尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「終の信託」

2012年12月31日 23時43分45秒 | 映画 (新作日本映画)
 年末に最後、本の話を書いて終ろうかと思ったんだけど、思わぬ体調不良で2日ほど寝てしまった。最近はほとんど単行本は買わないんだけど、それでも買ってしまった赤坂真理「東京プリズン」、村上春樹新訳のチャンドラー「大いなる眠り」、原武史「レッドアローとスターハウス」、小熊英二編著「平成史」、西村健「地の底のヤマ」などは枕頭に積み上げられて越年することになった。

 今日はようやく外出する気になって、よく行ってる池袋の新文芸坐で「終の信託」(ついのしんたく)を見たのでこれについて書いておきたい。この映画は公開時から評判で、ベストワンを3回取ってる周防正行監督の新作だから見ない選択はないんだけど、ロードショーは見過ごした。まあ東京ならどこかで後追いできるので、その日しかやってないような古いレアもの映画を優先して見るわけで、新作を見逃してしまうことがある。今回は高倉健の新作「あなたへ」と2本立てで、1月3日までやってるので是非見て欲しい。こういうお得な企画が名画座ならではの素晴らしさである。(新文芸坐は行くまでの道のりの環境がデート向きではないけど、スクリーンや座席の環境は素晴らしく、とても見やすい。トイレが混むので、近隣の駅や店を利用してから行くようにしている。)

 見た評価を、一言でいうと傑作。周防監督は今まで自分で書いたオリジナル脚本を映画化していたが、今回は朔立木(さく・たつき)原作を監督自身が脚本にした。この原作者は「死亡推定時刻」という本を読んだことがある。「現役法律家」というだけのことがある本格的な設定で面白かった。「法律家」では判らないが、やはり裁判官や検察官ではなくて、「高名な弁護士」であるということらしい。ある「医療事件」で「終末医療」を扱うと言う話だと思って見て、まあそうなんだけど「末期ガン」ではなくて「ぜんそく」だったことが少し意外。だから「終末医療」と言っても、苦しみ抜いたあげくのガン患者、という一般的な設定ではないことに大きな意味がある。

 この映画の予告編は何回も見た。ラジオで監督夫妻が出演してるのもたまたま聞いた。だから医療裁判の話だとは知ってて見たわけである。主演の草刈民代が「女医」で、役所広司が患者。大沢たかおが検事。草刈、役所のコンビは、かの「Shall we ダンス?」(1996)以来で、それだけで期待が高まるわけである。見てみると、演技を中心にして、物語の密度が非常に高く、時間を忘れて見入る映画になっている。演技と演出の力の大きさで、やはり2012年屈指の力作映画であることは間違いない。ただ予告編を見た予想が裏切られるところが(良くも悪くも)ほとんどなく、期待通りの力作だったというある種珍しい映画体験になった。(期待を裏切られたり、期待しないで見たら案外良かったということの方が圧倒的に多い。)

 この映画の演技の質感を味わうのは素晴らしい体験で、役所広司がうまいのは判り切っているが、ほとんどすべて出ずっぱりで、濡れ場から取り調べまで全く医者らしく演じきっている草刈民代の演技者としての凄さにはビックリした。バレエを引退した後、テレビや舞台でもいろいろ活躍してるが、引き出しにはもっと一杯ありそうだ。女優としての草刈民代を見出したことは周防正行監督の公私を超えた貢献と言えるかもしれない。役所広司も、迫真のぜんそく演技を見た医療指導の医者から念のために検査されたというほどである。芝居くささを感じさせず、本当に患者としか思えない仕草の数々。本当に素晴らしい役者だなと思った。他にいろいろな映画もあったが、「わが母の記」「キツツキと雨」を含めると、役所が今年公開映画の男優賞か。(「わが母の記」は傑作だと思うが、井上靖の小説をたくさん読んでないと面白くない部分もあるかと思い、ここには書かなかった。「キツツキと雨」は映画としては完全に成功してるとは言えないが、役所広司の演技、映画内映画の演技も含めて素晴らしいものがあった。役所広司の映画は皆面白いが、1月にシネマヴェーラ渋谷で上映される「シャブ極道」(1996、細野辰興監督)というすごいのがある。これは名前だけで敬遠してしまう人が多いと思うので、あえてあげておく。)

 検事役の大沢たかおもほとんど座ってるだけで、取り調べのみのシーンが続くが、すごい迫力。さて、そろそろ話の中身を書かなてくてはならないが、この映画はほぼ「順撮り」で撮られたという。(順撮りとは、シナリオのシーンの順番に取っていくやり方。普通の映画は役者の出番やロケ、セットの都合で、シナリオの順番を変えて撮影することが多い。)それというのも、簡単に言えばこの映画は「二人芝居」で、前半は草刈と役所(病院)、後半は草刈と大沢(取り調べ)になっている。いや冒頭は検察の呼び出しシーンなんだけど、場面が過去と現在を行ったり来たりせずに、すぐに過去(映画内では3年前)の役所が患者だった頃、草刈が同僚医師の浅野忠信と「不倫」してた頃に戻り、そのまま映画が進行する。つまり「何があったのか」がすべて最初に示されて、後半でそれが(法的に)問われるかどうかという問題が追及されている。

 さてそうすると、この問題をどう考えればいいのか。役所広司はぜんそくの患者で発作はとてもつらそうだ。浅野忠信に棄てられた(と言っていい)草刈は、自殺未遂(と思われてしまう)睡眠薬の飲み過ぎ事件を病院内で起こす。そのあたりから、信頼する医者と患者という関係が、さらに深まっていった感じを受ける。それは言ってみれば「愛」の関係である。もちろん役所には妻子があり、というか重病患者なので、完治するような病ではなく、その「愛」は普通の「恋愛」とは少し違う。人間同士の関係の深まり、「相手が存在してくれることが切ないまでの支えとなるような関係」と言うような。それは言葉にしてしまえば「信頼関係」と言うことになる。多くの(テレビドラマ、映画や小説など)物語は「愛または愛の不在の物語」だけど、その愛には普通は性愛や金銭、世間的思惑などが絡んでくる。夫婦でも親子でも、上司と部下、教師と生徒、なんでもいいけどただの「信頼」で終わる関係ではない。「ある種の信頼」は多くの場合ベースにあるが、大体はよく思われたい心理とか金をめぐる問題とかが関係してくる。しかし、重病患者と付き合ってきた医師の間には、ただ「信頼」がベースになる関係が存在しうるのだと思う。少なくとも僕はこの映画の役所と草刈の関係は、「信頼と言う名の愛」の関係だと思った。

 最近は何事も不信の時代である。電話があれば「振り込め詐欺」、メールは「なりすまし」、政治は信頼できず、会社も信頼できない。アメリカも中国も…世界中が信頼できないような感じをニュースを見てると受けてしまう。政治家は昔から不信視されていたけど、官僚も教師も警官も皆信頼できないと言う人が多い。まあそういう事件も確かに起きている。全部じゃないはずだが、個人情報が悪用されるとかつてなく大変な時代になってしまい、皆が身構えて暮らしている。そういう時代に「命まで預けてしまう」関係が存在しうるのか。僕は見ていて、草刈民代の折井医師に「プロとしての隙の大きさ」を感じてしまった。それほどの信頼を受け、いざと言う時の延命治療の拒否と言える依頼を受けた時に、そのときに「身を守る」ことを優先するのはおかしいかもしれない。しかし、プロとして多くの命を預かる身としては「つまらないことで引っかけられないようにする」(医療過誤訴訟対応)は、必須のプロの技であると思う。残念ながら、現代は「身を守る工夫」をしなければ、きちんとした仕事ができない時代である。(ツイッターやブログで、誰がトンデモナイ医者がいると触れ回るか判らない。)だから、その信頼を受けたら、書面にして本人と家族の署名をしておいてもらうとかの措置が必要だったと思う。

 僕がそういうのは、教師も今や同じような状況にあって、「身を守ることが最優先」で仕事をしないといけない時代になっていると思っているからである。しかし、その「身を守る」というのは、例えば「いじめを隠蔽する」という意味ではない。そんなことして大問題になれば、個々の担任が隠したことになって身を守れない。逆に早めに管理職に報告しメモを残す。保護者対応は複数で行い、かならず報告を残す。管理職や保護者との重大な場面では録音を取って残すことも場合によって必要だろう。この映画の事例では、3年立ってから遺族から告発があったようである。つまり学校の例で言えば、「保護者対応」がもめた場合にあたる。その後の検察取り調べでも、どんどん「自白」を取られて僕は見ていて歯がゆい思いをした。(脚本、および大沢の演技の力。)逮捕されることも考えていないようだし、調書にサインする前に「弁護士と相談させてほしい」と言うべきだ。書類はほとんど押収されているだろうし、逮捕の必要性自体がない。(逃亡したら医者として生きていけない。多分、「自殺の恐れがある」というような判断があって逮捕状は認められてしまうだろうが。それにしても逮捕状が用意されていたのは、アンフェアである。やはり取り調べは「原則、黙秘」が正しいということだろう。どうせ逮捕されてしまうんだから。)

 と思いながら、でも例えば弁護士と同道するくらいはすればできただろうから、もうする気はなかった。「自分の行為を罪と言うなら、罰して欲しい。そんな現世の法律で裁けるほど、私たちの信頼関係は薄いものではない」というのが真意ではなかったか。一体何を役所広司(患者江木)は医師に「信託」したのだろうか。それは「医者として罪に問われること」を望むものだったのか。現に遺族が告発し医師は殺人罪に問われた。これは患者江木が望んだことなのか。遺族は本人の望まないことをしてしまったのか。僕が今思うのは、「単に法に問われない範囲の延命拒否」を望んだのではないのではないか。法を超えて、「苦しんでいると思う状態になったら治療を止めて欲しい」という含意があったような気がする。だからこそ草刈は涙とともにその信頼に(仮に法に問われたとしても)応えたいと思ったのではないか。医者としてではなく、人間として。そこまで言えば、これはある種の「嘱託殺人」だったとも言えるのかもしれない。しかし、家族の経済状態を考えてまでの行為を家族ではなく医師に託したことが、家族から言えば納得がいかなかった。その告発も「愛の裏返し」、嫉妬のような部分がないだろうか。と言う風に僕は考えたのである。

 この映画の中に、プッチーニのオペラ「ジャンニ・スキッキ」の中の有名なアリア、「私のお父さん」(お父さんにお願い)が出てくる。予告編にも出てきて印象的。言うまでもなく、フォースター原作、ジェームズ・アイヴォリー監督「眺めのいい部屋」で有名になった曲。この映画は最近もやっているが、予告編が妙に上出来で本編よりずっと面白かった記憶がある。予告編が出来過ぎだと本編を見てガッカリする好例。歌はキリ・テ・カナワ盤。ニュージーランドの歌手で、珍しい名前だが、白人とマオリ人の混血である。僕は「眺めのいい部屋」で使われた曲(つまり今回と同じ)があまりに素晴らしく、CDを買っただけでなくキリ・テ・カナワのコンサートにも行った。そういう思い出がある曲。これからはこの映画とともに思い出すことになるだろう。
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