に木野花の客演を得て、茨木のり子という詩人の全体像を浮き彫りにしていく。この構成はなるほどよく考えたものだなと思う。

 そこで見えてきたものは何か。女として表現を続けること。愛と平和を問い続けること。戦争はいやだということ。あんなに苦労させられて、そのことを自分で考えもしなかった。二度とそんな生き方はしない。そして、早く失った夫を想う詩を死後に残して逝った。庭の蜜柑の樹に咲く花のように、清冽でステキな人生ではないか。多くの詩の引用(朗読)、60年安保の映像などを含めて、戦後という時代を生きた女性像を生き生きと描き出した。まるで茨木さんの詩を知らない人がどう思うかは判らない。でも茨木のり子という人への敬愛の念があふれた気持ちのいい舞台だった。
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