goo blog サービス終了のお知らせ 

尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

勝海舟の生誕地-海舟散歩①

2015年05月24日 23時05分48秒 | 東京関東散歩
 勝海舟(かつ・かいしゅう 1823~1899)という人への関心が深くなってきた。海舟は「肩書き」なんていらない有名人だろうが、書くとしたらどうなるだろう。「幕末・明治の政治家」というべきか。「江戸の町を救った人」、「日本海軍の創始者」とも言われ、咸臨丸で太平洋を渡り、幕末の政局にも幕臣として活躍した。明治新政府でも参議、海軍卿などを歴任した人物である。幼名・通称は麟太郎(りんたろう)、諱は義邦(よしくに)、後に安芳(やすよし)と改名した。幕臣時代の官位は安房守(あわのかみ)、号が海舟で、佐久間象山の書から取ったという。昔の人だから、呼び方はいくつもある。

 海舟の銅像で有名なのが、墨田区役所の前にあるもの。墨田区は海舟の生地である。「勝海舟の銅像を建てる会」が全国から寄付を募って区役所前の広場に2003年に建てられた。その経過は「勝海舟を顕彰する会」のホームページにある。若い感じの顔かたちだが、アーネスト・サトウが撮ったという海舟の写真に似ている。その墨田区役所は、浅草から行った方が早い。吾妻橋を渡った川の向こう側のすぐそば。上の最後の写真が橋の上から撮ったもの。よく見ると、向こう側の真ん中に小さく見えている。ほとんど判らないと思うが。(写真を2回クリック。)
    
 ところで、海舟の銅像はもう一つある。墨田区の能勢妙見堂(のせみょうけんどう)で、両国と錦糸町の間の大横川親水公園を北(スカイツリー方面に)に歩いて、紅葉橋のあたりを左に見る。割と小さなお寺が、信号の向こうに見えている。ちょうど両国、錦糸町、スカイツリーの3地点の真ん中、案外行きにくい。能勢妙見堂というのは、大阪北部にある有名な能勢妙見山の東京別院。何でここに海舟の銅像があるかというと、海舟9歳の時に、犬に睾丸を噛まれた。父の勝小吉はここで水をかぶって回復を祈ったという場所である。父の小吉の話は次回に書くが、親子ともに睾丸で寝込んでいる。
    
 海舟が気にかかるようになったのはわりと最近のこと。若い時は「尊王攘夷派」が「革命家集団」に見え、そうなると幕府側は「反革命」として否定的に見ていた。でも、だんだん薩長討幕派のやり方、特に「討幕の密勅」なるニセの文書は合法性がないから問題だと思うようになった。「明治維新」の結果として作られた「大日本帝国」は、果たして人々を幸せにしたのか。特に最近、「長州藩閥政府」を見るたびに、むしろ徳川家が中心になった(徳川慶喜が当初はもくろんでいたような)有力藩の連合政権のようなものができた方が良かったのではないかと思う時もある。「長州藩閥政府」とは、現在の安倍政権のことだが、総裁、副総裁ともに山口県出身で、「集団的自衛権」を合憲とする解釈する強行しようとしている。また薩長討幕派の死者のみ祀る靖国神社を参拝し、長州藩の松下村塾などを「近代化遺産」として世界遺産登録をもくろんでいる。もはや「藩閥政府」ではないかと思うのである。

 さて、勝海舟が生まれたところは、JR(または都営地下鉄大江戸線)両国駅からほど近いところにある。北側に国技館や江戸東京博物館があるが、その反対側へ歩いて京葉道路を渡る。ちょうど近くに「吉良邸跡地」の松坂町公園があり、こっちの方が面白いんだけど、この付近は史蹟の多いところで、また別に歩いてみたい。(というか、ブログ開始前に個人的に行ってた場所が多いので、ここではまだ取り上げていないだけだが。)付近に案内表示が多いので、少し迷っても行く着くだろう。今は「両国公園」となっていて、子どもたちがいっぱい遊んでいた。その隅に海舟生地の碑がある。歴史散歩の名所だから、この付近を回っている人は多い。芥川龍之介の碑もあるし、江戸時代に相撲をやっていた回向院も近い。もとは旗本の男谷(おだに)家の屋敷で、父小吉の実家である。本所亀沢町といったあたりで、この父小吉と男谷家の話は、海舟以上に面白すぎるようなエピソードがいっぱいある。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我孫子・白樺派と手賀沼散歩

2015年05月06日 23時49分52秒 | 東京関東散歩
 今年の大型連休は、少し例外はあるけれど、ほぼ全国的に毎日晴れ渡った。東京も毎日快晴で暑いくらいの日が続く。今日は映画に行く気だったんだけど、空を見たら気持ちが変わった。実は数日前にも大田区の洗足池に行ったんだけど、これは勝海舟関係の散歩でまとめたいので、今日行った千葉県の我孫子(あびこ)の散歩からまとめたい。我孫子なんて言っても、全国的にはほとんど知られていないだろう。常磐線あるいは地下鉄千代田線を利用するから、幼き頃より名前だけは知ってるけど、行くのは初めてである。ここは明治末から大正時代は、大いに栄えた別荘地白樺派はじめ多くの文人にゆかりの地と気付いたのは最近のことで、一度は行きたいと思っていたのである。

 常磐線北千住駅から快速で22分、松戸、柏の次ではないか。こんなに近いのか。ちょっとびっくり。駅前に案内所があるように思ったんだけど、見つからない。帰りに見ると駅から少し離れたところに「アビシルベ」という案内所があった。でも、南口に案内版と地図があるので(一番最後に写真を載せておく)、それを見れば大体判った。(「アビシルベ」の場所もよく見れば地図に載っていた。)駅から真っ直ぐ直進すると手賀沼公園だけど、途中に杉村楚人冠記念館があるので、まず最初にそこに行こう、そうすれば地図も手に入るだろうと思ったら、その通りになった。
   
 杉村楚人冠(1872~1945)なんて言っても今では普通知らないだろう。僕もそういう人がいたという程度しか判らない。東京朝日の名物記者で国際派ジャーナリスト、名随筆家にして俳人、作家としても知られ、戦前は非常に有名な人物だった。全集も残されているが、今では読む人もまずいない。楚人冠は1912年に別荘を設け、震災後の1924年には一家で移住した。我孫子では俳句結社を作ったり、ゴルフクラブ開設に協力し、自身が創刊した「アサヒグラフ」で手賀沼風景を紹介するなど、我孫子の大恩人である。庭も広く、崖下まで広がって面白い。屋敷内より庭の方がいいかもしれない。
   
 少し離れたところに「楚人冠公園」があり、句碑がある。昔はその辺りまで別荘だったらしく、相当広いし、手賀沼も見えたんだろう。今は家も立ち並び、木も生い茂って水辺感は感じられないが。俳句は「筑波見ゆ 冬晴れの 洪いなる空に」というものである。結構広い空地が広がる公園。
  
 そこからしばらく迷いながら、嘉納治五郎別荘跡三樹荘跡を先に見る。白樺文学館に真っ直ぐ行ってもいいけれど、帰りだと疲れているかもと思ったのである。嘉納治五郎(1860~1938)は柔道家、教育者として著名だが、単に柔道だけでなく大日本体育協会(今の体協の前身)を設立し会長となり、IOC委員ともなった「日本スポーツの父」である。1911年に我孫子に別荘を構え、姉の子である柳宗悦も真向かいに別荘を建てた。日本の「民芸の父」と言われる人である。ここには声楽家の妻・柳兼子とともに住み、そこから白樺派の文人が我孫子に来るようになったというわけである。嘉納別荘は今は跡地しかなく、柳別荘「三樹荘」は今は別人の手に渡り非公開。(下の最後の写真)
   
 ここで目の前が手賀沼公園なので、ちょっと疲れたし、一休み。遊覧船やボートでも出ていて、子連れも多く、なかなか流行っていた。「ミニSL」が運行していると出ていたけど、SLではなく新幹線型の電車だった。なんだ。釣りしている人もいる。化学的酸素要求量(COD)が同じ千葉県の印旛沼に続き全国2位ということで、水質汚濁が問題になる沼だけど、まあ見た目は普通。ヘラブナなど釣った魚は未だ原発事故の影響で持ち帰り禁止になっている。
  
 そこから少し歩いて白樺文学館へ。楚人冠記念館で「3館共通券」を買ったので、行かないといけない。案内版はあちこちに設置してあり、案外わかりやすい。道は左に崖、右に沼方向(見えないが)で、「ハケの道」と出ている。ハケとは関東で「崖」のこと。崖に沿って地下水が湧出することが多い。文学館の真ん前が志賀直哉邸跡なので、ここから。今は書斎しか残っていないが、パネルの説明がていねい。ここで「和解」「城崎にて」「小僧の神様」、そして「暗夜行路」が書かれたのだ。えっ、という感じである。読んでるんだから、解説かなんかで我孫子にいたと書いてあったはずである。でも、我孫子時代の産物だとは忘れている。志賀直哉の作品で、子どもが病気になった時の焦燥感を読んで、ずいぶん辺鄙な所に引っ込んでいたんだなと思った記憶はある。今はこんなにすぐ行けて、文学館もある。
   
 白樺文学館は中が撮れないから、チラシを載せておく。今は「原田京平」という人の展示をしている。誰も知らないと思うけど、志賀直哉が去った後に志賀邸の留守を守っていた人で、山本鼎(民衆画運動をした人)に師事した画家にして、窪田空穂門人の歌人という人。妻と二人の女子も画家だったということで、40歳で死んだためほとんど知られていないが、そういう人もいたのである。ここには柳兼子のピアノも寄贈され音楽会もあるというし、地下の音楽室では兼子の声楽を聴ける。
   
 さて、さらに「ハケの道」を進む。「滝井孝作仮寓跡」というのがある。もはやほとんど知られていないかもしれない「無限抱擁」の作家、滝井孝作が一時ここに住んでいたという。そこはなんと古墳である。というか、まあ古墳の近くだけど、説明としては古墳と言ってもいい。我孫子は古墳が多い。近くの道の写真も載せておく。
  
 少し行くと、「村川別荘」というのがある。ここは無料だから見ておくか。「村川堅固」(けんご)という人は知らないが。と思って行ったら、村川堅固は東大の西洋史の学者で、同じく東大の古代西洋史家だった村川堅太郎が受け継いだとある。古代ギリシャ・ローマ史の村川堅太郎なら、もちろん知っている。ここでゼミ合宿なんかもしたらしい。崖の上に母屋と新館があり、庭もキレイ、手賀沼も見えて、ここは飛ばさずに是非行くべきところだと思った。1991年に村川堅太郎が死去、国に物納されたが、我孫子市が買い取り公開されている。建築も貴重らしいけど、よく判らない。
   
 さて、そこからひたすら歩いて、沼のほとりへ。信号を渡り、「水の館」が見えてくると、3館共通券のもう一つ、「鳥の博物館」がある。いや、もう疲れてちゃんと見る気も起きなくて、ざっと見ただけだが、鳥そのものと手賀沼にいる鳥を手際よく展示している。こっちの方が興味深いという人も多いだろう。実は今回知ったのだが、この博物館の真裏あたりに、名前だけは知ってた有名な「山階鳥類研究所」(下の写真2枚目)があるのである。もちろん、見られません。そこから手賀沼親水広場へ出て、形も面白い「水の館」(下の写真3枚目)」があるが時間が遅くてパスして、沼沿いに手賀沼公園まで1キロ強を歩く。ここは陽射しを遮るものがないから真夏と真冬は厳しいだろうが、今のような季節のいい時期には素晴らしい散歩コースである。水辺の真横とはいかないが、ずっと沼を見ながら歩ける。
   
 手賀沼公園から先に行くと、武者小路実篤邸があるというが、けっこう距離がありそうなうえ、非公開なのでパスした。一路まっすぐ行けば我孫子駅。案外近い。半日地度の文学散歩として格好のコースではないかと思う。チェーン店で良ければ、随所に店もある。最後に駅前を。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十条台の旧軍施設-王子散歩②

2015年04月27日 21時53分53秒 | 東京関東散歩
 地名で言うと、王子ではなく「十条台」と言う、王子(京浜東北線)と十条(埼京線)の中間あたりに「赤レンガ建築」が残されている。駅からはちょっと遠いので、王子から「コミュニティバス」(「北とぴあ」の真向いに、王子・駒込ルートのバス停があり、100円で利用できる)を利用するので、「王子散歩」の2回目とする。この地帯に旧陸軍施設がたくさん残されていることは、「カラー版 地図と楽しむ東京歴史散歩」(竹内正浩著、中公新書)という本で知った。以来、見てみたいと思っていたのだが、後述の理由でこのあたりを歩く機会が増えてきた。

 明治からあった赤羽火薬庫に続き、第一師団工兵第一大隊、陸軍兵器支廠造兵廠とか、名前を書き移していても仕方ないからやめるけど、とにかくたくさんあったようだ。関東大震災で大被害を出した被服廠跡地(今は墨田区の横網町公園となり、東京都慰霊堂などがある)という場所があるが、大震災の前年の1922年に赤羽に移ったのである。つまり、この地域は軍関係の兵器、軍服等の工場が集中していた。保管のための赤レンガ倉庫がいっぱいあるのも納得できる。まずはコミュニティバスに乗って、北区立中央図書館に行く。ここは、元「東京第一造兵廠第一製造所二七五号棟」で、残されていた赤レンガ倉庫を図書館に利用しているのである。(元の名前は前掲書)
   
 区民でなくても入れるし、オシャレっぽいレストランもある。図書館の前はオープンカフェ風に座れる場所になってる。もちろん、倉庫だけでは狭いから、もっと大きな建物が併設されているが、赤レンガ倉庫も中から見ることができる。北区にゆかりのある「ドナルド・キーン・コーナー」もあるし、北区の観光地図を得られる場所もある。公園の中だから、子ども連れで遊べるところも多い。というお得な場所。
  
 まあ何枚乗せても同じようなもんだけど。図書館の近くに広い施設があり、何だろうと思うと「陸上自衛隊十条駐屯地」だった。先の本によると、駐屯地内には近年まで戦前来の倉庫が23棟も残されていたという。しかし、平成に入って次々と取り壊されていき、今は変電所として使われていた二五四棟のファサード(正面)だけが残されている。(普段は遠くからしか見られない。)ということは、ずっと回っていくと駐屯地のレンガ作りの正門があるが、それは戦前からのものではないわけだろう。
    
 さて、図書館と駐屯地の隣が中央公園になっている。その一番南の方に、白い建物があり、北区の中央公園文化センターがある。ここが旧「陸軍東京第一造兵廠本館」である。というより、もっとビックリしたのが、ここが米軍の「王子野戦病院」なのである。つまり、この広大な旧陸軍施設用地は、戦後は占領軍に接収され、講和後も無期限に米駐留軍用地とされていたというわけである。そして、ベトナム戦争の激化に伴い、1968年に「米陸軍王子病院」となったのである。当時のことは子どもで場所は知らなかったのだが、「王子野戦病院反対闘争」は何となく記憶している。その場所がここだったのか。今は白くてきれいな感じだけど、こういう風に白くしたのも米軍。後の2枚は背面。
    
 文化センターの隣に、東京砲兵工廠銃包製造所のボイラーと煙突が残されている。横には赤羽台第3号古墳も残っている。いろいろと「近代遺跡」の残る場所だが、突然古代遺跡が出てくるのも面白い。そこから歩いてぶらぶら王子駅に戻る。ところで、この一帯は米軍から次第に返還されていき、跡地は自衛隊、公園などになった。また東京家政大学などの教育施設、都立北療育医療センター、王子特別支援学校などの障がい者施設も集中している。その中に「都立障害者スポーツセンター」もあるのである。そこに精神障がい者施設のスタッフとして、時々ソフトバレーボールをしに行っている。そういう時に先の本を読んで、いろいろ付近を歩き始めたというわけである。さて、ちょっと方向が違うが、王子駅から線路の西をずっと北へ歩くと、「名主の滝公園」というのがある。どんなところか寄って見ると、思った以上に落ち着いた庭園だった。もちろんちゃんと滝がある。いろいろある場所だった。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤レンガ酒造工場-王子散歩①

2015年04月26日 21時42分23秒 | 東京関東散歩
 東京都北区に「王子」という町がある。以前、「飛鳥山散歩と渋沢栄一」を書いたけれど、その飛鳥山(あすかやま)がちょうど王子駅の真ん前にある。ところで、その周辺に「赤レンガ建築」がいろいろ残っていることを知って、ちょっとまとめて歩く。まずは「赤レンガ酒造工場」である。ここは2014年12月に国の重要文化財に指定された。4月4日、まだ桜が咲き誇る時期に特別公開が行われた。すぐにまとめたかったんだけど、その後、雨の日が多くて近くの散歩ができなかった。25日にもう一回見にいくと、もう新緑に囲まれて赤レンガもよく見えないではないか。
  
 この場所は、現在は「独立行政法人酒類総合研究所 東京事務所」という長い名前の場所になっている。一年に2回ぐらい無料の特別公開をやっていて、蔵の中を見られるほか、日本酒の試飲もやってた。お酒をめぐる様々の知識が得られる各種のパンフも置いてあって、なかなか面白い。だけど、思ったより小さく、昔の敷地の半分は公園になっていて、「醸造試験所跡地公園」となっている。
  
 中身は上の写真のような感じ。白い部屋は表面のみ白い釉薬を掛けたレンガで、日銀の地下金庫にも使用されている。旧麹室だったところ。初めの写真は特別公開時だけど、一番最初の写真と比べると、桜の花が満開だった。もともと1903年に作られたという100年を超える建物である。「醸造試験所第一工場」として、冬しか作れなかった日本酒を四季を通して作れるように、ドイツから冷却機を輸入して作った最新鋭の酒造工場だった。桜の時期に撮った写真をまとめて何枚か。
   
 ここを作ったのは、妻木頼黄(つまき・よりなか 1859~1916)という人で、米国、ドイツなどに留学し、全国で活躍した。神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店)や横浜赤レンガ倉庫(旧横浜新港埠頭倉庫)など、今に残って知られる建物や、日本橋の意匠装飾を設計したという人である。
   
 行き方は説明しにくいのだが、王子駅北口から飛鳥山を向かいに見ながら進んで、音無橋を渡って脇の道を進む。これでは判らないだろうから地図で調べて欲しいけど、駅に近いけれど、案内もないし判りにくい。そこに行く前に、左側の方に古そうな神社がある。それが王子神社(王子権現)で、1322年に当時の領主豊島氏が熊野新宮の浜王子から「若一王子宮」を勧請したという。これが「王子」という地名の由来になったという、東京でも由緒ある神社である。けっこう大きく、立派な神社。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小伝馬町散歩

2015年03月25日 23時50分35秒 | 東京関東散歩
 人形町に続いて、その隣の小伝馬町(こでんまちょう)を。ここからはいろいろな方向に歩けるが、時間がなかったので駅周辺のみ。地下鉄日比谷線で、秋葉原の一つ隣の駅である。中央区の一番北のあたりで、日本橋小伝馬町、大伝馬町という地名がある。名前からして江戸時代っぽいけど、五街道の起点、日本橋に近いあたりに「伝馬」(でんま)、つまり馬による街道連絡網が組織されたわけである。日光街道に面していたのが大伝馬町(小伝馬町と人形町に間)で、小伝馬町はその裏にあった。たまたま地下鉄の駅名に小伝馬町が採用されたので、今の東京人には小伝馬町の方がなじみがある。それより、ここは「牢屋敷」があったところとして有名で、吉田松陰高野長英もここに収監されていたのである。そして長英はここから脱獄し、松陰はここで刑死した。そういう場所である。
     
 小伝馬町駅2番出口を出て少し歩くと左側に寺がある。その大安楽寺の外の壁に「江戸伝馬町処刑場跡」の碑がある。寺の中にも牢獄跡や井戸の碑がある。後で書くけど、「十思スクエア」を入ったところに牢屋敷の模型が置いてあった。寺の向かいが「十思公園」(じゅっし)で、ここが牢屋敷の跡地になるそうだ。案内板もある。公園の門は反対側にあった。まあ、いろいろな碑がある公園だったが、発掘した時に石垣が見つかったということで、それが案内板とともに展示されている。
   
 さて、何といっても、ここは吉田松陰の最期の地である。今は桜が咲きかかった春も間近なのどかな公園という感じだったけど、そういう歴史の暗い因縁がある場所なわけである。それはまあ、普通では感じ取れないけれど。東京には世田谷に吉田松陰を祀る松陰神社があって、そこに墓所もあるという。近くには松陰を捕えた大老井伊直弼の墓所もある。どちらもまだ見たことはない。東京には古い建物はないけれど、あんがい史跡はあるものだ。写真1枚目は松陰終焉の地碑、2枚目は辞世と石灯籠を合わせて。3枚目は「杵屋勝三郎歴代記念碑」というものである。もっとも字が読めない。
  
 さて、もう一つ、「石町時の鐘」がある。「石町」は「こくちょう」。そんなものが残っているとは知らなかったのでビックリ。何しろ江戸町内に時を知らせる鐘がこの場所にあり、鐘は当時のものなのである。時の鐘は8カ所にあったというが、ここが最古。江戸のことだから何度も火事になっているが、今ある鐘は1711年鋳造のものだとある。牢屋敷の処刑も、この鐘の知らせで行われた。明治になって廃止された後は、担当の松沢家が秘蔵していたが、1930年に鐘楼が作られたという。知らなかった。
  
 さて、十思公園の隣に、かつては十思小学校があった。1990年に閉校となったが、校舎が整備されて「十思スクエア」と命名され、保育園や老人福祉施設、地域の交流施設などが作られている。別館には銭湯の「十思湯」まである。この小学校は、東京都選定歴史的建造物になっていて、震災後に作られたいわゆる「復興小学校」のモダン建築の代表として見所が多い。何というか、いかにも懐かしい昔の小学校である。
  
 中はこんな感じで、校庭側は福祉施設の車がいっぱいだが、なんだか懐かしい小学校の小さな校庭である。牢屋敷は今は碑があるだけだが、モダン建築の校舎は思い出がよみがえる感じ。1928年の建造で、「関東大震災ののちに建築された復興小学校の一校。角地を利用した正面玄関は曲線で構成され、1階と3階にはアーチ型の意匠が用いられている」というのが指定理由。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人形町散歩②-玄冶店と甘酒横丁

2015年03月17日 22時54分43秒 | 東京関東散歩
 人形町界隈には古い地名がいろいろ残るが、「玄冶店」がこのあたりで、碑もあると知った。読み方が判らない人がいるだろうが「げんやだな」である。一体、何のことだか判らないながら、春日八郎の大ヒット曲「お富さん」の歌詞で知った。小さい時のことで、歌詞の意味が不明である。耳で聞きとった歌詞は、「いきなくろべえ みこしのまーつに、あだな姿の洗い髪 死んだはずだよ おとみさん 生きていたとは おしゃかさまでも 知らぬほとけの おとみさん エーサオー げんやだな」で、何の意味だか不明であった。だけど、リズムがいいから、何となく口ずさんでしまう。もう少し漢字に直すと、

 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪 
 死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは
 お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん 
 エーサオー 玄治店(げんやだな)
  
 この碑は、人形町交差点の東北角(A4出口方面)の道路にある。字が道路側になってるので、ドラッグストアの前に車が停まってると見えない((案内板は歩行者側に書いてある。)「玄冶店」というのは何だろうと思うと、江戸時代初期の幕府医官・岡本玄冶の拝領した屋敷跡の地名のことで、人形町3丁目あたりのこと。「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)なる歌舞伎の演目に「源氏店」と出てくる。「お富さん」の歌詞では、元の通りの字になっている。

 歌舞伎の筋を知らないと歌詞はよく判らないが、確かに「死んだ筈だよお富さん」というような話なのである。最近「お富さん」という中編歌謡映画を見る機会があったが、映画はどうってことないけど、春日八郎が出てきて、僕の世代ではよく知らないので面白かった。碑のあるところから裏へ入ると、今では人形町唯一の料亭という「玄冶店 濱田屋」がある。築地あたりにあるのと同じく、いかにも料亭っぽいつくり。大通りに戻り、少し行くと「うぶけや」という天明3年(1783年)創業という刃物屋がある。包丁、はさみの他、毛抜き、カミソリ、「諸流生花鋏各種」と何でも刃物がそろってるらしい。なにより店が古くて風情がある。
   
 大通りの向かい側、スターバックスの前の道に、「堺町・葺屋町(ふきやまち)芝居町跡」というパネルが建てられている。このあたりは、江戸三座と言われた中村座市村座があった。(もう一つは守田座で今の銀座にあった。)1841年に大火で焼失し、折からの天保の改革で同じ場所での再建が認められず、浅草の猿若町に移転を余儀なくされた。人形劇の結城座もここにあり、一帯に人形遣いが多く住んでいたから「人形町」という地名になったというのが定説らしい。

 芝居小屋は自由には作れない。この地域に作られたのは幕府の政策によるもので、江戸時代当初の1650年前後の成立である。当時は実は「吉原」(遊郭)もここにあったという。日本橋の芳町とは、葦(よし)の生える湿地で、そういう新開地にフーゾク街ができる。それが「葦原」と呼ばれ、時代とともに吉原となる。しかし、1657年の明暦の大火で焼失し、幕府は日本橋での再建を認めず、浅草の裏に「新吉原」を移したという。この地域は江戸時代には遊郭地帯だったり、歌舞伎や人形の芝居小屋の集まる娯楽地帯だった歴史がある。
  
 さて、人形町には施設的な場所(博物館、記念館等)がないし、お休み所みたいな場所もない。人形町だからか、辻村寿三郎のジュサブロー館というのがあるけど、今は人形教室としてしか利用していないと出ている。ということで、後の有名な場所は「甘酒横丁」なのかなあと思って、戻って交差点を渡る。「玉ひで」のある通りの向かい側に「甘酒横丁」とある。横丁だから、狭い通りに飲食店が密集してるのかと思ったら、そうではなくて結構広い通り。

 入るとほうじ茶の香りがしてくる。ほうじ茶カフェとか出てる。少し行くと、「鳥忠」というお店。鶏肉や卵焼きで有名らしい。向かいの方に鯛焼きの「柳家」という店。店の中に客がズラッと並んでる。どうも入りにくい店が多いんだけど、少し行くと「亀井堂」が見えてきた。ここは前から知っている。人形焼が有名だというけど、深焼きとある煎餅がうまい。でも、店頭のポスターに首相の顔があって「再挑戦べい」なんて大々的に出てくる。買う気失せたな。
   
 甘酒横丁をずっと歩くと弁慶像があった。解説板があるけど、読めないぐらい黒くなってる。歌舞伎で有名な町だからだと思うけど。その先に明治座があるが、そっちは別に隅田川沿いの「浜町散歩」をしたいと思う。戻る途中に「人形町志乃多寿司総本店」を見つける。いなりずし発祥の店だというけど、外見が寿司屋っぽくなくて行きには見逃した。最後に「水天宮」。水天宮というのは安産祈願で有名なところだが、現在は建替え中で仮社殿に移ってる。明治座の隣あたりにあるようだが、今回は行ってない。
 
 工事中の写真なんか意味ないんだけど、神社の建設工事というのも珍しいかなと思って。この地域には、人形町だけでなく、地下鉄駅が小伝馬町、水天宮前、浜町、東日本橋、馬喰横山などいっぱい集中している。地下を走ってる分には関係ないから、地上の地図が全然頭に浮かばないんだけど、今回歩いて少し判った。また近辺を歩いてみたい。けっこういろいろあるようだ。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人形町散歩①

2015年03月17日 00時02分52秒 | 東京関東散歩
 冬は寒くて散歩シリーズもしばらく休んでいたけれど、一雨ごとに春も近づいてきた感じで、町歩きを再開したい。まず「日本橋人形町」を散歩。現在の23区体制になる前の、旧日本橋区の町名には「日本橋」が付けられている。東京メトロ日比谷線都営地下鉄浅草線が通っていて、日比谷線秋葉原駅から2つ目である。JR山手線では、神田駅の東方になる。東京の移動には地下鉄を使うことが多く、地上のようすがわからない。日比谷線は日常的に使うので、昔から数千回は通り過ぎていると思うけど、降りたことは数回しかない。僕に限らず、映画館・劇場・デパートなどがある駅以外は、たまたま通勤通学に使わない限り利用しないだろう。この町には、1970年まで人形町末廣という寄席があったというが、もちろん知らない。日本橋小学校の上にある日本橋社会教育会館で落語を聞いたことが何回かあり、その時に人形町駅を利用している。今は、けっこう古い情緒をウリにしているところもあるようだけど、地下鉄から上に出ると、「からくり時計」が二つある。ちょうど2時に火消しのからくりを見た。
   
 人形町は今ではチェーン店ばかりが目立つ感じだけど、少し歩くと古い感じも残っている。元々なんでここを散歩しようかと思ったかというと、永井荷風の「すみだ川」を読んだからである。幼なじみの女の子が芸者になることとなり、辛い別れがやってくる。「芳町」(よしちょう)に出るんだという。これがよく判らない。芸者のいるような町を花街(かがい)というが、昔から「東京六花街」というのがあるんだという。柳橋という場所は今では一つも料亭がないので、代わりに向島が入って、芳町・新橋・赤坂・神楽坂・浅草・向島を言う。花街にはなじみがないけど、芳町以外の街の名前はどこも有名で知っている。芳町だけ知らないんだけど、調べると「日本橋芳町」という地名がかつてあり、今は人形町なのである。地下鉄を出てすぐ「大観音寺」という寺がある。その寺に入る路地が何だか古そうな情緒を感じられる道だった。防火用井戸まで現存して使われている。
   
 大観音寺はこんなお寺。
  
 その路地を通り抜けて、左へ曲がって、さらに曲がって大通りの人形町通りに向かうと、そこに「谷崎潤一郎生誕の地」という碑が出てくる。ビルの半地下みたいなとこにあるから、大きな車が停まってると気付きにくい。上に「にんぎょう町谷崎」というお店が出来ている。ここで生まれていたのか。漱石、荷風、龍之介など東京生まれの近代作家の中でも、下町ど真ん中である。震災以後、関西に移住し、近代東京のモダン青年のイメージが薄くなってしまっているかもしれない。生誕の地の字は松子夫人のもの。上に「細雪」というお菓子の広告がある。
   
 谷崎生誕地のビルから道を隔てて、「玉ひで」がある。「親子丼」発祥の店で、1760年創業だというから長い。11時30分から13時まで並ぶと、ランチで特製親子丼が1500円。昔たまたま昼に通った時、ズラッと並んでいて、ここが「玉ひで」かあと感心した。入ったことはない。食べずに死にそうな気がするけど、まあそんなに悔いはない。近くにも古そうな店があって、そういうところが面白い。
  
 写真ばかりで長くなるので、2回に分けようかと思うけど、大観音寺や「玉ひで」の一角にあるものを少し。大観音寺の隣の路地をもっと通り過ぎていくと、初めて見ると何だろうという大きな建物がある。それが「日本橋小学校」で、上に「日本橋図書館」「社会教育会館」があるのである。複合施設になっている。ここの一角に「西郷隆盛屋敷跡」という案内がある。こんなとこに住んでたのか。でも、まあ案内板一枚ではなにも情緒を感じるわけではない。ところが、向きを変えると、後ろに都心にこんな建物が残ってるのかというトンデモ物件があった。
    
 さて、一回目の最後に。小学校から少し行った角に、「鯨と海と人形町」というパネルがあり、鯨の彫刻が置かれている。なんで鯨かは写真を拡大して読んでください。人形町の由来とも関わる話なのだが、それは2回目に書きたい。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東大散歩②-三四郎池や安田講堂

2014年12月27日 00時21分29秒 | 東京関東散歩
 東大散歩の続き。東大農学部を見たら、本郷通りを南下して「本郷キャンパス」に向かう。農学部から言問通りをまたいで陸橋が出来ているので、それを利用してもいい。でも東大も広いので、地図を見て門から行かないと迷う場合もあるだろう。様々な建物が現われ、イチョウ並木や三四郎池など自然景観も面白く、相当面白い散歩コースだと思う。(なお、東大には無料の東大博物館があるのだが、現在は閉館しているので見られない。)

 有名な赤門は後で見るが、実は正門ではない。正門は赤門の北の方にあり、そこからまっすぐ行けば有名な安田講堂である。1925年竣工で、登録有形文化財に指定されている。匿名の寄付で建てられたが、これは安田財閥の創始者で、暗殺された安田善次郎によるものだった。そのため「安田講堂」と言い習わされている。(正式には「東京大学大講堂」。)ここは、東大闘争時の「安田講堂占拠事件」と機動隊による強制排除の場所として、僕の世代にはテレビで見た印象が鮮烈である。もう、みんな朝から夜まで見ていた。そのため荒廃していたが、1990年の大改修以後、卒業式などもに使われているという。現在も再び大改修中で、そばには近づけなかったが、外見は非常に力強い。
   
 ちょうどイチョウ並木は黄葉の盛りで、素晴らしかった。是非、来年以後にまた行ってみたい。
   
 安田講堂から少し歩くと、「三四郎池」がある。正式には「育徳園心字池」である。夏目漱石「三四郎」に印象的に出てくるから、「三四郎池」というようになった。それはもちろん知っていて、前に見たこともあるんだけど、きちんと周りを歩いたことはなかった。けっこう大きい池なので、歩きがいがある。多少のアップダウンもある。写真を撮ると、ちょっと山の中みたいなムードがある。周りから隔絶された感じで、池の水面に映る景色が美しい。
   
 三四郎池のそばに大きな銅像があり、一体誰だろうと思うと、濱尾新(はまお・あらた 1849~1925)という元東大総長(枢密院議長や文部大臣などを歴任)の人物だった。また、イチョウに木のそばに、建築家のジョサイア・コンドルの銅像もあった。 
   
 さて、農学部3号館とともに都の歴史的建造物に選定されているのが、「七徳堂」という武道場があるが、これは改修中で見られなかった。もう一つ「東京大学広報センター」がある。「旧医学部附属病院夜間診療所、旧医師会事務局」だという。これは一体どこにある?どうもよく判らないと迷ってしまったが、東大病院、龍岡門の近くの通り沿いにある。休日に行ったので中には入れなかった。道の向こう側から撮った方がいい。1926年完成という。他にも歴史的な建造物が多いようだが、どんどん建て直されてしまう可能性がある。しかし、大きな機能的なビルではなく、堅固な石造りの方が「知の殿堂」のムードがあると思う。大学の風景というのは、そのような「近代化遺産」の魅力だろう。
   
 医学部、東大病院は本郷通りから行く場合、真裏の位置にある。通り沿いが小高くなっていて、銅像がある。誰かと思えば、ベルツスクリパという人だった。明治期のお雇い外国人の医学者である。ベルツは日記を残したことで有名だが、草津温泉を有名にした人でもある。大聖寺藩上屋敷跡(加賀前田藩の別家)の碑や水原秋桜子の句碑もある。
   
 こうやって歩き回っていると、けっこう時間が経つし疲れてくる。ぐるっと回って、最後に「赤門」から出ようと思う。1827年に作られた。重要文化財。本郷キャンパスは旧前田家上屋敷だが、11代将軍家斉の息女が前田家に嫁ぐ時に造られた門だという。常に人がいて記念撮影をしているので、この門だけを昼間に撮るのは不可能だろう。東大そのものを赤門に例えることもあるぐらい、有名な門だけど正門ではない。(前2枚は中から、あと2枚は外から。)
   
 外は本郷通りで、通りを渡ると樋口一葉や宮沢賢治などの故地。本郷三丁目周辺は東京の中でも極め付けに面白いところの一つだと思うけど、そっちはまた別に。東大はあまり行ったことがなかったし、縁遠い気持ちの人もいるかもしれないけど、散歩コースとしては東京屈指の場所ではないかと思った。是非、晩秋に歩きたい場所。また「三四郎」を読んでるけど、まだ行ったことはない東京近辺の人はぜひ訪ねるべきだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東大散歩①-農学部と弥生周辺

2014年12月25日 23時29分03秒 | 東京関東散歩
 東京散歩で大学も取り上げてきたので、家から近い東京大学を散歩しようかなと思った。東京では12月初旬がイチョウの黄葉の見ごろなので、12月2日と7日に出かけた。選挙運動期間である。選挙関係を書くのは終わりにして、こっちを書くけど時期がずれた。でもいつ行ってもいいのではないかと思う。(関係者以外、用のないものは入るなと門に書いてあるけど、たくさんの人が散歩してるし、外部公開している施設もあるので、問題ない。)2回行ったのは、途中でデジカメのバッテリーが切れてしまったからだが、一回では見逃しもあったので二度ぐらい行くほうがいい。

 東大は文京区の本郷一帯の他、目黒区の駒場の教養学部他全国に施設がある。今回、散歩したのは、東大というと普通思い浮かべる本郷キャンパスとその周辺。赤門、三四郎池、安田講堂など全国区の知名度を誇る名所が集まっているけど、その辺りは次回に回して最初に農学部とその周辺を取り上げる。赤門から本郷通りを北上して言問通りの信号を渡ったところ、この地域でも北にあるキャンパスである。地下鉄南北線東大前駅が近い。僕は地下鉄千代田線根津駅から寄り道しながら行ったけど、途中の話は後回しにして農学部の写真から。門を入るともう黄葉の盛り。
   
 特に最初の写真、ガラスに映って素晴らしいので、角度を少し変えて二枚撮った。奥の方の駐輪場は落葉が敷き詰められて凄かった。ところで、東大には「東京都選定歴史的建造物」が3つある。その一つが農学部3号館で、1941年建築の4階建ての建物である。門を入ってイチョウ並木の真向かい正面にある。本郷キャンパスを歩いていると、他にも古そうな建物がいっぱいあるんだけど、特にこれだけ指定されている理由は判らない。「震災復興計画に採用されたゴシック様式を踏襲」という。
   
 農学部で見逃してはいけないのは、門を入ってすぐ左側にある「農学資料館」である。びっくりしたことに、ここには「ハチ公の内臓」が保管されていた。ハチ公の飼い主だった上野博士の銅像もある。「ビタミン」の発見(「オリザニン」の発見)で有名な鈴木梅太郎のコーナーもある。小さいけれど、是非見ておきたい資料館である。また、門を入って左側に「朱舜水」の碑がある。明代の儒者で、明の滅亡により日本に亡命した。水戸学に大きな影響を与え、先ごろ散歩記を書いた小石川後楽園造営にも影響を与えた人物である。碑は「朱舜水先生終焉之地」とある。
   
 ところで、根津駅から東大に至る地域の地名は「弥生」という。そう、「弥生式土器」の弥生とはここ。弥生式土器発見の碑が工学部脇の言問通り沿いにある。その近くの道を曲がると、少し先に「弥生美術館」がある。高畠華宵の絵を中心に展示し、竹久夢二美術館も併設している。前はその隣に「立原道造記念館」があった。一回行ったことがあるが、惜しくも2011年に閉館となった。跡地は取り壊されているが、「やさしいひとらよ たずねるな!…」という道造の詩の一節が刻まれたパネルが無造作に工事現場に置きざりにされている。これはこれで奇観である。
   
 さて、根津駅から言問通りを行くと、左側に東大工学部が出てくる。一方、その反対側に渡って小さな通りを曲がっていくと、「異人坂」などという魅惑的な名前の坂がある地域に出る。その近くに作家、詩人のサトウハチローが住んでいた。「ちいさい秋みつけた」や「リンゴの唄」の作詞家である。前は家が記念館になっていて、閉館前に見に行ったことがある。(記念館は岩手県北上市に移されている。)今はすっかり取り壊されてマンションになっているが、説明のパネルが残されている。(写真ではよく判らないけれど。)その通りとは違うけれど、近くの通りに古そうな建物があり、近づいてみると「札幌旅館」とある閉館した旅館が残っていた。何だか由緒のありそうな…
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善光寺坂のムクの木-小石川散歩④

2014年11月25日 22時57分12秒 | 東京関東散歩
 小石川も広いが、小石川植物園などは別に書くこととして、いったんこれで終わる。最後はカテゴリーも変えて、文学散歩である。青木玉さんの「小石川の家」(講談社文庫)という本がある。幸田露伴(こうだ・ろはん)の孫幸田文(あや)の娘である玉さんが、母や祖父との幼い頃を回想した自伝的エッセイ。昭和初期の生活の香りが懐かしい。と言っても、僕は最近初めて読んだんだけど、どこかで小石川に住む幸田家の前には大きなムクの木がある、と聞いたことがあるようなのである。このあたりを歩くんだったら、是非そこに行ってみたい…と露伴も文もほとんど読んでないのに、何となくそう思ったわけである。文庫本の表紙は幸田家を訪れた安野光雅が描いている。まずはそれを。

 場所は地図をよく見て、大体判った。まずは伝通院である。一回目に書いたように、春日駅から春日通りを西へ10分ほど歩くと、伝通院下に出る。伝通院から右側へ坂が下りている。これが善光寺坂だが、そこを少し下っていくと、道のど真ん中に大きな木が見えてくるではないか。そのインパクトはかなり強烈。最初に見たのは6月だが、秋になって最近2回見に行った。写真に撮ると、向かいのビルが傾いているかに見えるが、これは広角のマジックで、もちろんそんなことはない。
   
 もう道の真ん中にある感じで迫力が凄い。「善光寺坂のムクノキ」という案内板がある。では、幸田家はどこにあるかというと、すぐ真ん前の家がそんなんだと思うけど、まあ個人の家だから塀だけを。幸田露伴(1867~1947)は、漱石と同年生まれ。「五重塔」などで有名だが、僕の世代だと「名前は聞いたことがあるけど、読んでない」人が多いのではないか。もう一世代下だと、名前もよく知らないだろう。向島に住んでいたが、震災以後、井戸に油が混じるようになり転居を決意、生家のそばの小石川に転居したとある。娘の幸田文(1904~1990)は、1938年に離婚して娘を連れて父の家に戻った。父の死後、随筆や小説で有名となり、映画化された「流れる」「おとうと」は見ているが、原作は読んでない。晩年に日本各地の崩壊地形を見て回った「崩れ」を読んだだけである。
 
 「家の庭の向こうに、道路の真ん中、大きな椋の木があって、道いっぱい枝を拡げていた。二階の祖父の書斎に座れば、まるで木の枝の上に居るような感じで廊下のガラス戸を開ければ枝先がさわれそうだ。目の前に青々とした枝が拡がって、家の庭にも実生の何本かが伸び、どの枝が親木の枝で、どれが庭の塀越しに枝を伸ばしている若木か見極めがつかない。」(「小石川の家」72頁)この樹は近隣の人々にも近隣の雀にも、安らぎの樹木となっていたという様子が続いて書かれている。「ムクノキ」(椋の木)は東アジアに分布する落葉高木で、特に西日本に巨樹があるようだ。ムクドリは、よくムクノキの実を食べることから名が付いたという。

 この木をもう一度見たいと思い、そろそろ落葉かなと思い、11月半ばに訪ねてみた。今度は、坂の下の方から行ってみる。こんにゃく閻魔を過ぎ、小石川2丁目という信号を左に行くと、すぐに坂。ここを登っていくと、少し先にムクノキが出てくる。その前に坂の由来の善光寺がある。そのすぐ先である。こっちの道の方が駅から行きやすいように思う。
   
 晴れていたので、背景の空に良く映えるが、落葉はまだほとんどないではないか。では、もう一度と23日に行ってみたのだが…。なんと、伸びすぎたので17日に区が伐採すると貼り紙があるのだった。
   
 これはまたすっきりしてしまったもんだ。こうなっては、また伸びる来春以降にまた行くべきか。それとも雪の日かなんかに見に行こうかな。そう、なんだか気に入ってしまって、また見に行きたいのである。ムクノキのすぐ近くに、慈眼院・澤蔵司稲荷(じげんいん・たくぞうすいなり)がある。ここのホームページを見ると、ムクノキは江戸時代から有名だったとある。境内には、芭蕉の「一しぐれ 礫や降って 小石川」の碑もあるというが、よく判らなかった。秋に行くと、紅葉がきれいで、絵を描いている人が多いのに驚いた。坂道の途中で気持ちのいい場所である。坂の下の善光寺は、もとは伝通院の塔頭だったが、明治になって信州の善光寺の分院になったという。坂の名の由来。写真は省略。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小石川後楽園-小石川散歩③

2014年11月24日 23時27分15秒 | 東京関東散歩
 小石川散歩の3回目は「小石川後楽園」。僕は小石川という地名をこの庭園で知ったんだけど、所在地の地名は今は「後楽」という。春日通りの北に、今「小石川1丁目」から「小石川5丁目」までの町名があるが、本来の小石川はもっとずっと広い地名なんだろう。岡山に有名な日本三名園の「後楽園」があるが、1923年に国の史跡、名勝に指定される時に、岡山と区別するために「小石川後楽園」と言うようになったという。今は国の特別史跡特別名勝に指定されている。もっとも「昭和の子ども」にとって、後楽園と言うのは野球場であり、遊園地である。それと別に「小石川後楽園」というものがあると知ったのは、ずいぶん後のこと。初めて行ったのも数年前である。

 ここは前に取り上げた六義園(りくぎえん)と並び、大名庭園の中でも名園中の名園だと思う。非常に素晴らしい日本庭園の美を味わうことができる。今は外国人観光客も非常に多く、数か国語のパンフが置いてある。今回は、10月の終り頃と11月23日に行った。その間の紅葉の違いなどを比べてみたい。(東京都心の紅葉はもう少し後の方が良かったようだ。)まずは10月末の写真。
   
 池に景色が映り、とても美しい。しかし、東京ドームやシビックセンターなどが背景に写ることを避けられない。では、11月23日の写真。
   
 この写真は中へ入って少し右の方、駐歩泉の先あたりで池を見る構図で撮ったもの(紅葉の4枚目を除き)だが、ここが一番構図が決まるのではないか。都立の庭園は9つあるが、面積は浜離宮が圧倒的に大きい。でも水の部分が多い。その次が六義園で、次いで後楽園。じっくり回ると、かなり時間もかかる。ここは、江戸時代の水戸藩上屋敷(元は中屋敷)で、水戸藩初代の徳川頼房が作り始め、2代目光圀の時代に完成した。幕末の斉昭時代のものもあり、歴史的に貴重なものがあるが、安政の大地震、関東大震災、空襲と3回の被害を受け、案外古い建物は残っていない。中では、「得仁堂」(とくじんどう)が光圀が18歳の時に「史記」を読んで、伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)の木造を安置したというところ。その近くには、朱塗りの「通天橋」や、石造りの「円月橋」がある。
   
 これらは何となく中国風の感じがあるが、それは明の遺臣・朱舜水の意見によるという。園の名も朱舜水の命名で、中国の「岳陽楼記」と言う本の「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から付けられた。幕末の水戸藩に生まれた藤田東湖は、水戸学の集大成として大きな影響力を持ったが、安政の大地震に際して、母を援けるために屋敷に戻って圧死した。後楽園の一番奥の方に、東湖の記念碑が建っている。中国の西湖に見立てたという堤とか、道々に敷かれた石畳などが中国風だという。もう僕などにはよく判らないが。
   
 最後に、入口のところや園内のあちこちの写真を載せておく。広くてノンビリできるということでは、六義園と後楽園かなと思う。だけど、JRの水道橋、飯田橋のちょうど間で、少し遠い。地下鉄の後楽園が近いが、入り口に近いのは、都営地下鉄大江戸線の飯田橋駅だと今回知った。もっとも大江戸線は入り口から駅までが遠い。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こんにゃく閻魔と牛天神-小石川散歩②

2014年11月23日 21時17分37秒 | 東京関東散歩
 東京の地図を見ていると、面白い名前のお寺や神社が多い。巣鴨のとげぬき地蔵などは、有名になり過ぎて何も感じなくなっているけど、文京区の小石川あたりには「こんにゃく閻魔」とか「牛天神」がある。ちょっと離れるので今回は行ってないけど「しばられ地蔵」というのもある。東京は大企業の都市だというのも間違いないが、一方で江戸時代以来の庶民の町的な部分もけっこう残っている。自分にはほとんど信仰心というものがないのだが、町を歩いて小さな寺社を見つけると、そこに地元の人(と思われる)が信心に来ているというのは、なんだか懐かしくなる光景だなと思う。

 では、こんにゃく閻魔に行ってみようと思うが、その前に寄るところがある。というか、実は一番最初にここに行ったのである。そして多くの人にお勧めなのが、まず「シビックセンター」に行くことである。要するに文京区役所なんだけど、すごく高いビルになっていて、高層に展望台がある。そして、一階に文京区観光協会があって、そこで散歩地図や博物館、美術館などのチラシが置いてある。文京区は歴史ある坂の町で、詳しい地図がないと探し物が見つからない。散歩に必須だから、まずここに行くべきだ。シビックセンターは集会などでよく使うところだが、上に上がったことがない。せっかくだから、一番上まで行くと、文京区がすっかり見渡せる。(最初の写真の緑が小石川後楽園。)ここは都営地下鉄三田線、大江戸線の春日駅から直結している。地名も春日で、今まで意識しなかったけど、これは春日局から来ている。江戸時代初期、3代将軍家光の乳母だった春日局にこの地の所領が与えられたという。隣の公園に春日局の銅像があった。
   
 シビックセンターから冨坂下信号のところを北へしばらく歩くと、こんにゃく閻魔(えんま)がある。正式の名は源覚寺。創建は江戸初期の1624年だから、日本全国的には格別古くないが、新開地江戸としてはそれなり。寺域は案外小さく、建物も新しい。由来となった仏像も見られない。ここには「こんにゃく閻魔」という仏像があり、右目が濁っているという。江戸時代中頃に、ある老婆が眼病の治癒を祈願したところ、夢に閻魔大王が出てきて、自分の目を代わりにして治してあげようと告げた。眼病は治り、老婆は好物のこんにゃくを断ってずっと供えた。これが「こんにゃく閻魔」の由来だとか。「汎太平洋の鐘」という、1690年に完成し、戦前にサイパンに贈られ、戦後になってテキサスで見つかったという鐘があるが、逆光でよく撮れなかった。
   
 その前の通り「えんま屋」という居酒屋があった。昼に通ったけど、ランチで流行っていた。その通りの店は「えんま商盛会」と名乗っていて、ホームページもある。道には「好きです この街 小石川 えんま通り商店街」と書いた旗が吊るしてある。そこをしばらく行って、小石川2丁目の信号を左折すると善光寺坂で、ずっと行くと伝通院。善光寺坂は別に書くので、今はここで終わり。ここからは本郷も近く、一葉や賢治など文学散歩の場所だけど、そっちもまた別に書きたい。
  
 さて、「牛天神」は伝通院前から安藤坂をずっと下って行ったところにある。後楽園駅から小石川税務署を通り過ぎ、坂の方を登ったすぐ。天神に牛は付き物だから、この名は不思議ではないけど、神社が「牛天神」と名乗っているのも他にない。道を少し入ると上り口があるが、ものすごい急な階段で、夏に行ったときは登る気にならなかった。今回は菊まつりで菊が置いてあった。登りきると、牛のかたちにくり抜いた板があり、おみくじが結び付けられている。下の安藤坂に明治中期、歌塾「萩の舎」があった。樋口一葉が通ったところである。(その説明板は前に「荷風散歩」の中に載せた。)その「萩の舎」の主催者だった中島歌子の歌碑が牛天神にある。
   
 下の写真の最初は牛天神の本殿だが、ここの一角にもう一つ別の神社があった。それが三枚目の写真。「太田神社」と言って、芸能の神だという。震災の頃までは、芸能界の信仰篤かったというが、今は忘れられている。芸能界を目指す人は行ってみたらどうか。またここの御神木である「木斛」(もっこく)が珍しい。どちらも行ってみたら小さな寺社で、ここだけ訪れるのはどうもというところだったけど、近くに見所が多いので、東京ドームの近くにこんなところもあるという紹介。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伝通院-小石川散歩①

2014年11月22日 21時43分50秒 | 東京関東散歩
 散歩の写真がたまっているので、少し現実を離れて東京散歩のまとめ。小石川伝通院あたりから。初めて行ったのは6月なんだけど、10日ほど前にもまた行ってみた。もともと永井荷風の生地に近く、荷風のエッセイに「伝通院」があるから行ってみたのである。ついでに周囲の小石川一帯に史跡がたくさんあるので、最近はよく散歩している次第。

 「小石川」という地名は、小石川後楽園とか小石川植物園というのがあるので昔から知っていた。でも、戦前まであった「小石川区」が「本郷区」と合併して、今の文京区になっているので、「小石川」と言われても今ではあまりなじみがない。JRや地下鉄の駅名にないと、土地勘が判らなくなるのである。ネット検索では「小石川中等教育学校」(旧府立五中、都立小石川高等学校)が最初に出てくる。僕も東京の教員をしていたから、小石川というと学校の名前という感じなんだけど、所在地は文京区の北の方である。一応、旧小石川区の外れにあるようだけど、文京区の南の方の小石川後楽園とはずいぶん離れている。一体、「小石川ってどこだ」と昔から思ってきた。

 だんだん判ってきたけど、荷風が書いてた伝通院(でんづういん)がとても大事なのである。ビルが立ち並んでいるから、もうよく判らないが、伝通院というお寺のある場所が高台の頂点で、その辺りの川に小石がいっぱいだったのが地名の由来だとある。伝通院と言っても、僕は最近になるまで名前を聞いたことがある程度だったけど、ここは江戸時代には「江戸の三霊山」だった。他は上野寛永寺と芝増上寺である。つまり将軍家ゆかりの寺である。伝通院も同様で、ここには徳川家康の生母、「於大の方」の墓所がある。そもそも於大の方の法名が「伝通院殿」だったから、ここは伝通院なのである。そして小石川一帯は、江戸時代はほぼ伝通院の所領だった。

 というようなことが判ってきて、では伝通院に向かう。地下鉄の春日または後楽園からしばらく歩く。文京区役所前の大きな通り、春日通りを西へなだらかに登って行き、冨坂警察署を過ぎると「伝通院前」という信号がある。右を見わたすと、道路の突き当りが伝通院。荷風の時代にも火事になっているが、空襲でも焼けた。まず見えてくる大きな山門は2012年再建なので、真新しい姿で町を見下ろしている。山門の前に「酒を帯びて入るな」と書いた石柱があるが、これは今はない処静院(じょじょういん)という塔頭(たっちゅう)にあったものだとある。
    
 山門を入ると、かなり大きな境内だが、本来はもっと大きく、隣にある淑徳SC中等部・高等部という女子校も元は伝通院の中だった。山門前に会った石柱の処静院(じょじょういん)だけど、そこは1863年に浪士組が結成され集まった場所である。清河八郎らが将軍警護を名目に浪士を集めて、京都に旅立った。様々な経過があるが、この浪士組が後の新撰組となる。集まった250名ほどの中には、近藤勇、土方歳三、沖田総司、芹沢鴨らがいた。このような歴史の舞台となった伝通院だけど、今の本堂は1988年に再建されたもの。
  
 ということで、建物には古いものはないので、現在は歴史散歩的には「墓めぐり」が中心。徳川関係だけでなく、有名人の墓がいっぱいある。墓地に入る前に案内図がある。ともあれ、まずは大きく目につくのが徳川関係で、於大の方だけでなく、千姫の墓もある。先の3つが於大、最後が千姫。他にもずらっと将軍の正妻の墓などが並んでいるが、省略。
   
 その他のお墓には、ズラッと並んでいるのが歴代住職の墓。次が作家・佐藤春夫、浪士組結成の呼びかけ人・清河八郎、明治時代の思想家・杉歌重剛
   
 続いて、明治初期の外務卿で、幕末の尊皇派公家・沢宣嘉、日本画家・橋本明治、作家の柴田錬三郎。柴田錬三郎は、眠狂四郎シリーズなどで有名で「シバレン」と呼ばれたが、他の歴史上の有名人と違い、大きな案内版がない。だから少し探してしまうけど、案内図の位置からしてこれだろう。本名は斎藤と言うようだし。
  
 ところで、伝通院の前に「浪越指圧専門学校」がある。「指圧の心は親心 おせば生命(いのち)の泉湧く」の言葉で存命時は超有名人だった浪越徳治郎の作った学校である。学校の前に本人の像などがあるが、伝通院に入って左手奥に「指塚」もある。これも珍しいもので、見逃せない。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銀座の面白い建物(追補)-銀座散歩⑥

2014年09月14日 00時11分53秒 | 東京関東散歩
 7月に銀座散歩を5回書いたけど、その後さらに面白い新旧の建物を知った。銀座は有名な建物やお店が多いから、それを見てるだけで書けてしまう。リサーチが不足していたのである。そこで追補として、もう一回書きたいと思う。僕がそれらの建物を知ったのは、「中央区ふれあい街歩きマップ2 銀座」という中央区観光協会が出しているマップによる。これはイラストの地図になっているもので、京橋プラザ内の中央区観光協会で入手できる。

 まず、最大の驚きは「奥野ビル」の「発見」である。1932年竣工と言うこのビルは、裏通りにあるからしらみつぶしに銀座を歩かない限り、なかなか見つけにくい。銀座一丁目、中央通りを名鉄メルサのところで曲がって、2本目の道を左に入る。銀座ファーストビルの真向い。そこに、1930年代のパリかと思うような古ぼけたビルが残っているのである。
 
 このビルがすごいのは、画廊が多くて中に自由には入れること、そしてそこに「手動式エレベーター」があるということである。手動と言っても、もちろんエレベーターそのものは電動である。手動なのは開閉ドアで、だから自分で引っ張って開けない限り中へ入れない。そしてこれに乗ることができるのである。注意点は下りる時にドアを閉め忘れないようにすることで、忘れるとブザーが鳴り響く。
    
 このレトロ感は半端じゃない。実に不思議な空間を発見した喜びである。いつまでもあるわけでもないだろうから、是非今のうちに見ておきたいところではないか。マップには銀座最古のビルは、大正13年竣工の銀緑ビルと出てるんだけど、これは松坂屋の裏あたりで再開発であたり一帯空地になっていた。一方、銀座東3丁目あたりのマンションの真ん中に「酒蔵秩父錦」という居酒屋が残っている。昭和2,3年ごろに立てられたとマップにある。それも不思議なんだけど、銀座8丁目に銀座で一番古いバーがあるとあり、見に行くと蔦のからまる古い建物があった。前に見てるけど、昼間だと何だか判らない。知らないと廃屋のように見えてしまう。しかし、そこが山本五十六や白洲次郎も通ったというバー「ボルドー」なんだという。昔は会員制だったけど、今は誰でも行けるらしい。5千円程度で飲めるというから、行って行けない値段ではない。銀座にはよく見ると古い建物が多いが、お店が多く、単なる古いアパートは珍しい。下の写真4枚目は、東銀座で見つけたアパート。
   
 一方、新しい方を見ていくと、これもどうして気付かなかったかと思うのだが、銀座2丁目、プランタンのあるところを入るマロニエ通りに、とんでもない「デビアス銀座ビルディング」がある。一度見たら絶対に忘れられない姿だが、表通りからは見えないから知らない人も多いに違いない。2008年竣工である。こんな屈曲したビルは他に見たことがない。2枚目ずつ別の日。
   
 そこに行く手前に、「ミキモトギンザ2」がある。おっとミキモトは裏にもあったのか。2005年竣工で、ピンクの外壁に様々なガラス窓が散りばめられている。全体を撮りにくいのが困る。プランタンの連絡通路からよく見える。また、中央通り7丁目のライオンビルを過ぎたあたりに「ニコラス・G・ハイエックセンター」というスウォッチグループのビルがある。オメガなどの高級時計のブランドショップと本社機能を兼ねたビルとのことで、ビルの名は創始者から取る。2007年竣工。情報はふれあいマップだけなので、他にも面白いビルが建てられているのかもしれないがよく判らない。新しいビルの方は、お店だから入りやすそうなものだが、高級イメージの店だから、ジーパンにデジカメ姿では入りにくい。
   
 他にも前には載せていない碑をいくつか見た。専修大学発祥の地、佐久間象山塾跡、狩野画塾跡などの碑だけど、まあプレートだけだから省略することにする。こんな古いビル、新しいビルがある銀座という都市空間は、やはり今でも魅力の多い場所なんだと改めて思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偏奇館の跡-荷風散歩④

2014年07月25日 22時58分13秒 | 東京関東散歩
 永井荷風が1920年から1945年まで住んだ麻布市兵衛町(現・六本木1丁目)の「偏奇館」の跡を見たいと思って、過日出かけてみた。もう東京は猛暑で散歩どころではなくなってしまったけれど、一週間ぐらい前まではまだ「梅雨」だった。雨は多いが、大雨より曇天の方が多く、何しろ夏至の時期だから、夕方も明るい。けっこう梅雨どきは散歩日和だなあと思ったことだった。

 この「偏奇館」は東京大空襲で焼失し、荷風の長年に亘る蔵書類なども灰塵に帰した。かの「断腸亭日乗」だけは本人が持ち出して、その後知人を通して疎開させてあったので現在に伝わったのである。その後、そこに跡地を示すプレートが建っていたことは知っているが、行ったことがなかった。ところで、今回知ったのだが、その一帯は大開発され「泉ガーデンタワー」という巨大施設になってしまい、偏奇館跡のプレートも移動された。そのガーデンタワーの一角に碑があるということだったけど、詳しいことは知らないまま出かけた。その「泉ガーデンタワー」は東京メトロ南北線六本木一丁目駅に直結していると出ていた。南北線というのは、いつもは全く乗らない路線で多分数回目だと思うけど、ある日出かけてみて、探し回った。ウロウロしてしまったけど、結局裏の駐車場側に見つかった。高速道路側ではなく、泉屋博古館分館に向かう方である。最後の写真は泉ガーデンタワーの正面。
   
 「偏奇館」というのは、「偏った」「奇人」の館というにふさわしい名前だけど、もともとは荷風が建てたのではなく、坂の途中にあった洋館を買ったものである。ペンキを新たに塗って改装して転居したので「ペンキ」にかけて名付けたもの。生地は文京区小石川、その後親が建てた邸宅は新宿区大久保余丁町と「山の手」だった。その後、築地や木挽町(東銀座)などに住んだこともある。勤め先(慶應)にも近く、遊び場所(待合)にも近く、医者にも通院しやすい。そのうえ、若い時に書いているものも「下町情緒」みたいな話が多く、下町に住んでみたかったのである。でも実際に住んでみると、人間関係がうっとうしい、近所がうるさい、静かに本が読めない(日比谷公園まで逃げていって読書している)ということで、下町を逃げ出すことにしたのである。他にも見たけど、結局麻布の坂の家に決めた。当時は繁華街には遠く、郊外とまでは言えないがかなり外れに近い。(当時も麻布区で東京市内だけど、渋谷は豊多摩郡だった時代だから、「東京市の外れ」なのである。)

 川本三郎「荷風と東京」97頁に当時の地図が載っているが、それをみると偏奇館のすぐそばが住友の屋敷である。ガーデンタワーの頭にある「泉」というのは、もともとは住友の屋号だそうで、この一帯は住友の地所だったのである。今もガーデンタワーの最上階は「住友会館」と書いてある。近くに「泉屋博古館別館」という美術館があるが、そこも住友所蔵品の美術館だった。ということで、住友不動産が大規模開発を計画して20世紀末に計画が進み、2002年に工事が完了したのである。それによって偏奇館があった坂そのものが無くなってしまった。偏奇館の跡地はタワー内のどこかのエスカレーターかなんかがあるところ。空襲は屋敷は焼いても地形をここまで変えることはない。六本木一帯は巨大開発により、もともとの地形は全く影も形もなくなり「土地の記憶」も無くなったところが多い。

 もともと住友の隣にスペイン公使館があり、それは今も変わらずスペイン大使館となっている。偏奇館に至る坂道もほとんど無くなったわけだけど、裏の方にある「道源寺」とその下にある「西光寺」は残っている。その道が「道源寺坂」で、荷風のいたころを多少ともしのばせるのは、その坂道ぐらいだろう。もっともこの道も舗装され歩きやすくなっているわけだが。
    
 磯田和一「東京遊歩東京乱歩 文士の居た町を歩く」(河出)という10年前に出た絵入りの本があるが、そこには以前の偏奇館跡地のプレート近辺の絵が載せられている。でも、本が出た時点でガーデンタワーは完成していたはずだから、もっと前に見てきたものだろう。荷風は土地もその後買っていたのだが、戦後はその場所に家を再建せず、千葉県市川市に住んで浅草に通った。土地は売ってしまったので、もう跡地には他の家が建っていた。絵をみるとアパートかなんかのようである。でも一帯は坂道の中に家が立ち並んだ地区だった。昔は市電(都電)かバスしか足がなかった地域だけど、今は少し歩けば地下鉄が何本も通っている。時代が違うと言えば、もう他の言葉もいらないようなもんだけど、今は高速道路と超高層ビルの町である。この「発展」は喜ぶべきか。僕には悲しいだけだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする