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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

石神井公園散歩

2016年11月05日 23時10分33秒 | 東京関東散歩
 東京ではいま「文化財ウィーク」という期間。石神井城が公開されているので、石神井公園に散歩に行ってきた。「石神井」は「しゃくじい」。東京の人なら大体読めると思うけど、一般的には難読かも。井戸を掘ったら石棒が出てきて、それを「石神」としたのが地名の由来なんだだという。東京23区の西北部、練馬区にあるけど、池袋から西武線急行で9分と案外早くてビックリした。

 今年は散歩日和が少ない。夏は高温多湿、9月になったら毎日雨。10月にまた暑く、と思ったら急に寒くなる。ここ数年、夏と冬しかないような気候になってしまった。冷房も暖房もいらない日が一月もない。ようやく今日は晴れて温かい秋の一日になった。前に洗足池に行った時も気分が良かったけど、今回の石神井池三宝寺池もとってもいい。奥日光によく行くのも中禅寺湖や湯ノ湖があるからかも。自分は湖や池が好きで、癒しスポットなんだと改めて思った。

 石神井公園駅を出て、南の方に商店街を歩く。お菓子の「新盛堂」の先を左に曲がってしばらく行くとボート乗り場に出る。もう都立石神井公園だ。向かい側に出ると池がよく見える。実は初めて知ったのだが、ここには池が二つある、まず最初が石神井池で、実は1933年に人工的に作られたもの。奥の三宝寺池から引いていた水路をせき止めて作った。今はスワンボートなどで楽しまれている。
   
 もう少し行くと野外音楽堂があり、そこらへんで中之島を通る太鼓橋がある。北側へ渡ると、また違った雰囲気で住宅街に面した開けた道になっている。
   
 やがて大きな道に出て石神井池は終わり、左に進むと「ふるさと文化館」、先へ進むと三宝寺池。信号を渡って少し歩くと木道で、そこを歩いていくと国の天然記念物「三宝寺池沼沢植物群落」がある。貴重な植生が残っていたところだが、今は都市化でだいぶ変わったようだ。三宝寺池は、多摩の丘陵地帯が下ってきたところの湧水で、井の頭池や善福寺池など区部の西には池がいくつか存在する。
  
 三宝寺池の南の方に小高い丘が、中世の山城、石神井城である。豊島氏の居城だったところだが、太田道灌に滅ぼされた。いろいろと細かいエピソードがあるが、ここでは書かない。今はフェンスに囲まれて保護されているが、秋の一部期間に公開される。見たから何が判るというもんでもないけど。空堀や内郭があるから、ただの山じゃないな、城跡だなという程度のことは判る。関東の人は関東の戦国史を知らない。鎌倉公方や関東管領をめぐる複雑な争いがあったけど、結局は後北条氏が征圧し、秀吉に滅ぼされ家康が来る。だから、天下統一や幕末維新の志士がいなくて、大河ドラマになりにくい。
   
 城から降りて、三宝寺池をめぐる。水面に青空と木々が逆さに映って美しい。神社があって、池の中にあずまやが作られている。なかなかきれいで、歩いていて楽しい。
   
 三宝寺池を超え「松の風文化公園」に行くと、ふるさと文化館分室がある。練馬区出身の文化人の紹介や五味康祐(ごみ・こうすけ)の展示をしている。五味は「柳生武芸帳」が大評判になった作家で、いま「『柳生もの』の系譜」という展示をしていた。これがとても面白い。時代小説、時代映画ファンには必見。またはオーディオファンとして知られ、所蔵のステレオが2階で展示されていた。(写真左)他にも、檀一雄の部屋も再現されている。(写真右)檀は石神井に住んでいた。ビックリしたのは、石神井城のところに「石神井ホテル」というのがあり、檀はそこにこもって「リツ子」シリーズを書いたという。
 
 三宝寺池のあたりは鳥も多く、バードウォッチャーも多い。鳥の鳴き声もするが、水鳥も多い。そんな中を歩いて戻り、「ふるさと文化館」へ。そこでは「夢の黄金郷 遊園地展」をやっていたが、見なかった。それより一階にある「エン座」といううどん屋へ。ここは有名なところで、よく紹介されている。「糧(かて)うどん」というのが名物で、豚肉や野菜を入れた温かい出し汁にうどんを付けて食べる。美味しく食べて、他にもお寺など史跡があるんだけど、まあ満足して帰ることにした。
  
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東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)を見る

2016年10月14日 23時05分55秒 | 東京関東散歩
 映画や政治の話をちょっと置いて、昨日訪れた東京都庭園美術館の写真のまとめ。美術館だけど、元は1933年に作られた旧朝香宮邸で、今は重要文化財に指定されている。「世界で最も美しいアール・デコの館」とも言われる洋館である。現在「アール・デコの花弁」として室内空間そのものを見る期間となっていて、平日に限り内部の写真が可能となっている。(フラッシュ禁止、他の客への要配慮)

 港区白金台にあるけど、まあ目黒駅東口から歩いていくことになる。戦後、朝香宮の臣籍降下のあとは、首相公邸(吉田茂時代)や迎賓館として使われていた。現在の赤坂迎賓館が整備された後は、東京都の所管となり、1983年に庭園美術館として一般公開された。この間何度か(5~6回?)訪れているが、2014年にリニューアルされてからは初めて。道からすぐの券売所でチケットを買って、ゆっくりと歩いていくとだんだん洋館が姿を現してくる。館の前には左右の「狛犬」がいる。まあ、狛犬というのも変だけど。右にもいるんだけど、写真がなぜかアップできないので、左だけ。
   
 正面玄関にはガラスのレリーフがある。ルネ・ラリックのオリジナル・デザインによる「有翼女性像」なんだって。そりゃあ、すごい。2枚目は裏から見たもの。4枚目は玄関の床のデザイン。
   
 荷物をロッカーに預けてから、最初に「大広間」を見ると、なんだか大きなものが見える。アンリ・ラパン設計の「香水塔」。ラパンは、内装設計を手掛けたフランス人。朝香宮は戦前のフランス留学中に事故にあい、療養中にフランスの最新の「アール・デコ」様式に影響された。この館にはフランスから輸入されたものが使われているという。続いて、大客間になるが、なかなか写真も撮りにくい。観客もいるし、広すぎて全体がうまく撮れない。だけど、細部のデザインも素晴らしい。
   
 何と言っても素晴らしいのは、「大食堂」で、向こうに広々とした庭園が広がり、解放された気分になる。ここでもあちこちにラリックやラパンのデザインしたもので満ちている。
   
 あちこちに置かれた装飾品だけでなく、暖房装置なども面白い。どこを撮っても「絵になる」という館なのである。そんなあちこちの様子をいくつか。
    
 続いて、2階に行く。でも2階では別の「クリスチャン・ボルタンスキー  アニミタス-さざめく亡霊たち」というフランスの現代美術家の展示がある。もっとも普通の絵の展覧会ではなくて、パフォーマンスのようなもので、新館も含めて行われている。それは撮れないし、2階の部屋は暗くて撮りにくい。それより階段が面白い。家中、どこもかしこもアートで満ちている。
  
 さて、今まで「アール・デコ」という言葉を何度も書いてるけど、それは一体なに? 僕もよく知らないんだけど、1925年にパリで開催された「現代装飾美術・産業美術国際展欄会」の略称から来た言葉だという。1910年代から30年代ころの、工業化、産業化の時代に生まれた直線と立体、幾何学模様の装飾スタイル。そういうのを「アール・デコ」というらしいけど、わかった気がしないなあ。キュビズム東洋美術などの影響があるとも。ニューヨークの摩天楼やココ・シャネルも「アール・デコ」らしい。日本では聖路加国際病院や伊勢丹新宿店などが「アール・デコ」様式らしい。これでも判らないですね。室内の写真の残りをまとめて。1枚目は2階。2枚目は浴室。3枚目は壁の拡大。4枚目は朝香宮夫妻の写真。 
   
 名前の通り、庭園もあって(日本庭園はリニューアル中)、そこから見た洋館も立派で、それだけでも見る価値がある。僕は洋館が好きで、ここでも旧前田邸や旧古河邸、旧岩崎邸など、いくつも写真を載せている。財閥は財閥なりに自分でもうけた金で建てたわけだが、宮家となると宮内省内匠寮が立てている。1933年と言えば、日本が国際連盟を脱退した年である。「満州」では戦争が始まり、「日本は狭いから満州に移民しないと」などと言っていた時代である。税金でこんなぜいたくな館を建てたことに、なんだか釈然としない思いもする。今となっては、そのことも含めて歴史遺産と言うべきなんだろうが。
 
 隣に「自然教育園」という山手線内とは思えない自然の残る場所がある。今回は行かなかったけど。写真は人もいたりするからどうも自由に撮れなくて、不満もある。まあ、また行く機会があれば追加したい。今回の写真が撮れる期間は、12月25日までの平日。第2、第4水曜が休館。
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公園・寺社・坂のある町-落合散歩③

2016年05月18日 21時42分24秒 | 東京関東散歩
 東京は「東京砂漠」で、緑に恵まれない、潤いのない町だと昔はよく言われていた。確かに一人当たりの公園面積は、ロンドンやニューヨークに比べて非常に少ない。でも、人口密度が濃密なアジアの都市は事情が少しばかり違う。それに東京にも案外寺社が多く、そこに緑もあれば休息できる環境もあって、散歩していると適度な間隔でのんびり休める。捨てたもんじゃないなと思うようになった。特にこの落合近辺は公園や寺社が多い。新宿からごく近いのに、ちょっと遠出した感じになれる。 

 西武新宿線下落合駅から北へ、川と道路を超え奥へ行っていくと、なんだか緑の多い場所が現れる。都会の中にこんな場所があるのかと思うのが、薬王院というお寺。長谷寺から譲り受けた牡丹の花が有名だというが、訪ねた時にはもう終わっていた。(写真の最初2枚。)薬王院のすぐ隣に「落合野鳥の森」があり、そこからもう少し歩くと「おとめ山公園」。その近くに「氷川神社」がある。明治までは薬王院が別当寺だった。旧下落合村の鎮守社だったという。(写真3枚目)
  
 さて、そのあたりは北へ向かって目白台地が広がり、いくつもの坂道がある。少し登ると「おとめ山公園」。この名前は「乙女」じゃなくて「御留」が由来。各地によくあるけど、江戸時代に樹木の伐採や鳥獣の捕獲が禁じられていたという意味である。ここは将軍の狩猟地で、明治以後は相馬家の庭園になっていた。戦後になって近隣住民の要望を受けて新宿区が整備し、1969年に開園した。自然湧水もあるということで、これが「武蔵野の面影」かと思うほど自然が残っている。近くの住民も子供連れでたくさん訪れていた。山手線のすぐそばにこれほどの自然が残されていたのか。穴場的な場所。
   
 他にも公園としては、中村彝アトリエ記念館の隣に「下落合公園」、聖母坂の西には「西坂公園」や「かば公園」があり、今回歩いていない西武線の南側には「せせらぎの里」や「落合中央公園」という広い公園もある。そして、その合間合間に、坂道の角に小さな神社が置かれていたりする。いかにも古い町らしく、歩いていて楽しい。電車で一区間ほどだから、それほど広い地域ではない。そこに1回目、2回目で書いた施設などもある。結構濃密。まずは「下落合公園」と「かば公園」。
  
 次は神社編。下の写真の最初から、目白駅そばの「豊坂稲荷神社」、そのすぐ下にある小さな神社「市来嶋神社」、下落合公園から聖母坂に向かう途中にある「大六天」、そして薬王院に向かう途中にある「下落合弁財天」。どれも小さく、永井荷風が喜びそうな社ばかりである。
   
 それにしても坂道が多い。目白から高田馬場方向へ、ぐっと落ち込んでいる。その合間に住宅街が広がり、なんだか面白い建物がある。記念館や寺社ではない、人が住んでいる建物はなかなか撮りにくいし、撮っても後で見ると案外面白くない。でも、下の写真のマンションは載せておきたい。コロセウムみたいな、あるいは新国立競技場がこんな感じだったかも。でも、多くのところは2枚目の写真のような住宅街である。そして、歩いていると、坂道に出る。「下落合野鳥の森」周辺の坂はこんな感じ。
   
 最後にあちこちの坂の写真をずらっと。最初から、「聖母坂通り」、「霞坂」、「西坂」、「七曲り坂」。西坂や七曲り坂はかなり長くて、この上に行くとずいぶん急傾斜になる。そういうところに坂の名前は付いてない。道の下にある坂の名を入れて写真を撮らないと、何しろ多いからどこを撮ったか忘れてしまう。坂はこの3倍ぐらいあるし、もっと小さな名も付いてない坂もある。暮らすほうも大変だと思う。撮った写真を全部載せても仕方ないだろうから、この辺で落合散歩はおしまい。 
   
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目白文化村と近衛町-落合散歩②

2016年05月17日 23時02分33秒 | 東京関東散歩
 落合のあたりは、アパート地帯のようなイメージがあったのだけど、実は高級住宅街である。ただし、落合じゃなくて「目白」を付けることが多い。確かに山手線目白駅の近辺ではある。でも、地名としての「目白」は豊島区にある。またよく混同される「目白台」(田中角栄邸があった)は文京区。もとは「目白不動」から来る地名である。ここで言う「目白文化村」とは、大正末期から昭和初期にかけて、西武鉄道グループを築いた堤康次郎が中落合一帯に開発した高級住宅街のことである。

 この地域は、東京大空襲で大きな被害を受け、また道路建設で寸断された。今は東西に目白通り、新目白通りが通り、南北には山手通り(環状6号)が通っている。長年の間には世代交代が進み、広い邸宅を維持することが難しくなる。だけど、いまでもかなり広い家があるし、また再開発された場所も高級マンションや企業の寮などが多いようだ。そんな中で僕が見つけたかった家がある。

 それは石橋湛山邸である。石橋湛山(1884~1973」は戦後に短期間総理大臣を務めた人物である。しかし、病気で2か月で退陣した。今ではむしろ戦前のリベラルな言論活動で記憶されている。「東洋経済新報」に拠り、大正から日米戦争前まで戦争反対、植民地放棄を訴え続けた。それも左翼思想や情緒的な反戦論ではなく、一貫して「経済合理主義」に基づいて軍部を批判した。そういう人がこのような新興の住宅街に居を構えたというのも興味深い。

 さて、その石橋邸の場所だが、中落合二丁目の交差点からほど近いところにある。西側にある「坂上通り」を上がって何回か曲がると、割と大きな家が並ぶ一角がある。別に資料館などになっているわけではなく、現に石橋家が住んでいる住宅なので、それ以上細かいことは書かない。中も見られないが、数年前の東京新聞「政地訪問」という企画記事で取り上げられ、その時に湛山の使っていた部屋の写真が掲載されていた。通りから撮った写真を3枚ほど載せておく。
  
 石橋邸の周りには大邸宅が今も多い。写真では壁しか映りそうもない家が。だから、そのあたりは通り過ぎ、さほど遠くない場所にある「延寿東流庭園」へ。区のガイドには「目白文化村の面影が残る」とあるけど、読み方もわからない。行ってみたら、すごく小さなお庭で、住んでいた住民が家を新宿区に寄贈して庭園として残した場所らしい。園内のある案内を見ると、島峰徹という人の家で、東京高等歯科医学校(今の東京医科歯科大学の前身)を創立し初代校長になった人だという。東流(とおる)は雅号で、「延寿」(えんじゅ)は菊のこと。徹の嗣子、東大名誉教授島峰徹郎の「目白文化村の面影を残したい」という遺志を汲み、夫人が寄贈したという話が書かれている。
  
 この一帯には多くの文化人も住んでいたが、今に残すあとが少ない。作家舟橋聖一の家が学生寮になって目白駅近くにある、また歌人、美術史家の会津八一がこの一帯に住んでいた。今は坂の途中の壁に案内板が残るだけ。中落合の落合第一小の下あたり。下の写真の右の壁に案内がある。
 
 ところで、堤康次郎がこの地を買い占める前は、近衛家、相馬家、早稲田大学などが土地を所有していたという。目白通りの北側の豊島区目白には、尾張徳川家の「徳川黎明会」があり、この一帯は華族の所有地だったのである。そのうち、近衛家の名残りは目白駅に近いところに残っている。目白駅から目白通りを少し歩き、目白3丁目で左折する。少し歩くと、道のど真ん中に大きなケヤキの木が見えてくる。これが「旧近衛邸車寄せのケヤキ」で、道をふさいでいるけど保存されたものである。近くには近衛篤麿(1863~1904)の記念碑が残っている。五摂家筆頭の近衛家に生まれ、3代目の貴族院議長だった人だが、40歳で急逝した。子供の文麿(元総理大臣)や秀麿(指揮者、作曲家)の親として知られているが、生前はアジア主義者として有名な人物だった。(4枚目は碑の裏側)
   
 この一帯は、正式地名ではないが今でも「近衛町」と呼ばれて、高級マンションの名前に使われている。その近くには見ごたえがある建物も多い。ケヤキの木の突き当りにある瀟洒な建物は、今は「日立目白クラブ」と出ている。招待者しか入れないので、外から見るだけ。ここは旧学習院昭和寮で、昭和3年に建設された。東京都選定の歴史的建造物になっている。またすぐ近くにある「目白が丘教会」も見栄えする。1950年建築のバプテストの教会。遠藤新というフランク・ロイド・ライトの弟子の設計である。遠藤は自由学園明日館をライトと共同設計した他、旧甲子園ホテルなどを設計した人。
 
 最後に「近衛町」あたりの高級マンションをいくつか。
   
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佐伯祐三と中村彝-落合散歩①

2016年05月16日 23時01分21秒 | 東京関東散歩
 東京都新宿区に落合という場所がある。山手線で目白や高田馬場の西側に広がる地域である。何で落合かというと、「妙正寺川」と「神田川」が落ち合う場所だからだという。(今は暗渠になって合流地点は判らない。)山手線の目白と高田馬場を右辺に取り、地下鉄大江戸線の落合南長崎駅と地下鉄東西線落合駅を結ぶ線を左辺に取る方形が、大体今回歩いた落合という地域になる。

 その地域の真ん中を妙正寺川西武新宿線が通っている。南の方に神田川が流れる。妙正寺川は杉並区の妙正寺池から、神田川は武蔵野市の井の頭池から流れる川である。妙正寺川の南北で地形が大きく異なり、北側の台地地帯が川に向って下っている。だから、坂道だらけの町で、東京東部に住む自分には珍しい風景だが、これもまあ東京らしい風景ということになる。

 ということで、地形の説明から始めてしまったけど、この地域は案外文化的に重要な地域だと知った。緑も多く、新宿や池袋からすぐ近くなのに(10分程度)、公園や寺社も多い。まだ散歩コースとしては、それほど知られていないと思うから、歩いてみたいと思う。まずは近代日本の有名な画家、佐伯祐三と中村彝のアトリエ記念館を訪ねてみたい。

 佐伯祐三アトリエ記念館は、佐伯祐三と夫人の佐伯米子が使っていた場所を新宿区が整備して2010年に開館した。(入場無料)実物ではないけれど、佐伯が設計したというアトリエが再建されている。奥の建物は佐伯の頃のままだという。中には佐伯の絵の複製などが展示されている。
     
 西武新宿線下落合駅を降りて、妙正寺川と新目白通りを渡ると、聖母坂通りがある。ずっと登っていくと、カトリック系の「聖母病院」と関連の福祉施設などが並んでいる。聖母病院は建物も面白いんだけど、病院を通り過ぎて少しいくと、佐伯祐三アトリエ記念館の案内が出てくる。狭い道に家が建ち並んでいる地域で、聖母坂通りから行かないと行きつくのは難しい。 

 佐伯祐三(1898~1928)はパリに学び、パリを描き、パリで客死した。パリの画家という印象が強いが、短い日本での活動はここ下落合でなされた。1921年に佐伯は池田米子と結婚し、1922年に下落合にアトリエを構えた。まだ豊多摩郡落合村と言っていた時代である。しかし、1923年にパリへ向かった。1926年に一時帰国し、1927年には再び渡仏する。そして1928年に死んだ。だから、佐伯祐三がここで創作に励んだ時間は短い。ここで書かれた落合村の風景を見ると、今と違って郊外の風景である。その時代の絵を少し載せておく。こんな感じ。
   
 何となく、パリの郊外を思わせないでもない。アトリエ一帯は公園になっていて、今は新緑も深い。緑の中に埋まっている感じの小さな施設である。土日を除けば訪れる人も少ない感じ。こんな場所があったのか。絵の好きな人はもちろん、格好の散歩コースではないかと思う。(下の写真の3枚目は聖母病院。2枚目のアトリエ内部は他のサイトから引用したもの。)
  
 もう一つ、下落合に新宿区立のアトリエ記念館がある。「中村彝アトリエ記念館」(入場無料)。中村彝(つね)は1887年に茨城県に生まれ、陸軍軍人を目指したものの結核のため断念し、画家を志した。1911年に新宿中村屋の裏に身を寄せ、いわゆる「中村屋サロン」の一員となった。しかし、相馬愛蔵、黒光夫妻の長女俊子との恋愛を反対され中村屋を去った。俊子はのちにインドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースと結婚したことで有名である。そして、1916年に下落合にアトリエを新築したのである。悪化する肺結核と闘いながら作品制作を続けたものの、1924年に37歳で没した。
   
 写真で見ると、郊外にある洋風の一軒家という感じだが、実は住宅街のど真ん中。日常的な風景の中を歩いていると、突然記念館が出てくるのでビックリする。昔の映画に出てくるような、郊外の瀟洒な小さな家という感じである。佐伯祐三は聖母坂の西だが、中村彝は東である。場所は目白駅から行く方が近い。目白通りを歩いて、下落合三丁目の信号で左折し、少し歩いていくと案内が出てくる。そのあたり一帯を「アートの小路」と称しているが、まあそこまでの感じではない。

 家の中はアトリエの再現になっているが、他に展示室もある。佐伯祐三より広い感じ。中村彝はずいぶん昔に亡くなっているわけだが、この場所はその後もアトリエとして使われてきたという。近年になって新宿区が中村彝の時代を再現した施設を復元し、2013年に開館した。どちらも新しい施設なので、知らない人も多いだろう。僕も最近になるまで知らなかった。中には中村彝の代表作「エロシェンコ像」(重要文化財)などの複製がある。写真の1枚目は「エロシェンコ像」。2枚目は「少女」で相馬俊子をモデルにしている。また記念館の真ん前に落合に住んだ文化人の地図が出ていた。画家では安井曽太郎松本竣介などの名も見られる。近代美術史に残る地域だったのである。
  
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哲学堂公園

2016年05月08日 23時21分33秒 | 東京関東散歩
 散歩コースとして、最近は山手線の高田馬場、目白から西へ行ったあたりを歩いている。ほとんど全く知らない地域なのだが、近代日本の文化に大きな意味を持ったところだと判ってきた。池袋や新宿に近いので、映画の前後などに行きやすい。落合あたりの散歩は別にまとめるとして、5日に行った哲学堂公園を先に。地名としては中野区になり、新宿区との境目になる。駅としては、西武新宿線新井薬師駅(西新宿から4つ目)から北へ10分ほど歩いたところ。

 このあたりは、妙正寺(みょうしょうじ)川という杉並区荻窪の北方から流れる川に沿って、北側が丘になっている。駅から少しづつ坂になっていて、やがて妙正寺川に出ると、そこが公園の端っこ。結構緑豊かなところで驚く。「哲学堂」というのは、その不思議な名前とともに、昔から気になっていた。今は野球場やテニスコートもあって、全体としては区民の憩いの場所のようだった。連休中は建物の中が公開されるということで行ってみたが、あまりにも快晴の日で逆光だと写真がよく撮れなかった。

 前に湯島を散歩した時に、明治時代に井上円了なる人物に関連する「東洋大学発祥の地」という碑を見た記憶がある。その井上円了(1858~1919)は明治の仏教哲学者だが、哲学を中心とした「哲学館」という教育施設を作った。それがやがて哲学館大学となり、今の東洋大学になるという。一方で、哲学の理解を深める精神修養の場として、1904年に「四聖堂」という建物を建てた。もともとはそれが「哲学堂」と呼ばれ、公園の名前となった。その後、近くにいくつもの建物が建ち、まとめて「時空岡」という名前の場所となっている。

 新井薬師駅方面から行った場合、川を超えて坂を登っていくことになる。ここでは門の方から写真を載せておきたい。その門は「哲理門」という。何でもかんでも哲学風の不思議な名前が付いている。そこから入ると、「六賢台」という塔や「四聖堂」がある。最初に出来た「四聖堂」とは孔子、釈迦、ソクラテス、カントのこと。「六賢台」の方は、聖徳太子、菅原道真、荘子、朱子、龍樹、迦毘羅仙(かびらせん=古代インドの哲学者)のことを指すという。写真の最後が井上円了。
   
 その一帯、「古建築エリア」(時空岡)には、他に「絶対城」(昔は図書館だった)や「宇宙館」(講義室)、「無尽蔵」(展示施設)などがズラッと出来ている。また、少し登ると「三学亭」。神道、儒教、仏教の三学を指し、三角形で出来ている。
   
 上の写真は、左から「絶対城」「宇宙館」「無尽蔵」「三学亭」。せっかく中を見られる日をねらって行ったのだが、中の写真がうまく撮れてないのでカット。それにまあ、ものすごく面白いものがあるわけでもない。建物の写真も真正面からのものが少ない。5月になると、日が長くなって散歩日和になるが、快晴だと暑くて陽光も厳しい。写真を撮るには曇りの多い6月の方がいい。それにしても、「絶対城」とか「宇宙館」とか、実に不思議な名前の建物が並ぶ。なんだかミステリーに出てきそう。綾辻行人作「絶対城殺人事件」とかなんとか。
    
 上の最初の写真は「時空岡」の風景。うまく全体が撮れない。ちょっと最初に戻ると、2枚目は公園の端の池。3枚目は妙正寺川。川が案外深く、脇に続く公園に入ったところ池がある。昔の哲学関係の建物だけと思っていたら、このように庭が広い。そして実はそこにも哲学風の名前が付いている。ところで、新井薬師駅は初めてかと思ったら、そうではなかった。駅近くに東亜学園があって、昔学校説明会に来たではないか。もう場所は忘れていたけれど。

 さて、ここにはもう一つ、哲学関係の不思議な場所がある。「時空岡」を降りてくると、「唯物園」「唯心庭」などまた哲学名前の場所がある。そして川を超えたところに「哲学の庭」というところが作られている。そこに多数の彫刻が置かれている。ワグナー・ナンドールというハンガリーの彫刻家が造った彫刻で、同じものがブダペストにもあるという。歴史上の重要人物が何人も置かれている。実に面白く、不思議なところ。世界の公園の中でも屈指の不思議な場所だと思う。
  
 一人ずつ見てみると、下の写真の左から聖徳太子、ハムラビ(古代バビロニアの王、ハムラビ法典をまとめた)、ユスチニアヌス(ローマ法の集大成)、聖フランシスコ、達磨大師、ガンジー
     
 続いて、左から老子、エクナトン(エジプト第18王朝第10代の王アメンホテプ4世。アモン信仰を捨てアトン崇拝を開始した)、イエス・キリスト、アブラハム(ユダヤ人、アラブ人の共通の祖先とされる預言者。偶像崇拝禁止に配慮して顔を見せずに、神を拝しているところを彫刻にしているという不思議。)他に釈迦もあるが、時間的に逆光で黒くなってしまったのでカット。こういう人選はどうなんだろうか。これが「哲学の庭」でいいのかと思わないでもないけど、まあそれはヤボというものだろう。
   
 そして、元に戻って帰り道には「主観亭」(下の写真左)とか「概念橋」(下の写真右)とかいうものがある。他にもまだまだ面白い名前の場所が付けられた場所が並んでいる。やはり「哲学堂公園」なのである。まあ、東京にはこんな場所もあるんだというのが散歩の感想。
 
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何でもある場所-上野公園散歩④

2016年04月12日 00時34分35秒 | 東京関東散歩
 上野公園散歩の最終回。こういった散歩記は、よほどの重大事件でも起きない限り連続して書きたい。つまり、映画や本、ニュースなどはその間書かない。これはずいぶん気楽である。書く前に調べたり、写真を選んだり(写真はもっと撮ってあるに決まってる)、結構大変なんだけど気は楽。さて、今回はさまざまな施設には一切入ってない。都合5回くらい行ってみたけど、上野はどうせどこへ行くにも途中で通るので、あまり負担感がない。博物館や美術館は中で写真を撮れないし、どうせならタダで見られるところ限定にしようということで。パンダ関係とか、東博、科博なんかはまた別の機会に。

 さて、「何でもある場所」と題名に書いた。博物館も美術館も動物園もある。最初の洋食料理店の「上野精養軒」もあれば、今はスターバックスもある。だけど、そういう意味で書いたのではない。もちろん「ないもの」もいっぱいある。例えば映画館はない。国立博物館内に特設映画館を作って大森立嗣監督の「ゲルマニウムの夜」をやったことがある。そういう特例はあるけど常設館はない。公園の下にはあった。何と今は上野にロードショー館がなくなってしまった。(もっとも「上野オークラ劇場」という今や絶滅危惧種のピンク映画館が残っているんだけど。)昔は地下鉄駅を出て公園の下にたくさんあった。僕もよく見た。東宝で「忍ぶ川」を土曜日の放課後に見に行った。藤田敏八監督がロマンポルノを撮ったということで、日活の映画館に見に行ったのもここ。高校2年だから、ホントは成人映画は見れないけど。「赤ちょうちん」「妹」「バージンブルース」の秋吉久美子三部作もそこで見た。

 そういう「俗」なるものは、公園の中にはない。「俗」は公園外、つまり上野寛永寺の周りにあった。参詣に帰りに寄ることはできる。じゃあ「何でもある」とはどういう意味か。例えば「清水観音堂」がある。「五重塔」がある。「大仏」もある。「東照宮」まである。寛永寺が比叡山だとするなら、不忍池は「琵琶湖」にあたる。だから「竹生島」(ちくぶしま)にちなんで「弁天堂」まで作られた。京都や奈良、日光まで行かなくても、ここには「何でもある」のである。上野に参詣に訪れれば、済んじゃう。この発想がいかにも江戸人らしいと思うのである。外国人観光客に受けるのもそんなあたりだろう。
 
 では五重塔から。重要文化財。1639年建立。1631年に出来たが、一度焼失し直ちに再建された。今は「旧寛永寺五重塔」と「旧」を付ける。それは寛永寺が東京都に寄付したからで、位置的には上野動物園内にある。外からは柵越しにしか見られない。動物園と東照宮の間あたりで、駅近くからは見えない。次に「清水観音堂」。重要文化財。1631年建立。江戸の火事、震災、戦災に耐えて、よく残っているもんだ。でも日本じゃこの程度では国宝にならない。京都と同じ作りで、まあ規模は小さいけど、清水ムードはちょっと愉しめる。春の桜を眺めるのは美しい。下に広重が描いた「月の松」がある。くるっと枝が一回りしている松。狭いので堂上で写真を撮るのが難しい。下の3枚目は舞台から見た桜。
  
 次は「上野東照宮」。もと藤堂高虎邸内に造られたが、将軍家光が1651年に改築したもの。重要文化財。牡丹が有名。東照宮は日光や久能山以外に、全国にいっぱいある。東京では芝の増上寺にもある。上野は有名な方だろうが、さすがは家康である。拝観料500円なので中へは入らず。動物園の横あたりで、参道にずらっと屋台が並ぶのが外国人観光客に大受けしている。そこは載せず。
  
 さて、その近くから階段を下りて不忍池へ行くと、弁天堂。池の中にあるが、それは人工島。天海が築いたが、東京大空襲で焼失。1958年にコンクリ製で再建されたものである。このあたりも水の景色と弁天堂、桜と屋台の店と外国人に受ける要素が詰まってて混雑していた。
  
 さらにまだまだある。「時の鐘」。1787年作の鐘楼。芭蕉が「花の雲 鐘は上野か 浅草か」と詠んだのは、ここの鐘。ただし、それは1666年の最初の鐘だという。精養軒の真ん前あたりにあり、今も午前午後6時と正午に鳴らすというが、聞いたことはない。
  
 その真ん前にあるのが、「上野大仏」。もと6mあったというが、度重なる災害に耐えられず、今は顔面しかない。大仏パゴダに残されている。そのパゴダというのは、1967年に東照宮の薬師三尊を祀るために作られた。「顔だけ大仏」は、「これ以上落ちない」と合格祈願で有名。
  
 これだけのものが、もともとの「上野寛永寺」にあったんだから、大したものである。それに結構残っているとも思う。震災、戦災を超えて、よくぞ残った。桜の季節に大流行りである。だけど、その代わりに根本中堂などの寛永寺の中心に人が行かないのである。最後に、お寺と関係ないものを。まず「擂鉢山古墳」。読みは「すりばちやま」である。古墳が東京の区部にあることを知らない人が結構いる。芝公園にもあるし、世田谷・等々力渓谷近くの野毛大塚古墳などはなかなか大きい。一番行きやすいのは、東京文化会館近くの上野公園の古墳だろう。階段があり、登ると真っ平になってベンチがある。休んでいる人がいつもいる。これが古墳かと一度登って欲しい場所。
   
 その近くに野球場。これは「正岡子規記念野球場」という。正岡子規は健康だった時には自ら野球を楽しんだ。ポジションはキャッチャー。打者、走者、直球、四球などの用語を作ったことで知られ、野球殿堂入りしている。
  
 さて、これで最後。西郷さんの銅像に真ん前に「彰義隊の墓」がある。他にも、五条天神社花園稲荷などの神社もあり、天神では例の赤い鳥居に外国人が大喜びしていた。「京都にあったよね」とか言い合いながら写真を撮りあっている。最後は写真ばかりだけど、上野公園には史跡がザクザクとあり、有料施設に入らなくても散歩しているだけで歴史ファンには楽しめるという話。すごい場所。
  
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上野公園の銅像-上野公園散歩③

2016年04月10日 23時24分27秒 | 東京関東散歩
 上野公園にある銅像と言えば、まずは「西郷さん」だが、それでは書く楽しみがない。他にもいろいろある。形の上で一番壮麗なのは、ちょうど公園のど真ん中あたりにある馬に乗った銅像。「あ、西郷さん」などと声を挙げている人がたまにいるが、これは「小松宮彰仁親王」像である。
  
 小松宮という人は、確かにいたとは記憶しているが、一体どんな人物か。近代史に詳しい人でもなかなか思い浮かばないだろう。小松宮彰仁(こまつのみや・あきひと、1846~1903)は、一言で言えば明治期の軍人皇族(元帥)である。傍流の伏見宮家の出で、仁孝天皇(孝明天皇の父)の猶子となり、親王となって仁和寺門跡となった。世が世ならそれでおしまいだが、王政復古のさなかに還俗し、奥州征討総督を務める。以後、佐賀の乱、西南戦争などで重要な役割を果たし、参謀総長などを経て、日清戦争では征清大総督となった。というと、戦前には有名人物かもしれないけど、なんで上野公園に銅像があるの?という感じである。それは小松宮が多くの団体に関わり、特に日本赤十字の総裁だったからである。日赤25周年を記念して佐野常民らの提案で、1912年に建てられた。よく戦時中に供出もされず、また軍人像が占領下に取り壊されず残り続けてきたものだ。
  
 有名な人物銅像という点では今では日本一かなと思う西郷隆盛像。(人物以外も入れると、渋谷駅前ハチ公像が有名度一番だろう。)人物の説明はいらないと思うので、銅像の説明だけ。造られたのは1898年で、高村光雲作。ただし、犬は別で後藤貞行という人で、皇居前広場の楠木正成像に馬を作った人である。信頼性のある写真が一枚もなく、キヨソネの絵をもとに多くの人に意見を聞き、この姿になったとか。小松宮とは敵同士だったわけである。
   
 他にもある。何と野口英世像がある。場所は科学博物館前の林の中。1951年に立った。試験管を持った全身像は野口像としては珍しいという。何でここにあるかは知らない。上の写真の2枚目、3枚目はボードワン像。これは上野公園にある意味がある。「上野公園の父」と言われる人である。オランダ人の軍医で、明治初期に上野に大学を移転という話があった時、公園建設を提言したという。1973年の上野公園100周年に建てられたが、その時の像は駐日領事だった弟の顔だったとか。手違いが後に判り、今は2006年に直された本人の顔。東京文化会館前に元都知事安井誠一郎像もあるが、それより東京国立博物館内にジェンナー像がある。種痘の発明者で、種痘100年を記念して、1896年に建てられたという。何で博物館の敷地内にあるのかは知らない。 

 ところで、今は「記念碑」的な意味で作られたものを挙げたが、モニュメントという意味では「上野公園最大の像」は別にある。だけど、多分銅製ではないと思う。それは科学博物館前のシロナガスクジラ。これは一度見たら忘れられないし、検索すると「トラウマ」だとか書いてる人も多いようだ。小さい時に一度は見てると思うが、まあ、僕は嫌いじゃない。クジラってすごいなあと素朴に驚きを感じる。写真的には一度に撮れないので苦労する。遠くから全体像を撮ると迫力に欠ける。
  
 もう一つというか、いっぱいだが、国立西洋博物館ロダンブールデルの彫刻がある。一番有名な上野の銅像は、だからロダンの「考える人」だというのが「ご名答」ということになると思う。西洋美術館は、松方コレクションを展示するために作られたが、今はル・コルビュジェの建築として世界遺産にという動きがあり、旗がいっぱいたなびいている。4枚目の写真は「カレーの市民」。
    
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東叡山寛永寺-上野公園散歩②

2016年04月10日 00時40分31秒 | 東京関東散歩
 上野の桜を最初に載せたが、本来は上野と言えば寛永寺である。上野公園と言ってる土地は、江戸時代には「東叡山寛永寺」(とうえいざん・かんえいじ)という巨大寺院だった。(本来は上野公園の2倍近い所領を持っていた。)京都の東北方にある比叡山延暦寺に対応して、江戸城の東北方にある上野の山を「東叡山」とした。そして、そこに3代将軍家光の時に「寛永寺」を建立したわけである。1625年(寛永2年)のことである。初代住職は天海和尚。徳川将軍6人の墓所が寛永寺にある。

 ただし、徳川家の正式な菩提寺は、芝の増上寺である。寛永寺はむしろ「政治的な重み」をもつところで、17世紀以後は皇族を住職に戴き、比叡山や日光山をも管轄する天台宗の総本山だった。なんとまあ、江戸時代には天台宗の総本山は比叡山じゃなかった。だけど、多くの人も知る通り、1868年の彰義隊と官軍による「上野戦争」で根本中堂ほか多くの伽藍が焼け落ちて壊滅的打撃を受けたわけである。だから、人によっては寛永寺はそこで終わったかのように思い込んでいる人もいる。

 まあ、確かに今は見る影もないとはいえ、今も寛永寺は残っている。上野公園の北の外れの方に根本中堂も再建されている。もっともそれは川越の喜多院から移築されたものである。その移築には露伴の「五重塔」の主人公も関わっていたらしい。ここまで行くと、人の数もグッと少なくなる。「歴史散歩」ムードを味わう花見はこっちの方がいい。(元の根本中堂は噴水公園のあたりだったらしい。)
   
 上の写真を見れば判るように、寺院も桜も立派なのに人が少なくてもったいない。この根本中堂の裏の「書院」は非公開だが、徳川慶喜が戊辰戦争後に謹慎蟄居した場所なのである。境内には、上野戦争碑や「虫塚」、尾形乾山の碑などがある。なかなか見応えがある。
   
 ここへ行くには、上野駅ではなく、JR山手線でひとつ隣の鶯谷駅から行く方がずっと近い。鶯谷は山手線で一番地味な駅で、降りたことがない人も結構多いと思うが、歴史散歩には大事な駅である。南口から歩いていくと、4代将軍家綱の墓所の勅額門がある。その先に5代将軍綱吉の墓所の勅額門。もともとは霊廟があり旧国宝に指定されていたというが空襲で焼失し、残った門などは重要文化財に指定。どちらも近くでは見られない。(前二つが綱吉、後二つが家綱。)
   
 その他、結構寛永寺時代のものは残っているのだが、花見客でにぎわう清水観音堂や五重塔、弁天堂など別に書くことにし、今回は北の方、国立博物館の先の方にあるものにしぼることにする。僕も今回初めて知ったのだが、いつもだと国立博物館の先へ行くときは芸大の方に曲がっていくのだが、反対に駅の方に曲がると「両大師堂」があり、その隣の輪王院に「旧本坊表門」が移築されている。(重要文化財)「両大師堂」というのが結構いい感じで、そこから隣に行くところに「幸田露伴旧宅の門」がある。(下の2枚が両大師堂、最後が露伴宅の門)
  
 「旧本坊表門」は寛永年間のもので、元は国立博物館のところにあったという。博物館の整備に伴い移築されたという。通称「黒門」で、そこから上野の地名を「黒門町」と呼ぶようになった。昭和の名人と言われた落語家、桂文楽(8代目)が「黒門町の師匠」と言われたことは有名。今も公園を降りて少し行くと「黒門小学校」がある。(その真ん前に「うさぎやカフェ」ができた。)
  
 ところで、国立博物館の裏あたりに今も寛永寺の「塔頭」(たっちゅう)がかなり残っているのを今回初めて知った。なかなかムードがある。JR山手線に沿ってずっと北上していくと、「日本鳩レース協会」の建物がある。こんなところにそんな団体があるのか。そのちょっと先に、海老名香葉子さんらが建てた「東京大空襲慰霊碑」がある。その隣に3代将軍家光に殉じた「殉死者の碑」。そこまで行った人は少ないかもしれない。僕も今回調べて知った。公園散歩からすると外れの方になる。
 
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桜満開、上野公園-上野公園散歩①

2016年04月09日 00時23分46秒 | 東京関東散歩
 僕にとって、桜と言えばまず上野公園である。超有名な場所だけど、人が多すぎる、特に近年は外国人観光客が多すぎる感じはする。別に外国人だから悪いわけじゃないが、皆が写真を撮っているから渋滞がすごい。それでも何で上野に行くかというと、自分の家から電車一本で行ける有名な場所だからである。博物館とか美術館が多いから、行くことも多い。ついでに寄って見られる。だから毎年のように見ている。僕の行動範囲にない、千鳥ヶ淵の桜とか、秋だと神宮絵画館前のイチョウ並木とかは、実は一度も行ったことはないのである。有名なのは知っているけど。

 上野公園は、春の桜文化施設である。博物館、美術館、動物園などいくつあるか正確に言える人はいないだろう。でも、それだけではない。1873年に作られた近代日本で初めてつくられた「公園」である。江戸時代に作られた大名庭園はかなり残されているが、あれは「私園」である。それに対して、公園は誰でも入れる。そして、上野公園ほど何でもある場所も少ないと思う。文化財も多いし、野球場まである。それどころか古墳があるというとビックリする人もいる。案外知らない人も多い「上野公園のあれこれ」を一度ちゃんと散歩して残そうと思っていた。桜の季節に合わせて何回か。
  
 何枚載せても同じだけど、以下にもう少し。東京文化会館と西洋美術館の間を抜けて、国立博物館を向こうに見る噴水広場。そこから上野広小路に向けて続くメイン・ストリート付近の写真である。桜はほとんどがソメイヨシノで、約1200本あるという。人の顔を写しても仕方ないから、空を入れて撮るか、樹のかたちに注目して撮るかということになる。この上下の写真は満開の4月初め。
  
 3月23日に行ったときは以下のような感じだった。
 
 ところで、急いでいる時やちょっと寄る時は、メイン・ストリート中心になるけれど、今回はあちこち行ってみた。不忍池(しのばずのいけ)まで行くのは久しぶりだけど、池を背景に桜が咲き誇りとても魅力的だった。ボートに乗りに来たこともあるけれど、今は手漕ぎよりもスワンボートのようなのが多いようだった。最後の写真は弁天堂を背景に鳥が止まっているところ。ユリカモメかな。拡大して見て。
    
 ところで、花見光景はあまり撮ってないし、人が騒いでいるだけだから面白くない写真が多い。まあ、割と問題ない写真を一枚。そして、ゴミはきちんと分別して捨てましょう。このゴミ箱の整然さは、渋谷スクランブル交差点に匹敵する「観光資源」と言えるのではないか。英語も読んで。最後の写真をクリックして大きくすれば読めます。
  
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葛飾区教育資料館

2016年03月05日 22時06分19秒 | 東京関東散歩
 「葛飾区教育資料館」という場所がある。東京23区の東北の端の方だけど、旧水元小学校の建物に昔の教育資料が展示されている。だけど、耐震性の問題等で、今月(2016年3月)いっぱいで公開が終わる。中味の資料は他へ移動され、外観だけなら見られるということだが、中へ入れるうちに一度見ておこうかなと行ってみた。誰も入場者がいなくて、確かに閉館もやむを得ないか。
   
 この建物が建てられたのは、1925年(大正14年)のこと。水元尋常高等小学校の増築校舎の2教室だった。1982年まで使われていたというから、50年以上になる。水元小の改築で、校舎の南に移築され「教育資料館」となった。大正時代の木造校舎が保存されているのは全国的にも珍しいという。関東大震災直後の建築のため、木材不足から米国産の松材が多く使用されている。

 中には当時の教室の様子が再現されたり、昔の教科書などがズラッと展示されている。また、農具や玩具なども廊下に並んでいる。当時の水道の蛇口を見ると、関東式、関西式などがあったと知ることができる。まあ、いかにも古い学校が資料館になっているところに特有の、雑然たる「過去」が死んだように封印されていて、今の人がじっくり見る場所ではない感じがする。
   
 ところで、ここは戦時中のある出来事によっても記憶されている。それは1942年4月18日の、アメリカ軍による日本本土初空襲、いわゆる「ドーリットル空襲」である。まだ西太平洋の制海権を大日本帝国が握っていた時期に、米軍空母がひそかに日本近海に近づき、選ばれた16機のB-25爆撃機によって日本を空襲しようという一種の「特攻作戦」だった。ドーリットル中佐が指揮したので、「ドーリットル空襲」と言われる。突然の奇襲により、日本各地で87名の死者が出たが、その一人が水元国民学校の高等科生徒石出巳之助だった。機銃掃射による。軍事目標を標的にしていたが、東京では早稲田中学も爆撃されている。また、民間人に対する機銃掃射もかなりあった。

 ドーリットル隊の各機は、基本的には中国の国民政府地区を目指す計画だったが、日本軍につかまり捕虜となった隊員もいた。(8人が軍事裁判で死刑とされた。)他にソ連に向かった機もあり、そこらへんの運命はかなり興味深いが、今は触れない。当時の日本はまだ大勝利と浮かれていた時期で、やすやすと米機に本土上空を突破され、一機も撃墜できなかったことに衝撃を受けた出来事だった。この時の銃弾がこの資料館に保存されている。また、戦時中の日の丸の寄せ書きなどもある。東京大空襲に3年先立つ都内の民間戦死者の記憶が残されているのは貴重だろう。ところで、上下に開ける窓も面白い。建物が白くてきれい。隣に今の水元小が立つ。
   
 葛飾区教育資料館は、JR、京成線の金町駅からバス。(都心からは、地下鉄千代田線に乗っていくのが一般的か。)駅を出て南口から京成バス「戸ヶ崎操車場」行き。水元小学校下車後、少し戻って「水元医院」を曲がるとすぐ。地理を知らないと歩いていける距離ではない。駐車場はなし。月火は休み。入場無料。近くに都内屈指の広さを誇る水元公園があり、5分ほど。そっちの駐車場は利用できる。水元公園というのは、名前はよく聞くけど行ったことがなく、ちょっと寄ってみた。カワヅザクラがきれいに咲いていた。水辺では多くの人が釣りをしていて、鳥も多い。ちゃんと訪れてみたい場所。
   
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明治学院とその周辺散歩

2015年11月04日 00時43分32秒 | 東京関東散歩
 2日は大雨で寒い日だったけど、3日はさすがに「晴れの特異日」だけあって、全国的にカラッと晴れ上がった。今はちょうど「東京文化財ウィーク」をやっていて、文化財の特別公開などがあちこちで行われている。そこで今日も文化財散歩。都営地下鉄三田線の白金台駅から、都営地下鉄浅草線高輪台駅まで明治学院大学を中心にその周辺を散歩。明治学院大学のインブリー館は国の重要文化財である。一度見てみたかったし、他にも歴史的建造物がある。

 東京は政治や経済の中心地というイメージばかり強調されるけど、明治以後の首都だから「近代化遺産」はかなり残っている。近代的教育制度が整備されて、大学ができたのも東京が始まりである。「文教都市」というイメージはないが、数で言えば有名な大学は東京が一番多いんだろうと思う。近代遺産はまだほとんど国宝に指定されていないが、大学の重要文化財はけっこうある。東京にあるのは東大の安田講堂、早大の大隈講堂、慶大の三田演説館と図書館、明学大のインブリー館、学習院の旧正門、芸大の旧東京音楽学校奏楽堂など。また京都の同志社大学礼拝堂等、龍谷大の大宮学舎等、北大の農学部諸施設、岩手大の農学部旧本館、熊本大の工学部旧機械実験工場など、調べると結構ある。旧制高校や旧制中学のものもある。そんな中でも、外観がきれいに残されているキリスト教関係施設としては東京で一番が明治学院大学なのだろう。で、インブリー館は下の建物。
   
 1889年の頃の木造2階建てで、そういうことは配布されている「明治学院 文化財ガイドブック」が詳しい。宣教師のインブリーさんが長年住んだからだという。日本にある宣教師館としては一二を争う古い建物だとある。今は中へ入れるので入って、2階も見る。インブリーさんの写真もああった。
   
 さて、重文だからインブリー館を先に書いたけど、入り口を入るとまずチャペル(明治学院礼拝堂)のステキな姿が見えてくる。本当は今は大学祭をやっていて、チャペルでも各団体の演奏や歌をやっていたけど、まあ入らなかった。ずらっと食べ物屋の屋台が並んでいて人もいっぱいいた。写真は出来るだけ人物を撮らないようにしたけど、ホントは人出が多かったのである。チャペルは港区選定の歴史的建造物に指定されている。独立した建物だから、立教よりずっと立派な感じ。今見たら同志社のチャペルも立派そうで、いつか行ってみようと思う。こんなチャペルがあるといいなと思う。1916年にヴォーリズの設計により建てられたが、1931年に学生数の増加に伴って拡張された。上から見ると十字架のかたちだとある。パイプオルガンもあり、ステンドグラスもステキそうだ。今度入ってみよう。
    
 インブリー館の隣、チャペルの真ん前には、明治学院記念館がある。これも港区の歴史的建造物で素晴らしい建築物である。1890年に建てられ、元は神学部の校舎と図書館だったという。卒業生の島崎藤村の「桜の実の熟する時」に出てくる由。藤村は「破戒」「夜明け前」を読んでるけど、それは読んでない。馬篭の記念館も小諸の記念館も行ってるのに忘れていた。明治女学院の教員だったことばかり知っている。校歌も藤村が作っているということで、チャペルの裏に記念碑が建っている。(下の3枚目の写真)記念館も見ると、創設者のヘボンさんの偉大さがよく判った。今はローマ字のヘボン式で名が残るが、それだけでなく多くの業績を残した人で、今年は生誕200年だという。学内に彫像もあった。(下の4枚目の写真)なお、大通りの歩道橋の上から記念館がよく見える。下の2枚目の写真。
   
 ところで、明治学院に行く前に、白金台駅の近くに「瑞聖寺」(ずいせいじ)がある。1670年創建の黄檗宗(おうばくしゅう)の寺。江戸初期に隠元が伝えた禅宗の一派である。ここの「大雄宝殿」(だいゆうほうでん)が国の重要文化財に指定されている。ただし、一度再建され、1757年の完成なので、江戸中期となり日本の仏教文化財ではそんなに古くない。でも明朝時代に由来する立派な建物。
   
 明治学院から歩道橋を渡ると、地名は高輪(たかなわ)で向こうに不思議な建物が見えてくる。それが東京都選定の歴史的建造物にも指定されている「高輪消防署二本榎出張所」である。「二本榎」(にほんえのき)というのは、この地域の古い地名だという。1933年の建造で、高いタワーが特徴的。だけど、今は周りがもっと高いマンションだらけになって、全然火の見の役には立たない。だから、登らせてくれない。中は2階までは見せてくれるけど、受付をすると案内が来る。2階は消防の歴史等の説明になっている。ホントは上を見たいんだけど、まあ仕方ない。とにかく「見た目の不思議度」では東京でも有数ではないか。それが町のど真ん中に今も立ち続けている。一度は見るべき東京風景。
   
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円覚寺舎利殿を見にいく

2015年11月01日 21時19分34秒 | 東京関東散歩
 鎌倉の禅寺、円覚寺(えんがくじ)の舎利殿(しゃりでん)と言えば、歴史の教科書にも必ず出ている鎌倉文化の代表的な建築の一つである。(もっとも建築は南北朝時代に入った15世紀とされる。鎌倉文化の建築としては、まず東大寺南大門が挙がる。)中国(宋)の影響を受けた禅宗様の代表であり、国宝に指定されている。だけど、今まで直接見たことがなかった。というのも、普段は非公開で、正月3が日と11月当初の3日程度しか、公開されないのである。この時期は文化祭等の学校行事も多く、なかなか行けなかった。だから、つい忘れているのだが、今年は一昨日あたりに突然思い出して調べてみたら、1~3日が公開だった。秋晴れで気持ちのいい日に訪ねてみた。
   
 円覚寺というのは、北鎌倉駅降りてすぐにある。(というか、円覚寺の敷地を鉄道が通っているんだと思う。)もちろん初めてではないが、鎌倉は久しぶり。山に囲まれているので、さすがに東京と違う歴史と文化の町という気がする。寺へ入るのに300円。そこから奥の方にずっと進むと、「宝物風入」(ほうもつかぜいれ)をやっている。舎利殿特別拝観と合わせて、別に500円。(舎利殿だけなら200円)。入口近くは人が多かったが。だんだん少なくなっていく。まあ、ゼロではないけど、少し待ってると上の写真のように、人影のない時間もある。意外なことにそれほど混んでいない。確かに素晴らしい建築なんだけど、ここまで有名なだと、どうしても「デジャヴ」(既視感)に囚われてしまう。もともとは円覚寺のものではなく、尼寺の太平寺(廃寺)の仏殿を移築したものだという。
   
 上の3枚目の写真は、舎利殿に入る直前の地形。円覚寺を取り囲む山の地層がよく判る。4枚目の写真は、舎利殿に向かう途中にある「妙香池」。池の向こうにある岩を「虎頭岩」というよし。さまざまな塔頭(たっちゅう)が立ち並び、今も禅宗修行の地になっている。その一つ、「佛日庵」には開基の北条時宗を祀る廟所がある。また、「烟足軒」という茶室は、川端康成「千羽鶴」に出てくる茶室のモデルだという。小説は昔読んで忘れているけど、最近見た映画はすごく変な話だったので驚いた。茶室の前に苔庭があり、「林家木久蔵作」とあった。先代、今の木久翁だろう。下の4枚目。
   
 もう一つ国宝があった。「洪鐘」と書いて「おおがね」と呼ぶ。1301年製作の大きな鐘なんだけど、高いところに会って行くのがエライ大変。写真の石段を登り切ったところは、まだ半分ぐらいである。確かに大きいな。鋳物師物部国光作と作者名も判っている。さて、その前に「宝物風入」を見るが、これは絵や古文書の特別展示である。写真は撮れないから、ここではない。重要文化財がいくつかあるが、僕にはよく判らない。天皇家や武家、戦国大名の文書が貴重。
   
 まだ紅葉には早く、鎌倉散歩の人々も多いには違いないが、思ったほどでもなかった。境内の様子を何枚か載せて終わる。東慶寺など北鎌倉の他の場所も時間があれば行こうかなと思っていたが、案外疲れた。4時からフィルムセンターでオーソン・ウェルズを見たいと思っていたから、円覚寺だけ。
    
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洗足池と勝海舟の墓所-海舟散歩③

2015年05月26日 23時37分12秒 | 東京関東散歩
 勝海舟の墓所は、大田区の洗足池(せんぞくいけ)というところにある。この付近に大田区が勝海舟の記念館を作るという計画があるらしく、最近の新聞でこの池のことを知った。その時まで全く知らなかったのである。僕の周辺で聞いてみても、東京の北や東の方に住んでいる人は、ほとんど聞いたことがないようだ。存在そのものを知らないのである。東京人は他区の事情にうとい。自分の住まいから、山手線を超えて反対側の方へ行くことは、普通は全くないのである。特に東急電鉄の路線は複雑で、地元以外では判らないだろう。山手線の五反田駅から、東急池上線で6つ目に洗足池という駅がある。乗り換えすればいろいろ行き方があるが、これが一番簡単だろう。駅の出口は一つしかなくて、改札を出て歩道橋に上ると、もう向こう側に池とボート乗り場が見えてくるではないか。
  
 あまり素晴らしいので、ビックリした。こんないいところがあったのか。池では多くの人がボートに興じ、池の周りの公園では子どもたちが遊びまわっている。海舟の墓を載せる前に、洗足池そのものの写真を載せておきたい。ぐるっと周回できて、海舟の墓所を見ながら歩いて回って1時間強。真夏は暑いだろうが、春秋には東京有数の散歩コースではないか。もっと知られていい場所。洗足池そのものは、湧水池で今も水量豊富である。大田区の自然公園になっていて、桜の名所でもあるという。
   
 写真をクリックして大きくして見てくれると、素晴らしさが判るかと思う。最初の3枚は池の西側で、後の写真は東側、海舟の墓の近くである。さて、勝海舟の墓だが、まず駅を出て歩道橋を渡ってボート乗り場を見て中原街道を右の方に行く。洗足池図書館の方に左折し、少し行くと左に御松庵妙福寺というお寺がある。ここは日蓮上人が身延山から常陸に赴くときに袈裟をかけたという「袈裟掛けの松」がある。この地域は「千束」(せんぞく)という地名だが、日蓮が足を洗ったという伝説で「洗足池」と言うという説もあるらしい。日蓮像もある。では、そのお寺にちょっと寄り道。
    
 そのまま道を進むと、大森六中になっているが、そこが海舟の別邸「洗足軒」の跡地であると示す案内板がある。戊申戦争当時、西郷は近くの池上本門寺にまで来て、談判する途中で洗足池に立ち寄り気に入った。明治になって、津田仙(農学者、キリスト者として著名、津田梅子の父)の紹介で、池の周りの土地を買って別邸にしたという。当時としては、郊外の別天地である。中学の敷地を見ると、木々に覆われた起伏のある土地になっていて、うらやましいような環境である。(下の写真3枚目)
  
 そこを過ぎて少し行くと、右に行く道があり、今は使われていない建物が残っている。「鳳凰閣」という建物で、国登録有形文化財。1933年に作られた「清明文庫」があったところで、海舟の精神を生かして人材育成を行う「清明会」のあった場所。裏まで見にいくと面白い。整備される日が待ち遠しい。
   
 ようやく池の近くに戻ると、もう勝海舟の墓という案内が出てくる。非常によく整備された墓所で、後に妻も合葬されて一緒に葬られている。場所も風情もなかなかいい墓。
    
 墓に隣り合って、いくつかの碑が並んでいる。入口は別に作られているが、墓所からも行ける。そこが「西郷隆盛留魂祀」である。西南戦争後、勝が自費で立て南葛飾郡の薬妙寺にあったが、荒川放水路の掘削に伴い1913年に移転されたという。とにかく、勝海舟が賊軍であった時も西郷を顕彰して活動していたという証明である。
    
 碑がいっぱいあって何が何だか判らないが、隣に西郷の留魂詩碑というのもある。(下1枚目)また徳富蘇峰が西郷、勝の会談をたたえた詩の碑もある。(下2枚目)何だか判らないが、もう一つ字の読めない碑もあった。これで海舟散歩はオシマイ。ここまでで池の3分の1ぐらい。
  
 そこから戻ってもいいが、一周しようと思うと、弁天島を見て、墓の対岸あたりには洗足八幡神社がある。頼朝軍がこの地で野生馬をとらえ、それが宇治川先陣争いを演じた「池月」という名馬だということで、碑が作られている。行った当日は、その場でどこかのスポーツ少年団がバーベキューをやってて、うまく写真が撮れなかった。ぐるっと回ってボート乗り場に戻り、歩道橋を渡ると駅。「海舟散歩」は、下町から山の手、そして風光の地となかなか味があった。最後に写真の拾遺集。
    
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西郷・勝の会談場所は…海舟散歩②

2015年05月26日 00時30分45秒 | 東京関東散歩
 「海舟散歩」第1回は、スカイツリー直下の「下町」散歩だったけど、2回目は「都心」というか、「山の手」の方になる。勝海舟は江戸の人だが、案外海舟の史跡が少ない。海舟が一番活躍した幕末は、事実上、京・大坂が日本の首都であって、海舟も上方へ行っている時期が多い。咸臨丸でアメリカに向かったのは、浦賀(神奈川県)からだし。それに江戸で活躍しても、震災、空襲、五輪、バブルでほとんど昔のものは今の東京にない。だから、碑があるだけ。それがつまらなかったんだけど、逆に考えれば、碑で構わないなら東京には山ほどあると思うようになった。そこで碑めぐり。

 勝海舟の人生のハイライトは、西郷隆盛との会談ということになるだろう。薩長新政府軍の江戸総攻撃を前に、勝と西郷が腹蔵なく会談し、江戸城の無血開城が実現した。その結果、100万都市とも言われる江戸でぼう大な犠牲者が出ることを免れた。という一種の「神話化」がなされている。西郷はやはり大人物、海舟もよく西郷の懐に飛び込み、江戸市民と江戸の町と徳川家を救った…というわけである。そう言われているというより、勝海舟自身が盛んに自己神話化を推進していった。その談話集「氷川清話」にはそういう話がいっぱい載っている。でも西郷との友情はホンモノだろう。それ以前の第一次「長州征伐」時から付き合いがあり、西郷の死後も顕彰活動を続けた。次回に載せるが、海舟の墓のそばに西郷追悼の「留魂祀」があるぐらいである。さて、ではその会談はどこで行われたか。それは田町の薩摩藩江戸藩邸で行われたのである。
   
 その碑は山手線田町駅、というか都営地下鉄三田駅(浅草線、三田線)を出てすぐのところにある。第一田町ビルという大きなビルの真ん前にあって、地下から地上に出るとすぐのところにある。第一京浜国道に面していて、今は東京の繁華街。ここは慶應義塾大学の最寄駅で、海舟とはさまざまの因縁のあった福澤諭吉にゆかりの地として覚えている人の方が多いだろう。ここにこの会談の碑があるのも知らない人が多いのではないか。ところで、海舟は東京に都が移ったのも西郷のおかげと語っている。西郷・勝会談で、江戸が救われただけでなく、首都東京も生まれたのだと。これは過大評価というか、むしろ駄法螺に近いだろう。そもそも無血開城自体も、イギリスを初め列強の働きかけもあった。薩長政府側の「冷徹な政治判断」があってこその無血開城、首都移転(「東京奠都」=てんと)であるのはもちろんだ。彰義隊や函館戦争まで抵抗する勢力もいたけれど、まあ、江戸っ子も何となく新政府に取り込まれ、「帝都」の民として生きていった。会津やアメリカの南部では、今だに「恨み」が残り続けている。江戸を焼き払っていたなら、京・大坂の新政権が版籍奉還・廃藩置県など実現できただろうか。

 さて、明治になって勝海舟は東京・赤坂氷川町に住んだ。この「氷川町」は今はない地名で、赤坂6丁目になっている。晩年に海舟を訪ねて談話をまとめた本が「氷川清話」と題されたのは、そのためである。この本は読んだことがないので、今回読んでみた。やはり非常に面白い本だったけど、中味は結構いい加減である。まあ、自信満々のインタビューは大体そうだけど。でも初めて知ったことも多い。久能山東照宮に、家康だけでなく、信長、秀吉も祀ってあるなんてホントかという感じだが、調べたら本当なのである。それと、いくら機会があっても、外国からの援助を受けて幕府支配を続けることを考えなかったのは、やはりエライ。講談社学術文庫に入っている。また、中公クラシックスという新書大の名著集成シリーズが出ていて、それに父親の勝小吉「夢酔独言」と一緒に入っている。この「夢酔独言」について書くヒマが無くなったから、別に書くことにしたい。

 赤坂の屋敷跡地は、地下鉄千代田線赤坂駅の5aまたは5b出口を出て、真っ直ぐ。氷川公園を横に見て、ずっと坂を登ったところにある。屋敷の跡地は氷川小学校となり、廃校後は特養と中高生プラザになっている。その南東角に碑が作られている。施設内で屋敷からの出土品を展示しているが、まあ大したものはなかった。近くに「勝海舟邸跡地」という小さな別の碑(下の三番目の写真、真ん中に見える)があるが、場所を説明するのは難しいので、関心がある人は検索して探してください。
   
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