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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「愛の勝利を」

2011年06月13日 20時24分04秒 |  〃  (新作外国映画)
 イタリア映画「愛の勝利を-ムッソリーニを愛した女」、2009年。マルコ・ベロッキオ監督

 東京は新宿三丁目の「シネマート新宿」でのみ上映。まだ大阪、横浜くらいしか上映されてないようだが、本年屈指の力作イタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニと愛し合い、息子を生み、機関紙の発行費を工面しながら、最後は捨てられ危険人物視されていった女性イーダの生涯を描いている。陰影をうまく生かしたフォトジェニックな画面、20世紀前半のイタリアを再現した美術や衣装、イーダを演じたジョヴァンナ・メッゾジョルノの熱演などがあいまって、すぐれた愛の映画になっている。

  と同時に、政治的、思想的に興味深い点が多い。1861年に成立したイタリア王国(今年は統一150年にあたる)には、他国と違う大きな問題があった。一つは民族統一が不十分で「未回収のイタリア」が存在したこと。もう一つは「ローマ教皇領」の扱いが未決定であったことである。
 1883年生まれのムッソリーニは、社会党の闘士だったが、第一次大戦勃発とともに中立を守ろうとする党を批判して、参戦論を主張する。イタリアは三国同盟の一員だったが、オーストリアとの領土問題から同盟側に立たなかった。ムッソリーニは社会党を離れ、民族主義の立場から国土回復を叫ぶ。イタリアは結局連合国側にたって参戦し勝利し、「未回収」地域のほとんどは戦後イタリア領となった。戦後の混乱期に、支配層の革命への恐怖感を利用して、1922年、ファシスト党を組織したムッソリーニは政権を奪取した

 過激な無神論者から出発したムッソリーニは、政権奪取後、だんだん独裁者となり、王や教会と妥協し、「国家のために子供を産む女」を求める。ゆえに、妻の座を要求する愛人と男子の存在は抹殺されざるを得ない。(イタリアには当時離婚法がないから、イーダは妻と離婚して再婚して欲しいと求めているのではない。自分が先に正式な結婚をした-しかし、その事実は消された-と主張する。)結局、「ドゥーチェ(統領)の息子を生んだと思い込む狂気の女」扱いされ、イーダは精神病院に収容される。映画の後半部分は、その中で真実を主張し続ける悲しい人生行路を見つめていく。クリント・イーストウッドの「チェンジリング」も子供ために真実を訴え精神病院に入れられた母を描くが、それと違いこの映画は真実が認められる日は来ない。彼女が生んだ息子は、(映画内で)非常に父と似ているが、これは一人二役だから当たり前。つまり作者の側は、イーダの訴えを真実として映画化している。

 ファシズムと言う言葉はなんだか一般化しているが、もとはイタリア語で結束を意味するファッショから来た。ナチスの映画によくある「右手を上げる敬礼」は元々はファシスト党のものである。それはこの映画でよく分る。また、ローマ教皇と妥協しバチカン市国を認めたラテラノ条約(1929年)の場面も映画に出てくるが、興味深い。新時代の芸術運動だった「未来派」をムッソリーニが訪れる場面も重要である。「政治の革新」と「芸術の革新」がどのように交錯したかは、イタリアだけでなく、ドイツ、ロシア、フランス、スペイン、日本、中国…と世界的な視野で再検討するべき大きな問題である。このように、思想史的に見どころの多い映画だった。

 監督のマルコ・ベロッキオは、1965年に「ポケットの中の握り拳」で鮮烈なデビューを飾ったが、日本ではほとんど紹介されてないので知名度が低い。戦後イタリアの綺羅星のごとき巨匠監督の後を受け継ぎ、1960年代半ばに登場した世代の中で最も重要な監督と言われる。1964年に「革命前夜」で登場したベルナルド・ベルトリッチは日本でも主要作は公開されたが、より政治的なベロッキオは日本では通じないと見られたか、ほとんど公開されなかった。しかし、近年になって2003年の「夜よこんにちは」が公開された。これは1978年のモロ元首相誘拐殺人事件を扱った問題作である。その後、ドイツで「バーダー・マインホフ」、日本で「実録連合赤軍-あさま山荘への道程(みち)」が作られ、期せずして日独伊「過激派」顛末記がそろった。これはじっくり比較するべきテーマだ。

 パンフにあったル・モンドの批評。「イタリア映画界の反抗者マルコ・ベロッキオの『愛の勝利を』は、詩的であると同時に政治的でもあるという、きわめて稀なスケール感をもった鮮烈な作品だ。」
コメント (1)
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