ノンフィクション作家高山文彦氏の「どん底 差別自作自演事件」(小学館文庫、750円+税)を読んだ。単行本になったとき(2012年)に書評で知って、読みたかった本。その時は買いそびれたが、今回文庫に入った。ものすごい内容の本だと思うから、紹介しておく。今まで、旧石器捏造事件を描いた「石の虚塔」や「ヘイトスピーチ」の本について書いたけど、それらも人間性への疑問を呼び起こす本ではあった。人間には驚くべき暗い側面もあるということは、もちろん知っているから、この程度で驚くわけではない。でも、やはり読んでいて、辛くなるような本に違いない。と同時に(こういう言葉はふさわしくないかもしれないが)、「面白くてやめられない」ような側面もある。それほど「驚くべき事件の記録」で、考え込んで立ち止まる時間もあるが、知っておくべき事柄のように思う。
2003年12月から約5年間にわたって、福岡県南部の町で被差別出身の嘱託職員に44通もの「差別ハガキ」が送りつけられるという事件が起こった。本人は悪質な差別として、解放同盟とともに人権啓発運動に乗り出す。行政も動き、警察も本格的に捜査した結果、2009年に逮捕されたのは、なんと当の本人だった。これは本当か、冤罪ではないのかと当初は思った人もいたが、結局は間違いなく本人の書いたものだった。どうしてそんなことが起こったのか。本人を呼び、悪質な差別事件として糾弾も行われ、そこまでを渾身の取材で追及したのがこの本である。
しかし、この本に書かれているのは、単に「差別ハガキ事件」だけではない。その前に同じ町であった出身の教師に対する差別ハガキ事件。結局それは解決することなく、本人が異動していってしまった。そういう「前史」があったのである。また、この地域の解放運動の歴史、事件を追及する側にたつ何人かの人物の生き方も大きく扱われている。つまり、「差別ハガキ事件」を中核にして、横(地域のさまざまな事情や人々)と縦(差別と解放運動の歴史、関係者の人生)が織りなす複合的な世界を描いている。そこには苦沁みながらも連帯を求めて闘ってきた姿も描かれるが、同時に「差別を直視できずに逃げてしまう」という人間の姿も出てくる。
それはまあ当然で、逃げてはいけないなどと人を裁けるほどのことは言えない。だけど、そのことと「差別ハガキを送る」、それも自分に対してだけではなく、最後の頃には違う人物にも送ったりしている。自分ばかりに来ると疑われるということらしいが、考えがたいことである。しかも、だんだん凝ったつくりになったり、「愉快犯」的な側面も出てくる。支部の会計もしていた彼のところには、空き巣が入って多額のカネが奪われるという事件も起きている。それを「予告」するようなハガキもあるので、今となっては空き巣も本人の仕業で、遣い込みがばれないための行為ではないかとの疑念も浮かぶわけだが、あくまでも否定するので警察の捜査も終結している。だけど、何十万もの金を家に保管していたということ自体が、理解に苦しむ行為だろう。
本を最後まで読んでも、この人物の内面は測りがたい部分が多く、どうしても理解できないところが多い。解放運動内部の人間であれ、自己保身のために「差別事件の自作自演」を作り上げるということは、まあ絶対にないわけではないだろうと思う。それでも、自分で作り上げておいて、差別ハガキ事件被害者として全国で講演して講演料をもらうという。断りようがない迷路に自分で入り込んでしまったのかもしれないが、ありえないことだと思う。しかも、いったん終了宣言までしながら、またもハガキを送ってしまう。そのことで警察が本格的に捜査を始めて、自分の仕業と判ってしまう。では、憑き物が落ちたように晴れ晴れするかというと、そうではない。反省していると言いつつ、自己を顧みることができないまま時間が経っていく。こういう人がいるのである。
そういうこともあるんだということを知識で知るということも必要かと思う。だけど、ここまでする人は少ないだろう。注意しておかないと、「だから問題は厄介だ」などという感想を持つ人もいるかもしれない。この本をちゃんと最後まで読めば、そんな感想を持つ人はいないだろう。未だに結婚差別が無くならないという日本の現実。それが背景にあってこその「差別ハガキ事件」であり、本末転倒した読み方をしてはいけない。それにしても、石器を自分で埋めておいて、自分で掘り出す人物も不思議だが、この本で出てくる差別ハガキを自分に向けて書く人物というのも実に不思議な人物だった。
2003年12月から約5年間にわたって、福岡県南部の町で被差別出身の嘱託職員に44通もの「差別ハガキ」が送りつけられるという事件が起こった。本人は悪質な差別として、解放同盟とともに人権啓発運動に乗り出す。行政も動き、警察も本格的に捜査した結果、2009年に逮捕されたのは、なんと当の本人だった。これは本当か、冤罪ではないのかと当初は思った人もいたが、結局は間違いなく本人の書いたものだった。どうしてそんなことが起こったのか。本人を呼び、悪質な差別事件として糾弾も行われ、そこまでを渾身の取材で追及したのがこの本である。
しかし、この本に書かれているのは、単に「差別ハガキ事件」だけではない。その前に同じ町であった出身の教師に対する差別ハガキ事件。結局それは解決することなく、本人が異動していってしまった。そういう「前史」があったのである。また、この地域の解放運動の歴史、事件を追及する側にたつ何人かの人物の生き方も大きく扱われている。つまり、「差別ハガキ事件」を中核にして、横(地域のさまざまな事情や人々)と縦(差別と解放運動の歴史、関係者の人生)が織りなす複合的な世界を描いている。そこには苦沁みながらも連帯を求めて闘ってきた姿も描かれるが、同時に「差別を直視できずに逃げてしまう」という人間の姿も出てくる。
それはまあ当然で、逃げてはいけないなどと人を裁けるほどのことは言えない。だけど、そのことと「差別ハガキを送る」、それも自分に対してだけではなく、最後の頃には違う人物にも送ったりしている。自分ばかりに来ると疑われるということらしいが、考えがたいことである。しかも、だんだん凝ったつくりになったり、「愉快犯」的な側面も出てくる。支部の会計もしていた彼のところには、空き巣が入って多額のカネが奪われるという事件も起きている。それを「予告」するようなハガキもあるので、今となっては空き巣も本人の仕業で、遣い込みがばれないための行為ではないかとの疑念も浮かぶわけだが、あくまでも否定するので警察の捜査も終結している。だけど、何十万もの金を家に保管していたということ自体が、理解に苦しむ行為だろう。
本を最後まで読んでも、この人物の内面は測りがたい部分が多く、どうしても理解できないところが多い。解放運動内部の人間であれ、自己保身のために「差別事件の自作自演」を作り上げるということは、まあ絶対にないわけではないだろうと思う。それでも、自分で作り上げておいて、差別ハガキ事件被害者として全国で講演して講演料をもらうという。断りようがない迷路に自分で入り込んでしまったのかもしれないが、ありえないことだと思う。しかも、いったん終了宣言までしながら、またもハガキを送ってしまう。そのことで警察が本格的に捜査を始めて、自分の仕業と判ってしまう。では、憑き物が落ちたように晴れ晴れするかというと、そうではない。反省していると言いつつ、自己を顧みることができないまま時間が経っていく。こういう人がいるのである。
そういうこともあるんだということを知識で知るということも必要かと思う。だけど、ここまでする人は少ないだろう。注意しておかないと、「だから問題は厄介だ」などという感想を持つ人もいるかもしれない。この本をちゃんと最後まで読めば、そんな感想を持つ人はいないだろう。未だに結婚差別が無くならないという日本の現実。それが背景にあってこその「差別ハガキ事件」であり、本末転倒した読み方をしてはいけない。それにしても、石器を自分で埋めておいて、自分で掘り出す人物も不思議だが、この本で出てくる差別ハガキを自分に向けて書く人物というのも実に不思議な人物だった。