尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

追悼・小沢昭一

2012年12月11日 00時12分08秒 |  〃  (旧作日本映画)
 ラジオ番組の収録を降りて入院中ということだったから、遠からず小沢昭一さんの訃報を聞くことになるだろうと覚悟はしていた。でも僕は悲しい。「小沢昭一」、本当に素晴らしい役者であり、話芸者であり、存在そのものが僕に大きな影響を与えてきた一人だった。

 1929年(昭和4年)4月6日~2012年12月10日。83歳。
 何から書けばいいのか判らない。小沢昭一という名前はラジオで初めて知った。73年に始まり1万回を超えて続いた「小沢昭一の小沢昭一的こころ」である。初めは夕方の放送だった。(東京のTBSラジオ。)そのころは中学生で、学校と塾の間に聞いていた記憶がある。時間的に大学生頃から聞けなくなったけど、21世紀に定時制勤務になったら時々聞くことがあった。お昼過ぎの放送になっていたのだ。相も変わらず「宮坂さん」なのが可笑しく話芸の達者ぶりを楽しんだ。

 永六輔、野坂昭如とともに「中年御三家」と称して活動したのが、僕の浪人生時代。東京新聞夕刊には、1974年12月に冗談が現実になった武道館コンサートの写真が掲載されている。さすがに受験生なのでこのコンサートには行ってない。その当時は「新御三家」(野口五郎、郷ひろみ、西条秀樹)の時代で、中年御三家はそのパロディ。「中年御三家」はおおよそ「焼け跡派」で、戦争の悲しみを忘れたように繁栄する日本に対して斜に構えた視点があった。「戦争」を(被害者として)知っていた最後の世代と言える。僕にとっては父母の世代である。大人になっていくときに、この人たちの影響が大きかった。

 大学生になって、昔の映画を見るようになった。小沢昭一は俳優座の俳優だった50年代半ばから、たくさんの映画に出ている。特に早稲田の同級生だった今村昌平のつてで、日活と専属契約を結んだ。無数の日活アクションに怪しげな中国人役などで出ている。川島雄三監督の「幕末太陽傳」(1957)では川島監督から大きな影響を受けた。今村作品には、ほとんどすべてに(チョイ役も含め)出ている。(一番最後の「赤い橋の下のぬるい水」以外は、劇映画は全部出ているはず。)

 何といっても最高なのは、主演男優賞総なめの「人類学入門」である。というか、脇役中心で数少ない主役映画。野坂昭如の「エロ事師たち」の映画化で、ブルーフィルム製作など怪しい性産業を細々とやってる主人公の悲しくおかしく、かつ大マジメな姿を見事に演じきった。素晴らしい演技だけど、同時に様々なアクション映画で演じたおかしな役も忘れがたい。なお、最初の映画出演は1954年の松竹作品、渋谷実監督「勲章」という再軍備を風刺した映画である。元陸軍中将の息子佐田啓二の友人の大学生で、アルバイトで寄席の手伝いをしている設定。ほとんど同じような学生生活をしてたのではないかと思った見た記憶がある。

 演劇では「芸能座」(1975~1980)、「しゃぼん玉座」(1982~)を作って活躍した。前者は井上ひさしの「しみじみ日本・乃木大将」を初演したところ。これは実に面白かった。「しゃぼん玉座」は小沢昭一のひとり劇団で、やはり井上ひさし作品を中心にやっていた。こまつ座も含め、劇団から新作ごとにハガキは来ていたが、結婚、就職、「校内暴力」の時代で、忙しくてほとんど見られなかった。

 その後、井上ひさしの小説「戯作者銘々伝」にある「唐来参和」(とうらい・さんな)をひとり芝居にして、660回以上の公演を行った。これが舞台俳優としての最高の仕事だろう。僕はこのラスト公演は見に行った。なんとなくいつか見ればいいと思っていたら、最後というのに驚いて駆け付けた。場所は新宿の紀伊國屋ホール。間違えて紀伊國屋サザンシアターだと思いこんでいて、あわてて南口から紀伊國屋本店に急行した思い出がある。中身以上にそっちを思い出す。
 (放浪芸を探る小沢昭一)
 学生時代頃から、小沢昭一が放浪芸を見て回っているという話はよく聞いていた。小沢昭一の芸能本、エッセイなどはかなり読んでいて、どれを読んだのかよく覚えていないが、「日本の放浪芸」「ドキュメント綾さん」「ぼくの浅草案内」を読んでいるのは覚えている。その放浪芸をまとめた集大成がレコードで出て、レコード大賞特別賞を取った。その後CDになっているが、これは高すぎて持っていない。

 だからちゃんと聞いていないのだが、ここに無着成恭編「山びこ学校」に出てくる説教節の語りが入っている。「山びこ学校」では親が芸人で、つまりは「篤農家」(とくのうか=農業に励む人)ではなく家が貧乏で子どもも苦労するという感じで書かれていた。子どもの目で見た作文では村でも困りもの視されていた感じだったが、その親はちゃんとした「芸能人」で、レコードで残すべき芸を持っていたのである。このエピソードを知って、僕は「戦後民主主義」の見逃してしまった部分をきちんと追いかけているのが、小沢昭一の仕事なのだとよく判った気がした。

 僕にとって小沢昭一の最大の思い出は、演劇でも映画でもラジオでもない。2005年に新宿末廣亭で聞いた「芸談」である。俳句仲間の柳家小三治の働きかけで、落語協会のトリを10日間取ったのである。それは「芸談」と名付けた話芸だった。何を話したのかと言えば、僕ももう覚えていない。満席なので立ち見で聞いた。至福の話芸という記憶があるのみだ。小沢昭一と小三治の様子は頭に焼き付いている。これを聞きに行って、本当に良かった。

 「中年御三家」時代に歌っていた「ハーモニカブルース」という曲がある。
 「ハーモニカが欲しかったんだよ/どうしてか どうしても/欲しかったんだ/ハーモニカが欲しかったんだよ/でもハーモニカなんて/売ってなかったんだ/戦争に負けたんだ/かぼちゃばっかり/喰ってたんだ」(1番のみ。谷川俊太郎作詞、小沢昭一補作)
 僕は何となくこのうたを時々口ずさんでしまう。戦争に負けた国の子どものうた。
 作曲は、小沢昭一作曲/山本直純補作曲。「小沢昭一の小沢昭一的こころ」の「お囃子」も山本直純。「中年御三家」は僕にとって、いつまでも生きててほしい人たちだったんだけど…。
コメント (1)
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