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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

エリザベス2世、アラン・タネール、イレーネ・パパス他ー2022年9月の訃報③

2022年10月11日 22時29分47秒 | 追悼
 2022年9月の訃報、外国人編。エリザベス女王以外は映画関係で知った名前が多い。「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」のエリザベス2世が9月8日死去、96歳。1926年4月21日に後のジョージ6世の長子として生まれた。1936年12月にエドワード8世が「世紀の恋」と騒がれた事件(既婚のアメリカ女性シンプソン夫人との恋愛問題)で退位し、弟のジョージ6世が即位した。(映画『英国王のスピーチ』のモデル。)その結果、エリザベスが10歳で王位継承順位第1位となったのである。1952年2月6日、父が死去しエリザベスが即位。以後、英国史上最長の在位70年に及んだ。今年春には在位70年式典も行われた。70年となれば、もうそれ以前を記憶している人はほとんどいない。トラス新首相の任命を9月6日に行い、8日に健康が懸念されると王室が発表。そしてその日に亡くなった。実に理想的な「死に方」なのに驚いた。世界中で高齢者の多くはこう死にたいものだと思っただろう。
 
 即位の時点ではインドは独立していたものの、ケニア、ガーナ、マレーシア、香港など世界中にまだ多くの植民地を持っていた。それを次々に手放す治世だったわけだが、女王の存在は連合王国にとって大きな意味があっただろう。一方、旧植民地側から見れば、やはり旧宗主国には複雑な感情がある。しかし、まあエリザベス女王に関しては多くの報道がなされたので、ここでは省略したい。(僕は日本の報道が実に大きいことに驚いた。)来日した時の日本中の熱狂ぶりは何となく覚えている。僕はエリザベス女王の訃報にあまり大きな関心がないのだが、まああれだけ犬を飼い続けたんだから「いい人」ではあるんだろう。僕は愛犬家には甘いのである。飼ったのは父が子ども時代に与えたウェルシュ・コーギー・ペンブロークだった。
(愛犬と)
 スイスの映画監督アラン・タネールが9月11日に死去。92歳。50年代には英仏で映画の仕事をしていたが、60年代にスイスに帰って記録映画を作り始めた。日本では『ジョナスは2000年に25才になる』(76)、『光年のかなた』(81、カンヌ映画祭審査員特別グランプリ)が84年、85年に旧ユーロスペースで連続公開された。『ジョナス…』は五月革命挫折後の若者たちが精神世界やエコロジーに惹かれながら生きていく様を描く。2000年に20歳になるジョナスは、つまり1975年生まれになる。新しい世代が生まれて映画が終わる。どういう21世紀になるんだろうと思ったが、今は47歳のジョナスの人生はどんなものだろう。『光年…』はアイルランドが舞台だが、まるでドン・ファンシリーズの映画化のような若者と老師の瞑想を描く。この2作の感銘は深く、僕は以後もタネール作品を見続けた。『白い町で』『幻の女』などがミニシアターで公開された時代のことである。
(アラン・タネール)
 ギリシャの女優、イレーネ・パパスが9月14日死去、96歳。国際的に活躍した大女優だったが、時間が経ちすぎて忘れられたかもしれない。62年の『エレクトラ』、64年の『その男ゾルバ』などマイケル・カコヤニス監督作品で世界に知られた。同時代的に見たのは、岩波ホールで77年に公開された『トロイアの女』(71)。もっとも主演とは言えないけれど。このようなギリシャ悲劇などばかかりでなく、『ナバロンの要塞』『1000日のアン』など世界の多くの映画に出演した。
(イレーネ・パパス)
 アメリカの女優、ルイーズ・フレッチャーが9月23日に死去、88歳。『カッコーの巣の上で』の看護婦長役でアカデミー主演女優賞を受賞した人である。もちろん『エクソシスト2』など他の作品、あるいは『スター・トレック』など多くのテレビドラマに出ているけど、結局は『カッコーの巣の上で』のド迫力で記憶される人である。
(ルイーズ・フレッチャー)
 アメリカの女優、マーシャ・ハントが9月17日に死去、104歳。30年代、40年代に愛らしい容貌で多くの映画の脇役として活躍した。しかし、この人はその事によってではなく、50年代初期のマッカーシズム時代にあくまでも自由主義的主張を曲げなかったことで知られている。ブラックリストに名前が載り、50年から56年までほとんど干されていた。「ハリウッド・テン」の一人、ダルトン・トランボが監督をした反戦映画『ジョニーは戦場に行った』(71)で主人公の母親を演じている。この間も公民権運動、環境保護運動、ホームレス支援などに積極的に関わってきた。
(マーシャ・ハント)
 アメリカの写真家、映画監督のウィリアム・クラインが9月10日死去、96歳。陸軍の軍人としてパリに滞在。除隊後にソルボンヌ大学で学んだ。50年代以後、常識を破る「ブレ・ボケ・アレ」の手法で都市を切り取る写真で評判になった。『ニューヨーク』(56)、『東京』(64)などで知られた。2012年にはロンドンの国立現代美術館で森山大道と2人展を開いている。60年代末からは映画監督としても活躍。『ポリー・マグーお前は誰だ? 』、『ベトナムから遠く離れて』(オムニバスの一編)、『モハメド・アリ/ザ・グレーテスト』などがある。
(ウィリアム・クライン)(「東京」)
フランク・ドレイク、2日死去、92歳没。アメリカの天文学者。地球外文明の数を推定する「ドレイクの方程式」の提唱者として知られる。
ピーター・ストラウヴ、4日死去、79歳。アメリカの幻想文学、ホラー作家。キングと共作した『タリスマン』、映画化された『ゴースト・ストーリー』などで知られる。ブラム・ストーカー賞を3回受賞している。
ジュスト・ジャカン、6日死去、82歳。フランスの映画監督。ファッション写真家として成功した後、映画界に進出した。1974年に『エマニュエル夫人』でデビューし、ソフトポルノとして世界的に大ヒットした。その後も『O嬢の物語』『マダム・クロード』『チャタレイ夫人の恋人』など同様のエロス路線の映画を監督した。ある種、忘れがたい監督である。
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三遊亭円楽、佐野眞一、平良敏子、田中琢他ー2022年9月の訃報②

2022年10月10日 20時54分34秒 | 追悼
 6代目三遊亭円楽が9月30日に死去、72歳。(「圓楽」が本当だが、ここでは円楽と書く。)2022年1月に脳梗塞で入院して、8月に国立演芸場で「復帰」した。僕はそれを見たけれど、もう「本格復帰はないだろう」と感じた。そうは書けないけど、最後の公演という感触を持った。まさかここまで訃報が近いとまでは思わなかったけど。この人は「笑点」では「腹黒」キャラだが、政治絡みの回答は常識をはみ出さない。本質は気配り上手の善人だった。何回か聞いてるけど、名人級とは言えなかっただろう。むしろ各団体をまとめるプロデューサー的才能が貴重。一番記憶にあるのは、神田伯山真打披露の口上。それとその後の形態模写。大師匠の圓生立川談志のマネが絶品だった。よほど見巧者(みごうしゃ)だったのである。
(6代目三遊亭円楽)
 6代目円楽らは今でも「五代目円楽一門会」と称している。1978年に三遊亭圓生とともに落語協会を脱退したことに端を発している(落語協会分裂騒動。)その時一緒に脱退しながら復帰した圓生直弟子が3人いた。そのうち川柳川柳三遊亭円丈は2021年11月に亡くなった。そして圓生直弟子の最後となっていた三遊亭圓窓が15日に死去した。81歳。圓窓も70年から7年間「笑点」に出ていた。落語界では「圓窓五百噺を聴く会」を完遂したことで知られている。かつて7代目圓生襲名に名乗りを上げたこともあった。
(三遊亭圓窓)
 ノンフィクション作家の佐野眞一が9月26日に死去、75歳。この人は昭和史を彩る人物評伝に優れたものが多い。無着成恭『山びこ学校』に作文が載った生徒のその後を追った『遠い山びこ』、民俗学者宮本常一と渋沢敬三を描く『旅する巨人』は感銘深い。『東電OL殺人事件』では冤罪可能性を追った。しかし、2012年10月に当時の橋下徹大阪市長をめぐる連載で差別問題を起こした。その後盗用疑惑も明るみに出た。講談社ノンフィクション賞を受けた『甘粕正彦 乱心の曠野』など、持ってるけど読んでない本がある。戦前の枢密院議長倉富勇三郎の膨大な日記を読み解く『枢密院議長の日記』(講談社現代新書)が力作である。
(佐野眞一)
 沖縄を代表する織物「芭蕉布」の復興に尽くした染織家平良敏子が9月13日に死去、101歳。沖縄本島北部の大宜味(おおぎみ)村喜如嘉(きじょか)に生まれ、戦時中に倉敷に徴用された。戦後に大原総一郎から柳宗悦「芭蕉布物語」という本を紹介されたという。そして、沖縄へ帰った後で、滅びる寸前だった芭蕉布の技術を復興させた。芭蕉布を沖縄を代表する工芸品に育てただけでなく、優れたデザインが海外でも高く評価されている。1965年沖縄タイムス文化賞、1973年に「現代の名工」選定、1986年に吉川英治文化賞。2000年には「人間国宝」に認定された。
 (平良敏子と芭蕉布)
 沖縄の「人間国宝」ではもう一人、2000年に「琉球古典音楽」として認定を受けた照喜名朝一(てるきな・ちょういち)が10日死去、90歳。幼少期から三線に親しみ、86年に「組踊」で国の重要無形文化財保持者に認定された。世界に琉球芸能を紹介するとともに、後継者育成にも努めた。
(照喜名朝一)
 考古学者、元国立奈良文化財研究所所長の田中琢(みがく)が9月16日死去、88歳。知らない人が多いと思うけど、この人は歴史関係者にはよく知られている。平城宮跡で木簡第1号を見つけた人である。91年に出た集英社版日本の歴史第2巻「倭国大乱」はこの人が書いている。また岩波新書から佐原真氏との共著「考古学の散歩道」「発掘を科学する」、また単著「古都発掘 藤原京と平城京」を著している。だから90年代にはよく読んでいた人だった。
(田中琢)
 詩人、映像作家の鈴木志郞康(しろうやす)が8日死去、87歳。64年に天沢退二郎、菅谷規矩雄らと誌誌「凶区」を創刊。68年、詩集『罐製同棲又は陥穽への逃走』によりH氏賞。破壊的な口語表現が衝撃を与えた。同時に60年代初期からジョナス・メカスの影響で個人映画の撮影を始めた。非常の多くの映像作品があるが、1977年の「草の影を刈る」という200分の大作を四谷三丁目にあったイメージ・フォーラムで見た記憶がある。詩人としては高見順賞、萩原朔太郎賞なども受賞している。90年から多摩美大教授。「極私的」という言葉は鈴木の造語だとウィキペディアにある。追悼記事があっても良い人だと思う。
(鈴木志郞康)
 劇作家、演出家、作家の宮沢章夫が9月12日死去、65歳。1985年にシティボーイズや竹中直人、いとうせいこうらとコント集団「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を結成。90年からは劇団「遊園地再生事業団」を主催。90年代の「静かな演劇」系の群像劇を手掛けた。93年「ヒネミ」で岸田国士戯曲賞。2010年「時間のかかる読書」で伊藤整文学賞。僕はお芝居は見てないんだけど、朝日新聞に連載されたエッセイを愛読していたことを思い出した。
(宮沢章夫)
 映画監督の澤田幸広が21日死去、89歳。日活アクション映画の最末期に監督に昇進、1970年の「斬り込み」「反逆のメロディー」などの新鮮な描写で注目された。ロマンポルノに転換後も「濡れた荒野を走れ」などを手掛けた。また一般映画として「あばよダチ公」「高校大パニック」、児童映画として「ともだち」(ベオグラード児童映画祭グランプリ)などを監督した。またテレビでは「太陽にほえろ!」「大都会」「西部警察」など多くのアクションドラマを手掛けている。池袋の新文芸坐で8月に特集上映を行っていたが、大体見ているのでパスしてしまったら、直後に訃報を聞くことになった。
(澤田幸広)
 元官房副長官の古川貞二郎が5日死去、87歳。旧厚生省で事務次官を務めた後、95年に官房副長官に就任。村山、橋本、小渕、森、小泉内閣で留任して、2003年9月まで務めた。在任期間8年7ヶ月に及び、これは歴代2位になる。(1位は杉田和博、3位は石原信雄。)在任中はハンセン病国賠訴訟の控訴断念、米国同時多発テロへの対応など難局の対応にあたった。副長官退任後は、「皇室典範に関する有識者会議」のメンバーとして女系天皇も認める報告書をまとめた。
(古川貞二郎)
西東清明(さいとう・きよあき)、7月18日死去、81歳。映画編集技師。東映で『Wの悲劇』『鉄道員』など多数を手掛けた。
小林七郎、8月25日死去、89歳。アニメ美術監督。映画『ルパン三世 カリオストロの城』『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』などの他、多くのテレビアニメを手掛けた。
高田一郎、1日死去、93歳。舞台美術家、武蔵野美大名誉教授。59年の「マリアの首」などで知られ、85年にはミラノスカラ座で浅利慶太演出のオペラ「蝶々夫人」の美術を担当した。他に「頭痛肩こり樋口一葉」など多数。
おおたか静流(しずる)、5日死去、69歳。歌手。「花」のカバーをはじめ多くのCMソングを歌っている。「悲しくてやりきれない」のカバーは映画『シコふんじゃった』の主題歌に使われた。
神坂次郎(こうさか・じろう)、6日死去、95歳。作家。『元禄御畳奉行の日記』『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』など多数。
渡部又兵衛、7日死去、72歳。コント集団「ザ・ニュースペーパー」代表。政治家に扮し時事ネタで人気を得た。
久米是志(くめ・ただし)、11日死去、90歳。ホンダ3代目社長。本田宗一郎から直接指導を受けたエンジン開発者。初代シビックの開発責任者。72年に世界で最も厳しい米国の環境規制を初めてクリアーした。83年から90年に社長を務め、その後のロボット、航空機などの研究開発を進めた。
彩木雅夫(さいき・まさお)、16日死去、89歳。作詞家。「長崎は今日も雨だった」で知られる。
石井いさみ、17日死去、80歳。漫画家。「750(ナナハン)ライダー」がヒットした。
中村健之介、22日死去、83歳。ロシア文学者、北海道大学名誉教授。ドストエフスキーの研究で知られた。他にロシア正教の大司祭ニコライの研究で知られ、全日記の監訳を務めた。新書、文庫などにあるニコライ紹介書はこの人の著書である。
田澤耕(たざわ・こう)、22日死去、69歳。カタルーニャ語研究者。カタルーニャ語の文法書、辞書などを多数まとめるとともに、ガウディ等カタルーニャ文化を広く紹介した。また日本文学などをカタルーニャ語に翻訳するなども行った。2003年、カタルーニャ州政府よりサン・ジョルディ十字勲章を受賞した。
有吉道夫、27日死去、87歳。将棋棋士9段。「火の玉流」と呼ばれ、公式戦1000勝を達成した。69年の名人戦では師匠の大山康晴と史上初の師弟による名人戦として注目された。
山脇百合子、29日没、90歳。絵本作家、挿絵画家。実姉の中川李枝子との共作が多く、『ぐりとぐら』の挿絵で知られた。
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武村正義、池永正明、福井達雨ー2022年9月の訃報①

2022年10月08日 22時58分38秒 | 追悼
 2022年9月の訃報。ジャン=リュック・ゴダールを別に書いた。僕にとってゴダールの訃報がすべてみたいな月だったけど、思いのほか重要な訃報が多かった。月末に亡くなった三遊亭円楽は、8月に国立演芸場で聞いたばかり。先月、青森県の蔦温泉を書いたが、そこにアントニオ猪木の墓があると書いたら、10月1日に亡くなった。何だか偶然にしては怖すぎの感じ。月ごとなので猪木は来月になる。全部で3回に分けて、まずはそう言えばこの人がいたなという3人を取り上げたい。

 元新党さきがけ代表武村正義が9月28日に死去。88歳。マスコミは「元官房長官」と書いたが、書くならば「元大蔵大臣」ではないか。21世紀になって、官房長官の重要性が増しているが、昔は首相の次は外相、蔵相だった。だから、「自社さ」三党連立の村山富市内閣が出来た時、自民党総裁の河野洋平が外相、さきがけ代表の武村が蔵相に就任したのである。官房長官というのは、前年1993年に非自民8党派連立の細川護熙内閣が出来た時に就任したものである。
(武村正義)
 93年総選挙では、自民党から新生党(小沢、羽田グループ)とさきがけが離党し、新生党は社会、公明、民社などと政権合意をまとめて選挙に臨んだ。どちらも過半数を取れず、細川の日本新党と武村の新党さきがけが組んだ院内会派「さきがけ日本新党」がキャスティングボートを握ることになった。そして小沢一郎が日本新党の細川を首相候補として擁立して、政権交代が実現した。しかし、その後「国民福祉税」構想などで細川首相と距離を置くようになり、94年4月の細川首相の辞意表明で両者の関係は終わる。

 この背景には連立政権の実質的リーダー、小沢一郎(新生党代表幹事)に対する警戒心がある。「豪腕」で知られた小沢は、当時「普通の国」を目指す「危険な政治家」と思われていた。リベラルな政治姿勢の河野洋平が総裁を務める自民党の方が連立相手として相応しいという判断もあったのだと思う。ある意味「反小沢」でまとまったのが、あり得ないと思われた社会党委員長を首相に担ぐ「自社さ連立」内閣だったのである。大蔵大臣は村山首相が辞任する96年1月まで務めた。その間、フランスが南太平洋で大気圏内核実験を行った際に、現職蔵相でありながら現地の抗議デモに参加したことが忘れらない。
(自社さ三党連立、左から武村、村山、河野)
 武村正義については、衆議院議員になる前の方が興味深いと思う。高校時代は民青で、名大工学部から東大教育学部、経済学部と大回りして、国家公務員上級試験に合格。27歳、妻子ありの経歴を後藤田正晴が面白がって、自治省に採用されたとウィキペディアにある。1971年に郷里の滋賀県八日市市長に当選。自転車で通勤する36歳の若い市長は全国的に注目された。1974年には当時の野崎知事に反発する勢力に擁立され、4野党推薦の「革新」候補として滋賀県知事選に立候補して当選した。78年、82年には無投票で再選。この間、79年には琵琶湖の水質保全のための合成洗剤追放条例(琵琶湖条例)や風景保全のための条例を成立させた。
(知事時代)
 僕は知事就任以前から注目していたが、87年総選挙に当選した後は自民党に入党してガッカリしたものだ。しかし、「政治とカネ」の問題を考える「ユートピア政治研究会」を結成し、これが「新党さきがけ」につながる。日本では珍しい「環境重視の保守リベラル政党」の可能性があったかもしれないと思う。だが三党連立を成功させる「寝業師」の面も持ち、その結果小選挙区制度に対応するため「社・さ」で新党を結成すると言うとき、鳩山由紀夫に「排除」されてしまった。その時点では「自民寄り」のイメージが強くなってしまったのである。しかし、僕は思うのだが、鳩菅の軍師として民主党に武村がいたら歴史は少し変わったのではないか。今後大国が終わる日本において、武村が主張した「小さくともキラリと光る国」は再発見されると思っている。

 元プロ野球選手の池永正明が9月25日に死去。76歳。下関商業の投手として3年連続で甲子園に出場。2年生だった63年の選抜大会では優勝した。1965年に西鉄ライオンズに入団して、20勝10敗で新人王となった。そして67、68年には23勝を挙げて、300勝投手も夢ではないと言われたわけである。しかし、池永の名前は「黒い霧事件」による永久追放で記憶されることになってしまった。当時政界で疑惑が持ち上がると「黒い霧」と言われたため、69年オフに「野球賭博に関わる八百長疑惑」が持ち上がった時も「黒い霧」と呼ばれた。そして100万円を受領して返金されていなかった(年長選手から勧誘され返せなかった)ことを認めた。この結果、永久追放処分が下されたのである。
 (池永正明)
 僕はもちろんこの事件をよく覚えている。中学生だったので、当時のこと故、受験勉強中などにはプロ野球のラジオをよく聞いていた。毎日巨人戦がテレビ中継されていた時代である。パリーグの中継はほぼなかったから、多分テ池永を池永を見たことはなかったと思う。でもこれほど活躍していた選手の名前は当然知っていた。そして若い投手の代表格として、何となく気に入っていた。西鉄は50年代に2度日本一になった黄金時代があるが、60年代後半には低迷していた。僕は逆に強かった巨人、阪急などに関心がなかったのである。しかし、池永なくして西鉄はやっていけない。この処分は厳し過ぎるのではないか、と思わないでもなかった。その後処分解除を求める運動が続き、2005年に永久処分が解除された。本人は博多の中州でバーを営んでいたという。

 滋賀県に重度障害児施設「止揚学園」を設立した福井達雨が9月6日に死去、90歳。東京では新聞に訃報が掲載されなかったが、僕は非常に影響された人なので、取り上げておきたいのである。70年代、80年代にとても多くの本を書いている。自身の体験だけでなく、障害児の描いた絵をもとにした絵本なども多い。若く理想主義的だった僕は、障害児のために献身する福井に教育者の鑑を見る思いがした。「止揚学園」とはヘーゲルの止揚である。まさに時代を象徴するような命名ではないか。
(福井達雨)(止揚学園)
 書名をちょっと挙げておくと、『僕アホやない人間だ』『嫌われ、恐がられ、いやがられて 障害児差別と共に25年』『子供に生かされ子供を生きる』『草は枯れ、花は散るとも 子どもらに生かされて35年』『やさしい心をもっていますか? 障害児と共に生き、社会と闘い、心を守った、ほんとうの教育』などなど。読まなくても判るような題名だけど、読めばやっぱり感動したのである。妻の知人にここに勤めている人がいて、毎年のようにカンパしていた。やっぱり仕事にするとなると大変なようで、僕も最近は読んでないんだけど、長く続けたことだけで、偉大な教育者であり社会福祉家だったと思う。全国で講演活動も行っていた。
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中井久夫、三遊亭金翁、稲盛和夫等ー2022年8月の訃報③

2022年09月09日 23時28分06秒 | 追悼
 2022年8月の訃報3回目。精神科医でエッセイストの中井久夫が8月8日に死去、88歳。僕はこの人の訃報が日本人の中ではもっとも重要だと思っている。ただし、余りよく知らないし、読んだこともない。語学に堪能で多くの翻訳があるが、ギリシャの詩人カヴァフィス全詩集翻訳で読売文学賞を受賞しているけれど、読んでる人は普通いないだろう。中井久夫の名前を知ったのは、95年の阪神淡路大震災以後だった。長く神戸大学、甲南大学で勤め自宅が被災した。震災後の被災者ケアに力を注ぎ、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉が一般的に知られるようになった。2004年に開設された「兵庫県こころのケアセンター」の初代センター長も務めた。文化功労者。
(中井久夫)
 もともとは統合失調症治療の専門家で、患者に川や山などの絵を描いてもらう「風景構成法」を考案したことで知られる。僕は詳しく語ることが出来ないが、数年前に「山竹伸二「こころの病に挑んだ知の巨人」」というちくま新書を紹介した。森田正馬(まさたけ)、土居健郎(たけお)、河合隼雄、木村敏(びん)、中井久夫の5人の精神科医が取り組んだことを論評した本である。中井久夫は現代日本に珍しい破格のスケールの「知の巨人」だった。フランスの詩人ヴァレリーの翻訳もあり、(ヴァレリーと同じく)「中井久夫を国葬に」というツイートが評判になったという。(なお著名人の追悼記事に定評ある朝日新聞は追悼記事を掲載しないのかと思っていたら、ようやく9月7日に斉藤環氏の思いのこもった追悼文が掲載された。)
(風景構成法)
 精神科医つながりで、福島章が1日死去、86歳。現役で活躍していたときは非常に有名な人で、著作もものすごく沢山あった。犯罪心理学の研究で知られ、多くの著名事件の精神鑑定を担当した。大久保清事件、新宿西口バス放火事件、深川通り魔事件などである。犯罪心理学の著作も多いが、他にも宮沢賢治やベートーヴェンなど芸術家の心理分析、「天才」の研究など幅広く一般書を書いている。僕は『青年期の心―精神医学からみた若者』(講談社現在新書、1992)という本が仕事上大変役に立った覚えがある。
(福島章)
 落語家の三遊亭金翁が8月27日に死去、93歳。僕はこの人をテレビ「お笑い三人組」で小学生の時から知っている。当時は小金馬である。その後、67年に4代目金馬を継いだ。僕が寄席に時々行くようになった頃には、もうあまり出ていなかったから、寄席で聴いたことが一度もなかった。金馬を息子に譲って金翁を襲名したとき(2020年9月)も行きそびれてしまった。たまたま今年1月の紀伊國屋寄席に出ていたので、この機会を逃しては二度と聴く機会はないと思って出掛けていった。その事は「紀伊國屋寄席で金翁、さん喬を聴く」に書いた。「文七元結」「芝浜」らを得意としたという。1941年に3代目金馬に入門したが、戦時中に入門した最後の落語家だという。それにしても「お笑い三人組」なんて、今でも覚えている人はどれだけいるんだろう。
(三遊亭金翁)
 京セラKDDIの創業者である実業家、稲盛和夫が24日死去、90歳。鹿児島出身で、鹿児島県立大(現鹿児島大)卒業後、京都の松風工業を経て、1959年に京都セラミックを創業した。(1982年に京セラに改称。)半導体を保護するパッケージの開発に成功し、会社を急成長させた。会社の各部門ごとに独立採算で運営する「アメーバ経営」で知られた。電気通信事業の自由化に伴い「第二電電」(DDI)を設立し、これが現在のKDDIになった。小沢一郎と知己で、同じ京都の前原誠司の支援者としても知られた。そのつながりから、民主党政権時代の2010年に経営破綻した日本航空の会長となった。もっとも今も係争中のリストラを断行しての「再建」は評価して良いのだろうか。若手経営者を育てる「盛和塾」、稲森財団による「京都賞」(科学・芸術分野の顕彰)を設立するなど、確かに並みの経営者ではなかったが。65歳になった1997年に経営の一線を退き、臨済宗の得度を受けた。
(稲盛和夫)
 報道写真家の笹本恒子が15日死去、107歳。女性の報道写真家の草分けで、戦前からヒトラー・ユーゲントの来日などを撮影した。戦後は占領中の東京をフリーカメラマンとして撮影した。70代で写真家に復帰し、宇野千代や沢村貞子などを撮影。2011年吉川英治文化賞。2014年には「笹本恒子 100歳展」を各地で開催した。
(笹本恒子)
 医師の近藤誠が13日死去、73歳。慶応大学病院でガンの放射線治療医を長く勤め、80年代から乳ガンの乳房温存療法を提唱した。96年に『患者よ、がんと闘うな』を出版して大ベストセラーになった。その後もガンは放置しても良い、ガン治療が患者を殺すなどの本を大量に書いている。最初の本はなかなか面白かったが、その結果放置して治るガンまで治療しない患者が出ていると医学界の批判も強い。僕にはなんとも言えないけれど、一冊ぐらい読んでもいいかと思う。
(近藤誠)
 ミュージカル女優の久野綾希子(くの・あきこ)が22日に死去、71歳。72年に劇団四季に入団、『エビータ』の日本初演でエビータ役を演じた。他にも『ウエストサイド物語』のマリア、『ジーザス・クライスト・スーパー・スター』のマリアなど多くのミュージカルで主演し、劇団四季の看板女優だった。86年に退団後は『奇跡の人』『ハムレット』など多くの舞台に出演した。
(久野綾希子)
 俳優の古谷一行(ふるや・いっこう)が23日死去、78歳。77年からテレビで横溝正史原作の金田一耕助を演じて人気を得た。土曜ワイド劇場や火曜サスペンス劇場などで長く活躍した。映画では岡本喜八監督の『ジャズ大名』など。
(古谷一行)
 映画監督の小林政広が20日死去、68歳。ピンク映画の脚本家として活躍後、自分で会社を設立して製作した映画『殺し』『歩く、人』などをカンヌ映画祭に出品した。2005年の『バッシング』はイラクでの日本人人質事件をモデルにしてカンヌ映画祭のコンペに選ばれた。2007年の『愛の予感』でロカルノ映画祭金豹賞。2010年の『春との旅』、2013年『日本の悲劇』、2016年『海辺のリア』と仲代達矢主演の映画を監督した。全部は見ていないけど、通常の映画作りを超越して、自分の思いを日本の状況にぶつけるような映画を作っていた。はっきり言って成功した方が少ないと思うけど、『春との旅』は面白かった。海外の方が評価が高い人。
(小林政広)
市田ひろみ、1日死去、90歳。服飾評論家。着物文化の普及に努めた。
青木新門、6日死去、85歳。作家。93年の『納棺夫日記』が『おくりびと』として映画化された。
二木英徳、10日死去、85歳。元ジャスコ社長。元日本チェーンスト協会会長、日本体操協会会長を10期務めた。
鈴木礼治、15日死去、93歳。83年から4期愛知県知事を務めた。愛知万博や中部空港などの実現に尽力した。
金子宏、23日死去、93歳。法学者。東大名誉教授。専門は租税法で、2018年に文化勲章を受章。
光原百合(みつはら・ゆり)、24日死去、58歳。ミステリー作家。「十八の夏」で日本推理作家協会賞短編賞受賞。
森川時久、28日死去、93歳。1966年にフジテレビの「若者たち」が評判になった。5人兄弟がたくましく生き抜く様を描くが、社会的テーマも扱ったため中止された。森川はフリーになって映画版の『若者たち』三部作を監督した。主題歌も有名で今も歌い継がれている。その後も数多いテレビドラマ、映画を監督しているが、結局『若者たち』で記憶されている。
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森英恵と三宅一生ー2022年8月の訃報②

2022年09月08日 22時57分54秒 | 追悼
 日本のファッションデザイナー界の巨匠が相次いで亡くなっている。高田賢三が2020年2月27日に、山本寛斎が2020年7月21日に亡くなって、2022年8月5日に三宅一生が亡くなったと聞いたときに、やはり女性の方が長生きなんだなあと思った人が多いだろう。しかし、やはり永遠に生きる人はいないわけで、直後の11日に森英恵の訃報を聞くことになった。僕はファッションデザイナーの世界は全く判らない。ほとんど名前を知ってるぐらいなんだけど、同じ月に重なったのでこの二人をまとめて書いておきたい。

 まさか日本人が外国で活躍できるとは考えられなかったファッション分野で先陣を切ってきた人々は、「国を背負う」覚悟のようなものがあった世代だ。今では世界のどこに誰が行こうが特に驚くことではない。しかし、1950年代、60年代にはまだまだ日本人が外国で認められるのは大変だった。ましてや他のアジア諸国出身者は国外に出るのも大変だった。だからその時代の人々は「アジア人で初」「白人以外で初」などの言葉が付きまとう世代である。

 森英恵(もり・はなえ)は8月11日に96歳で亡くなった。死因は老衰とされる。1977年に東洋人として初めてパリ・オートクチュール協会のメンバーとなった。90年代初頭にはバルセロナ(92年、夏季)、リレハンメル(94年、冬季)の五輪日本選手団の公式ユニフォームのデザインを担当し、93年には皇太子妃(現皇后)結婚時のローブデコルデをデザインした。ちなみにローブデコルデとは、「胸元を露出した女性の最高礼装」だそうである。この頃は「日本国御用達公式デザイナー」とでも呼ぶべき大活躍ぶりである。そして1996年には「服飾デザイン」分野で初の文化勲章を受章したわけである。
(森英恵)
 森英恵は1926年に島根県最南部の六日市町(現吉賀町)の医者の家に生まれた。父は女子(英恵には姉と妹がいる)のためには三越や高島屋など東京のデパートから服を取り寄せていたという。小学4年で東京に引っ越し、府立十一高女(現桜町高校)を経て東京女子大で学び、1948年に勤労動員中に知り合った森賢と結婚。夫の実家が愛知県一宮市の繊維会社だったため、結婚後にドレスメーカー女学院で洋裁を学んだのである。そして1951年に新宿に洋裁店「ひよしや」を開業し、1954年には銀座に進出してブティック&サロン「HANAE MORI(ハナエモリ)」をオープンした。

 1961年にニューヨークに旅行して日本への無理解を痛感したのが海外に進出する転機となった。1965年にニューヨークで初めて海外コレクションを開いて注目され、蝶のデザインから「マダム・バタフライ」と呼ばれた。77年にはパリに進出し、日本人デザイナー活躍の先駆けとなった。またライセンス契約を通して生活雑貨などを多数販売し、「ハナエ・モリ」は誰もが知るブランドとなった。しかし、夫の賢の死去(96年)により経営が傾き、2002年に倒産した。倒産前にプレタポルテ部門は三井物産に売却され、現在もブランドは残っている。グレース・ケリーなど世界の多くの有名人を顧客にしていた。日本でも黒柳徹子の衣装はずっとハナエ・モリだった。
(黒柳徹子)
 あまり知られていないが、50年代の日本映画には森英恵が衣装を担当した映画が多い。夫の関係ともいうし、最初に開いた新宿の店が新宿武蔵野館近くだったからとも言う。大衆映画研究家の佐藤利明氏のインタビューがウェブ上に掲載されている。特に日活の中平康監督、川島雄三監督の作品が多かった。当初は衣装がクレジットされていない作品が多いが、今映画を見ると戦後史に大きな影響を与えたと思う。石原慎太郎原作で、フランスのヌーベルバーグに影響を与えたと言われる『狂った果実』や洋装店をめぐるオシャレなコメディ『街燈』は確かに素晴らしいファッションを堪能出来る。
(「狂った果実」)(「街燈」)
 また小津安二郎初のカラー映画『彼岸花』も森英恵がデザインしている。下の画像は左から有馬稲子、山本富士子、久我美子。今後、森英恵が関わった映画特集などが企画されることを期待したい。改めて注目が集まるだろう。
(「彼岸花」)
 三宅一生(みや・いっせい)は8月5日に84歳で亡くなった。1938年に広島に生まれ、7歳の時に原爆の被爆体験を持っていた。母親は原爆で亡くなった。長くその事を明かさなかったが、2009年にニューヨーク・タイムズへの寄稿で公表した。きっかけはオバマ大統領のプラハ演説だった。そこではオバマ大統領に広島訪問を勧めていた。三宅一生は復興する広島を見て育ったわけで、平和記念公園などに新しいデザインの刺激を受けたという。高校卒業後、多摩美大に進学したが、まだ服飾デザイナーを男性の職業と認めていなかった父親のためグラフィック・デザイン分野を選んだという。しかし、在学中からファッション界で活躍し、学校を越えて高田賢三やコシノ・ジュンコらと活動していた。61年、62年と続けて「装苑賞」の佳作に選ばれている。
(三宅一生)
 日本で認められるのを待たず、パリに出掛けて修行した。学生時代から「服とは、着た人がその人らしい生活をするためのもの」が持論だったという。パリで五月革命(68年)に遭遇、大きな刺激を受けている。翌年にはニューヨークでも刺激を受け、70年に帰国して「三宅デザイン研究所」を設立。71年にニューヨーク・コレクションに参加。73年にはパリ・コレクションに初参加した。三宅はファッションの通念に挑戦し、ジェンダーレスなデザインを考案し、可能な限り「1本の糸、一枚の布」から衣服を作ることを目指した。このような哲学と日本のハイテクによる化繊や伝統素材が組み合わされた非常に独特なデザイナーだった。
 
 森英恵にも増して、世界的に愛好家が多かった。スティーブ・ジョブズはその一人。レディ・ガガ、ビヨンセ、メリル・ストリープ、美輪明宏ら世界にファンが多かった。
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ゴルバチョフ、オリヴィア・ニュートン=ジョンー2022年8月の訃報①

2022年09月07日 23時12分28秒 | 追悼
 2022年8月の日本は猛暑だった。だからかどうか、有名人の訃報もかつてなく多かった。ソ連のゴルバチョフ元大統領の訃報がもっとも重大だから、今回は外国人の訃報から。しかし、日本で報道された外国人の訃報は少なかった。ヨーロッパでも猛暑だというが、訃報は少ないのだろうか。もちろんそうじゃないことは、ウィキペディアの「訃報 2022年8月」を調べると判明する。しかし、有名企業の社長や五輪の銅メダリストなどは、その国の人には別だけど、日本では報道する必要がないわけだ。

 元ソ連大統領、ソ連共産党書記長、1990年のノーベル平和賞受賞者、ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフが8月30日に死去した。91歳。内外で非常に多くの論評がなされ、今後もなされるだろう。もっともソ連崩壊は1991年末だから、すでに30年以上前である。学校で生徒に教える立場の教員でも、同時代体験としては知らない人が多くなっている。「ソ連」を知らなければ、第二次世界大戦後の世界を理解出来ないだろう。若い人には戦後史がどう見えているのだろうか。僕が生きてきた中で、ゴルバチョフは同時代の外国人政治家として最も重要な人物だったと思う。ゴルバチョフに関しては、今後も真剣に考えて行く必要がある。何だかんだ言われるが、僕はこの人は非常にすごい人だと思う。若い頃から苦楽を共にしたライサ夫人が1999年に白血病で急逝した後も、20年以上生きて活動したのである。そんなことが出来る高齢男性は非常に稀ではないか。
(大統領当時のゴルバチョフ)(晩年)
 ゴルバチョフは1985年3月にソ連共産党書記長に就任した。その後、11月にレーガン米大統領と会談、軍縮交渉などを確認した。その時点でソ連はアフガニスタンに侵攻中であり、翌86年4月にはチェルノブイリ原発事故が起きた。このような内外の苦難を打開するために、「ペレストロイカ」(立て直し)、「グラスノスチ」(情報公開)を進めていった。この難しいロシア語は、当時を生きていた人なら全員言えるだろう。その後の推移は他で調べて貰うとして、ではゴルバチョフのような人物がどうしてソ連共産党の最高幹部になれたのだろうか。それこそが不思議というべきだろう。

 ゴルバチョフ時代のソ連に関しては、僕も強い関心を持ち評伝や関連書を当時読んでいた。出身は南部のスタヴロポリ地方で、農民の子どもとして生まれた。農家で働きながら、好成績により市当局の推薦でモスクワ大学法学部に入学した。宿舎にはチェコから留学していた、後の「プラハの春」の理論的指導者ムリナーシがいて影響を受けたという。卒業後、検察庁を受けたが不合格で、故郷に戻ってスタヴロポリの党組織に勤めた。結局、これが彼の人生を決めたのである。故郷で順調に出世していき、1966年にスタヴロポリ市党第一書記、1970年にスタヴロポリ地方党第一書記になり、1971年には40歳でソ連共産党中央委員になったのである。これは沈滞するソ連農業を打開するリーダーが必要とされていて、また同郷のKGB議長、アンドロポフの引きがあった。
 
 1978年に中央委員会書記に抜てきされたのは農業担当としてだった。そして、1979年には政治局員候補となった。82年11月に長く政権を保持したブレジネフ書記長が75歳で死去し、後継にアンドロポフが就任した。改革派として地位を上げ、アンドロポフの後継とも目されたが、84年2月にアンドロポフは急死した。保守派のチェルネンコが後を継いたが、就任時から病身で1年あまり後の85年3月に死去した。まだ54歳だったゴルバチョフは指導部の中で最年少で、後継就任は必ずしも決定的ではなかった。高齢指導者の状況をよく見極めて、自分が最高指導者になる意思がないグロムイコを最高議会議長に推すことで、チーホノフ首相ら守旧派に勝った。人生には権謀も必要である。この時点ではゴルバチョフは共産党とマルクス主義を疑ってはいなかっただろう。
(ノーベル平和賞受賞)(広島を訪れて献花)
 28年間外相を務めて「ミスター・ニエット」と呼ばれたグロムイコの後継外相には、世界的には無名だったシェワルナゼを抜てきした。シェワルナゼはグルジア党第一書記で、スタヴロポリ地方とは管轄が隣同士で以前から盟友だったのである。スタヴロポリで農業専門とみなされて順調に出世しながら、後の同志を見極めていたのである。そして、漸進的に改革を進めソ連社会を変えていった。しかし、やがて「保守派」とのあつれきを強めていく。今までの強権政治が終わることで、封印されてきた民族紛争が噴出した。そして91年8月に保守派のクーデタが起こった。ゴルバチョフ夫妻はクリミアの別荘に軟禁され、生死も不明だった。現代史でもっとも緊迫した数日間だったが、それを打ち破ったのは当時ロシア共和国大統領に当選したばかりのエリツィンだった。

 これを直接のきっかけにしてソ連共産党の権威は失墜し、実権はエリツィンに移った。そして年末にエリツィンらが集まって、連邦解体を決定したのである。現在、ロシア国内ではゴルバチョフが「ソ連崩壊をもたらした」と批判されることが多い。しかし、ソ連を崩壊させたのは、直接にはエリツィンだし、歴史的に一番責任があるのはブレジネフだろう。葬儀も国葬にならず、ウクライナ侵攻中で外国首脳は集まらなかった。マスコミは「寂しい葬儀」と書くけれど、プーチンなんか来なくて良かった。市民数千人が参列したというから、勇気ある人は沢山いるのである。テレビニュースではモスクワから中継して市民の批判的な声を伝えた。しかし、元大統領を外国人記者に批判出来るのはゴルバチョフがいたからなのである。

 僕が思うに、現代史の真に重大な転換点1989年5月の北京だったと思う。ゴルバチョフは中国を公式訪問し、趙紫陽総書記と会談した。その時、天安門広場には胡耀邦を追悼し、自由を求める学生たちが集結していた。結局、中国は天安門広場の学生たちを武力で弾圧し、以後ソ連崩壊を「反面教師」として、政治的自由と報道の自由を敵視するようになった。しかし、ソ連と中国が改革派の指導者に率いられて、ゆっくりと社会民主主義的な改革を共に協力して進める「もう一つの歴史」は不可能だったのだろうか。それは歴史の中に幻を求める夢想に過ぎないのだろうか。
(葬儀の様子)
 イギリス出身の歌手、オリビア・ニュートン=ジョン(Olivia Newton-John)が8月8日に死去、73歳。1948年にケンブリッジで生まれたが、父の仕事で5歳でオーストラリアに移住。65年にオーストラリアのオーディション番組で優勝し、賞金でイギリスに戻ったという。66年にプロデビューするが、最初はクリフ・リチャードのバックコーラスをしていて、来日公演もしている。しかし、歌唱力とルックスで注目を集めるようになり、74年の「愛の告白」が全米1位、グラミー賞を受賞した。75年にアメリカに移住して、「そよ風の誘惑」(Have You Never Been Mellow)が大ヒットになった。僕が一番覚えているのはこの曲だが、今回久しぶりに歌詞付きで聞いてみたら、内容的にも英語の勉強のためにも若い人に聞き継がれて欲しいと思う曲だった。
(オリビア・ニュートン=ジョン、若い頃)
 78年の映画『グリース』でジョン・トラボルタと共演して大ヒットし、ゴールデングローブ賞主演女優賞にノミネートされた。その後も映画に出ながらヒット曲を出し続けた。80年代になるとロック色を強めた「フィジカル」が大ヒットした。僕は僕は特にファンだったわけではなく、映画も見逃した。日本では尾崎亜美杏里のために書いた「オリビアを聞きながら」(78)でこれからも知られるだろう。そんなにヒットしなかったのに、持ち歌にしている人が多い曲だ。その後結婚を機に一時音楽活動から遠ざかるが、環境保護運動に熱心に取り組んだ。92年には乳ガンを公表し、以後病気と闘いながらコンサートを続けた。来日公演も多く、震災追悼公演も行っている。最初は美形で明るいヒット歌手という印象だったけど、芯の強さを持った女性として生き抜いたと思う。
(晩年)
 イギリスの絵本作家、レイモンド・ブリッグズが8月9日に死去、88歳。子ども向けのイラストレーターとして活躍し、78年の絵本『スノーマン』が評判となってアニメ化もされた。核戦争の恐怖を描いた『風が吹くとき』(82)もアニメとなり、日本でも高く評価された。フォークランド戦争を批判する絵本を出すなどサッチャー政権には不評だったという。
(スノーマンと)(「風が吹くとき」)
ウォルフガング・ペーターゼン、12日没、81歳。ドイツ、アメリカの映画監督。1981年の「U・ボート」が大成功して、ハリウッドの超大作に進出することになった。エンデの大作の映画化「ネバー・エンディング・ストーリー」(84)を監督。その後の「第五惑星」は不評だったが、クリント・イーストウッドが主演した「ザ・シークレット・サービス」(93)で成功。「アウトブレイク」(95)、「エアフォース・ワン」(97)等アクション大作を得意とした。
アン・ヘッシュ、14日死去、53歳。87年からテレビ「アナザーワールド」で活躍してエミー賞を受けた。その後映画に進出し、『ウワサの真相/ワグ・ザ・ドッグ』等に出演した。女優としては大成しなかったが、私生活ではバイ・セクシャルを公言して、女性と交際したり男性と結婚したりしたことで知られた。8月5日に住宅に突っ込む交通事故を起こして脳死状態になった。臓器提供を希望していたため延命措置がなされていたが、提供先が見つかって14日に延命が終了した。
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2代目若乃花、藤井裕久、和田繁明他ー2022年7月の訃報②

2022年08月09日 23時25分54秒 | 追悼
 2022年7月の訃報続き。最初は第56代横綱、2代目若乃花が16日死去、69歳。本名下山勝則。北の湖らとともに昭和28年生まれの「花のニッパチ」と呼ばれた。初代若乃花の二子山親方に中学時代に見出され、後の横綱隆の里と共に夜行列車で上京した。77年1月場所後に大関に昇進。柔らかい体と豪快な投げ技に加え、甘いマスクで女性ファンに絶大な人気を誇った。相撲中継のアナや解説者がこれほど「美男力士」と表現した人は他にいないだろう。77年5月場所で初優勝したが、北の湖全盛時代でなかなか優勝に恵まれなかった。そのため13勝、13勝、14勝(直近2回は優勝決定戦で北の湖に敗れる)で、前3場所に優勝がないまま78年5月場所後に横綱に昇進した。それまでは「若三杉」を名乗ったが、横綱昇進とともに「若乃花」に改名した。
(2代目若乃花)
 あれほど人気があった力士だったのに、この人はちょっと忘れられている。北の湖と同い年だったために優勝4回に止まり、優勝次点14回という記録を持つという。80年代に入るとケガや病気で休場が増え、83年1月場所で引退した。現役中に師匠の長女と結婚したが翌年に離婚して、銀座の年上ホステスと再婚した。そのため横綱引退を引き留められず、29歳で引退した。その後は間垣親方を襲名した。98年には相撲名跡改革案に反対して、一門の意向を無視して理事選に立候補して当選した。しかし、05年に夫人が亡くなり、07年には本人も脳出血で倒れた。08年には弟子が大麻で逮捕され、理事を辞任した。その後も体調がすぐれず、2013年には間垣部屋を閉じ、年末には協会を退職した。この人の後半生も失意の連続だった。

 元大蔵大臣、財務大臣の藤井裕久が10日死去、90歳。旧大蔵官僚で、二階堂進、竹下登の秘書官を務めて、政治家に転身した、77年に参院で当選、83年に再選。86年に衆院へ鞍替えを目論むが落選。90年の衆院選で当選した。93年の自民党分裂では小沢グループに属して離党して新生党に参加。非自民連立の細川、羽田内閣で大蔵大臣を務めた。その後は小沢に従って、新進党、自由党、民主党に所属し、04年には幹事長を務めた。しかし、05年の郵政選挙で落選、比例区でも次次点だったため、73歳の藤井は引退を決意した。ところが民主党に二人の辞職者があって、07年に繰り上げ当選となった。09年には立候補しないつもりが、鳩山代表に請われて比例単独35位で南関東ブロックから立候補した。普通は当選しないはずが政権交代の熱気で民主党が全員当選。思いがけず当選して、鳩山内閣で財務大臣に就任した。結局、非自民政権はこの人の経験を必要としたのである。しかし、体調不良を理由に年明けに辞任した。この人の話は聞いたことがあって、面白いし洒脱な感じに好感を持った。
(藤井裕久)
 西武百貨店そごうの「再建請負人」だった元ミレニアム・リテイリング社長、会長和田繁明が26日死去、88歳。この人も先の二人にも劣らぬ「人にドラマあり」だった。57年に西武百貨店に入社、堤清二の「秘蔵っ子」と呼ばれ、69年に35歳で取締役に昇進、40歳で常務になった。しかし、83年に経営不振だったレストラン西武に骨を埋めるつもりで出向した。ところがバブル崩壊とともに西武百貨店に不祥事が起こり、1992年に西武百貨店会長として復帰したのである。この時期の堤清二の引退、西洋環境開発の清算、セゾングループの解体を和田が手掛けたのである。ファミマも西友も良品計画も皆セゾンだった。セゾン系映画館もあったが、99年にはセゾン美術館も閉館し、70年代以降の「セゾン文化」は消え去った。2000年にはそごうの再建を託され、03年に西武とそごうを統合したミレニアム・リテイリング社長に就任。05年にセブン&アイグループの傘下に入った。百貨店再編の先駆けとなった人だが、今はそのそごう・西武も売却を検討されている。
(和田繁明)
 考古学者の大塚初重が21日死去、95歳。1947年に明治大学入学後、静岡市の登呂遺跡や群馬県の岩宿遺跡など戦後考古学史に特筆される遺跡の発掘に参加した。その後群馬県の観音山古墳、茨城県の装飾古墳である虎塚古墳などの発掘調査を行い、東日本の古墳文化の解明に貢献した。日本考古学会会長の他、多くの役職を務めた。戦争中に乗っていた輸送船が2度撃沈され東シナ海を漂流し、皇国史観に疑いを持ち歴史学を志したという。
(大塚初重)
 国際政治学者の武者小路公秀(むしゃのこうじ・きんひで)が5月23日に死去していた。92歳。名前の通り、元華族の外交官公友の三男で、作家武者小路実篤は叔父にあたる。学習院大学、上智大学などの教授を務め、76年から89年まで国連大学副学長も務めた。帰国子女としていじめられた経験から、反差別の意識が強く多くの運動にも関わった。04年から21年に世界平和アピール七人委員会のメンバーだった。
(武者小路公秀)
野村昭子、1日死去、95歳。俳優。俳優座養成所1期生。『赤ひげ』などの映画、『渡る世間は鬼ばかり』などのテレビドラマで活躍した。
斉藤邦彦、4日死去、87歳。元外務事務次官、駐米大使。
嵐ヨシユキ(らん・よしゆき)、4日死去、67歳。ロックバンド「横浜銀蝿」リーダー。
高沢皓司(たかざわ・こうじ)、6日死去、ジャーナリスト。関東学院大学在学中に全共闘運動に参加、新左翼やアジアの戦争に関する多くの取材を重ねた。その後、北朝鮮に通って「よど号」グループを取材した。1998年に『宿命 「よど号」亡命者たちの秘密工作』を出版し、講談社ノンフィクション賞を受賞した。よど号グループとヨーロッパからの「拉致」について告発して大きな衝撃を与えたが、批判もあった。僕は細部に問題はあるだろうが、読んでおくべき本だと思っている。
高橋和希、6日死去、60歳。漫画家。「遊☆戯☆王」で知られ、4千万部以上の累計発行部数と言われる。沖縄県名護市の海で死亡。
山下惣一、10日死去、89歳。農民作家。佐賀県唐津市で農家を継ぐ一方、農業体験を小説やルポで発表した。農業の衰退、村の崩壊を鋭く批判し続けた。70年「海鳴り」で農民文学賞、79年『減反神社』で直木賞候補。その他多くの著作がある。
石川忠久、12日死去、90歳。中国文学者。NHKの漢詩番組で知られた。平成後の元号候補として「万和」(ばんな)を考案した。
金昌国、15日死去、80歳。フルート奏者。東京芸大教授として活動しながら、世界的なフルート奏者として活躍した。69年ジュネーブ酷さ音楽コンクール2位。
近藤信行、17日死去、91歳。文芸評論家。中央公論社で「海」の編集長を務めた。1978年『小島烏水 山の風流使者伝』で大佛次郎賞。登山関係の多くの著作、編著がある。
金城重明、19日死去、93歳。元沖縄キリスト教短大学長。沖縄戦の「集団自決」の証言者として知られた。
小川隆吉、25日死去、86歳。元北海道ウタリ協会理事。2012年に北大に遺骨返還を求めた訴訟を提訴、16年に和解成立で12体が返還された。
吉野良彦、26日死去、91歳。元大蔵事務次官、日本開発銀行総裁。竹下内閣の消費税導入時の調整を担当した。
李鐘根(イ・ジョングン)、30日死去、93歳。在日韓国人被爆者として証言活動を行った。
小林清志、30日死去、89歳。声優。『ルパン三世』シリーズの次元大介や『妖怪人間ベム』(1968年)のベムなどで知られた。映画の吹き替えではジェームズ・コバーン、トミー・リー・ジョーンズなどで活躍した。
飯村隆彦、31日死去、85歳。映像作家。日本の実験映画の草分け的存在で、世界各国で多くの受賞歴がある。著書も多く、オノヨーコに関する本も出している。60年代にはニューヨークで活動し、90年代以後は帰国して大学でも教えていた。
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島田陽子、佐藤陽子、山本コータロー、ラモス他ー2022年7月の訃報①

2022年08月08日 22時15分27秒 | 追悼
 2022年7月の訃報。一番大きな訃報は安倍晋三元首相だが、「政治的事件」だったので別に書いた。演出家ピーター・ブルックも別に書いた。他に多くの訃報があったけれど、「二人の陽子」から書きたい。「陽子」という名前はある時代まで非常に多かった。同級生にも生徒にも何人もいたけど、この頃はめっきり少なくなった名前だろう。

 女優の島田陽子が25日死去、69歳。島田陽子は70年代初期のテレビドラマで良家の子女を演じる清楚可憐な役柄で非常に人気があった。71年にテレビドラマ『続・氷点』のヒロイン役で人気が沸騰し、以後多くのドラマに出た。また映画でも『砂の器』『犬神家の一族』などの映画にも出演した。1980年にはアメリカのテレビドラマ『将軍 SHŌGUN』に出演してゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞し国際女優と呼ばれた。しかし、1988年の映画『花園の迷宮』で出会った内田裕也と「不倫」に陥ったあげく結婚は出来ずに、多額の借金を作ったとされる。以後は金銭トラブルが多く失意の後半生を送ったのが残念だった。
(島田陽子)
 ヴァイオリニスト、声楽家の佐藤陽子が19日死去、72歳。3歳でヴィアオリンを始め、9歳でソ連に留学、16歳でチャイコフスキーコンクール3位。声楽家としてもマリア・カラスに認められるなど、華々しい国際的活躍で知られた。76年に帰国後は執筆やタレント活動した。パリで知り合った外交官岡本行夫と結婚したが、その後世界的版画家池田満寿夫とローマで出会った。岡本と79年に離婚して、80年に池田と大々的な「結婚式」を行ったが、池田の妻は離婚に応ぜず法的な結婚は出来なかった。ただし、島田陽子と違って、佐藤陽子と池田満寿夫は最後までパートナーで、熱海で二人が住んだ工房は記念館になっている。
(佐藤陽子と池田満寿夫)
 フォークシンガーの山本コータローが4日死去、73歳。本名厚太郎。70年に「ソルティー・シュガー」のコミックソング「走れコータロー」が大ヒットした。また74年に「山本コータローとウィークエンド」の「岬めぐり」も大ヒットした。この間一橋大学の卒論に吉田拓郎を取り上げて評判になった。(『誰も知らなかったよしだ拓郎』として刊行。)71年から78年までTBSラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」の金曜1部(1時~3時)を担当し、その時2部(3時~5時)担当の映画評論家吉田真由美と知り合い生涯のパートナーとなった。法的な結婚はせず、別姓で同居を続けた。地球環境問題に関心を寄せ、87年から白鴎大学非常勤講師、99年から白鴎大学教授。89年には参院選に出馬して落選した。僕は二人の深夜放送を聞いていたので思い出深い。
(山本コータロー)
 俳優の石濱朗(いしはま・あきら)が26日死去、87歳。高校時代に木下恵介監督『少年期』でデビュー。松竹に所属し、木下恵介『この広い空の下で』『遠い雲』『太陽とバラ』、小林正樹監督『人間の条件』『切腹』など巨匠の映画に出ていた。また甘いマスクで人気があり、『伊豆の踊子』で美空ひばりと共演するなど多くの青春映画でも活躍した。その後70年代以後はテレビを中心に多くの時代劇などで活躍した。2009年から日本映画俳優協会理事長を務めた。主演級で活躍したのは主に50年代なので若い人は知らないと思うけれど、こういう端正な俳優は当時は珍しかった。
 (石濱朗、若い頃と最近)
 フィリピンの元大統領フィデル・ラモスが31日に死去、94歳。死因は新型コロナウイルス感染による合併症。1986年の「ピープルパワー」革命(マルコス大統領の不正選挙に怒った民衆100万人が街頭に集結し、大統領は国外に亡命した)で、軍人の中心的役割を果たしたことで記憶される。父は外務大臣を務めた政治家だったが、息子は米国陸軍士官学校に留学し軍人になった。マルコス時代に国家警察軍司令官、国軍参謀総長代行を務めていたが、86年2月に独裁に反対して政権を離反。これがマルコス体制崩壊の決め手になった。コラソン・アキノ政権では参謀総長、国防相を歴任し、後継指名を受けて、92年から98年まで大統領を務めた。その間は経済復興、南部の反政府組織との和平交渉等に取り組み、内外で広く支持された。
(ラモス)
レオニード・シュワルツマン、2日死去、101歳。旧ソ連のアニメ映画の美術監督。『雪の女王』の美術監督。チェブラーシカの生みの親として知られる。
ジェームズ・カーン、6日死去、82歳。アメリカの俳優。『ゴッドファーザー』の長男ソニー役でアカデミー賞助演男優賞ノミネート。他にも『シンデレラ・リバティ』『愛と哀しみのボレロ』『ミザリー』などで活躍した。
モンティ・ノーマン、11日死去、94歳。007シリーズの「ジェームズ・ボンドのテーマ」の作曲者。
ボブ・ラファエルソン、23日死去、89歳。アメリカの映画監督。70年前後の「アメリカン・ニューシネマ」の中で僕が一番好きな『ファイブ・イージー・ピーセス』(70)の監督。他には『郵便配達は二度ベルを鳴らす』ぐらいしか知らないけど、調べたら他にも幾つか公開されていたので驚いた。ザ・モンキーズの仕掛け人で、映画『ザ・モンキーズ 恋の合言葉HEAD!』も作っている。
ジェームズ・ラブロック、26日死去、103歳。イギリスの科学者。地球を自己調節機能のある生命体と見なす「ガイア理論」の提唱者。地球温暖化防止のため原子力の活用を支持して波紋を呼んだ。
ニシェル・ニコルズ、30日死去、89歳。アメリカの女優。テレビドラマ「スタートレック」で黒人女優の草分け的存在となった。その後、NASAでのボランティア活動を続けたことでも知られる。
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ピーター・ブルックの逝去を悼むーイギリスの演出家、映画監督

2022年07月20日 22時11分52秒 | 追悼
 ちょっと時間が経ってしまったが、ピーター・ブルック(Peter Stephen Paul Brook)が7月2日に亡くなった。1925.3.21~2022.7.2、97歳と長命だった。イギリスの演出家であり、映画監督もずいぶんしている。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの活動で有名になったけれど、フランスでの活動も多かった。20世紀後半、最も知られた演劇、オペラの演出家の一人で、とても刺激的な存在だった。書きたいことが幾つかあるので、やはり特別に一回書いておきたい。

 ピーター・ブルックを有名にしたのは、70年の『夏の夜の夢』だった。それまでの演出と大きく違って、空中ブランコなどを使う祝祭空間のような斬新さが衝撃を与えた。というか、そういう風に当時の新聞に出ていた。中学生、高校生の頃だけど、新聞は隅々まで読んでいたから知ったのである。72年だったと思うけど、来日公演が行われたが、高校生の僕はもちろん行ってない。映画のロードショーだって、たまの贅沢だった頃である。でも、テレビで見た覚えがある。NHK教育テレビでやっていた。(地デジ前は3チャンネルである。)これが本当に素晴らしく、どんな演出も可能なんだと深く印象付けられたのである。
(「夏の夜の夢」)
 映画としては、略称『マラー/サド』が1968年のキネ旬外国映画4位に入っていた。ATG(アートシアター)で公開された映画である。これは数年の差で同時代には見てない。何かで知って、是非見たいと思った。そして、どこかで一回だけ見た記憶がある。もともとはドイツの劇作家ペーター・ヴァイスによって1964年に書かれた戯曲である。正式名称を『マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者によって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺』という。名前通りの映画で、1793年に過激な革命家マラーが暗殺された事件を、1808年のフランスでサド侯爵が入院患者を演出して上演するという設定である。
(「マラー/サド」)
 実際に当時のシャラントン精神病院では治療の一環として、演劇療法みたいな試みを行っていて、サドも台本を書いていたという。何重にも入り組んだ作品で、革命の時代に徹底した「革命主義」のマラーと徹底した「個人主義」のサドの思想的対決を劇中劇も含めて描き出す。いかにも60年代の政治と革命の季節にふさわしい危険なテーマである。これを1964年にイギリスで上演したのがブルックだった。そして1967年には映画化もしたのである。この劇は数年前に実際の精神病者が演じるイタリアの劇を見に行ったが、今も面白いと思う。上演は大変かもしれないが、この映画だけでもどこかでまた見たい。

 もう一つ、僕がまた見てみたいブルックの映画がある。それがグルジェフの原作をもとにした『注目すべき人々との出会い』(1979)という映画である。日本でも1982年に公開されている。多分、渋谷の旧ユーロスペースではなかったか。ゲオルギー・グルジェフ(1866~1949)は、独自の精神世界を追求した著述家、舞踏家、教育家である。ギリシャ人の父とアルメニア人の母の間に生まれ、ロシア革命後は西欧各国やアメリカで活動した。日本ではシュタイナー教育で知られるルドルフ・シュタイナーの方が有名だが、精神世界への傾倒、独自の舞踏(シュタイナーはオイリュトミー、グルジェフは「神聖舞踏」)を創始するなど共通性が多い。

 『注目すべき人々との出会い』はグルジェフの自伝的な原作の映画化で、精神的放浪を続ける主人公を描く。グルジェフは古代から続く秘密教団を求めて驚くべき冒険の旅をすることになる。なかなか面白かったので、めるくまーる社から星川淳訳で出た原作も買ったはずである。(多分読んでない。)80年代は「精神世界」へ大きな注目が寄せられた。オウム事件以後、そういう関心がグッと引いてしまったが、代わって功利的、自己責任一本槍の社会になってしまった。この映画もまた、もう一回見てグルジェフという人を考えてみたい。ブルックは『グルジェフ-神聖舞踏』(1984)というドキュメンタリーも作っている。未公開だと思う。
(『注目すべき人々との出会い』)
 映画ではベストテンに入った『雨のしのび逢い』(1960)もある。マルグリット・デュラスの『モデラート・カンタービレ』の映画化で、主人公を演じたジャンヌ・モローが素晴らしい。他にも、ノーベル賞作家ゴールディング原作の『蝿の王』、演劇で大評判になった『マハーバーラタ』など、興味深い未公開作品がたくさんある。演劇公演の記録映像もかなりあるようだし、ピーター・ブルックの全貌を見せてくれる回顧展を開いて欲しいなと思う。日本人では笈田ヨシが直接指導を受けてフランスで活動している。『マハーバーラタ』の演出に加わった他、近年ではスコセッシ監督の『沈黙』に出演していた。

 来日公演も多く、僕も確か2回見ているけれど、あまり面白くなかった。確か2012年に『魔笛』を見たはずだが、特に刺激的な舞台でもなかったと思う。もともと奇をてらった演出ばかりしたわけじゃないようだ。ただ、60年代から80年代にかけては世界で最も注目すべき演劇人だったと言える。長生きしすぎて、全盛期を知らない人が増えていると思うけど、映画なら残っている。特集上映企画を望む気持ちから、あえて記事を書いた次第。
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森崎和江、田沼武能、トランティニャン他ー2022年6月の訃報

2022年07月10日 20時54分25秒 | 追悼
 2022年6月の訃報。まず最初に、詩人、ノンフィクション作家の森崎和江から。6月15日死去、95歳。1958年に谷川雁上野英信らと雑誌「サークル村」を創刊。64年の大正炭鉱閉山まで谷川と同居したが、対立の結果、谷川雁は闘争から離れて東京へ行き英語教育の会社に勤めた。1976年に『からゆきさん』が大評判になって、僕はその時初めて森崎和江を読んだ。山崎朋子『サンダカン八番娼館』が評判だった時期で、僕は森崎の本は十分に理解出来なかった。その後『慶州は母の呼び声』『悲しすぎて笑う 女座長筑紫美主子の半生』を読んで感動した。しかし、詩集は読んでないし、評論も『闘いとエロス』『いのち、響きあう』など題名で敬遠。僕には森崎和江を評価出来ないんだけど、何だか重要なものあると思って最初に。
(森崎和江)
 写真家の田沼武能(たぬま・たけよし)が6月1日に死去、93歳。世界の子どもたちや東京の下町などを撮影したことで知られる。特にユニセフ親善大使の黒柳徹子の訪問に同行して、世界125国以上を回ったことで知られる。東京浅草の写真館の家に生まれ、東京写真工業専門学校を卒業後に木村伊兵衛に師事した。写真界の待遇向上に尽力し、「公表後10年」だった写真の著作権を他の著作物と同様にする法改正を求め続けて実現した。木村伊兵衛も土門拳も受けなかった文化勲章を写真界で初めて受章。
(田沼武能)
 俳優の佐野浅夫が6月28日に死去、96歳。1993年から2000年にかけて3代目「水戸黄門」役で知られる。1943年に18歳で劇団「苦楽座」に入団。この劇団が後の移動演劇隊「櫻隊」である。佐野は3月に徴兵されたが、櫻隊は広島で被爆し、丸山定夫、園井恵子ら劇団員が死亡したのである。戦後は劇団民藝に所属して活躍したが、71年に退団した。その後はテレビを中心に活躍した。50年代、60年代には脇役として多くの名作映画に出演していた。
(佐野浅夫)
 歌舞伎俳優の6代目澤村田之助が6月23日に死去、89歳。5代目田之助の長男に生まれ、64年に6代目を襲名。女形として活躍して、2002年に人間国宝に認定された。相撲ファンとして知られ、2003年から13年にかけて横綱審議委員会委員を務めた。何しろ伝説的名優として有名な6代目尾上菊五郎の膝の上で、双葉山が69連勝で敗れた一番を見ていたというから凄い。6歳の時である。
(澤村田之助)
 漫画家、脚本家、映画監督の石井隆が5月22日に死去した。「天使のはらわた」がヒットし、日活で映画化されるに際して脚本に参加した。いずれも「村木」という男が「土屋名美」という「運命の女」(ファム・ファタール)と出会って破滅していく物語である。『天使のはらわた 赤い教室』(1979、曽根中生監督)や『ラブレター』(1985、相米慎二監督)などの脚本で評価され、『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)からは監督も務めた。異業種出身にしては、光と影の美学を駆使した運命ドラマで観客を魅了した。『死んでもいい』(1992)、『ヌードの夜』(1993)、『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』(2010)はベストテンに入選した。その暗い世界観に好き嫌いはあるだろうが、僕は結構好きだった。
(石井隆)
 映画プロデューサーの河村光庸(かわむら・みつのぶ)が6月11日死去、72歳。慶大中退後に出版社を設立、その後、映画配給に進出し、2008年に配給会社スターサンズを設立、韓国のヤン・イクチュン監督『息もできない』をヒットさせた。その後、映画製作にも乗りだし、ヤン・ヨンヒ監督『かぞくのくに』(2010)で成功、その後、『あゝ、荒野』『愛しのアイリーン』『新聞記者』『宮本から君へ』『MOTHER マザー』など数々の傑作を送った。昨年(2021年)も『茜色に焼かれる』『空白』とベストテンに2作入選し、近年最も注目されるプロデューサーだった。また『新聞記者』や『パンケーキを毒味する』(菅前首相のドキュメンタリー)など、政治的なテーマにも大胆に取り組んだ。『宮本から君へ』が出演者の薬物問題で文化庁の助成金を取り消された問題でも、国を相手に裁判を起こしていた。突然の訃報で大変残念。
(河村光庸)
 多くのアニメソングを手掛けたこと知られる作曲家、渡辺宙明(わたなべ・ちゅうめい)が、6月23日死去、96歳。東大で心理学を学ぶも音楽に関心を持ち、團伊玖麿、諸井三郎に師事した。50年代から多くの映画音楽を手掛け、中川信夫監督「東海道四谷怪談」、山本薩夫監督「忍びの者」などの音楽を担当した。その後、渡辺貞夫にジャズの理論を学び、独自の「宙明サウンド」と呼ばれるようになった。アニメでは「マジンガーZ」「秘密戦隊ゴレンジャー」「人造人間キカイダー」「野球狂の詩」「鋼鉄ジーグ」など多くの主題歌を手掛けた。
(渡辺宙明)
 ソニー元社長の出井伸之(いでい・のぶゆき)が6月2日死去、84歳。60年にソニーに入社、85年に大賀典雄に抜てきされ6代目の社長に就任した。ソニー初のサラリーマン社長だった。パソコンの「VAIO」やゲーム機「プレイ・ステーション」などのヒットで、ソニーを「ものづくり企業」からコンテンツ重視の企業に変身させた。98年から最高経営責任者(CEO)を兼任、00年にはCEOに専念した。しかし、出井時代は「栄光の前半」と「失墜の後半」に分かれると言われる。21世紀になって、技術畑ではない出井の経営方針が一貫せず、2003年にはソニーの株価が大暴落する「ソニー・ショック」が起きた。結局、社外取締役などから勇退を勧告され、2005年に退任し、ソニー初の外国人経営者ストリンガーが後任に選ばれた。
(出井伸之)
 フランスの俳優、ジャン=ルイ・トランティニャン(Jean-Louis Trintignant)が17日に死去、91歳。僕は若い時から、この人の出る映画が好きだった。コスタ=ガヴラス『Z』(カンヌ映画祭男優賞)、ベルトルッチ『暗殺の森』、クレマン『狼は天使の匂い』などで、端正な容貌と的確な演技が印象的だった。初期にはロジェ・ヴァディム監督『素直な悪女』『危険な関係』などで知られ、イタリア映画『激しい季節』(ズルニーニ監督)の戦時下の若者役が素晴らしかった。1966年のルルーシュ監督『男と女』で世界的人気を得た。その後は、1983年のトリュフォーの遺作『日曜日は待ち遠しい』が思い出に残る。2012年には80歳を超えてミヒャエル・ハネケ監督『愛、アムール』に主演してカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した。こうしてみると、若い頃から世界的な監督に重用され、重要な役を任されたことが印象的だ。フランスでは昨年ジャン=ポール・ベルモンド、今年にジャック・ペランが亡くなるなど、重要な俳優が相次いで亡くなった。
(ジャン・ルイ・トランティニャン)
田口富久治(たぐち・ふくじ)、5月23日死去、91歳。政治学者。名大名誉教授。マルクス主義の立場から、現代資本主義論や行政学を論じた。日本共産党員として丸山真男の近代主義を批判していたが、次第にユーロコミュニズムに近づいた。1979年の『マルクス主義国家論の新展開』をめぐって不破哲三と論争になり自己批判に追い込まれた。94年に離党して、丸山真男の立場に近づいたと言われる。僕は専門分野的にも党派的にも、特に深い関心を寄せてはいなかったので、一冊も読んでいない。
石井一、4日死去、87歳。元自治相、国土庁長官。衆議院11回、参議院1回当選。93年に自民党を離党して新生党に参加。新進党を経て98年に民主党に参加して、民主党副代表などを務めた。
松平直樹、11日死去、88歳。和田弘とマヒナスターズのボーカルとして、松尾和子と歌った「誰よりも君を愛す」でレコード大賞。同じく松尾との「お座敷小唄」、吉永小百合との「寒い朝」もヒットした。70年に独立し「松平直樹とブルーロマン」、83年にソロとなり、その後再びマヒナスターズを再結成していた。
坂東竹三郎、17日死去、89歳。歌舞伎役者。上方歌舞伎を支える女形として活躍した。
岩内克己(いわうち・かつき)、18日死去、96歳。映画監督。『エレキの若大将』以後、若大将シリーズを多く手掛けた。
森田貢(もりた・みつぎ)、18日死去、68歳。フォークグループ「マイ・ペース」ボーカル。代表作「東京」の「東京へはもう何度も行きましたね」の歌詞で知られる。
小田嶋隆、24日死去、65歳。コラムニスト。雑誌「噂の真相」にコラムを連載し、「反権力」「反骨」と言われた。10年前頃からTwitterで社会的発言を続けた。と言うんだけど、全然読んだことがない人で、評価の材料がない。
葛城ユキ、27日死去、73歳。歌手。83年の「ボヘミアン」が大ヒットした。
中野昭慶(なかの・てるよし)、27日死去、86歳。映画の特殊撮影技術(特技)監督。59年に東宝に入社し、62年に円谷英二の指名で特技助監督になった。69年に「クレージーの大爆発」で特技監督に昇進。1973年の「日本沈没」で知られる。他にゴジラシリーズ、「東京湾炎上」「火の鳥」など。81年にフリーとなって東映の「二百三高地」「大東亜帝国」「日本海大海戦」を手掛けた。1985年に金正日に招かれて北朝鮮で怪獣映画「プルガサリ」の特撮監督を務めた。
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金芝河、イビチャ・オシム、ヴァンゲリス他ー2022年5月の訃報②

2022年06月07日 21時12分22秒 | 追悼
 2022年5月の訃報、外国人編。一番大きな訃報はオシムだったけれど、まず金芝河キム・ジハ)から書きたい。5月8日死去、81歳。韓国の詩人、思想家。特に70年代の韓国民主化運動で弾圧された詩人として名高い。ソウル大学在学中に1960年の学生革命に参加し、61年の軍事クーデタで成立した朴正熙政権に反対する学生運動の指導者となった。1970年に雑誌「思想界」に長編詩「五賊」を発表して一躍注目された。この詩は朴政権下の特権階級の不正を鋭く告発していたため、政権から「反共法「違反として訴追された。以後も民主化運動を指導し、1974年に大統領緊急措置で非常事態宣言が出されたときには死刑判決を受けた。その後釈放されたが、「東亜日報」に手記「苦行1974」を発表して、再び拘束され死刑判決を受けた。(民青学連事件。その後無期懲役に減刑。)
(金芝河キム・ジハ)
 僕はこの「民青学連事件」の救援運動が人生で最初に参加した集会だった。「金芝河を死刑にするな」という声はサルトル初め全世界から寄せられた。僕もただニュースを見ているだけでは気持ちが収まらず、新聞に出ていた読売ホールで行われた集会に出掛けたのである。中央公論社から出た『長い夜の彼方へ』(渋谷仙太郎訳)や大月書店(国民文庫)の『良心宣言』(井出愚樹訳)も持っている。訳者の渋谷、井出は同一人物で、実は「赤旗」記者だった後のノンフィクション作家萩原遼とは知る由もなかった。70年代後半に、黒テントが「五賊」を劇化して各地で上演した時には、東京経済大学まで見に行ったものだ。

 1980年に釈放され(1979年秋に朴正熙大統領暗殺事件)、軍事政権の弾圧に屈しなかった詩人として多くの賞を受けた。しかし、その後は政治運動から離れ、パンソリなど伝統芸能を生かした作品を発表した。思想的には「生命運動」を唱えて、環境問題、消費者問題などに関心を移した。次第に神秘主義的傾向が強くなり、「転向」とも批判された。2012年大統領選ではパク・クネを支持して驚かれた。もともと「五賊」も民族的伝統に基づく表現方法で、「伝統」に基づく「開発独裁」批判という側面があったと思う。石牟礼道子が晩年になって「天皇主義者」の側面を強めたことなどと似ているように思う。

 日本の新聞には載らなかったが、韓国の女優カン・スヨン(姜受延)が5月7日に死去、55歳。子役から出発し、高麗大学卒業後に林権澤(イム・グォンテク)監督作品のヒロインとして世界的人気を得た。88年に『シバジ』でヴェネツィア映画祭女優賞を獲得したが、これは世界三大映画祭で韓国映画が獲得した初めての受賞だった。名家に雇われた代理母を演じて、確かに大熱演だった。89年の『ハラギャティ 波羅羯諦』でもモスクワ映画祭女優賞を受賞し、20代前半で「国際的女優」になった。その後テレビドラマなどでも活躍した。死因は脳出血だった。
(カン・スヨン)
 元サッカー日本代表監督のイビチャ・オシムが5月1日に死去した。80歳。なお、本名はイヴァンだった。旧ユーゴスラヴィア代表として、64年東京五輪に参加。初めての近代的大都市で人々の親切に触れて、その時から「親日家」になったと言われる。1970年にストラスブール(フランス)に移籍し、78年に引退した。1986年に旧ユーゴ最後の代表監督に就任。90年ワールドカップ(イタリア大会)でストイコビッチらを擁してベスト8になった。92年、ボスニア戦争に抗議して代表監督を辞任した。
(イビチャ・オシム)
 03年ジェフ・ユナイテッド市原監督に就任、06年に日本代表監督に就任したが、07年11月に脳梗塞で倒れて辞めざるを得なくなった。奇跡的に一命を取り留め、2011年にボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー協会統一のために尽力した。その結果、ボスニアは予選を勝ち抜き、14年ワールドカップに参加した。独特の表現が「オシム語録」として有名になったが、ここでは省略。今はなき「ユーゴスラヴィア」に生まれて波瀾万丈の人生を送ったが、日本とは運命的なつながりがあったとも言える。6月6日に行われた日本・ブラジルの試合前に、オシムのための黙祷がなされた。

 ギリシャの音楽家(作曲家、シンセサイザー奏者)のヴァンゲリスが17日死去、79歳。本名はエヴァンゲロス・オディセアス・パパサナスィウ。独学で音楽活動を始めたが、68年の軍事クーデタ後に外国で活動するようになり、パリやロンドンでロックアルバムを発表した。81年に担当した映画『炎のランナー』でアカデミー賞作曲賞を受賞した。『ブレードランナー』『1492 コロンブス』や日本の『南極物語』なども担当し、人気となった。スポーツ大会の音楽として使われることも多く、2002年の日韓共催ワールドカップの公式アンセム(選手の入場時に流される音楽)も手掛けた。本人は映画音楽家ではないと言っているが、シンセサイザーを用いた電子音による世界観がアニメやゲームなどに大きな影響を与えてきた。また本人は楽譜が読めないと言っている。
(ヴァンゲリス)
 アメリカの政治家で、日系人初の閣僚となったノーマン・ミネタが3日死去、90歳。静岡県出身の両親のもと、カリフォルニア州サンノゼで生まれた。戦時中は強制収容所に入れられ、後に謝罪・賠償を定めた法成立に力を尽くした。67年にサンノゼ市議会義員、71年にサンノゼ市長。74年に連邦下院議員に当選し、95年まで務めた。2000年7月からクリントン政権で商務長官、翌年ブッシュ(子)政権でも運輸長官に就任した。つまり、「同時多発テロ」時に運輸長官だったわけで、米国内のすべての航空機を一時的に運航停止にした。しかし、特定の民族に対する乗機拒否には自身の体験から拒否した。
(ノーマン・ミネタ)
スタニスラフ・シュシュケビッチ、3日死去、87歳。ベラルーシの元国家元首。94年大統領選でルカシェンコに敗れた。
レオニード・クラフチュク、10日死去、88歳。ウクライナ初代大統領。エリツィン、シュシュケビッチとともに、ソ連崩壊の引き金を引いた。94年大統領選でクチマに敗れた。
アレクサンドル・トラーゼ、11日死去、69歳。ジョージア出身のピアニスト。77年バン・クライバーン国際コンクール2位。アメリカを中心に活動した。
テレサ・ベルガンサ、20日死去、89歳。オペラ歌手。20世紀最高のメゾソプラノと言われる。ロッシーニやモーツァルトを得意とし、またビゼー「カルメン」が当り役だった。セビリア万博やバルセロナ五輪の開会式でも歌った。
アラン・ホワイト、26日死去、72歳。英国のロックバンド「イエス」のドラマー。「プラスティック・オノ・バンド」にドラマーとして参加。「イマジン」にもドラマーとして参加した。ローリング・ストーン誌選出の「歴史上最も偉大な100人のドラマー」第35位。
レイ・リオッタ、26日死去、67歳。アメリカの俳優。「グッド・フェローズ」「ハンニバル」などの出演。
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上島竜兵、白川義員、小塩節他ー2022年5月の訃報①

2022年06月06日 22時23分28秒 | 追悼
 2022年5月の訃報特集。作家早乙女勝元さんを別に書いた。葬儀のニュースでは、長女の早乙女愛が生前の語録を紹介した。「平和は歩いてこない。その火を消すな。どんどんどんどん薪をくべろ」というものである。味わい深い言葉だなと思う。

 お笑いグループ「ダチョウ倶楽部」メンバー、上島竜兵が11日に死去した。僕はあまり知らなくて、93年の新語・流行語大賞に「聞いてないよォ」が選ばれたということも、そんなことがあったかなあと思う。出川哲朗の「充電バイク旅」によく出ていて、追悼特集の番組も見た。出川哲朗と並ぶ代表的なリアクション芸人だと言うが、僕はよく判らない。またちょうど給湯器を変えた時に、頼んだ会社キンライサー(給湯器販売会社)のCMをやってたのが印象的。ところで、「自殺」だとされるが、そのことがニュースで出ていないのに、新聞の訃報に「いのちの電話」の番号が載っている。そこで初めて「ああ」と読者が思う。こういうのはどうなんだろうと思ったりする。どのような報じ方が良いのか、すぐには判らないんだけど。
(上島竜兵)
 写真家の白川義員(しらかわ・よしかず)が4月5日に死去していたことが5月に発表された。87歳。ニッポン放送、フジテレビを経てフリーの写真家になって、世界の大自然、原始的風景などを撮影した。初期には「アルプス」「ヒマラヤ」「聖書の世界」などがある。90年代初期には飛行機をチャーターして各国の基地を周り「南極大陸」を撮影した。その後「世界百名山」選定と撮影のプロジェクトを開始し、「世界百名瀑」も選定、撮影した。内外で多くの賞を受賞している。1971年に始まったマッド・アマノとの「パロディ裁判」でも有名。(白川が勝訴。)
(白川義員)(ダウラギリⅠ峰8167m)
 ドイツ文学者の小塩節(おしお・たかし)が5月12日に死去、91歳。中央大学名誉教授、フェリス女学院理事長。NHKのドイツ語講師を務め、また西ドイツ公使になってケルン日本文化会館会長となったりした。『木々を渡る風』(1989)で日本エッセイストクラブ賞受賞。ドイツ語、ドイツ文化に関する多数の著書があり、ゲーテやモーツァルトについての本も書いた。カール・バルトを中心にキリスト教に関する翻訳も多い。活躍していたときは知名度が高かったのだが、訃報が小さかった。
(小塩節)
 JR東海名誉会長の葛西敬之(かさい・のりゆき)が25日死去、81歳。故松田昌士(元JR東日本社長)、井出正敬(元JR西日本社長)とともに「国鉄改革三人組」と呼ばれ、国鉄の「分割民営化」を推進した。その後は、東証上場やリニア中央新幹線計画に尽力した。保守派の論客としても知られ、安倍元首相らのブレーンとして知られた。トヨタなどと全寮制中高一貫校「海陽学園」を設立し理事長を務めた。僕にはどこにも共感する接点がないが、リニア中央新幹線は歴史の中で評価されるものなのか疑問だ。
(葛西敬之)
柳家小はん、4月25日死去、80歳。落語家。3代目桂三木助に入門し、没後は柳家小さん門下に移って75年に真打昇進。
志村正雄、4月29日死去、92歳。アメリカ文学者。東京外語大名誉教授。ジョン・バース、トマス・ピンチョンの翻訳で知られた。
中山俊宏、1日死去、55歳。国際政治学者、慶応大学教授。ワシントン・ポスト極東総局記者や国連日本政府代表部専門調査員を経て、慶応大学教授。アメリカ研究者として、メディアでも積極的に発言していた。
渡辺裕之、3日死去、66歳。俳優。「ファイト一発」と叫ぶ「リポビタンD」のCMで知られる。
安藤実親(さねちか)、6日死去、90歳。作曲家。「銭形平次」のテーマ曲を作った人である。他に水前寺清子「いっぽんどっこの唄」などがある。
飯田宗孝、7日死去、64歳。バレエ・ダンサー。東京バレエ団団長。「ザ・カブキ」などベジャール作品で主要な役を務めた。
田中健五、7日死去、93歳。元文藝春秋会長。「文藝春秋」編集長時代に「田中角栄研究」を掲載した。その後「週刊文春」編集長時代に、和田誠を表紙に起用した。その後社長になるが、月刊誌「マルコポーロ」のホロコースト否定論文掲載問題で辞任した。
熊崎勝彦、13日死去、80歳。東京地検元特捜部長。退官後にプロ野球のコミッショナー。特捜副部長時代に金丸信副総裁の脱税事件を手掛けた。
池田武邦、15日死去、98歳。建築家。霞が関ビル、京王プラザホテル、新宿三井ビルを設計。ハウステンボスの構想、経営にも関与。
河村亮、14日死去、54歳。日本テレビアナウンサー。プロ野球巨人戦や箱根駅伝の中継で知られた。
浜田卓二郎、16日死去、80歳。元衆議院議員。大蔵官僚から1980年に衆院選当選(旧埼玉1区、自民党)、4期務めた。93年に落選後、離党して新進党に参加したが、96年衆院選で落選。98年に参院選に出馬して当選した。4期務めただけなのに知名度が高かったのは、本人が政策通でテレビに出たりしたこともあるが、それとともに夫人の浜田麻記子の存在が大きい。結婚後に花嫁学校を開校したり、エッセイを書いてテレビ出演も多かった。突然衆院選に出たり、都知事選に出てお騒がせ夫婦として有名だった。浜田麻記子も夫の死後13日目の29日に急死した。80歳。
遠藤滋、20日死去、74歳。仮死状態で生まれ脳性マヒと診断された後、重度障害者として初めて都立養護学校の教師となった。40代で寝たきりになってからは、介助者を組織して自宅で生活した。大学同期の伊勢真一監督の記録映画「えんとこ」に描かれた。
沢孝子、21日死去、82歳。浪曲師。82年に芸術祭優秀賞。日本浪曲協会会長を務めた。
横井美保子、27日死去、94歳。グアム島の日本軍残留兵故・横井庄一さんの妻。06年の夫死後に自宅を記念館とした。
松井守男、30日死去、79歳。フランスで活躍し、レジオン・ドヌール勲章を受章。近年は長崎県五島列島にアトリエを構えた。
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早乙女勝元さんを悼むー東京大空襲、定時制高校、下町の映画の話

2022年05月12日 22時53分12秒 | 追悼
 作家の早乙女勝元(さおとめ・かつもと)さんが5月10日に亡くなった。90歳。実は早乙女さんには一度お目に掛かって直接話を聞きたいと思ってきた。しかし、昔以上に活動力が落ちてしまって、ずっと先送りしているうちに、どうも体調が良くないらしいという話を聞いたままになっていた。聞きたい話というのは、東京大空襲や空襲から始まる平和への思いではない。また山田洋次監督を柴又に案内したことから、「男はつらいよ」シリーズの舞台に選ばれたという映画史上のエピソードでもない。
(早乙女勝元)
 一番聞きたかったのは、敗戦直後に入学した「都立七中夜間部」(後の「墨田川高校定時制課程」)時代のことを聞きたかったのである。そのことは、東京新聞に連載された「この道」(2017年)に書かれているけれど、もっと聞きたい気持ちがあった。というのも、この墨田川高校定時制は、自分が後に勤務した学校だからだ。「下町の夜間高校」は、60年前後に幾つもの映画に描かれている。またノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智さんが都立墨田工業高校の定時制で教えていたのもその頃だ。早乙女さんの通学した時代はそれより10年も前になるが、是非もっと証言を聞いておきたかった。

 早乙女さんに話を聞くというのは、本人の健康問題が許せば全く不可能ではなかったはずだ。「東京大空襲・戦災資料センター」には行っているし、歴史関係の知り合いをたどれば連絡が付きそうだ。しかし、そんな面倒なことをしなくても、会えそうな場所があった。早乙女さんは実は僕の家から20分ほどのところに住んでいて、自宅の場所は知らないけれど、ちょっと前まで僕の最寄り駅直近にあった「エリカ」という「純喫茶」が早乙女さんの「アジト」だったのである。川上文子珈琲店エリカの半世紀」(草土文化、2017)という本に早乙女さんの文章が載っていて、自分でそう書いている。
(「珈琲店エリカの半世紀」)
 僕が早乙女さんの話を最初に聞いたのは、1972年の秋のことだ。高校2年生の時の文化祭である。その頃には忘れがたい思い出がいっぱいあるが、当時は生徒会役員の末席にいた。早乙女さんの名前も生徒会の中から出てきたと思う。「早乙女勝元」とは、前年(1971年)に岩波新書「東京大空襲-昭和20年3月10日の記録」が大ベストセラーになっていた作家である。早乙女さんとは連絡が付くようで、それはどうやら「党派的」なものだったようだが、僕は詳しくは知らない。

 僕の高校は「下町」のど真ん中にあって、空襲を語り継ぐことは大切なことだったから、学校側も企画を受け入れたのだと思う。開会式後の全校生向けの講演だが、話の中身は全く覚えてない。校長が「話は予想と違ったが」などと言ったのは覚えているから、多分昔のことだけでなく、現代のベトナム戦争や沖縄のことなどにつなげて語ったのかもしれない。話は面白くて好評だったと思う。ちなみに、僕の高校では生徒向けの講演会が時々あって、気象学者の根本順吉氏、仏教学者(禅宗)の秋月龍珉氏、サッカー選手・指導者で後にIOC委員となった岡野俊一郎氏などそうそうたる顔ぶれだった。内容は忘れたが名前と風貌は記残る残る。

 「東京大空襲」は歴史の中で非常に象徴的な位置を占める出来事だと今では認識されている。だが、空襲は全国各地にあって、それぞれ個別には語られていたが、「原爆」や「沖縄戦」と並ぶような「重大な歴史」だと認識されたのは、早乙女さんが書いた本の力が大きい。それが全国に波及して、空襲の記憶を語り継ぐ運動が大きくなった。そして、その中で「一晩に10万人が亡くなった」東京大空襲は、もっと国民的記憶にならなければならないという意識が広まり、東京都も証言や遺品を集めて、やがては公的な記念館が作られる運びとなった。それが暗転したのは、1999年に都知事に石原慎太郎が当選してからだ。結局、市民の力で2002年に「東京大空襲・戦災資料センター」を江東区に開館し、早乙女さんが館長に就任して2019年まで務めた。
(「東京大空襲・戦災資料センター」)
 その活動なくして空襲の記憶は国民に忘れられていたかもしれない。ただ、早乙女さんの本業は作家である。戦争と平和を考える絵本や児童文学がいっぱいある。ベトナムへ、アウシュビッツへ、そしてオランダにアンネ・フランクを訪ねた。「ベトナムのダーちゃん」シリーズを初め、話題になった本が多い。でも、そこまでは読んでないので、僕には評価出来ない。実写映画化されたものとしては、今井正監督の遺作となった「戦争と青春」がある。若い世代に大空襲を伝えるには最適の映画だろう。
(映画「戦争と青春」)
 しかし、若い時には瑞々しい青春小説がいっぱいあって、それらも当時映画になっている。1958年の「二人だけの橋」(丸山誠治監督)は「美しい橋」の映画化。その橋とは隅田川にかかる白鬚橋である。同じく1958年の「明日をつくる少女」(井上和男監督)は「ハモニカ工場」の映画化。桑野みゆきが魅力的で、東武線堀切駅付近が出ている。これは小津安二郎「東京物語」にも出ている駅である。1960年の「秘密」(家城己代治監督)は同名作品の映画化で、佐久間良子と江原真二郎の悲しい運命を描く。あれ、皆見ているな。初期の映画化はこの3本だけだと思う。
(「明日をつくる少女」)
 先に書いた「この道」を切り抜いておいたのだが、それを書き出すと長くなってしまう。2012年の東京大空襲・戦災資料センターの集会で、話を聞いたのが直接話を聞いた最後だと思う。長年、3月10日が近づくと、朝日新聞に投書し「声」欄に掲載されていた。それがならいとなっていたのだが、今では3・10と3・11が続くことになってしまった。こうしてみると、ずいぶん縁があったなと思って書いておく次第。
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藤子不二雄Ⓐ、柳生博、山本圭、ジャック・ペラン他ー2022年4月の訃報

2022年05月06日 22時27分32秒 | 追悼
 2022年4月の訃報のまとめ。僕にとって、見田宗介先生の訃報がすべてだった。東京新聞に掲載された上田紀行氏(文化人類学者、東京工業大教授)の追悼文から。「現代を耕しながら、種をまき続けてきた見田宗介氏。あなたがいなければ今の自分はなかった…、どれだけ多くの人たちがいまそう感じていることだろう。その希望の種は著作で、そしてその強烈な個性に触れた人たちの中で、これからも成長し続けるだろう。託されたバトンを強く意識しながら、心からの感謝を送りたい。」

 一番大きく報道されたのは、「藤子不二雄Ⓐ 」だろう。本名は我孫子素雄(あびこ・もとお)、4月7日没、88歳。「藤子不二雄」という名前はもちろん子どもの頃から知っていた。「オバケのQ太郎」がテレビで放送されていたからだ。実は二人の共作だというのも大体知っていたと思う。まさか二人が別々になってしまうとは想像もしなかった。藤本弘が「藤子・F・不二雄」(1996年没)で、我孫子素雄が「藤子不二雄Ⓐ 」である。そして実は共作名で発表されていても、「ドラえもん」や「パーマン」は「F」の作品だった。そして「Ⓐ」が「怪物くん」や「忍者ハットリくん」だったとは。あれま、と思ったけど、読んでないからよく判らない。
(藤子不二雄Ⓐ)
 二人とも富山県出身で、高卒後に就職していたが、夢をあきらめず21歳の時に上京。1年後に手塚治虫がトキワ荘を出たので、その後に入った。1987年にコンビを解消、「プロゴルファー猿」、「笑ゥせぇるすまん」、「まんが道」などがある。同郷の芥川賞作家、柏原兵三の「長い道」を「少年時代」として漫画化。篠田正浩監督によって映画化され井上陽水のテーマ曲が大ヒットしたのも忘れがたい。この映画は戦時中の「縁故疎開」を描き戦時下の子どもの様子がよく判るので、授業で使った思い出がある。

 俳優の柳生博が4月16日に死去、85歳。映画「あれが港の灯だ」(1961年、今井正監督)がデビューというのに驚いた。テレビ「いちばん星」の野口雨情役で知られ、クイズ番組の司会、ナレーションや外国映画の吹き替えなどで幅広く活躍した。それ以上に八ヶ岳山麓にレストラン、ギャラリーを開き、自然の魅力を発信したことで知られる。2004~2019年には日本野鳥の会の会長を務めた。本当に柳生一族の末裔だったのも驚き。
(柳生博)
 俳優の山本圭が3月31日に死去していた。81歳。訃報は4月25日に発表された。70年代には非常に有名な人だったけれど…。叔父が山本薩夫監督で、その超大作「戦争と人間」3部作などで重要な役を演じた。そもそも俳優座養成所出身で、舞台の出演も多かった。テレビの「若者たち」の三男役で人気が出て、同名の映画3部作にも出演した。今井正監督の「小林多喜二」(1974)のタイトルロールもやったから、左翼系映画の印象が強い。兄の山本學は最近右寄りになっているようだが、この人はどうだったのか。弟の山本旦も俳優で、山本三兄弟で知られた。妻の女流棋士、小川誠子とは2019年11月に死別した。
(山本圭)
 映画プロデューサーの佐々木史朗が4月18日に死去、83歳。もともと早稲田を中退して鈴木忠志らと早稲田小劇場を結成、その後TBSに勤務し、さらに「東京ビデオセンター」を設立してテレビ番組を製作した。映画「星空のマリオネット」製作に関わって、そこから1979年に日本アートシアターギルドの2代目社長に就任した。2017年に国立フィルムセンター(当時)で佐々木史朗特集が行われたが、そこで判ったことは「ヒポクラテスたち」「ガキ帝国」「遠雷」「風の歌を聴け」「転校生」「家族ゲーム」「廃市」「ナビィの恋」…、若い頃に見ていた映画の多くの傑作が佐々木史朗製作だったことである。
(佐々木史朗)
 書籍デザインの第一人者、装幀家の菊地信義が3月28日に死去、78歳。澁澤龍彦「高岳親王航海記」などで講談社出版文化賞ブックデザイン賞受賞。手掛けた本は1万5千冊を越えるという。俵万智「サラダ記念日」や、この前読んだ平野啓一郎「決壊」もこの人。広瀬奈々子監督「つつんで、ひらいて」という記録映画にもなった。映画にも出て来るが、作家古井由吉のほとんどの本を担当した。講談社文庫、講談社文芸文庫、河出文庫、平凡社新書のフォーマットを担当している。
(菊地信義)
 元ミズノの野球グラブ職人、坪田信義が4月3日死去、83歳。15歳でミズノに入社、長い下積みを経て40歳で特注品作りを任された。ポジション別のグラブを初めて作った人で、労働省の「現代の名工」に選定された。王貞治、イチロー、松井秀喜、野茂英雄、松坂大輔…、皆この人のグラブを使っていた。イチローは「いつも想像を超えるものをつくっていだいた。まさに名人芸だった」と追悼している。
(坪田信義)
 フランスの俳優ジャック・ペランが4月21日に死去、80歳。日本では「ニュー・シネマ・パラダイス」で大人になった主人公を演じたのが一番知られている。しかし、若い頃から活躍し、イタリア映画「鞄を持った女」「家族日誌」などで人気を得た。その後、「ロシュフォールの恋人たち」「ロバと王女」などに出演したが、1970年のコスタ=ガブラス監督の「Z」では製作者も兼ねた。これはロシア語ではなく、ギリシャ語で「彼は生きている」の意味。アカデミー賞外国語映画賞を獲得した。他にも「戒厳令」「ブラック・アンド・ホワイト・イン・カラー」など社会的なテーマの映画を製作した。2002年に製作・総監督・ナレーターを務めた「WATARIDORI」は渡り鳥に密着したドキュメントでアカデミー賞にノミネートされ、日本でも話題を呼んだ。童顔のイメージが禍して、重厚な老け役に恵まれなかったが、プロデューサーとして大成したと言える。
(ジャック・ペラン)
 ルーマニア出身のピアニスト、ラドゥ・ルプーが4月17日に死去、76歳。12歳でデビューし、モスクワ音楽院に留学。1966年にヴァン・クライバーン国際コンクールで優勝しながら、副賞のコンサートをすべて断って帰ってしまったことで知られた。詩情あふれる演奏で知られ、非常に有名な人だったらしい。
(ラドゥ・ルプー)
中川イサト、7日死去、75歳。「五つの赤い風船」メンバー。最近文庫化された、なぎら健壱関西フォークがやって来た! 五つの赤い風船の時代」(ちくま文庫)に中川イサトのことが詳しく書かれている。
ひろさちや、7日死去、85歳。宗教評論家。仏教の教えを判りやすく説いた多くの著作で知られた。
照屋寛徳、15日死去、76歳。前社民党衆議員議員。参議院1期、衆議院では沖縄2区から6回当選。
尾身幸次、14日死去、89歳。元衆議院議員。自民党から8回当選(一番最初は無所属)。財務相などを務めた。
村生ミオ、16日死去、69歳。漫画家。ラブコメ漫画で知られ「胸騒ぎの放課後」「結婚ゲーム」「サークルゲーム」など映画、ドラマ化された。
横山マコト、22日死去、87歳。漫才師。兄弟トリオ「横山ホットブラザーズ」の次男。
岸野猛、30日死去、86歳。コメディアン。「ナンセンス・トリオ」で、「親亀の背中に子亀を乗せて」や「赤上げて白下げて」などのギャグで知られた。

デヴィッド・マッキー、6日死去、87歳。絵本画家。「ぞうのエルマー」で知られた。
ウラジーミル・ジリノフスキー、6日死去、75歳。ロシアの極右政党、自由民主党党首。近年は体制内野党になっていた。
彭明敏(ポン・ミンシン)、台湾の国際政治学者、政治家。早くから「台湾独立」を主張し、64年には戒厳令下に「台湾人民自救運動宣言」を発表しようとして逮捕された。その後特赦受け、70年にアメリカに脱出。96年の初の民選総統選に民進党から出馬して、李登輝に敗れた。
ジャック・ヒギンズ、9日死去、92歳。冒険小説の大家。「鷲は舞い降りた」「死にゆく者への祈り」など多数。
ミシェル・ブーケ、13日死去、96歳。フランスの俳優。舞台・映画で知られ、映画「トト・ザ・ヒーロー」に出演した。
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見田宗介さんの逝去を悼んでー「解放」を求めた理論家として

2022年04月10日 23時24分00秒 | 追悼
 今日の朝刊に見田宗介さんの訃報が載っていて、大変に驚いた。「学問分野の壁を越えて、現代社会の構造や心理を分析した社会学者で東京大名誉教授の見田宗介(みた・むねすけ)さんが4月1日、敗血症のため東京都内の病院で死去した。84歳だった。」

 訃報とすれば「東大名誉教授」の「社会学者」になるのもやむを得ないかとは思う。僕は「見田先生」と呼んでいたが、大学で直接学んだわけではない。見田さんは学外で一般市民対象の自主講座をたくさん行ってきたが、そういう場で出会ったのである。突然のことで、まだ頭の中であまり整理されていないが、やはり今じゃないと書けないと思う。朝からいろいろと思い出しているけれど、見田さんとの関わりは結局は自分の青春だったなと思った。

 初めて直接会ったのは、1980年6月2日である。場所は飯田橋にあった青生舎。その頃、10年限定で「80年代」という雑誌が出ていた。この雑誌を検索しても、情報が得られないが、いろんな学者、評論家が集まって野草社という出版社から出ていた。野草社を検索すると「新泉社」の一部として今もあるようだ。屋久島に住んだ詩人山尾三省の本をたくさん出している。その雑誌はよく買っていたが、そこに真木悠介(見田さんのペンネーム)さんの「柳田国男『明治大正史世相編』を読む」参加者の募集案内があった。
 
 それに応募したところ、案内が送られてきたのである。青生舎というのは、保坂展人さん(現世田谷区長)がやっていたスペースである。当時は内申書裁判を闘いながら、教育に関わる運動を起こしていて、雑誌「80年代」に挟み込まれた「90年代」という若者グループ主体の頁を担当していた。だから会場もそこになったんだろう。最初の集まりの日は1980年の衆議院選挙の公示日だった。大平内閣不信任案が成立して、突然始まった衆院選である。この選挙戦中に大平首相が急死したことで知られる。その選挙が始まった日だったから覚えていて、特定できるのである。当時自分は大学院生だった。

 僕が講座に応募したのは、何も柳田国男に深い関心があったためではない。いや、当時は柳田学に大きな関心が集まっていた時代で、僕も対象の「明治大正史世相編」はすでに読んでいた。だけど、僕はまず「真木悠介」という名前に深い関心があったのである。それは「気流の鳴る音」(筑摩書房、1977)という素晴らしい本を読んでいたからだ。この本はカスタネダという人の本を読解しながら、コミューンの理論を展開した本である。内容と共に、その詩的な喚起力に富む文章も圧倒的だった。その人の講座だから、是非行きたいと思ったのである。とても興味深い人たちが集まっていて、それも刺激になったけれど、真木さん(見田さん)の若々しい颯爽たる姿も印象的だった。
(「気流の鳴る音」)
 講座が終了した後に、泊まり込みで続きの会を行った。(場所は八王子の「大学セミナーハウス」。)一番刺激的だったのは、むしろそっちの方で、竹内敏晴さんの演劇レッスンを行った。その時の刺激は非常に大きかった。どうしてかというと、「社会的な解放」ということと別に「身体的な解放」という問題を意識させられたのである。見田さんは社会学者として、非常に大きな仕事をしている。著作集は社会学関係で全10巻に及んでいる。その学問的な貢献は他の人がいっぱい語るだろう。だけど、僕にとっての「真木悠介」は「解放のための理論家」という側面が大きかった。
(「時間の比較社会学」)(「自我の起源」)
 特に影響を受けた本を取っておくコーナーがある。その中に、この前書いた佐藤忠男さんの「日本映画史」とか「大島渚の世界」がある。その2段上に見田(真木)さんの本が集まっていて、ちょっと5冊の本を持ってきた。「真木悠介」というのは、コミューン論、解放理論を書くときのペンネームだが、今挙げた2冊は真木名義。この「解放」というのは、今イメージすることが難しいかもしれない。僕は高度成長時代に、首都近郊の中産階級に育ったストレート(異性愛者)の男である。個人的に生活が苦しいとか、差別や抑圧を強く受けたわけではない。だけど、僕も周りの友人たちも「解放」を求めていた。

 僕は歴史を専攻したから、周りにはマルクス主義によって、「解放への道」はすでに切り開かれていると断じる人も多かった時代だ。だけど、僕はそれに思想としての多くの有効性を感じながらも、「現実の社会主義国家」や「現実の社会主義政党」には全く信を置いていなかった。そして、「ソ連」という国を説明出来ない理論には、どこか間違いがあると感じてもいた。それでも、アメリカがヴェトナムで爆撃を続け、日本政府がアメリカを支持している中では、「左翼的」であるしかなかった。ただ、そのことがやがて「社会的な解放」へ通じているとは思えなかったのである。

 それは今思えば「文化」の問題と「身体」の問題だったと思う。僕の若い頃接していた文化(音楽、映画、演劇など)は、大部分が「反体制」(カウンター・カルチャー)だった。高度成長時代は、どこの国でも新しい文化と伝統的な社会とのあつれきが大きくなった。今思うと、世界中どこでも最初に新文化を受容するのは、都市中間層の青年である。僕が自分が非抑圧者ではなくても「解放」を求めていたのは、そういう文脈で理解出来る。伝統的な思考に絡み取られた中高年層に育てられて、もう鬱陶しさでいっぱいだったのである。そして「左翼」の提供する「正しい」文化は僕の身体には全く魅力的ではなかった。

 そこに「解放」への新しいアプローチを続けていたのが、見田宗介さんだった。「比較社会学」という形式で、「時間」「自我」を系統的に検討した画像の2冊は、本来はもっと続く大著の一部である。「時間の比較社会学」のあとがきを見ると、構想としては「関係の比較社会学」「身体の比較社会学」「人生の比較社会学」「教育の比較社会学」「支配の比較社会学」「〈翼〉の比較社会学」「解放の比較社会学」と続く壮大なものだった。

 それが全部書かれたときにはどんなものになっただろうか。それは僕には夢想することしかできない。ただ「解放の理論」があっても、自己は解放されない。「自分」は他者との関係性の中にしか存在できないが、そこには「身体的な限界」が必ず存在する。それは「高齢化」「病気」「障害」などを思い超せば誰でも判ることだが、「若い男」である自分にはまだよく判っていなかった。よく判らないままに、僕の場合は教師として勤務することになって、何の知識や研修もなかったから、病気や障害の生徒に向かい合ったときに理解するには時間が掛かった。結局は「理論」とともに、人生には「」が必須なのである。
〈「宮沢賢治」〉〈「白いお城と花咲くお城」〉
 人生では解放理論などよりも、詩的直感の方が遙かに役立つのである。その事は恐らく一番優れた仕事と言ってよい「宮沢賢治」でも感じたことである。僕は岩波から出た著作集を買ってあるのだが、最近は理論的、学問的な関心が薄れてしまって、全然手を付けていない。死は誰にでも訪れるものだから仕方ないのだが、こうして大きな影響を受けてきた人が毎年のように亡くなっていく。そして世界は悪くなり続けているように見える。一体どこでどう間違ってしまったのか。
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