自分の心で感じ、自分の頭で考えること。当たり前のようだけど、それを続けるのは難しい。誰かの判断に心も頭もゆだねて生きる方が簡単だ。原発が来た現地でも、遠くで電気を享受する大都市でも。有罪判決で一件落着と思いこみ、えん罪で苦しむ人の存在に想像が及ばないのも同じ。
組織に身をゆだねるのではなく自分で判断する生き方、自分の名誉のために戦い続ける生き方が昔から好きだった。そういう人生を選び取った主人公が出てくる映画が好きだった。日本でいえば、日活無国籍アクションのヒーローや時代劇の「股旅もの」の主人公がそれである。(いや、黒澤明「生きる」や「チャップリンの独裁者」などをあげても別にかまわないけれども。)
アウトローを描く映画は世界に多い。そういう映画は大体、悪の組織(ギャング組織やナチス、ソ連、謎の国際犯罪組織など)と戦う善の組織(警察や自国情報組織、あるいは善玉ギャングなど)の活躍を、男性人気俳優を主人公としてアクション主体で面白く描く。そういう映画がいっぱいある中で、そのごく一部に「孤独な主人公が自分のために戦う映画」がひっそりと作られてきた。
どこの組織にも属さず旅を続けて暮らす主人公が、様々な義理や人情に挟まれ苦しみながら生きていく。それが「股旅もの」だが、史実の映画化ではない。成立したのは長谷川伸や子母澤寛らが出てきた昭和初期。農村から都会へ出てきた低賃金労働者となった階層の情感がベースにある。同時にアメリカの西部劇の影響でもある。股旅ものの主人公は、日本の現実から出てきたというよりは、アメリカの「ロンサム・カウボーイ」、孤独なさすらいのガンマン、つまり「シェーン」のアラン・ラッドに近い。
(「沓掛時次郎 遊侠一匹」)
アメリカの西部は基本的には資本制社会だから、さすらいのカウボーイは大牧場資本に雇われる非正規労働者である。しかし、江戸時代末期の日本は崩壊期といえども封建社会である。「義賊」(歴史学者ホブズボームがいうような)は国定忠治など類似の存在はあるが、純粋な一匹狼が生きていける社会的基盤はほとんどなかったはずだ。
だから現実の股旅は惨めで汚いということを描写した市川崑の「股旅」は僕にはあまり面白くなかった。(当たり前のことをリアリズムで描いている。)それよりも汚い現実に傷つきながら理想を求め続ける、自らに厳しい「沓掛時次郎 遊侠一匹」や「ひとり狼」のようなストイックでロマンティックな映画が心に沁みる。「母もの」のヴァリエーションである「瞼の母」を別にして、大体股旅映画の主人公は、よんどころ無い事情のゆえに結ばれない宿命を背負った「運命の女」(ファム・ファタール)に憧れ、陰ながら慕い、ひたすら尽くす。これは西部劇もそうだが、そもそもは西洋の騎士道ものだろう。
「遊侠一匹」の主人公時次郎は、一宿一飯の義理が嫌いで出入りを避けて旅に出ようとする。それは仁義に反すると時次郎を慕う身延の朝吉(渥美清の名演)は一人で乗り込み惨殺される。こういう風に下の者の命を粗末にする親分が嫌いな時次郎は旅に出る。川で舟に乗った時に、子連れの女(おきぬ=池内淳子)は旅人時次郎にも柿をくれる。次にわらじをぬいだ一家でも出入りがあり、時次郎はどうしても断りきれずにある親分と対決し、殺めることになる。死に際に妻子への伝言を頼まれた時次郎が待ち合わせ場所に行くと、そこには舟で出会った親子がいた…。
(「遊侠一匹」の渥美清)
流れゆく定めのまま、時次郎は自分が殺めた親分の妻おきぬに憧れながら、そんな自分が許せない…。別れと再会、病に倒れた女、薬代のためにまた助っ人として出入りに行く時次郎。しがない一匹狼にはそれしかないのだ…。好きになってはいけない女を好きになり、尽くして尽くして、最後はまたさびしく去っていく。これは日本映画の中でも、もっとも切ない映画の一本だろう。孤独なヒーローの後姿が心に沁みて忘れられない。ローアングルでとらえた構図が素晴らしく、情感たっぷりの錦之介の名演もあり、傑作中の傑作である。
股旅映画の傑作を他にあげると、山下耕作「関の弥太っぺ」、加藤泰「瞼の母」、池広一夫「中山七里」「ひとり狼」、沢島忠「股旅 三人やくざ」などがある。主役は中村(萬屋)錦之介か市川雷蔵である。時代劇はこの二人だと僕は思う。
組織に身をゆだねるのではなく自分で判断する生き方、自分の名誉のために戦い続ける生き方が昔から好きだった。そういう人生を選び取った主人公が出てくる映画が好きだった。日本でいえば、日活無国籍アクションのヒーローや時代劇の「股旅もの」の主人公がそれである。(いや、黒澤明「生きる」や「チャップリンの独裁者」などをあげても別にかまわないけれども。)
アウトローを描く映画は世界に多い。そういう映画は大体、悪の組織(ギャング組織やナチス、ソ連、謎の国際犯罪組織など)と戦う善の組織(警察や自国情報組織、あるいは善玉ギャングなど)の活躍を、男性人気俳優を主人公としてアクション主体で面白く描く。そういう映画がいっぱいある中で、そのごく一部に「孤独な主人公が自分のために戦う映画」がひっそりと作られてきた。
どこの組織にも属さず旅を続けて暮らす主人公が、様々な義理や人情に挟まれ苦しみながら生きていく。それが「股旅もの」だが、史実の映画化ではない。成立したのは長谷川伸や子母澤寛らが出てきた昭和初期。農村から都会へ出てきた低賃金労働者となった階層の情感がベースにある。同時にアメリカの西部劇の影響でもある。股旅ものの主人公は、日本の現実から出てきたというよりは、アメリカの「ロンサム・カウボーイ」、孤独なさすらいのガンマン、つまり「シェーン」のアラン・ラッドに近い。

アメリカの西部は基本的には資本制社会だから、さすらいのカウボーイは大牧場資本に雇われる非正規労働者である。しかし、江戸時代末期の日本は崩壊期といえども封建社会である。「義賊」(歴史学者ホブズボームがいうような)は国定忠治など類似の存在はあるが、純粋な一匹狼が生きていける社会的基盤はほとんどなかったはずだ。
だから現実の股旅は惨めで汚いということを描写した市川崑の「股旅」は僕にはあまり面白くなかった。(当たり前のことをリアリズムで描いている。)それよりも汚い現実に傷つきながら理想を求め続ける、自らに厳しい「沓掛時次郎 遊侠一匹」や「ひとり狼」のようなストイックでロマンティックな映画が心に沁みる。「母もの」のヴァリエーションである「瞼の母」を別にして、大体股旅映画の主人公は、よんどころ無い事情のゆえに結ばれない宿命を背負った「運命の女」(ファム・ファタール)に憧れ、陰ながら慕い、ひたすら尽くす。これは西部劇もそうだが、そもそもは西洋の騎士道ものだろう。
「遊侠一匹」の主人公時次郎は、一宿一飯の義理が嫌いで出入りを避けて旅に出ようとする。それは仁義に反すると時次郎を慕う身延の朝吉(渥美清の名演)は一人で乗り込み惨殺される。こういう風に下の者の命を粗末にする親分が嫌いな時次郎は旅に出る。川で舟に乗った時に、子連れの女(おきぬ=池内淳子)は旅人時次郎にも柿をくれる。次にわらじをぬいだ一家でも出入りがあり、時次郎はどうしても断りきれずにある親分と対決し、殺めることになる。死に際に妻子への伝言を頼まれた時次郎が待ち合わせ場所に行くと、そこには舟で出会った親子がいた…。

流れゆく定めのまま、時次郎は自分が殺めた親分の妻おきぬに憧れながら、そんな自分が許せない…。別れと再会、病に倒れた女、薬代のためにまた助っ人として出入りに行く時次郎。しがない一匹狼にはそれしかないのだ…。好きになってはいけない女を好きになり、尽くして尽くして、最後はまたさびしく去っていく。これは日本映画の中でも、もっとも切ない映画の一本だろう。孤独なヒーローの後姿が心に沁みて忘れられない。ローアングルでとらえた構図が素晴らしく、情感たっぷりの錦之介の名演もあり、傑作中の傑作である。
股旅映画の傑作を他にあげると、山下耕作「関の弥太っぺ」、加藤泰「瞼の母」、池広一夫「中山七里」「ひとり狼」、沢島忠「股旅 三人やくざ」などがある。主役は中村(萬屋)錦之介か市川雷蔵である。時代劇はこの二人だと僕は思う。