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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

佐倉歴史散歩

2017年11月27日 21時21分11秒 | 東京関東散歩
 千葉県佐倉市堀田氏11万石の城下町である。天守閣などは残されてないけど、広大な城跡は「佐倉城址公園」として整備され、千葉県で唯一「日本100名城」に選ばれている。関東で一番武家屋敷も残っていて、一度は歴史散歩に行きたいと思っていた。京成佐倉駅に着いたのはお昼近く、駅前の観光協会でレンタサイクルもあるけど、どうしようかなと思った。史跡は点在しているが、写真を撮りながらブラブラ歩くのも良い。結局は「順天堂記念館」を省いて歩いて回った。

 まずは駅前からずっと歩いて「旧堀田邸」を目指す。国指定の重要文化財で、庭園は国指定の名勝である。と言っても江戸時代から残されたものではなく、佐倉藩最後の殿様である堀田正倫(ほった・まさとも)が1890年(明治23年)に建てたものである。けっこう駅から遠くて、ちょっとウンザリしたころに「ゆうゆうの里」という福祉施設が見えてくる。「旧堀田邸」こっちと出ているから、施設の中へ入って行くけどいいのかな。と思うと、確かにそこからしか行けないのだった。
   
 写真で判るようにお庭が素晴らしい。今は紅葉も見られたけど、「さくら庭園」と呼ばれて春の桜も見事なんだという。広々とした芝生が広がり、灯篭なども置かれている。下を通るバイパスが眼下に見えるが、こんなに高台にあったのかと思う。庭園の設計は東京巣鴨の植木職、伊藤彦右衛門という人によるものだと書いてある。元は堀田家農事試験場が広がり、3倍もの広さがあった。
   
 堀田邸の方は玄関棟、座敷棟、居間棟、書斎棟、湯殿が残され、門番所、土蔵とともに重文に指定されている。元は台所棟もあったというが大部分が解体されている。庭の奥に門番所と土蔵があったみたいだが、見損なった。いろいろ細かな見どころがあるんだろうが、違いはよく判らない。

 堀田邸から武家屋敷までもけっこうある。印旛総合庁舎を通り過ぎ、坂を上ると近づいてくる。急坂が多く、これは自転車じゃ大変だったかもしれない。武家屋敷は10軒ほど残っているというけど、広壮な高級武士の館ではない。どう見ても下級武士の、映画「たそがれ清兵衛」が住んでいたような家ばかり。表から見るとそれなりだけど、裏には畑なんかが広がっている。
     
 武家屋敷は3軒が公開されていて、上の写真は旧河原家住宅(千葉県指定有形文化財)。ここで3軒分の料金を払う。この住宅が一番大きい。ここだけ中へ上れない。いったん道に出て、隣の旧田島家住宅(佐倉市指定有形文化財)へ。(写真の前2枚)ここは復元整備されたもの。どの屋敷も18世紀前半ころのものらしい。そこから旧武居家住宅(国登録有形文化財)へは裏を周って行く。この住宅は百石未満の藩士が住む規定と規模が一致しているという。
   
 佐倉の武家屋敷はこのように小さな屋敷が立ち並ぶところに面白さがある。公開されていないところも含めて、通り一帯に風情がある。後の2軒は上に上がれるということだたが、寒くなってきたし堀田邸を見たからもういいやと思ってしまった。また別に季節に行ってみたい。道の端っこに「ひよどり坂」という急坂がある。これまた昔そのままのような道。そこから市民体育館、佐倉中を経て、もう佐倉城の一部になってくる。歴博の「くらしの植物苑」という施設もあった。ここもいずれ行ってみたい。
  
 空堀が大きく、非常に広い。多くの人が散策している。紅葉も素晴らしい。本丸跡にも何も残っていないけど、歩きがいがある。二の丸跡には堀田正睦とハリスの銅像があった。下の最初の写真だけど、小さいから判りづらいかもしれない。堀田正睦は幕末に開国を進めながら、孝明天皇の勅許が得られず挫折した。後任の大老井伊直弼が日米修好通商条約を締結した。ハリスと堀田正睦というのはちょっと強引な組み合わせにも思うけど…。
   
 佐倉城は1611年から17年の間に、土井利勝によって築城された。江戸周辺の関東地方には譜代大名の重要人物、幕閣に列し老中などを務める人物が配置された。その後、諸氏が入城しているが堀田氏の時代が長い。家光時代の老中、堀田正盛とその子の綱吉時代の老中、堀田正俊、そして幕末の老中、堀田正睦(ほった・まさよし)が知られている。正盛と正睦が佐倉藩だから、ずっと続いていたのかと思ったら、正盛の子正信の時代に改易され、正俊の子孫が1746年に移って来たという。その後は幕末までずっと堀田氏が続いた。江戸時代の城下町の様子がかなり残される貴重な町だ。
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水木洋子邸から、荷風展へ-市川文学散歩

2017年11月25日 22時12分46秒 | 東京関東散歩
 久方ぶりに晴れていて気持ちのいい週末。市川市文学ミュージアムで永井荷風に関する展示をやっていて、荷風が生涯の最後に見た映画「パリの恋人」の上映もある。それに合わせて行きたかった水木洋子邸に行こうかなと思った。水木洋子(1910~2003)は50年代、60年代の素晴らしい日本映画の脚本家だった人である。長命をまっとうした後、邸宅や遺品は千葉県市川市に寄贈され、第2、第4の土曜と続く日曜に公開されている。公開日が少ないからなかなか行けなかった。
   
 水木洋子とは、いくつかの縁がある。僕は80年代に6年ほど市川の真間に住んでいた。水木邸のある京成八幡の隣駅である。また、水木洋子は東京府立第一高女の卒業で、僕はその後身の都立白鴎高校だから半世紀近い後輩ということにもなる。もっともそういうことは割と最近知ったことで、水木さんの生前は全然知らなかった。水木邸には、京成八幡駅が一番近い。駅を出て線路を渡って、北側の葛飾八幡宮を見ながら線路沿いの道を少し行くと、左へ進めという案内が出てくる。僕は今回と逆の行き方を数年前にたどって、道に迷って大変な目にあってしまった。
   
 初めの2枚の写真は、行くまでの道々。市川市は江戸川を隔てて東京の隣で、昔は真間、八幡あたりはけっこうな高級住宅地になっていた。今は代替わりでマンションやアパートが多くなっているが、今も道が細くて行き止まりが多い。ところどころにある案内に沿って徒歩10分ぐらい経つと、水木邸の看板が出てくる。昔よくあった一階建ての建物で、「水木邸」というより「水木宅」という感じ。50年代の暮らしがそのまま残されたような家である。入場無料。
   
 中へ入ると昔のまま保存されている。奥に執筆の場だった書斎がある。(上の一番最初の写真)和服をまとったマネキンは水木さんのものだから小さい。聞いてみると、身長150センチぐらいだったけど、威厳があったという。家には数多くの映画賞のトロフィーなども残されている。4枚目の写真は右側の一見タンスのようなものが、実は戦後すぐに特注されたレコードプレーヤーとラジオ。扉を開けると現れて、下がスピーカー。そういうものに囲まれ、ここでずっと母と住んでいた。

 面白いのが酒豪番付。ここで載せたのは映画人番付で、文壇番付もあった。横綱が内田吐夢と今井正。大関が三船敏郎と城戸四郎。この番付の東前頭9枚目に水木洋子がある。ちなみに、西の前頭9枚目が田中澄江になっている。女性のトップは小結に嵯峨美智子、久慈あさみがいて、他に女性としては高峰三枝子、越路吹雪、三宅邦子、水戸光子などが載っている。勝新太郎や石原裕次郎が低いのは、まだスターとして若かった時代の番付だからだろう。そうそうたる監督や俳優に交じって、脚本家が載っていることがすごい。そのぐらい知名度もあったということだ。

 水木洋子は文化学院を出たあと、左翼系の演劇活動をして舞台にもたっていた。しかし、24歳の時に父が亡くなり、それを機に舞台劇やラジオドラマの脚本を書くようになった。戦後に映画も手掛けるようになり、巨匠の脚本をたくさん書いた。特に今井正の「また逢う日まで」「ひめゆりの塔」「ここに泉あり」「純愛物語」「キクとイサム」など、成瀬巳喜男の「おかあさん」「兄いもうと」「山の音」「浮雲」など、この二人の監督の50年代の傑作はほとんど担当している。山下清を描く「裸の大将」(堀川弘通監督)も書いているが、山下清がいた八幡学園は水木邸からも近いところにあった(今は移転)。
  
 庭に出ると、外から見ていた時より広い感じ。芝生が広がり、そんな大きな家ではないけれど、気持ちがいい。そこから南の方にひたすら歩き、京成線、京葉道路、JRと越えていくと、日本毛織の工場跡に作られたショッピングモール「ニッケコルトンプラザ」が見えてくる。そのすぐそばに市川市文学ミュージアムがある生涯学習センターに着く。ここで「永井荷風展―荷風の見つめた女性たち―」をやっている。(2018年2月18日まで。)「パリの恋人」は案外空いていて、上映素材はよくないけど、まあヘップバーンを楽しめた。これはパリと付くけど、ハリウッドのミュージカル。
  
 荷風の愛した女たちと言われても、そのほとんどはいわゆる「くろうと」女性である。だから嫌いだという人もいると思うけど、荷風は家制度に収まる人ではなく、二度結婚したけど生涯はほぼ独身だった。自由に恋愛ができる時代ではなく、家制度に縛られたくない場合、男にはそういう場があったわけだ。ロマンティックな資質と、冷徹なまなざしを両方ともに満足させる道は荷風にとってそれしかなかったんだろう。二度目の妻、芸者の八重次は結局荷風の浮気に怒って離婚するが、後に藤陰静樹を名乗って日本舞踊の藤陰流の創始者となり、文化功労者に選ばれた。ところで今回ビックリしたのが、京成八幡駅前にあった「大黒屋」が廃業していたこと。晩年の荷風が毎日通い、同じものを食べた。そのカツどん、お新香、お銚子一本が「荷風セット」として有名だった。7月に廃業した由。
   
 文学ミュージアムから京成八幡駅まで結構あるが、のんびり歩いていくと、京葉道路沿いに「不知森神社」(しらずもりじんじゃ)がある。古来よりこの森が入ってはならない場所とされ、「八幡の藪知らず」という今も時々使われる慣用句(入ったら出られない藪や迷路)の語源となった。でも今はほんのちょっとしかない竹林で、迷いようもないぐらい。それでも近くの歩道橋の上から撮ると、こんもりとした様子がうかがえる。最後の写真は、その近くにある文房具屋「ウエダビジネス」。水木洋子や写真家の星野道夫の文房具を扱っていた店なんだと散歩マップに出ていた。
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慶応大学三田キャンパス散歩

2017年11月15日 23時49分23秒 | 東京関東散歩
 東大や早稲田、立教といくつかの大学を散歩して写真を載せてきた。となると、やっぱり慶応義塾大学も行かなくちゃいけない。それは判っていたんだけど、一番大事なところを外見だけ見るのでは心残りである。重要文化財である旧慶應義塾大学図書館は改修工事中だから近づけないけど、三田キャンパスにあるもう一つの重要文化財、三田演説館は時々公開されるのである。春秋に行われる三田演説会もあるけれど、今回は「建築プロムナード」と題して特別公開が行われている。今回は11月15日と18日に公開されるので、出かけてみた。
   
 三田キャンパスを正門から入って、左側の一段高くなったところに、それは立っている。日本で初めて、福沢諭吉によって作られた「演説会場」である。そもそも「Speech」を「演説」と訳したのが福沢諭吉である。そして1875年に演説館が作られた。公開で多くの公衆に語りかけるということ自体が、それまではなかった。日本初の公会堂という大事な存在である。中は洋風だけど、外見はなまこ壁というちょっと不思議な建物。中はホントは写してはいけないのかもしれない。
   
 昔は図書館前にあった福沢諭吉像が演説館前にある。演説館の周りは樹木に囲まれていて、どうも全容が撮りにくい。でもまあ、入り口あたりだけでも風情がある。中に入ると、木製の椅子が並んでいる。これはもちろん今のものだが。2階にギャラリーがあるが、今は上れない。この演説館の重要なところは、今も現役で使われるところで、中へ入ると明治をちょっと感じるような…。でも普段は外見だけしか見られないから、気を付けて公開を逃さないようにしないと見られない。
  
 もう一つの重要文化財である「旧図書館」は上のような感じ。今は周りがフェンスで覆われているけど、あまりにも壮大なゴチック様式に遠くからでも厳粛な気持ちが湧いてくる。1912年曽禰中條建築事務所によって設計された。コンドルに学んだ一期生の曽禰達蔵が1908年に後輩の中條精一郎(中條百合子=宮本百合子の父)と作った建築事務所で、多くのオフィス建築などを残した。第一校舎塾監局の建物も曽禰中條事務所である。(地図が各所で配布されている。)
   (第一校舎)
 今回特別に公開されているのが、「旧ノグチルーム」。どこにあるんだろうという感じで探してしまったが、演説館を出てすぐの「南館」4階を外に出たところにある。一番高いところで見晴らしがいい。もともとは違う場所にあった、1951年にイサム・ノグチが設計したもの。2005年に移築されたけれど、普段は公開されていない。南館1階とノグチルームの外には彼の彫刻も置かれている。中は布のスクリーンがいくつもかけられていて不思議なムードになっていた。写真禁止。
  
 三田キャンパスにはかなり彫刻が置かれている。歩いていてもそんなに意識しないんだけど、マップに書いてあるので多いなと思う。下の最初は朝倉文夫が1952年に作った「平和来」という彫刻。旧図書館の裏の方の「福澤公園」にある。そこには戦没者学生の碑もあった。
 
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金沢文庫と称名寺

2017年06月19日 21時39分27秒 | 東京関東散歩
 18日になるけど、神奈川県横浜市にある金沢文庫に行ってきた。梅雨時は日が長いから案外散歩日和だけど、この日は夕方から雨の予報が出ていた。まあ3時過ぎころまで持てばいいかと出かけたら、1時過ぎには降り始めてしまった。海の方まで歩いて野島公園まで行こうと思っていたけど、けっこう大雨なので帰ることにした。まあまたいずれ歩きたいと思う。

 金沢文庫というのは、中世武士の作った図書館だけど、その後も残り続けて貴重な文書が残った。今は神奈川県立の歴史博物館になっている。名前はもちろん昔から知っているけど、今は県立博物館になってるということは数年前まで知らなかった。残り続けた「金沢文庫文書」が2016年に一括して国宝に指定され、その記念の展示を18日までやっていたので見に行ったわけ。

 金沢文庫を作ったのは、北条実時(ほうじょう・さねとき 1224~1276)という人。北条義時の孫で、第5代執権の時頼、元寇時の第8代執権時宗などの側近として鎌倉幕府を支えた。金沢流北条氏と言われ、文化人として知られる。かつては野卑と思われた東国武士の中にも、教養を身に付ける人々が出てきたわけである。この文庫が北条氏滅亡以後もずっと続いたのは、実時が開基の称名寺があったからである。ここの境内にある浄土庭園は素晴らしく、国の史跡になっている。

 京浜急行の金沢文庫駅も初めてで(その次の金沢八景駅も行ったことがない)、京急の「快特」に乗ると案外近いのに驚いた。歩いて10分ちょっとで称名寺に出る。金沢文庫への近道もあったけど、まあお寺を見てから。池を中心にした庭園が素晴らしく、関東ではあまりないなあと思う。雨が降り始めていたので、それもいい情景なんだけど、だんだん激しくなった。
   
 その前に撮った門の写真。そこもなかなかいい感じ。
  
 金沢文庫は、昔は境内にあったらしい。1897年に伊藤博文らの力で再建されたものが、関東大震災で焼失。1930年に神奈川県立図書館、その後博物館になり、1990年に新築された。境内の隣にあって、トンネルで山を越えていく。トンネルの彼方に博物館が見えてくるのも面白い。
  
 そこでやってた展示を見ても、はっきり言って昔の仏典を見ても価値は判らない。古文書も読めない。実時をはじめとする金沢北条氏の肖像なんかの絵しか判らない感じなんだけど、まあほとんどが国宝という展示だった。ずいぶん貴重なものが、ここにしか残っていなかったという話。道元の漢文の「正法眼蔵」とか。日蓮の若いころの文書とか。世界にもここにしか残らなかったものがある。トンネルの近くに、中世から残る隧道が残っていた。
  
 さて、お寺に戻るが雨は止まない。鐘楼に猫がずっといるけど、僕はもういいやと思い、門から道路に出ると駅までのバスがちょうど来たので乗ってしまった。まあ海まで行くのは無理だなということで、快特に乗って都営地下鉄宝町で降りてフィルムセンターでフィンランド映画「オリ・マキの人生で一番幸せな日」というのを見た。これはなかなか面白かった。上映前にフィンランド大使館が作った公式ツイッターアカウントのマスコット「フィンたん」のアニメ動画をやった。これもなかなか面白い。
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堀切菖蒲園を見る

2017年06月15日 21時28分35秒 | 東京関東散歩
 梅雨の晴れ間の暑い日に、堀切菖蒲園に行ってみた。家からそんなに遠くないけど、実は初めて。京成線の堀切菖蒲園駅から歩いて10分ほど。ここも初めて降りた駅だけど、今よく言われる「下町」的なムードの街だった。「堀切菖蒲園」というのは、今では周辺一帯の地名みたいになっている。

 方向がよく判らないけど、案内がいっぱいあるので誰でも迷わず行けると思う。18日まで菖蒲まつりをやっている。案外小さな場所で、すぐに一周できてしまう。周囲を高速道路やマンションに囲まれて、もう街のど真ん中という感じだ。ちょうど今真っ盛りで、さまざまな色合いの菖蒲が咲き誇っていた。
   
 堀切菖蒲園は江戸時代から有名だったという。江戸名所とされ、広重の浮世絵にも出ている。この一帯は綾瀬川の東の低湿地で、菖蒲に向いていたんだろう。明治時代にはいくつもの菖蒲園が作られ有名になった。でも戦時下に次々と閉園していき、残った「堀切園」を1959年に東京都が買い取って都立公園となった。1975年に地元の葛飾区に移管され、今は無料で公開されている。
   
 上の最後の写真は、昨年株分けした菖蒲がある場所で、やっぱりそういうところではあまり花がない。菖蒲にも様々な品種がいっぱいあると判ったけど、今日は暑いしちゃんと見る気にはならない。それにしても、バラのように多くの品種があるんだなと思った次第。

 菖蒲園から歩いて5分ほど、高速道路下を通り、綾瀬川と荒川の狭間に「堀切水辺公園」がある。大雨じゃない日はこっちにも足を伸ば酢と言い。川を見て心も解放されるし、なんといってもスカイツリーが見られる。今は菖蒲の向こうにスカイツリーという構図を撮れる。高速道路を背景にするのも面白い。雲はもう夏の風情。菖蒲の数はそんなに多くはないけど、こっちもいい。
  
 ところで、ある明治時代を舞台にした小説に、「荒川の東にある堀切菖蒲園」とあったんだけど、これは今の人の勘違いである。東京東部に育ったある年代以上の人なら、「荒川放水路」という言葉を覚えていると思う。今の荒川は大正から明治にかけて人工的に掘られた川である。綾瀬川というのは、埼玉県桶川市から流れる川で、この前見た草加松原に流れていたのも綾瀬川。放水路以前は隅田川に流れ込んでいたというが、今は中川に合流するという。
 (高速道路下の綾瀬川)
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渡良瀬遊水地サイクリング

2017年05月04日 21時42分24秒 | 東京関東散歩
 5月2日に渡良瀬遊水地(わたらせゆうすいち)に行ってきた。もちろん足尾鉱毒事件によって、明治国家から強制的に廃村にされた栃木県の旧谷中村跡地である。学生のころ行ってるけど、その頃は整備されてなかった。キレイに整備されたということは聞いていたけど、そういう「観光地」に違和感もあって、行かないでいた。でもまあ、一度は見に行かないとなあと思っていた。何もさえぎるものがない場所だから、夏と冬は行きたくない。五月はベストシーズンである。

 中に車は入れられないし、歩くにはちょっと広いので、自転車を借りるのがいいと思う。周辺に何か所が貸してくれる場所があるけど、「道の駅きたかわべ」がいい。食堂や物産館もあるから便利だ。電車の場合は、東武日光線柳生駅から徒歩5分程度。自分の家からは下り電車でつながっているけど、一本では行かない。地下鉄半蔵門線の終点、南栗橋から4つ目の駅である。

 そこは何もない小さな駅だった。「道の駅」の場所も判らないけど、とにかく線路を渡らないとと思い、線路際を歩いて踏切を超える。歩いていると、ちょっと高いところにある「道の駅」が見えてくる。鉱毒事件の本を読んでるとよく出てくる「埼玉県北川辺村」も、今は加須(かぞ)市になっている。「道の駅」の屋上が展望スペースになっている。日光の山々や筑波山がよく見える。そこで4時間400円(一日600円)でレンタサイクルしている。大きさや種類もいっぱいあった。(月休み)
   
 近くに最近ちょっと話題の「三県境」があるけど、その話は一番最後に。「道の駅」の前の道は車が多いけど、遊水地は目の前である。2012年にラムサール条約に登録された湿地であり、釣りやバードウォッチング、サイクリングの人がいっぱいいた。晴れてて、でもまだ空気は涼しいから、気持ちいい。停めて写真を撮る気にならない。遊水地は「谷中湖」と呼ばれていて、三つのゾーンに分かれている。真ん中に「中の島」があり、その間は舗装された道でつながっている。
  
 とりあえず、北にある「谷中村史跡保存ゾーン」に向かう。そこは人が少ない。晴れ渡った気持ちいい日だから、どうも昔の歴史をしのぶというムードにならない。上の真ん中の写真は谷中村役場跡である。谷中村には、すべて「跡」があるだけで、昔のものはお墓以外に残っていない。谷中村の廃村は1906年。強制取り壊しは1907年のことだった。それでも残っていた最後の村民は、1917年に離れたということだから、ちょうど100年前のできごとである。
   
 上の最初は「雷電神社跡」で、3枚目が墓地である。お墓がいっぱい並んでいる。そこに村の厳しい歴史をしのぶこともできる。だけど、もう時間も経ってしまい、夏草ばかりが生い茂る。歴史に思いをはせるのは、かなり大変である。ここには廃村を納得せず、田中正造も含めて村民有志が最後まで抵抗を続けた場所である。明治政府は鉱毒問題を、谷中村一村を犠牲にすることで「解決」しようと計画した。沖縄を初め、その後の様々な問題につながる構造をそこに見て取ることができる。

 谷中村村民の墓は今は移されている。それはまとまって、遊水地の外にある。藤岡駅や板倉東洋大前駅に近い北エントランス近くにある「旧谷中村合同慰霊碑」である。谷中村にあった多くの碑なども集められている。こういうところがあったとは知らなかった。旧谷中村に散財した無縁墓を集めたもので、1971年に建設省が作ったという。なんとなくハンセン病療養所の合同納骨堂を思い出してしまった。「国策の犠牲」という点で同じだからだろうか。
  
 「谷中湖」の外側には、広大な調節池が三つも残されている。そこらまで見ていると、とても時間が足りない。暑くなってきて疲れてきたから、藤岡周辺を見て帰る。帰り道は自転車を停めて写真を撮る気にもならない。さっと帰ってきた。ところで「道の駅」近くの「三県境」。渡良瀬川改修工事で川の中にあった県境が陸地になった。埼玉県加須市、栃木県栃木市、群馬県板倉町の境目である。「歩いて三歩で回れる」ということで、最近ちょっと話題なんだけど、これは「ガッカリ名所」に近いかな。下の2枚目写真の右の方に見えているのが、「道の駅きたかわべ」である。
 
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旧川喜多邸別邸と鎌倉映画の話-鎌倉散歩②

2017年04月09日 21時13分44秒 | 東京関東散歩
 戦前に東和商事を作ってヨーロッパ映画の名作を日本で公開した川喜多長政、かしこ夫妻の邸宅が「鎌倉市川喜多映画記念館」になっている。2010年の開館で、映画の上映もやっているけど、まだ行ったことがなかった。(鎌倉へ行く交通費だけで東京で映画が2本見られるから、わざわざ行く気にならない。)ところで、記念館の隣に別邸があり、そこは春秋の特別公開しか見られないというから、一度行ってみたいなと思っていた。場所は鶴岡八幡宮の近く、小町通りをずっと行って左折したあたり。
   
 これは何だというと「旧和辻邸」である。その前は神奈川県の大山付近にあった江戸時代後期古民家だった。それを和辻哲郎が練馬区で居宅として使用していたという。それをさらに川喜多夫妻が移築したもので、今は鎌倉市の所有になっている。世界から映画人が訪れるたび、ここでもてなしたという。記念館の隣だけど、高台になっている場所にあり、小雨で地面が滑りやすい。背後に山があり、落ち着いた景観になっている。ガラス戸が開けられ、ここで撮られた写真が掲示されている。ヴィム・ヴェンダースが小津について撮った「東京画」という映画はここで撮影されたという。
   
 和辻哲郎はほとんど読んでないんだけど、長男の夏彦氏が父の同級生だった。旧制武蔵中学の時で、単に同級生というだけでなく、テニス部で親友だったらしい。よく和辻さんという名前を小さいころから聞いていたんだけど、50代くらいでなくなってしまった。この家にかつて住んでいたこともあるんだろうか。また父の知人で、僕の仲人をしてくれた人が、鶴岡八幡宮の近くで駐車場を持っていた。若いころにお正月に訪ねたことがあるけど、初詣が一番の繁忙期で忙しそうだった。
 
 その後、記念館を見た。いまちょうど「鎌倉映画地図」という特集をやっている。「海街diary」で使われた着物なんかも展示されていた。ところで川喜多夫妻は日本の映画界に非常に大きな足跡を残した人である。いまも映画界に貢献した人に贈る川喜多賞が贈られている。長政は戦時中に中国で「中華電影」を設立し、かしこは高野悦子とともに「エキプ・ド・シネマ」を結成して岩波ホールでの上映運動を始めた。だけど、僕はやはり重要なのは戦前のヨーロッパ映画公開だと思う。
 
 「巴里祭」「会議は踊る」「望郷」「女だけの都」「民族の祭典」…。今の若い人は名前も知らないかもしれないけど、僕の親の世代はこれらの映画で外国を知った。だから小さいころから名前をよく聞かされて育った。そして、それらの映画は僕も若いころにたくさん見ることができた。それは東和が上映した映画のフィルムは、すべてフィルムセンターに寄贈されていたからである。戦前のヨーロッパ映画の特集上映は昔のフィルムセンターでよく行われていた。フィルムが収蔵されているからである。

 ところで、鎌倉を舞台にした映画は数多い。僕が最近見たものでは、田中絹代が鎌倉彫の店で女主人をしている「黄色いからす」(五所平之助監督)がある。戦後の鎌倉駅周辺が映し出されていた。また澤井信一郎監督「早春物語」では原田知世が鎌倉の海辺の高校に通っている。(映画内では学校名は出てこない。)鎌倉のお寺もずいぶん出てくる。ずいぶんいろんな映画あるもんだ。

 それでも最近の「海街diary」を除くと、やっぱり鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」が僕には印象深い。また見たいなあと思うが、中で出てくる「釈迦堂切通し」は見たら忘れられない印象を残す。一度実際に見てみたいと思いつつ、調べると「今は通行止め」と出ている。でも場所を調べてみると、「旧華頂宮邸」や「報国寺」の近くなのである。バス通りからちょっと離れると、もう深山めいたムードが漂い、ウグイスが鳴いている。それが鎌倉である。具体的には詳述しないけど…こんな感じ。
 
 切通しなんだから、向こう側を探してみると、もっと近くて一応見える。ここは金沢街道と名越のあたりを結ぶ山道だった。非常に印象的なんだけど、まあ「通行止め」ということである。不思議なムードの映画に取りつかれた人でもなければ、あえて見てみる必要もないと思うけど、どこにあるかと思うと、案外市街地のすぐ近くにあるということが鎌倉の面白さである。鎌倉で見てないところは多くて、実は大仏も見たことがない。元気なうちに少し回ってみるかなあと思った鎌倉散歩だった。
 
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旧華頂宮邸と報国寺-鎌倉散歩①

2017年04月08日 23時05分22秒 | 東京関東散歩
 晴れていたら絶好のお花見日和の週末だけど、あいにく関東は土日とも雨もようの予想である。あんまり散歩に向かないんだけど、鎌倉へ行ってきた。というのも、「旧華頂宮邸」と「旧川喜多邸別邸」が特別公開されるからだ。毎年春秋に二日ほど公開されるので、まあ秋に行ってもいいわけだけど、行く気になった時に行かないと機を逸するものだから行くことにした。

 鎌倉駅から金沢八景駅行バスに乗って、浄妙寺前で降りる。道を渡って報国寺方向へ歩いて数分で、「旧華頂宮邸」がある。歩いても35分ぐらいとあるけど、道が判ってないからバスで行った。月火を除き庭園だけは公開されているようだけど、家の内部は特別公開だけ。最初に中を見て、それから庭へ下りるんだけど、全景は庭から見た方が判りやすい。最初に庭からの写真を。
  
 ところで、「華頂宮」(かちょうのみや)なんて言っても、誰だそれ、課長の宮さんかという感じだろう。そんな皇族がいたのか。現代史にも全然出てこない。それも道理で、大体「旧華頂宮邸」という呼び方は、ちょっと正しくない。もちろん「華頂宮」という皇族はあったわけだけど、ほとんど活動がなかった。1868年に伏見宮邦家親王の12子、博経親王が創設したのが初代。この人は1870年に米国へ留学し、海軍軍人となった。1873年に帰国したが、1876年に26歳で亡くなった。博経親王の子は臣籍降下するはずが、幼い身を惜しんで明治天皇の特旨をもって存続できた。だけど、2代博厚親王は1873年に8歳で亡くなってしまった。悲運の皇族なのである。
   
 そこで元の伏見宮家から当主貞愛親王の第一子(だけど、庶子)の博恭親王が華頂宮家を継いだ。しかし、伏見宮家の嫡子が病弱だったため、1904年に博恭親王は伏見宮家に戻った。この伏見宮博恭親王が、1932年に海軍軍令部長になった人。昭和史に関心のある人には知られた名前である。(陸軍が閑院宮を参謀総長にしたので、海軍も対抗したわけである。もちろん皇族はお飾りで、実務上のトップは次長が務めていた。)博恭親王が伏見宮家に戻った後、その第2子博忠王が2歳で華頂宮家を継いで、長じて海軍軍人になったが、1924年に22歳で亡くなってしまった。
  
 華頂宮第4代博忠王は妻子がなかったので、これで終わり。華頂宮家の祭祀は、博忠王の弟(博恭王の3男)伏見宮博信王が継ぐことになり、臣籍降下して華頂侯爵家を起こした。この邸宅が作られたのは、1929年。だからここは正確に言えば「旧華頂侯爵邸」である。一度も宮邸だったことはないはずだけど、まあそれは細かい話。華頂侯爵家が住んだのは数年で、持ち主はたびたび変わったという。現在は鎌倉市所有で、国登録有形文化財となっている。
   
 華頂宮家の由来を詳しく書いてしまった。まあ知らないことは多いんだなあということである。インターネットで調べられてしまうから書いたけど、近代史の片隅で起こったことだ。洋館を見る楽しみとしては、かなり小ぶりなもので、東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)や旧前田侯爵邸に比べるとそれほど大きくない。当主の地位が違うということなんだろう。中の写真を上に載せたが、まあどこの洋館でも似ている。様式の説明は自分でも判らないから省略。庭から表門側に回って表の写真を撮って帰る。

 旧華頂宮邸のすぐそばに「報国寺」がある。1334年創建と伝えられる臨済宗の禅寺である。鎌倉のお寺は行ってないところが多く、ここも今回初めて知った。「竹の庭」が有名だという。鎌倉のガイド本には必ず出ている。見るには200円の拝観料がいるけど、これは壮観だった。竹ばかりのド迫力に心奪われて何枚も写真を撮ってしまったけど、後で見ると皆同じようなものばかり。
   
 まあ4枚に留めておくけど、これは何枚載せても見た感じは伝わらない。道には人がいるし、大体立ち止まって写真を撮っている。竹だけ撮っても同じような感じなんだけど、竹が高いし密集しているから迫力が凄い。そのさまを何と表現するべきか。歩いて行くとぐるっと回って、石庭がある。向こうには崖が見えている。そこを周ってお寺に戻ると桜が満開である。その後、釈迦堂切通しや川喜多邸別邸へ行ったけど、その話は映画の話になるので別に書くことにしたい。
   
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紀尾井坂散歩

2017年04月06日 21時40分35秒 | 東京関東散歩
 冬が終わり桜が咲き始めると、ようやく街を散歩しようかという気持ちになってくる。ところが今年は3月後半がずっと寒くて桜がなかなか咲かない。東京の開花日だけは早かったけど、あれは靖国神社にあるとかいう標本木が早すぎるのである。どこも3月にはほとんど咲いてなくて、4月になって少し咲き始めてきた。4日、5日と暖かくようやく満開と言える感じになった。そこで四谷から紀尾井坂を歩いてみることにした。そういうところがあることは知っているけど、行ったことはなかった。
   
 JR四谷駅から上智大学方面に出る。今回は大学は見ていないけど、そこから外堀に沿った土手道になっていて、桜が咲き誇っている。上智大学生かと思われる学生グループがシートに座っているけど、案外人は少なくて歩きやすい。つい気が付かずに通り過ぎてしまいそうになるけど、右側を見ると土手下のJR線路の向こうに迎賓館が見えている。威容というか、異様な感じもするけど。
  (右写真はアップ)
 土手上の散歩道は案外短くて、下りたところが紀尾井坂のてっぺん。行く手にホテル・ニューオータニの大きな姿が見え、左手には紀尾井ホールがある。1995年に開設したクラシック・邦楽の専門ホールで、まだ一度も行ったことがない場所である。ホテル・ニューオータニの方も同じく一度も行ったことがない。東京にいて東京には泊まらないけど、これほど大きなホテルで結婚式をやったりした親戚もいない。紀尾井坂はほぼ半面がホテルの敷地に面している。けっこうちゃんとした坂道で、これほど急なまま残っているところも珍しい。東京の坂道は市電敷設で均されたところが多いけど。
  
 上の3枚目がホテル・ニューオータニだが、東京五輪をめざして建設され、1964年9月1日に開業したという。日本の高層建築の走りと言える歴史的建築物。今はこの後ろに建て増しされ非常に大きな建物になっている。道から歩道を歩いていくと、日本庭園がある。そこにも高そうな風情のある料理屋がある。また旧幕時代から続くカヤやイヌマキの木があって、千代田区の天然記念物に指定されている。そこらも面白いんだけど、今は省略して「紀尾井坂」の由来を。
   
 「紀尾井坂」というのは、江戸時代にここに「紀州藩」「尾張藩」「彦根藩(井伊家)」の屋敷があったことから付いた名前である。上の写真は、名前の由来順に記念碑を並べたもの。紀伊和歌山藩徳川家屋敷の碑は、坂を下りきった「東京ガーデンテラス紀尾井町」(旧赤坂プリンスホテル)の弁慶橋際に立っている。尾張名古屋藩徳川家屋敷の碑は、紀尾井ホールの隣にある。上智大学は尾張家屋敷跡に建てられた。そして、近江彦根藩井伊家屋敷は、ホテル・ニューオータニになってる場所で、道から少し入ったホテル歩道わきに碑がある。尾・井の碑は近いが、紀州碑が離れている。

 この紀尾井坂で日本史を変えた事件が起きている。「紀尾井坂の変」と呼ばれる。1878年(明治11年)5月14日、ここで大久保利通が襲われ絶命した。大久保の地位は「内務卿」だったけど、事実上明治新政府のトップと言っていい。前年の西南戦争で、薩摩藩で並び称された西郷隆盛はすでにない。長州藩の木戸孝允も前年に世を去っていた。大久保の横死で、ここに「維新の三傑」はすべて去った。
   
 紀尾井坂を下りて赤坂見附の方に曲がると、清水谷公園がある。そこに大久保利通の碑がある。「贈右大臣大久保公哀悼碑」とある巨大な碑で、1888年に建てられたもの。ちょっと虚を突かれるほど大きな碑で、さすがに歴史上の偉人だなと思うけど、ちょっと大きすぎる感じもした。この「清水谷公園」という場所は、昔よく新左翼系のデモの出発点になっていたから名前を聞くことが多かった。だいぶ公園の様子も変わっているそうで、今では集まる空間がない感じ。清水谷の説明碑があり、また公園入口に満開の桜の木があった。お昼時だったので、お弁当を食べている人がいっぱい。

 さて坂を下り切ると、昔はそこに赤坂プリンスホテルがあったということだけど、それも僕は知らない。2011年3月いっぱいで営業を停止し、たまたま同時期に起こった原発事故避難者の一時受け入れに使われたことは記憶に新しい。今は取り壊されて、紀尾井町ガーデンテラスになっている。そこに以前からあり、今も残されているのが、「赤坂プリンス クラシックハウス」。ビルを登っていくと一番上にある。これは東京の建物に関心がある人には有名な「旧李王家邸」である。
   
 それが上の写真の瀟洒な建物である。今もレストランやバーなどが営業している。「李王家邸」とは、つまり大韓帝国最後の皇太子、李垠の邸宅として1930年に建てられた。様式はチューダー・ゴシックで、細部にスパニッシュ・スタイルも見られる。と言ってもよく判らないけど、いろいろ見ていると「スパニッシュ」は何となくわかる気がする。当時李王家は皇族に準じる扱いを受けていたから宮内庁内匠寮が建てたものである。戦後、李王家もなくなり、西武が入手し赤坂プリンスホテルとなった。非常に見ごたえがある洋館で、複雑な歴史的経緯も含めて、東京を代表する洋館の一つだろう。(なぜか大きな白いトナカイの像があるのが不思議だけど。一番最初の写真をよく見ると写っている。)
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日本民芸館と駒場散歩

2017年03月16日 21時42分08秒 | 東京関東散歩
 昨日(15日)は相当に寒い日だったけど、シネマヴェーラ渋谷で昔の映画を見た後に、駒場まで散歩して日本民芸館を見に行った。東京のこっちの方はあまり知らないんだけど、地図を見ると歩けそうだ。東急文化村の前の道をひたすら行けば、東大駒場キャンパス。もう少し頑張れば、日本民芸館である。第2、第3の水曜、土曜には、西館(旧柳邸)が公開されている。そっちは見てないので、一度行ってみたかった。電車で行けば、井の頭線で渋谷から2駅が「駒場東大前」。歩ける範囲だった。
   
 昨年12月に柳宗悦を描く芝居を見て、柳宗悦に関しても記事を書いた。「柳宗悦をどう考えるか」である。それ以来、日本民芸館を再訪したいと思っていた。周辺は駒場公園や東大キャンパスで、これも前に見た「旧前田家本邸」(重要文化財、2018年9月まで工事のため休館中)もある。また近代日本文学館もある。なかなかいい道で見どころが多い。民芸館は気持ちのいい場所なんだけど、西館ともども写真不可なので、外観しか載せられないのが残念である。

 日本民芸館は、柳宗悦が収集した民芸品などを展示するために、1936年に開館した。その時に作られた部分(旧館)と石塀は、国の登録文化財に指定されている。柳自身が中心になって設計したものと言う。普通の美術館と違って、大きな部屋に展示物が広々と置かれている感じである。展示物の解説も少なくなっているが、それは見た人が自分の目でみてもらうためだという。だけど、外国人客も多いのに、日本語で簡単にあるだけなのは今ではちょっと問題ではないか。

 昔から何度か来ているけど、来るたびに「安らぎ」と「違和感」を覚える場所である。柳の思想・趣味を生かした「気持ちよさ」があるけど、同時に民芸につきまとう「これはどう評価すればいいんだろう」的な違和感もある。展示されているものの価値が測りにくいのである。僕には「いいとされているから、きっといいんだろう」ぐらいのものが多い気がしてしまうのである。
    
 中は撮れないけど、庭には小さな置物(道祖神みたいな)がいくつか置いてある。それも面白い。向かい側の西館(上の最初の写真、旧柳邸)も外観だけ。中へ入ると、公開部分は狭いけど2階にも上がれる。柳の書斎にも入れて、そこの本棚も興味深い。武者小路や有島武郎の全集、仏教関係の本、古事類苑がズラッと並んでいる。まあ、それほど珍しい作りではないから、柳宗悦に関心がない人が無理に見に来る必要もないだろうと思う。

 その前に、駒場キャンパスを通ると、ここはもとの「一高」である。その頃からの建物がかなり残っている。特に有名なのが、時計台のある「教養学部1号館」。1933年完成の旧一高本館である。他にも駒場博物館など、いろいろ見どころがある。時間の関係もあるけど、昨日は寒かったので、また別の機会にしようということにした。「一高ありき」という碑もあった。
 
 民芸館から歩いて駒場通りに出て、駅と逆に少し行くと「駒場Ⅱキャンパス」。ここにも昔の建物があり、入口真ん前の時計台がある「先端科学技術研究センター13号館」がよく見える。他にもあるようだけど、まあまたの機会ということで。
  
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草加松原散歩

2017年03月05日 21時23分14秒 | 東京関東散歩
 獨協大学の講演会に行く前に、草加松原を散歩した。家から近いので一度は行きたいと思っていたけど、実は初めてである。そもそも僕の若いころは、あまり知られていなかった。すぐそばを自動車がひんぱんに通っているのに驚いた。一時は松も50本程度に減ってしまったが、その後「松並木を守る会」が作られ保護活動が行われ、今は520本ほどに回復してきたという。

 2014年3月に、「おくのほそ道の風景地」として、国の名勝に指定された。指定が複数の県にまたがる特別な名勝で、他に那須の殺生石や遊行柳、平泉の高館、象潟や親しらずなど25か所が指定されている。芭蕉を知らない人はいない。「おくのほそ道」出立地の千住は、今では当時の面影を残す景勝は残されていない。だから「草加松原」はとても貴重だ。駅からも案外近く、これほど立派なものが東京のすぐ隣に残されていたのか。多くの人にぜひ一度訪れて欲しいところ。
   
 まず松並木が一番続いているあたりの写真を。ここへ行くには、東武線の草加駅から10分程度、松原団地駅(4月から獨協大学前駅)から5分程度。芭蕉像などがある札場河岸(ふだばかし)公園から矢立橋百代橋にかけて歩くのがいいかなと思う。草加(そうか)市は、東京都足立区の北にあり、関東では「草加せんべい」で有名なところ。町を歩いていると、せんべい屋がいっぱい並んでいる。それは後回しにして、東口から歩き出す。歴史民俗資料館(旧草加小西校舎)や東福寺などを経て、旧日光街道を歩いていくと河合曽良の像がある。その前の「おせん公園」には「草加せんべい発祥の地」の碑。
   (曽良像、せんべい碑、その説明版)
 その前の大きな道を渡ると綾瀬川沿いの札場河岸公園。まず、望楼松尾芭蕉像がある。
 
 そこからすぐに「矢立橋」で、そのあとで川に沿った松並木を見ながら歩く。草加は日光街道で千住に次ぐ二番目の宿場町。だから確かに芭蕉は通ったはずだけど、この風景は「おくのほそ道」にはない。千住を立って、何とか草加宿にたどり着いたのだった。「もし生(いき)て帰らばと、定(さだめ)なき頼(たの)みの末(すえ)をかけ、その日ようよう早加(そうか)といふ宿(しゅく)にたどり着(つ)きにけり。」歩いていると、名勝指定の碑が出てくる。芭蕉の旅路の地図もある。
   
 やがて百代(ひゃくたい)橋になるが、ここで時間の関係で駅の方に向かい、その先は講演会終了後にまた戻って続けた。その先に芭蕉の碑がある。また水原秋櫻子の碑も。この辺は周囲が大マンションになっていて、もう並木も終わりが近い。
   (左が芭蕉碑、右が秋櫻子碑)
 先まで行きついて、戻ることにする。案外短いんだけど、ランニングしている人がとても多かった。周辺には伝統産業文化館とか、古い建物などがあるようだったが、時間の関係で寄ることができなかった。帰りに旧日光街道沿いにある明治34年創業という「草加せんべい志免屋」本店で少し買い物をして帰った。海苔のせんべいがうまい。お茶を出してくれたのが渇を癒せてうれしかった。
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新宿御苑とその周辺

2016年12月11日 21時40分35秒 | 東京関東散歩
 「新宿御苑」を3回ほど訪れた。最近は外国人観光客の人気スポットなんだそうで、確かに外国人が多い。山手線内、それも新宿からすぐ近くに、これほど素晴らしい庭園があるんだから、それも当然だろう。僕も若いころから何度も行ってるけど、広いから全部見て回るのはけっこう大変である。

 入園料200円だから、新宿で映画を見る前なんかにちょっと寄れる。やっぱり一番いいのは、旧御凉亭(台湾閣)から見た日本庭園だろうか。「台湾閣」という建物は、大沢在昌の新宿鮫シリーズ第2作「毒猿」に出てきて、ドンパチ大乱戦が繰り広げられる。どんなとこかと思ったら、何だ行ったことあるじゃないと思ったことがある。昭和天皇(皇太子時代)の「ご成婚」記念に台湾在住日本人が贈った中国風の建物である。日本庭園が一望できて、みんな庭の方を見て写真を撮っている。
   (1枚目12.6、2枚目12.10)
 この「旧御凉亭」の建物を池の方から撮ると以下のような感じ。「新宿御苑」の写真を撮ろうと思ったのは、そう、「君の名は。」と「言の葉の庭」を見たから。「言の葉の庭」は直接新宿御苑で展開される。雨の日は学校をさぼって御苑で本を読んでる男子高校生の物語。そこにフシギな女性も現れて…。そんな二人が雨宿りしながら本を読んでる東屋のようなところは案外少ない。ベンチと休憩所は多いけど。実は喫煙所なのである。台湾閣から下りて行ったところに似たような場所があった。
  
 新宿御苑を歩いていると、向こうに大きなタワーが見える。東京タワーやスカイツリーじゃないし、あれが東京都庁かなんて間違えている人がよくいる。これは「NTTドコモ代々木ビル」、通称ドコモタワーである。本社ビルじゃなくて、上の方は機械室。だから展望台もない。代々木駅のすぐ東にある。御苑の西側すぐで、大きく見えるのも当然。11月24日の雪の日には、上が見えなかった。
   
 イチョウの木は千駄ヶ谷門の入り口前に大きな木があって、御苑に来たという気分が盛り上がる。他にアチコチにあるけど、もう大体終わりに近づき、11月24日に行ったときが良かった。
   
 紅葉は12月6日当時は最後という感じで残っていた。もうほとんど終わりだろうけど。
  
 日本庭園のあたりが「上の池」、そこから「中の池」「下の池」と水辺の景観が美しい。もう一つ、大木戸門(御苑の東北)近くに「玉藻池」がある。もともと江戸時代は内藤家の屋敷で、その名残を残すという。その間に広大な芝生フランス式整形庭園(バラ花壇)がある。そっちはほとんど行ってないので、こんなところがあったのかという感じだった。ブラブラと歩いて撮った写真を。
   
 新宿御苑は、1906年開園で今年で110年である。江戸時代は高遠藩内藤氏の下屋敷。内藤氏は三河で松平氏に仕えた譜代大名で、「宿場名「内藤新宿」に名前が残った。1879年に新宿植物御苑となり宮内省管理となった。現在は環境庁管理だけど、昭和天皇の「大喪の礼」が行われたり、首相主催の「桜を見る会」が開かれたりする。(大体「御苑」という言葉自体、天皇制用語だろう。)「旧洋館御休所」は重要文化財指定になっている。第2土曜日に公開されるけど、中の写真は撮れない。
 
 ところで、僕は昔から御苑近くにはずいぶん行っている。それは「模索舎」があるから。ミニコミ書店である。今でも多くの小部数出版物があり、思想、社会運動関係の本が出ている。ネットじゃ買えなさそうな、「過激派」党派機関紙とか「新右翼」一水会の機関紙「レコンキスタ」なんかを見られる。まあ、買うわけじゃないけど。それでも冤罪関係のパンフなどずいぶんここで買ったものだ。御苑新宿門を出てすぐ。外にチラシがいっぱいぶら下がっている。こういう場所は大事にしたい。
 (模索舎=東京都新宿区新宿2ー4ー9)
 近くに「君の名は。」の主人公がアルバイトしていたレストランのモデル(とされる)のお店がある。すぐ見つかるから、まあ名前は書かない。御苑外部の散策路の向こうにちょっと見えているのがそれ。少し歩くと、新宿三丁目にある寄席の定席、新宿末廣亭は落とせない。寄席の中でも、ここが一番昔っぽい作りで、建物そのものを見るのも面白いけど、ずっといると腰が痛くなるかも。
 
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平林寺散歩

2016年12月05日 23時37分58秒 | 東京関東散歩
 埼玉県新座市にある平林寺(へいりんじ)に紅葉を訪ねる散歩。暑い夏や雨ばかりの9月には行けなかったので、最近は散歩に行きたい気分、。4日の日曜は混んでると思ったけど、暖かい日で散歩日和。旅行のバイキングで食べ過ぎたから、映画を見るよりカロリーを消費しないと。

 平林寺は、臨済宗妙心寺派の古刹で、今も中心あたりは修行のため入山禁止になっている。武蔵野の面影を残す広大な雑木林は、国の天然記念物に指定されている。「知恵伊豆」こと松平信綱一族の墓所がある歴史的に由緒ある寺院である。まずは紅葉の写真を。
   
 東京近郊では有数の散歩コースだけど、ずっと忘れていた。思い出したのは、獅子文六の「コーヒーと恋愛」(ちくま文庫)というユーモア小説を読んだからである。茶道のようにコーヒーをたしなむ「可否道」確立を目指す人々を描くが、最後の方で平林寺と思える寺(名前は違えている)で、「コーヒー野点」をしようとするシーンがあった。あ、ここは平林寺だな、若いころに行ったなと思い当たった。
  
 30年以上行ってないから、どこにあったっけと調べた。昔は西武線のどっかからバスで行ったと思うけど、JR武蔵野線新座駅から歩いて30分ほどとある。平林寺が近づいてくると、樹々の迫力に期待が膨らむ。だけど、中へ入れるのは「総門」だけなので、そこまでが長い。気持ちのいい道をずっと歩いて、新座市役所のところで曲がって、さらに歩く。500円払って入ると、やっぱり人が多い。入ってすぐに「山門」がある。額に「凌雲閣」と書いてある。上の写真は山門と放生池。その奥に仏殿と本堂があるが、人が多いうえ光線の具合でうまく撮れなかった。
   
 その奥に松平信綱一族の墓がズラッと並んでいる。平林寺はもともと1375年に岩槻(さいたま市)に創建された。それが1663年に現在の地に移された。川越藩主だった松平信綱の遺志によるものだという。ということで、信綱一族の墓所となったが、一族の墓がそろっているのは実に壮観。上の4枚目の写真は、島原の乱の供養塔で、乱後200年遠忌に作られたもの。信綱は鎮圧の総大将だった。
   
 あとは広大な散歩道を写真を撮りながらグルっと回る。どこで撮った写真か、自分でもよく判らないけど、奥の方に「もみじ山」という一角があり、モミジで言えばやはりそこらが一番だった。多少盛りを過ぎたかなと思うけど、十分楽しめた。上の3枚目の写真を見ると、野点をやれそうな感じ。やっていいのかはしらないけど。たくさんあるから、先に使わなかった紅葉の写真をもう少し。
   
 まあ、いくら載せてもきりがないので、もう終わり。他にも「電力王」松永安左ヱ門の墓もある。また野火止(のびどめ)用水がここを通っている。関東平野は火山灰の関東ローム層に覆われ、水の確保が難しい地域が多かった。そこでいくつもの用水が作られている。松平信綱はまず玉川用水を作り、さらにそこから分水して、東京都小平から埼玉県志木まで開削したのが野火止用水。寺や市役所の近くに野火止用水公園があった。そこらあたりまで小川のような用水が見られる。
   
 寺の真ん前に。松永安左エ門の地所だった「睡足軒の森」がある。また寺に沿った「大門通り」にある「たけ山うどん」はよく案内に出ているが、美味しそうな店だった。(満員で入れず。ここに新座市マップがある)。そして少し行くと市役所で、この期間の土日はオープンカフェをやっていた。用水公園から少し歩くと、農産物直売センターもあり、なかなか便利なコース。今度は新緑に来ようと思った。
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戸定(とじょう)邸(旧徳川昭武庭園)を見る

2016年11月20日 22時44分54秒 | 東京関東散歩
 爽快な小春日和の一日、松戸市にある戸定(とじょう)邸に行ってきた。知ってる人は多くないかもしれないが、徳川昭武という人が作った屋敷と庭園。家は重要文化財、庭園は名勝に指定されている立派なものである。でも、歴史的な出来事が起こったわけでもなく、都内から少し出ているから松戸市以外の人には知らない人が多いんじゃないか。僕もそういうのがあるとは知っていたが、初めて。庭園を復元する工事が行われるため、11月30日から庭園に下りられないと東京新聞に載っていたので、行ってみる気になった。(5と10の日に公開されるので、25日は庭に行ける。なお、戸定はこの地の地名。)
   
 庭から見た全景が一番判りやすいので、最初に写真を載せておきたい。ここは、千葉県松戸市の松戸駅から徒歩10分ぐらい。JR北千住駅から常磐線快速で1駅、あっという間である。東口を降りて、町中を通って南の方に向かうと案内表示が出てくる。丘の上に立つお屋敷で、こんなところがあったのかという感じだった。徳川昭武(1853~1910)は水戸藩最後の藩主である。徳川斉昭の18男で、御三卿の一つ清水家を継いだ。つまり、最後の将軍・徳川慶喜の実弟である。

 なんとなく名前に記憶があったけど、将軍慶喜の名代として、1867年のパリ万博に派遣された人物だった。渋沢栄一が随行員に入ってた時である。欧州各国を見て回り、ナポレオン三世やヴィクトリア女王にもあったという。年齢を見ると、今の中学生の年である。そんな人もいたわけだ。しかし、帰る前に大政奉還になってしまった。そして水戸藩主の兄も亡くなり、若くして「内戦」で疲弊した水戸藩主になった。でも、今度は廃藩置県で藩もなくなり、陸軍に仕官したり外国へまた派遣された。
  
 何で松戸にあるの? と思ったけど、ここは水戸街道第二の宿場町だった。(最初は千住宿で、日光街道と同じ。これは今の鉄道とも同じである。)だから、もともと水戸家にゆかりがある土地柄で、昭武はここを隠居所として、1884年に屋敷を開いたという。1890年には庭の整備も終わり、兄の慶喜もたびたび訪れた。写真という共通の趣味があり、富士山と江戸川が望める景勝の地だったのである。多くの皇族も滞在したという。そんな屋敷が市に寄贈され、今は「戸定歴史館」(上の最初の写真)も併設されている。徳川慶喜公爵家に関する展示を行っていた。慶喜に子どもが多いんでビックリした。

 すぐ近くに「戸定邸」がある。歴史館と邸宅は有料。(共通券240円。)靴を脱いで上がる。結構広大なお屋敷で、こういうところは時々見るけど、なかなか立派な方だと思う。トイレがあちこちにあるけど、客人と主人一族、使用人とみんな別々なんだろう。客間が庭に面して立派。奥の方にも離れがあり、思ったより広い。昭武は1883年に妻が産後に亡くなると、隠居して松戸に住んだ。1892年に次男が子爵を授けられ、「松戸徳川家」といま呼ばれる家が成立した。ここはその本拠地だった。
   
 上の写真3枚目、4枚目は屋敷内から見た庭で、3枚目は南側の庭園を、4枚目は西側を見たもの。4枚目は富士山が向こうに見えるときがあるという方向。下の2枚目はお風呂場で、こんなだったのか。
   
 3枚目と4枚目は客人向けの部屋で、入り口から入ってすぐ左にある。コウモリの欄干は、縁起がいいものなんだという。最初に書いたけど、庭に出られるのは今しかない。というのも、完成当初から庭園の様子もかなり変わってしまったので、それを復元するんだという。最初の様子がなんでわかるかというと、昭武は写真マニアだったから残っているわけである。まあ、そんな長い工事でもないようで、来年半ば過ぎには終わるようだ。屋敷の周りは「戸定が丘歴史公園」として無料エリアとして公開されている。ちょうど紅葉が進んできて、かっこうの散歩道として親しまれているようだった。
   
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清泉女子大本館(旧島津邸)を見る

2016年11月06日 21時23分49秒 | 東京関東散歩
 東五反田にある清泉女子大学の本館を見に行った。ジョサイア・コンドル設計による旧島津邸である。1917年(大正6年)完成なので、来年で100周年。清泉女子大の本館として、今も授業や事務室に使われている。今日は一般公開されているので、貴重な機会だから見に行った。
    
 まず、庭に面した本館の全景写真を載せる。やっぱりこの本館の建物が素晴らしい。「円錐状の列柱廊を持つ優雅なバルコニー」と案内に書いてある。なるほど。イタリア・ルネサンス風とも言われる。写真の左の方に見える木は桜で、春はとても素晴らしそう。(大学の作った絵葉書は春の風景。)庭も素晴らしく、山手線の中にこんな素晴らしい庭があったんだ。明治天皇や大正天皇が休憩した場所という案内板もあった。もちろん大学ではなく、島津家を訪ねたわけである。
   
 大学は山手線・五反田から近いが、都営地下鉄浅草線高輪台駅からだと坂を上らずに行ける。このあたりは、袖ヶ崎と呼ばれた場所で、江戸時代には仙台伊達藩の下屋敷だった。明治になって島津家の所有になった。島津家は維新の「功績」で公爵(華族の最高位)を与えられていた。周辺は高級住宅街になっていて、「島津山」と名の付くマンションがいっぱいある。大学の入り口から、坂道をずっと登って行くと、本館が見えてくる。
   
 道を回ってキャンパスを進むと、本館の圧倒的な建築美に目を奪われる。しかし、実は現代の建物と続いていて、そこに受付があった。そこから中も見られて、2階にも行けた。今日はフォトコンテストをやっていた。女子大生モデルが大島紬(島津つながりで、鹿児島県の名産)を着て、たくさんの人が写真を撮っていた。まあ、それはパスしたけど、今後も同様の企画があるらしい。
   
 清泉女子大は「聖心侍女修道会」を母体とするキリスト教系大学で、1950年創立。最初は横須賀市にあったが、1962年に現在地に移転した。島津邸は1915年に竣工後、黒田清輝の指揮で館内の調度が整備された。1917年に完成の折には、大正天皇、皇后の行幸啓に、寺内首相、松方正義、山本権兵衛、東郷平八郎など名士2000人が列席し園遊会が開かれた。この説明は大学のホームページに出ていたけど、島津家の洋館が完成したっていうのは、そこまでの大ごとだったのかとビックリさせられる。その後、昭和恐慌や戦時下の窮迫で島津家から日銀に渡り、占領中はGHQの将校用に使われた。
   
 上の写真の最後、ただの階段に見えるだろうが、実は違う。階段の前に立ち入り禁止の案内があり、上は危険だから公開してないのかなと思ったら、案内の女子大生が来て説明してくれた。実は「恰好だけ階段」というか、「階段のふり」というか、上に建物がないのに階段だけ作ってある。コンドルの特徴の一つで、建物を大きく見せるトリックなんだって。赤瀬川原平の喜びそうな趣向だな。

 ジョサイア・コンドル(Josiah Conder 1852~1920)はイギリス人なので、ホントは「コンダー」と読む方がいいらしい。日本ではオランダ風のコンドルで定着してしまったけど。お雇い外国人として来日したが、河鍋暁斎に弟子入りしたり、日本女性と結婚して、日本で亡くなった。近代建築の礎を築いた人だが、東京が活躍の中心だったから、震災、空襲、再開発で無くなったものが多い。東京では旧岩崎邸、、旧古河邸ニコライ堂などが現存している。ここは今も実際に使われているというのがすごい。大学建築という意味でも、日本を代表する景観の一つではないだろうか。
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