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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

宝田明、西村京太郎、三留理男他ー2022年3月の訃報

2022年04月08日 22時30分14秒 | 追悼
 2022年3月の訃報まとめ。3月は映画評論家の佐藤忠男、映画監督の青山真治の二人の訃報は別に書いたが、とても残念な知らせだった。俳優の宝田明もその時に書こうかと思わないではなかったが、僕はよく知らないので書かなかった。3月14日没、87歳。訃報で言われたことは大体同じ。「東宝ニューフェースとして合格し俳優になった」、「初めての主演映画が『ゴジラ』第一作だった」、「ミュージカル俳優として活躍した」(「風と共に去りぬ」や「マイ・フェア・レディ」など)といったことである。それに加えて、晩年になって「戦争の証言者」として知られるようになった。満州からの引揚者でソ連兵に腹を銃撃された過去があること、何を置いても平和を守ることが大切だという発言を晩年になって発言するようになったのである。
 (宝田明)
 長身でハンサム、言うことなしのスターだが、それだけに演技力の対象にならず何の演技賞にも恵まれなかった。僕は最近になって60年代初期の「香港の夜」「香港の星」「ホノルル・東京・香港」の三部作を見て、宝田明はともかく、香港の女優ユー・ミン(尤敏)の生き生きした魅力に驚いた。当時「東洋の真珠」とうたわれただけのことはある。ところで、朝日新聞のインタビューによれば、あるときユー・ミンから私と結婚してくれる意思はあるかと問われたというのである。しかし、まだ当時は国際結婚も少なく自分として自信がなく断ってしまったそうだ。ところで、ソ連軍への痛憤が消えないあまり、最後の記者会見でも「ウクライナにソ連が侵攻した」と述べていた。まあ、そういう人は結構いるようだけど。
(「香港の夜」)
 ミステリー作家の西村京太郎が3日死去、91歳。実は西村京太郎の訃報が3月で一番大きく報じられていた。トラベルミステリー、あるいは鉄道ミステリーの大家として、多くの作品を発表した。多くというのは、およそ600冊という。十津川警部が活躍し、テレビで高橋英樹や船越英一郎が演じたが、実は僕は見ていないし読んでもない。江戸川乱歩賞の「天使の傷痕」しか読んでないので、僕には評価できない。僕はミステリーを良く読んできたけど、決してテレビ化できないような異端系が好きなので。
(西村京太郎)
 報道写真家の三留理男(みとめ・ただお)が22日に死去、83歳。日大芸術学部写真学科在籍中の1961年に「Document 小児マヒの記録」を出版して注目された。その後、大学を中退して報道写真家として活躍、パレスチナやインドシナの戦争を取材した。三里塚闘争(成田空港建設反対運動)にも参加して取材した。80年代初期にはアフリカの飢餓問題を取り上げて反響を呼び、1982年には「国境を越えた子供たち」で第1回土門拳賞を受賞した。世界の子どもたちの写真で知られ、20世紀中は有名な人だったが、近年は忘れられたか訃報が小さかったのに驚いた。
(三留理男)
 画家、イラストレーターの原田泰治が2日死去、81歳。1歳の時に小児マヒにかかって車いすで生活しながら、外国へも旺盛に出掛けて活動した。「素朴画」(ナイーブ・アート)として日本各地の美しい風景を描く作品が多い。故郷に「諏訪市原田泰治美術館」がある。検索して絵を見てみれば、ああこれは見たような…という作品が多い。名前以上に作品が思い出にある。
 (原田泰治)
 カヌーイストでエッセイストの野田知佑(のだ・ともすけ)が27日死去、84歳。「カヌーイスト」とは、カヌーで川を旅する「ツーリングカヌー」をする人のこと。アルバイトで金を貯めてヨーロッパを放浪してカヌーを知り、1982年に「日本の川を旅する」を著した。日本ノンフィクション賞新人賞。1985年に新潮文庫に入ったので読んでみたら、ものすごく面白かった。その後も文庫に入った本を何冊か読んでる。愛犬ガクを「カヌー犬」と呼び、椎名誠の映画「ガクの冒険」になった。長良川河口堰などの反対運動にも関わった。この人の本を読んでカヌーはいいなと思ったが、現実に一度も実行しなかった。
(野田知佑とガク) 
 評論家、ノンフィクション作家の宮崎学が30日に死去、76歳。死因が「老衰」だったのに驚いた。幼少期から学生時代に掛けて、なかなか壮絶な体験をしているが、今は触れない。1996年に「突破者」が出て、この人を知ったわけだが、グリコ・森永事件の「キツネ目の男」に間違えられた男と宣伝されていた。それまでの「アウトロー」的な人生を振り返った内容が面白かった。1999年には通信傍受法反対運動を展開し、選挙に出たりもした。21世紀初頭のインターネット発展期には、この人のホームページは皆が読んでると言われたものだ。皆と言っても、権力側と反体制側のことだが、僕もまあよく見てた記憶がある。
 (宮崎学)
 物性物理学者の近藤淳が11日死去、92歳。磁石になる物質が金属に混ざっていると極低温似状態で金属の電気抵抗が増える「電気抵抗極小現象」を理論的に解明した。この現象は「近藤効果」と呼ばれている。内容は難しいので省略。2020年に文化勲章。ノーベル物理学賞の候補とも言われていた。
(近藤淳)
 行政学者、政治学者の新藤宗幸が13日死去、75歳。市民主体の地方自治を主張し、多くの本を書いた。また住民投票を進める市民運動にも関わった。岩波新書やちくま新書にも数多く書いているから、読んだ人も多いだろう。近著は朝日選書の「新自由主義にゆがむ公共政策 生活者のための政治とは何か」(2020)、「権力にゆがむ専門知 専門家はどう統制されてきたのか」(2021)で、題名に直近の問題意識がうかがえる。最近書評を読んだばかりだったので、驚いた。
(新藤宗幸)
 新藤氏に続き、行政学者、政治学者の西尾勝が22日死去、83歳。東大名誉教授で学士院会員なので、二人の社会的立場は相当違う。同じように地方分権を進めたが、政府の審議会などを通して地方制度改革を進めた側。「平成の大合併」を進めた人でもある。地方分権改革を作った人とも言え、官僚や地方首長などに大きな影響を与えているといわれる。
(西尾勝)
井垣康弘、2月26日没、82歳。元神戸家裁判事で、連続児童殺傷事件の審理を担当した。退官後も弁護士として「修復的司法」に取り組んだ。
近藤恒夫、2月27日没、80歳。薬物依存者の回復を支援する民間団体「ダルク」を創設した。これは非常に有名で、全国80施設に広がって、アジア太平洋地域の薬物依存に取り組むNPO「アパリ」理事長も務めた。吉川英治文化賞を受賞。
宮平初子、7日没、99歳。沖縄の染織家。琉球王朝の染色技法を復興し、沖縄の女性として初めて人間国宝に指定された。
清水哲男、7日没、84歳。詩人。1975年の「水甕座の水」でH氏賞を受賞。ラジオパーソナリティやネットの俳句講座などでも知られた。
鈴木勲、8日没、89歳。ジャズ・ベーシスト。70年にアート・ブレイキーに見いだされて渡米して、巨匠たちと数多く共演した。
豊島久真男(とよしま・くまお)、9日没、91歳。初めてウイルスがん遺伝子の存在を証明した。70年代から90年代にかけて、がん研究をリードする存在で、2001年に文化勲章を受章。
吉永仁郎(よしなが・じろう)、12日没、92歳。劇作家。都内の中学で英語教師をしながら劇作を学んだ。一時演劇から離れるも、40歳を越えてから本格的に劇作家として活動。三遊亭圓朝を描く「すててこてこてこ」(1982)「夢二・大正さすらい人」(1983)が劇団民藝で上演された。民藝との関係が深く、「集金旅行」や「静かな落日−広津家三代−」など近年も上演されている。最後の作品は2021年に上演された「どん底−1947・東京–」。
松村雄策、12日没、70歳。音楽評論家、音楽誌「ロッキン・オン」創刊メンバー。多くの本を買いているが、ビートルズを扱った「アビイ・ロードからの裏通り」「苺畑の午前五時」はちくま文庫で読んだ。「ビートルズは眠らない」「ウィズ・ザ・ビートルズ」など。
北村春江、13日没、93歳。91年から03年まで、兵庫県芦屋市で日本初の女性市長を務めた。
伊藤憲一、14日没、84歳。保守派の国際政治学者として知られた。
松田寛夫、24日没、88歳。脚本家。東映に入社し、「女囚さそり」シリーズ、「柳生一族の陰謀」など70年代の多数の脚本を共作した。その後単独で執筆し、「花いちもんめ」で日本アカデミー賞、「社葬」で毎日映画コンクールの脚本賞を受賞した。テレビでも数多くの作品を書いている。
高久史麿(たかく・ふみまろ)、24日没、91歳。前日本医学会会長。骨髄バンク創設を提言した。

 アメリカの俳優、ウィリアム・ハート(William Hurt)が13日死去、71歳。1985年に「蜘蛛女のキス」でアカデミー賞主演男優賞、カンヌ映画祭男優賞を受けた。その後「愛は静かさの中に」(1986)、「ブロードキャスト・ニュース」(1987)でもノミネートされた。その前にローレンス・カスダン監督の「白いドレスの女」(1981)、「再開の時」(1983)で注目された。80年代に最も活躍した男優だったが、その後はヴェンダースの「夢の涯てまでも」やウェイン・ワン「スモーク」などなどぐらいか。近年までいろんな映画に出ていたが、印象にない。多くの女性と浮名を流したことでも知られ、「愛は静かさの中に」で共演した10代だったろう者のマーリン・マトリンとも同棲し、後に虐待があったと本で告発された。
(ウィリアム・ハート)
 アメリカ史上で初めて国務長官に就任した女性、マデリーン・オルブライト(Madeleine Korbel Albright)が23日死去、84歳。生まれたのはプラハで、その時の名前はMarie Jana Korbelová(マリー・ヤナ・コルベロヴァ)だった。ユダヤ系だったため、ナチスの侵攻を逃れてイギリスに移り、戦後アメリカに一家で移住した。旧ソ連、東欧情勢に通じた国際政治学者として知られるようになり、92年にクリントン大統領の外交顧問、93年から国連大使を務めた。97年からは第2期クリントン政権の国務長官となった。在任時はコソボ問題でNATOの空爆を主導した。退任直前に北朝鮮を訪問したが成果はなかった。全体的にあまり成功しなかった。
(オルブライト)
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佐藤忠男さんの逝去を悼むー映画、教育、アジア

2022年03月22日 23時12分52秒 | 追悼
 佐藤忠男さんが亡くなった。3月17日没、91歳。マスコミ報道では大体「映画評論家」「日本映画大学名誉学長」と書かれている。それに間違いないけれど、「評論」の内容は映画に止まらず、漫画、大衆文学、教育等々幅広い分野にわたっていた。新潟市に生まれ、中学に落第した後、予科練や鉄道教習所などを経験した。その後定時制高校に通いながら、映画をたくさん見て雑誌「映画評論」に映画評を投稿した。また「思想の科学」に投稿した「任侠について」が鶴見俊輔に認められた。

 こういう経歴から想像出来るように、映画をベースにしながらも独自の視点から日本の大衆文化全般に強い関心を持った。また教育にも一家言あるわけで、教育評論の著書も多い。1930年生まれで、子ども時代に戦争を経験した世代だから、反戦平和の思いが強かった。後にアジアやアフリカなどの映画を積極的に日本に紹介したのも、映画を通して世界を知り国際的な友好関係を広げたいという強い思いがあった。「思想の科学」は多くの新しい書き手を送り出したが、佐藤忠男は最も有意義な活躍をした人だろう。

 今では当たり前の映画研究だが、ある時期まで映画や漫画などはマジメな研究の対象にならなかった。DVDもビデオもなかった時代には、映画は見たらそれっきりである。テレビが出来てからは、時々テレビで放映されるようになったが、それでも昔の映画を後から見るのは難しい。だから古くから映画を見てきた世代が、あの俳優は素晴らしい、あの監督はすごかったなどと「印象批評」するのが大方の映画評論だった。そこに「黒澤明の世界」(1969、三一書房)や「小津安二郎の芸術」(1971、朝日新聞社)が登場した。映画を技術的に分析するとともに、監督の世界を思想的に検討する。ようやくそういう映画批評が登場したのである。

 僕は中公新書の「ヌーベルバーグ以後 自由をめざす映画」(1971)に読んで、非常に大きな影響を受けた。アートの見方を完全に揺さぶられた。そのことは「「同化」と「異化」ーアートのとらえ方①」(2019.8.13)で書いた。「大島渚の世界」(1973、筑摩書房)も出たときに読んだと思う。僕は佐藤忠男さんの本を高校生の時から読んできて、本当に大きな影響を受けたのである。同じ時期に「不良少年物語」「教育の変革」(以上1972年)「学習権の論理」「日本の漫画」(以上1973年)「戦争はなぜおこるか」「世界映画100選」(以上1974年)などの本が続々と出されている。その幅広さに驚嘆するしかない。
(「大島渚の世界」)
 「大島渚の世界」の目次をちょっと紹介する。「閉ざされた青春の暗い情熱」(「青春残酷物語」「太陽の墓場」)、「ラジカルなスターリン主義批判」(「日本の夜と霧」)、「戦後民主主義を越えて」(「日本春歌考」)、「想像力の自由はどこにあるか」(「絞死刑」)、「戦後への愛惜をこめた全否定」(「儀式」)…。一見何だか判らないようなATG映画の見方を教えてもらうとともに、章名を見て判るように「戦後思想史」の勉強でもあった。こういう映画や本で僕は自分の世界観を作っていったのである。

 先に挙げた「世界映画100選」という本は、とても独特な本だった。もちろん世界映画史に残る名作傑作も選ばれているのだが、特に60年代以後は世界各地の様々な映画を積極的に紹介していたのである。その中には当時ほとんど日本での紹介がなかった韓国の「義士安重根」という映画もあった。後に僕も見る機会があったが、確かに立派な堂々たる歴史映画だった。しかし、まあ作品的に言えば「世界映画100選」に入る映画ではないだろう。その後の韓国では世界各地の映画祭で受賞した映画が山のように作られている。だけど佐藤氏は日本では伊藤博文を暗殺したテロリストと記憶されている安重根が見方を変えれば民族の英雄だという映画の存在を日本人が知っておくべきだと考えたのだろう。74年の段階ですでにそういう本を書いていた。

 しかし、佐藤さんはイデオロギー的に映画を評価する人ではない。もともと「思想の科学」出身なのだから、むしろプラグマティストである。映画には娯楽作品もあれば、社会派問題作もある。そして、その中に「世界各地の人々の心を知る」という意味も認めていた。だからこそ80年代に入ると、世界各地を訪れ新しい映画を日本の紹介したのである。それは国際交流基金による国家的要請でもあったが、東南アジア、南アジア、ブラックアフリカ、西アジア・北アフリカなどに及んだ。僕も忙しい時期だけど、休日を利用してよく見た。そして韓国の林権澤(イム・グォンテク)監督を中心にした「韓国映画の精神 林権澤監督とその時代」(2000,岩波書店)という本もまとめた。
(「韓国映画の精神」)
 60年代のキネマ旬報ベストテンの投票を見ていると、佐藤忠男さんの慧眼に驚く。1966年から投票に参加しているが、いきなり大島渚「白昼の通り魔」が1位、鈴木清順「けんかえれじい」が2位という投票である。「けんかえれじい」は他に誰も入れていないから、佐藤氏がいなければあの傑作が0点だった。1968年には小川紳介の三里塚第1作「日本解放戦線・三里塚の夏」を4位に選んでいる。1969年だけ紹介すると、「①少年②私が棄てた女③パルチザン前史④心中天網島⑤緋牡丹博徒・花札賭博⑥長靴をはいた猫⑦男はつらいよ⑧新宿泥棒日記⑨続・男はつらいよ⑩喜劇・女は度胸」となっている。監督名は省略するので知らない人には判らないだろうが、東映動画や森崎東(デビュー作)が入っているのが凄い。

 大衆文化を通して日本人の心情を探る仕事は、「長谷川伸論」「庶民心情のありか」(以上1975年)「忠臣蔵ー意地の系譜」「日本人の心情」(以上1976年)などで頂点に達する。特に「瞼の母」「一本刀土俵入り」など「股旅物」で知られた長谷川伸を本格的に論じた「長谷川伸論」にはとても刺激を受けた。自分が近代日本の民衆文化史に関心を持っていたので、特に深い感銘を受けた。その後、日本映画の歴史を追究し、総決算として「日本映画史」全4巻(1995、岩波書店)をまとめた。「決定版日本映画史、4000枚」とある分厚い4巻本を買って、僕はちゃんと読んだものだ。
(「日本映画史」第1巻)
 その後、今村昌平が作った日本映画学校校長を石堂淑郎から引き継ぎ(1996~2011)、日本映画大学になってからは初代学長を務めた(20011~2017)。それは大きな業績なのだろうが、僕にはよく判らない。ちょっと前まで、映画祭などで珍しい映画が上映されると、佐藤忠男、久子夫妻が見に来ているのを僕は何度も見た。僕はひょんな用事で話をしたことが一度あるが、ちゃんと話を聞いたことがなかった。でも本を通して非常に多くのことを学んだ人だった。追悼するとともに、感謝したいと思う。
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西郷輝彦、西村賢太、稲畑汀子他ー2022年2月の訃報

2022年03月07日 22時16分42秒 | 追悼
 2022年2月の訃報。2月は1日に早速一番大きく報道された石原慎太郎の訃報があった。「追悼」ということではないが、石原慎太郎に関しては一回書いた。何にしても戦後日本の「重要人物」ではある。石原慎太郎とともに弟の石原裕次郎を含めて、戦後日本を考える時に落とせないのは間違いない。今後は作品分析などを緻密に行うことで、「男」を前面に押し出したホモソーシャル(同性間の緊密な結びつき)な世界を批判的にあぶり出すことが大切だ。「星と舵」には本当に驚いたものだ。

 歌手・俳優の西郷輝彦が2月20日死去、75歳。64年にデビューして、橋幸夫舟木一夫とともに「御三家」と呼ばれた。それは僕にとって同時代ではないけれど、よく知っている。しかし、鹿児島出身だから芸名が「西郷」になったというのは今回初めて知った。67年の「星のフラメンコ」が歌手としての代表作。70年代以後は俳優としての活動が多くなり、テレビドラマ「どてらい男」や「江戸を斬る」(遠山金四郎役)などで人気を得た。森繁久彌に師事して舞台でも活躍。1972年に歌手の辺見マリと結婚したが81年に離婚。その後90年に再婚した。辺見マリとの間に生まれたのが辺見えみり。
(西郷輝彦)
 2月の訃報で石原慎太郎、西郷輝彦が知名度が高いかなと思うが、個人的には作家の西村賢太に一番驚いた。2月4日夜にタクシー乗車中に意識を失い、そのまま5日朝6時32分に死去。54歳。死因は心臓疾患と発表された。2011年1月に「苦役列車」で芥川賞を受賞し、同作は森山未來主演で映画化された。僕は気になるけれど好きにはなれないなという作風で、読んでるのも「苦役列車」だけ。今どき珍しい「破滅型私小説」を書き続けたが、それには生い立ちに大きな原因があった。中卒で肉体労働をしながら、古本屋で見つけた小説を読むようになり、私小説を自分でも書き始めた。忘れられていた大正期の作家、藤澤清造を再発見し「没後の弟子」を称したことでも知られる。遺稿は読売新聞に書いた石原慎太郎の追悼文だという。
(西村賢太)
 俳人の稲畑汀子(いなはた・ていこ)が27日に死去、91歳。高浜虚子の孫、高浜年尾の子で、子どもの稲畑廣太郎も俳人という俳句4代の家系である。父の死後に「ホトトギス」主宰を受け継ぎ、「有季定型」「花鳥諷詠」「客観写生」の伝統を守る立場にたった。朝日新聞の俳壇選者を40年近く務め、同じ選者の金子兜太とは丁々発止のやり取りが繰り広げられたという。俳句のことはほとんど知らないが、代表句には「今日何も彼もなにもかも春らしく」「落椿とはとつぜんに華やげる」「空といふ自由鶴舞ひやまざるは」などがあるという。判ったような判らないようなの世界である。
(稲畑汀子)
 国際的に活躍した指揮者の大町陽一郎が18日に死去、90歳。東京芸大を経てウィーン国立音楽大に留学、ベームやカラヤンの薫陶を受けた。1968年にドルトムント歌劇場常任指揮者となりオペラやバレエなどの音楽を手掛けた。1980年に日本人で初めてウィーン国立歌劇場を指揮し、82年から84年まで専属指揮者として活躍した。国内では東京芸大オペラ科教授を務め、また東京フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者(61年~70年)、専任指揮者(99年~)を長く務めた。オペラ以外にブルックナーやヨハン・シュトラウスなどでも知られた。著書も多くクラシック音楽普及に力を尽くした。
(大町陽一郎)
 俳優の川津祐介が26日に死去、86歳。訃報ではテレビの「ザ・ガードマン」が大きく出ていた。そうかあれに出ていたのか。僕も見てたと思うが、まだ俳優には関心がなかった。僕の印象では何と言っても、大島渚の「青春残酷物語」である。松竹の映画監督だった川頭義郎の弟だったと今回初めて知ったが、慶応大学在学中に木下恵介監督の「この天の虹」でデビューしたのもその縁だろう。この映画はこの前見たけれど、デビュー作だったのか。松竹映画では青春スターだったが、後にフリーとなって様々な役柄を演じている。昔の映画やテレビで活躍したので、古い映画を見るとよく出ているが、他にもダイエット本が売れたり、レストランを開くなど随分いろんな事をした人だった。
(川津祐介)
 漫談家(という肩書きになってる)松鶴屋千とせが17日に死去、84歳。芸名から何となく大阪の人のように思い込んでいたが、何と僕と同じ自治体に住んでいた。福島県から上京して松鶴家千代若・千代菊に弟子入りした。東京で活動した漫才師である。70年代に「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ〜」というフレーズで大いに売れた。もうほとんどの人には、わかんねえだろうな。
(松鶴屋千とせ)
 イタリアの女優、モニカ・ヴィッティが2日死去、90歳。もう時間が経ってしまって名前を聞いても判らない人が多いだろう。ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「情事」「」「太陽はひとりぼっち」の「愛の不毛三部作」で不毛の愛を印象深く演じた。アントニオーニ「赤い砂漠」も素晴らしく、監督とは公私ともにパートナーだった。他にはジョセフ・ロージー監督「唇からナイフ」やこの前見たブニュエル「自由の幻想」などがある。長く活躍したが、後期の映画はほとんど未公開なのが残念。
(モニカ・ヴィッティ)
 韓国の評論家、文学研究者、李御寧イ・オリョン)が26日死去。88歳。非常に有名な人だった割に、訃報が小さかった。ノ・テウ政権で初代文化相になったのが良くなかったのか。1982年に『「縮み」志向の日本人』を日本語で書いて大評判になった。日本の比較文化論が欧米しか念頭にない事を批判し、日本独自とされた「甘え」論なども韓国に同様の言葉があると指摘した。当時は多くの人にとって盲点を突かれた批判だったのである。他の著書は「蛙はなぜ古池に飛びこんだか」など多数。
(李御寧)
 2008年にノーベル生理学・医学賞を受けたフランスのウイルス学者リュック・モンタニエが8日死去、89歳。モンタニエはHIVの発見者として知られている。80年代初期に謎の病気だったエイズ(後天性免疫不全症候群)の原因をめぐって、世界の研究者が激しい競争を繰り広げた。モンタニエのグループは、後にHIVとして知られるウイルスを発見し1983年5月30日に「サイエンス」に発表した。しかし、その段階ではウイルスがエイズの原因とは判っていなかった。ほぼ同時にアメリカのギャロのグループがエイズを引き起こすウイルスを確認したと発表し、両者の競争は仏米の政治問題にもなった。結局、最初に同定したのはモンタニエとされノーベル賞の対象になった。その後は問題発言が多くなり、新型コロナウイルスについても人工的に作られたと主張していた。
(リュック・モンタニエ)
内山斉(ひとし)、2日死去、86歳。元読売新聞グループ本社社長。日本新聞協会会長、横綱審議委員会委員長などを務めた。
渡辺充、8日死去、85歳。外務省中近東アフリカ局長、儀典長などを務めた後、96年から2006年まで宮内庁で侍従長を務めた。
柳家さん吉、15日死去、84歳。落語家。一時期「笑点」の大喜利メンバーを務めた。
竹本浩三、18日死去、89歳。吉本新喜劇の基礎を築いた脚本家、演出家。テレビ番組「パンチDEデート」の構成なども担当した。
林聖子、23日死去、93歳。新宿の文壇バー「風紋」の元店主。太宰治「メリイクリスマス」の登場人物のモデルにもなった。
安部一郎、27日死去、90歳。柔道10段。柔道の海外普及に務め、「一本」「待て」などの用語を日本語で普及させることにつながった。
大谷羊太郎、28日死去、91歳。ミステリー作家。70年に「殺意の演奏」で江戸川乱歩賞を受賞した。

ダグラス・トランブル、アメリカの映画視覚効果技師。7日死去、79歳。「2001年宇宙の旅」「未知との遭遇」「ブレードランナー」などの特撮を手掛けた。父親は「オズの魔法使い」の特撮を担当していた。
アイバン・ライトマン、12日死去、75歳。カナダの映画監督。「ゴースト・バスターズ」が世界的に大ヒットした。
ゲイリー・ブルッカー、19日死去、76歳。イギリスのバンド、プロコル・ハルムの創設メンバーで、「青い影」が大ヒットした。
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海部俊樹、水島新司、池明観、松岡享子等ー2022年1月の訃報②

2022年02月06日 22時21分50秒 | 追悼
 1回目で長く書いたので、2回目は他の人々を簡単に書きたい。と言ってもずいぶん多くの訃報があった。まあ総理大臣経験者ということで、海部俊樹(かいふ・としき)から。第76、77代の内閣総理大臣1989年8月から1991年11月まで務めた。早大弁論部で活躍後、自民党の河野金昇の秘書となるが、58年に河野が急死。一回未亡人をはさみ、60年に後継となって29歳で全国最年少の衆議院議員となった。党内弱小の三木派、河本派に所属していたため、現実の総裁候補とは誰も考えていなかった。しかし、88年のリクルート事件によって、自民党有力者が軒並み総裁選に出られなくなって、89年参院選大敗、宇野首相辞任後にクリーンなイメージの海部が擁立されたのである。総裁選の対抗馬は林義郎(林芳正外相の父)、石原慎太郎だった。
(首相当時)
 弱体総理の割に印象にあるのは、戦後史最大の転換点にぶつかったからだ。89年の冷戦終結から91年の湾岸戦争の時期に首相だった。「自衛隊の貢献」を求められ、国論も大きく揺れた。その間、小沢一郎幹事長の権力が強く、党内基盤がないため再選が難しくなって退陣した。しかし、その後思わぬ波乱の晩年を送った。94年に自民党が社会党村山委員長を担いで政権復帰したとき、小沢一郎らに擁立されて離党して対立候補となったのである。負けた後には、新進党党首に就任した。小選挙区制移行後は、愛知9区から、96年新進党、00年保守党、03年保守新党、復党して05年自民党と毎回違う党から当選し、09年の政権交代選挙で敗北して引退した。当選回数16回、約49年間の議員生活だった。90年だか91年だかの夏に、いとこの天文学者海部宣男が所長をしていた野辺山天文台を訪れ、その後草津に泊まった年がある。その年に僕も草津を訪れていて、昨日首相が来ていたと話題になっていた。
(晩年の海部俊樹)
 漫画家の水島新司が10日死去、82歳。野球漫画で知られ、「ドカベン」「あぶさん」「野球狂の詩」などで知られた。現実の球団、選手が登場したり、少女投手の水原勇気(「野球狂の詩」)の活躍など、時代に先駆けた描写が多い。しかし、メジャー挑戦や五輪などはほとんど描かれていないという。あくまでも日本のプロ野球を愛していた時代の人なんだろう。新潟市出身で、中学の隣にあった新潟明訓高校に行きたかったが経済的事情で断念。中卒で働きながら貸本漫画家になった世代である。最初のヒットが70年から連載開始の「男どアホウ甲子園」。高校野球とプロ野球を愛し描いた漫画家だった。
(水島新司)(「ドカベン」)
 長崎県立国見高校サッカー部を率いて、全国高校選手権で6回の優勝を果たした小嶺忠敏が7日死去、76歳。1968年に母校の島原商業高校に就任し、インターハイで1回優勝。84年に国見高校へ転勤し、97年から教頭、00年から定年の05年まで校長を務めた。教育公務員にあって、長崎に多い離島に一度も赴任することなく、同じ学校で教頭、校長をずっと務めるのは極めて異例だろう。サッカー部強化を求める県外私立への流出を恐れた特別措置だという。J1最多得点の大久保嘉人は教え子だった。記事で知ったが、自らバスを運転して他校との練習試合に連れて行ったという。東京都なら処分される事案だろう。地方では事情が違うと思うが、いろいろと許された時代だったんだろう。2007年参院選に自民公認で立候補して敗れた。
(小嶺忠敏)
 児童文学者、翻訳家の松岡享子が25日に死去、86歳。図書館学を学び、アメリカに留学して児童図書館学を専攻した。日米で図書館に勤務したあと、1974年に石井桃子らと東京子ども図書館を開設し、40年以上理事長を務めた。この間、マイケル・ボンド「くまのバディントン」シリーズ、ディック・ブルーナの「うさこちゃん」シリーズなど数多くの翻訳を刊行した。同時に、アジアの子どもたちに共通の読み物を作ろうというユネスコのアジア共同出版計画に関わり、アジア各国の昔話などを共同出版した。
(松岡享子)(「くまのパディントン」)
 美術史家、評論家、武蔵野美大名誉学長の水尾比呂志が3日死去、91歳。柳宗悦に師事して民藝を学び、多くの研究書がある。「評伝柳宗悦」も書いた。日本の古典美術を研究し「わび」「琳派」などの著書もある。しかし、単なる研究者ではなく、若い頃から詩人としても活躍し、ラジオやテレビのシナリオも書いている。総合的な表現者だったというべきだろう。
(水尾比呂志)
 作家、翻訳家の中田耕治が11月26日に死去していたことが2月になった公表された。94歳。評論や演劇の演出でも活躍したとウィキペディアに出ていたが、やはり翻訳と小説が大きな仕事だろう。特に50年代からたくさん手掛けたアメリカのミステリーやSFの翻訳は後の世代にも大きな影響を与えていると思う。スピレイン「裁くのは俺だ」、レヴィン「死の接吻」、ベスター「虎よ、虎よ」などである。ハードボイルドなどは実作も多く書いたし、60年代初期の忍者ブームでは忍者小説も書いた。(「異聞猿飛佐助」は篠田正浩監督によって映画化された。)しかし、僕が思うに最高の仕事は1975年刊の評伝「ルクレツィア・ボルジア」ではないか。「メディチ家の人々」「メディチ家の没落」とイタリア・ルネサンス三部作となった。当時はずいぶん評判になったし、僕も読んだ記憶があるが、いつのまにか忘れられてしまった。翻訳では後進育成にも尽力したという。
(中田耕治)

 韓国の宗教哲学者で元東京女子大教授の池明観チ・ミョングァン)が1月1日に死去、97歳。72年に朴正熙政権の弾圧を逃れて日本へ渡り、東京女子大で教授として勤めた。70年代半ばには立教大学に非常勤講師で来ていて、僕はその時代から名前を知っていた。時間が合わずに受講はしていないが、まさかその池明観氏が「T・K生」だったとは本当に驚いた。この名前で岩波書店の月刊誌「世界」に73年から88年まで「韓国からの通信」を連載したのである。僕はある時期、この通信を読むためだけに「世界」を買っていた。日本でも韓国民主化運動、政治犯救援運動への連帯の動きが強かった時代である。僕はある種「むさぼるように」読んだのだが、80年に初めて韓国へ行き、83年に就職すると、次第にキリスト教会を中心とした弾圧情報に偏している気もしてきた。93年に韓国へ帰国し、翰林大学教授。金大中政権では対日政策のブレーンとなった。それが「日本文化開放」につながった。市民の連帯を信頼した大切な人だった。
(池明観)(「韓国からの通信」)
 スペインの建築家、リカルド・ボフィルが14日に死去、83歳。バルセロナに生まれ、フランコ独裁に抵抗してジュネーブで建築を学んだ。63年にバルセロナに戻り、世界各地で活躍した。バルセロナの国立カタルーニャ劇場、マドリッド市議会などの他、日本でも銀座資生堂ビル、ラゾーナ川崎プラザなどを手掛けている。
(リカルド・ボフィル)(銀座資生堂ビル)
 ザ・ベンチャーズの結成メンバーだったドン・ウィルソンが22日に死去、88歳。1959年にドン・ウィルソンとボブ・ボーグルによって結成された。二人ともギタリストだったが、後ベースとドラムを加え、60年の「ウォーク・ドント・ラン」がヒットした。他に「パイプライン」「ダイヤモンド・ヘッズ」など。1965年に2回目の来日時から人気が出て、大エレキギター・ブームを起こし、日本のポピュラー音楽に大きな影響を与えた。インストゥルメンタル音楽だったため言語の壁がなく、アメリカよりも日本では長く人気を保った。毎年のように来日し叙勲もされた。米国でも「ロックの殿堂」入りを果たしている。
(ドン・ウィルソン)
 フランスの俳優ギャスパー・ウリエル(Gaspard Ulliel)がスキー場の衝突事故で死亡した。19日死去、37歳。「ロング・エンゲージメント」(2004)でセザール賞有望若手男優賞を受けた。その後、「ハンニバル・ライジング」の若き日のハンニバル・レクター役に抜てきされ、またシャネルのイメージモデルにも採用された。「サンローラン」(2014)のタイトルロールを演じて評価され、2016年のグザヴィエ・ドラン監督「たかが世界の終わり」でセザール賞主演男優賞を獲得した。
(ギャスパー・ウリエル)

竹内一夫、12月8日死去、98歳。脳外科医、杏林大学名誉学長。85年に厚生省研究班で「脳死判定基準」(竹内基準)をまとめた。
川田孝子、12月31日死去、85歳。元童謡歌手。姉の川田正子とともに活躍し、紅白に2度出場。59年に結婚で引退した。「見てござる」など。
泉眞也、2日死去、91歳。博覧会プロデューサー。大阪万博、沖縄海洋博、つくば科学万博、愛知万博などに関わった。
比屋根吉信、4日死去、70歳。元興南高校野球部監督として80年代に6回甲子園に出場。09~12年に京大野球部監督を務めた。
田中慶秋(けいしゅう)、4日死去、83歳。民社党、新進党を経て、元民主党副代表、野田内閣で法相。暴力団との関わりなどを指摘され3週間で辞任。
梅沢武生、16日死去、82歳。大衆演劇を父から受け継ぎ、「梅沢武生劇団」座長を1963年から2012年まで務めた。弟の梅沢富美男が「下町の玉三郎」と呼ばれて人気を博した。
西太一郎、19日死去、89歳。三和酒類元会長。大分県宇佐に生まれ、家業を継いで麦焼酎「いいちこ」でブームを起こした。
杵屋浄貢(きねや・じょうぐ)、19日死去、84歳。長唄三味線で人間国宝。56年に7代目杵屋巳太郎を継ぎ、2012年に8代目に譲って浄貢を称した。
宮崎蕗冬(ふき)、20日死去、96歳。華道家、歌人。柳原白蓮、宮崎龍介の長女に生まれ、子育て終了後に華道を始めて山村御流名誉華務職を務めた。また母が主催した短歌結社「ことだま」を主宰した。兄が学徒出陣で戦死し、また祖父宮崎滔天の活動を受け継ぐ意味もあり、日中友好、反戦活動に力を尽くした。母白蓮を伝える著作を数冊書いている。
坂本孝、26日死去、81歳。「ブックオフ」創業者。不正会計問題で07年に辞任。その後「俺のフレンチ・俺のイタリアン」を創業した。

ミートローフ、20日死去、74歳。アメリカのロック歌手・俳優。77年のアルバム「地獄のロック・ライダー」が大ヒット。93年の「愛にすべてを捧ぐ」でグラミー賞を受けた。俳優としても活躍、「ロッキー・ホラー・ショー」や「ファイトクラブ」に出演。
ティエリー・ミュグレー、23日死去、73歳。フランスの世界的ファッションデザイナー。74年に自身の名を冠したブランドを創設、80年代のファッション界を席巻した。香水でも成功した。デヴィッド・ボウイやビヨンセの衣装をデザインした。
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ポワチエ、ボグダノビッチ、ベネックス、恩地日出夫ー2022年1月の訃報①

2022年02月05日 22時18分51秒 | 追悼
 2022年1月の訃報特集。映画監督の訃報が相次いだので、1回目はそれをまとめて。そう言えば2月1日没の石原慎太郎も監督した映画がある。1958年の「若い獣」と1962年の国際オムニバス映画「二十歳の恋」である。これは他国編がアンジェイ・ワイダ、フランソワ・トリュフォーなどなので、なんで日本編に石原慎太郎が選ばれたのか不思議だ。

 まずはシドニー・ポワチエ(Sidney Poitier)で、1月6日没、94歳。シドニー・ポワチエは「黒人初のアカデミー主演男優賞受賞者」として知られる。受賞したのは1963年の「野のユリ」だが、テレビでも見ていない。1958年の「手錠のままの脱獄」で知られたが、これはテレビで見て面白かった。1967年の「招かれざる客」「夜の大捜査線」などでは「立派な黒人」を演じている。後に「優等生役」ばかりだとして批判されたが、時代を切り開いた意味は大きい。彼あってこそデンゼル・ワシントンモーガン・フリーマンが出て来られた。2001年にアカデミー名誉賞を受け、2009年には大統領自由勲章をオバマ大統領から授与された。
(オバマ大統領から勲章を受ける)
 巨大資本で作られるハリウッド映画では、時代の制約が大きい。ポワチエはその時代に求められたものを演じるしかなかった。では立派ではない「普通の黒人」は差別されても良いのか。あるいは俳優は善人も悪人も演じられてこそ本物ではないか。本人も役柄には不満があったようで、72年の「ブラック・ライダー」から監督も兼ねるようになった。ウィキペディアには8本が載っている。娯楽作が多く、僕も見た記憶はない。あまり評価はされなかったが、そういう作品もやりたかったんだろう。「夜の大捜査線」は後に劇場で見たが、たまたま南部に来ていたポワチエが殺人事件の容疑者になる。しかし、彼は実はフィラデルフィア警察殺人課の敏腕刑事だった。彼はやむなく人種差別的な署長と協力せざるを得なくなる。アカデミー作品賞を受賞した立派な映画だった。
(「夜の大捜査線」)
 映画監督のピーター・ボグダノビッチ(Peter Bogdanovich)が6日に死去、82歳。この名前はセルビア系だと言うが、僕は若い頃に覚えてしまった。1971年の「ラスト・ショー」(キネ旬1位)、72年の「おかしなおかしな大追跡」、73年の「ペーパー・ムーン」(キネ旬5位)の3連打によって、当時の若い映画ファンは彼の名前を記憶した。その後、76年「ニッケルオデオン」、81年「ニューヨークの恋人たち」(オードリー・ヘップバーン最後の作品)、84年「マスク」(シェールがカンヌ映画祭女優賞)、90年「ラスト・ショー2」、93年「愛と呼ばれるもの」(リバー・フェニックスの遺作)などなかなか興味深そうな作品がある。2014年の「マイ・ファニー・レディ」まで何本か公開されているが、僕は見た記憶がない。あまり評判にもならなかったと思う。
(ピーター・ボグダノビッチ)
 「おかしなおかしな大追跡」はバーブラ・ストライサンド、ライアン・オニール主演のスラップスティック喜劇でとても面白かった。「ペーパー・ムーン」は聖書を売りつける詐欺師親子を描き、テイタム・オニールが史上最年少の10歳でアカデミー賞助演女優賞を受けた。テイタムは女子野球を描く「がんばれ!ベアーズ」などで名子役スターだったが、その後は不本意な人生だったようだ。テニス選手ジョン・マッケンローと結婚するも、彼女の麻薬中毒で離婚。父親のライアン・オニールからも虐待されたと告発している。しかし、その親子で出た「ペーパー・ムーン」は最高に面白いコメディ映画だった。と言いつつも、やはり何といっても「ラスト・ショー」(The Last Picture Show)が最高の思い出である。
(「ラスト・ショー」)
 50年代初頭、テキサス州の小さな町。若者たちが集まる場所は映画館ぐらいしかない。その映画館もとうとう閉館になるという。題名はその最終上映のことで、最後は西部劇の「紅い河」。この町で高校生が愛し合い、悩みながら様々な人生行路を送る。日本では72年夏に公開された。同じ年に日本では「旅の重さ」があった。自分も高校生だから、高校生が出て来る青春映画に思い入れした。カップルがもめたり、フットボールコーチの年上の妻に惹かれたり、何やってるんだの傷つき傷つけ合う若き日々。そして思い出の映画館にも最後の日が訪れる。いや、心で泣いた。そして主演のシビル・シェパードに憧れたのだった。
(シビル・シェパード)
 フランスの映画監督ジャン=ジャック・ベネックス(Jean-Jacques Beineix)が13日に死去、75歳。80年代初期にデビューしたリュック・ベンソンレオス・カラックスとともに、フランス映画の「恐るべき子どもたち」、BBCなどと呼ばれたが、もう亡くなる人が出る時代なのか。81年の「ディーバ」で注目され、83年の「溝の中の月」を経て、86年の「ベティ・ブルー 愛と激情の日々」が代表作となった。89年に「ロザリンとライオン」92年の「IP5/愛を探す旅人たち」を作った。その後ドキュメンタリーを作ったりしているが、2001年の「青い夢の女」が最後の長編劇映画になった。闘病が長かったといわれる。僕は最後の方は見てなくて、やはり「ベティ・ブルー」なんだろうなと思う。80年代に活躍が集中していて、自分が仕事で忙しかったこともあるが、やはりフランス映画はゴダール、トリュフォー、ロメールだと思っていて、あまり見てないのである。
(ジャン=ジャック・ベネックス)
 日本の映画監督、恩地日出夫(おんち・ひでお)が20日死去、88歳。僕にとって恩地監督は東宝青春映画なのだが、訃報ではテレビの「傷だらけの天使」を見出しにしていた。テレビドラマの演出家はあまり意識してなかったけど、サスペンス劇場みたいなドラマを多数作っている。1960年に監督に昇進、66年の内藤洋子主演「あこがれ」、68年の酒井和歌子主演「めぐりあい」で知られた。劇映画では91年の「四万十川」、03年の「蕨野行」も立派な映画だった。また85年「生きてみたいもう一度・新宿バス放火事件」は見てる人が少ないと思うけど、テーマに関心があったので確か新宿の小さな映画館に見に行った。発掘・再評価されて欲しい映画。初期作品の「女体」「あこがれ」「めぐりあい」は武満徹が音楽を担当していて、4月上旬にシネマヴェーラ渋谷の武満映画音楽特集で上映される。特に「めぐりあい」の抒情的なテーマは有名で、見てない人には大切な機会だろう。
(恩地日出夫)
 ついこの間「勝負は夜つけろ」(1964)について書いたばかりだが、その井上昭監督が9日に死去した。93歳。大映で中野学校、座頭市、眠狂四郎などのシリーズを担当した。後にテレビで「ザ・ガードマン」や「遠山の金さん」など多数を演出した。
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石原慎太郎をめぐってーいくつかの断章

2022年02月03日 23時04分54秒 | 追悼
 石原慎太郎が2月1日に亡くなった。89歳。毎月訃報のまとめを書いているが、1日だから来月では遅すぎるので簡単に書いておきたい。いろいろな肩書きがあったが、主には「作家」「政治家」になるだろう。葬儀は家族で行い、後でしのぶ会を開くと言うが、これはコロナ禍での通例である。その場合、しばらく訃報が伏せられることが多い。(映画監督の恩地日出夫の訃報が3日の朝刊に載っていたが、1月20日死去と出ていた。)しかし、石原慎太郎の場合、三男が衆議院議員でいま国会開会中、また次男はテレビで幾つものレギュラー番組を持っている。理由を言わずに欠席すれば、コロナ感染かと周囲を混乱させかねない。次男、三男が「公人」だったことが、訃報がすぐに発表された理由なんだろうなと思った。
(訃報を伝えるテレビニュース)
 今まで石原慎太郎に関しては何回か書いた。東京都知事をまとめて振り返った時に、「石原都政に「実績」はあったか-都政と都知事を考える③」(2016.6.23)を書いた。しかし、その前に書いた「鈴木都政に行きつく問題-都政と都知事を考える②」も読んで貰った方がいい。よく「左」系の人は石原都政から教育がゆがめられたように言うことがあるが、それは間違いであると指摘した。当時を知っている人でも忘れていることがあるが、鈴木知事、青島知事時代に確立した都庁官僚支配体制ですでに鬱陶しい時代が始まっていた。作家の分野に関しては、「石原慎太郎「太陽の季節」「星と舵」などを読んでみた」(2021.4.20)を書いた。

 石原慎太郎は最近まで新刊を出していたが、現役作家というよりは「文学史上の人」だろう。政界も引退していたから、きちんとした「石原慎太郎論」を考えるべきだろう。ずいぶんいろんなことをした人だが、50年代には映画俳優もした。慎太郎原作、裕次郎主演映画に特別出演したのもあるが、本格的な主演もある。鈴木英夫監督「危険な英雄」(1957)では誘拐を追う新聞記者で主演している。名演とまでは言わないが、ちゃんと演技している。(川島雄三監督「接吻泥棒」(1960)もある。)一方、増村保造監督「からっ風野郎」(1960)は三島由紀夫が主演したが、実に惨憺たる結果に終わった。この違いがどこにあるのかは興味深い。文学的な違いと当時に、だから石原慎太郎は政治家になれたのだと思う。
(慎太郎、裕次郎兄弟)
 1958年の岸内閣による警察官職務執行法改正案には大きな批判が起こった。この時、新世代の旗手として活躍していた若き「文化人」たちが集まって「若い日本の会」を結成した。60年安保まで活動したという。ウィキペディアを見ると、以下のような人々が参加していた。「石原慎太郎、谷川俊太郎、永六輔、大江健三郎、黛敏郎、福田善之、寺山修司、江藤淳、開高健、寺山修司、浅利慶太、羽仁進、武満徹、山田正弘、大坪直行」などである。山田正弘は脚本家、大坪直行は詩人・編集者で、後に石原のすすめで「いんなあとりっぷ」編集長になったという。しかし、実に驚くべき顔ぶれである。ここで挙げられた中で、石原慎太郎黛敏郎江藤淳浅利慶太は後に保守派として知られてゆく。どこに分岐点があったのだろうか。それが戦後史の分岐だろう。

 石原慎太郎は10年以上僕の「ボス」だった。つまり「上司」である。教育公務員の給与は都道府県が負担するので、区立中学勤務の時から給与明細の「給与支払者」は都知事だった。まあ、それは「形式」であって、何も知事から給料を貰ってると思っていたわけではないが。その当時のことを思い出してみれば、やはり上意下達型のとんでもない知事だったと思う。何も政治的な主張が違うから嫌いということではない。むしろ組合に入ってない「幹部」教員の方が敬遠していた気がする。それも当然の話で、上から降ってくる様々な(それまではあり得ないような)教育行政の新機軸を、現場の反対を押し切りながら具体的に実施して行くことを求められる。そういう立場の人ほど、五輪招致話が出て来たときにウンザリしていた。

 同僚に組合幹部になって都労連で活動していた人がいたが、石原都知事は「悔しいけどカッコいい」と評していた。長身で足も長くスタイルが良い。だから人気が出るのも判るという話だった。ふーん.そういうものかと思った思い出がある。石原慎太郎を読んでみた記事で書いているが、僕は長いこと一つも読んでこなかった。まあ存命中に読みたいと思って、石原慎太郎や大江健三郎を去年読んだわけだが、「太陽の季節」から始まる文体の現代性は今も生きていると思った。

 だが内容的に特に女性描写には問題がある。サンフランシスコからハワイを目指すヨットレースを描く「星と舵」には驚いた。ヨットレースが始まるまでは、ほとんどが女性の話。メキシコまで娼婦を買いに行く話も出てくる。だからダメというのではなく、それが「自我」に何の関係もない自慢話なのである。政治家になってからの「失言」「暴言」には根深いものがあると思う。
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追悼・外岡秀俊-東日本大震災の2冊の新書

2022年01月20日 22時12分31秒 | 追悼
 作家、ジャーナリストの外岡秀俊(そとおか・ひでとし)が2021年12月23日に亡くなっていた。68歳。12月の訃報を書いた後で公表された。心不全というが、今の時代としては「若すぎる」と思う年齢である。前に外岡氏の大震災に関する新書本について書いたことがある。読み返すと今も新鮮なので、10年前(2012年10月23日)の記事を書き直しながら、追悼としたいと思う。今回いろいろな人が書いていたが、「外岡秀俊」は何を書くだろうかとずっと注目して人がかなりいた。僕もその一人だが、その意味は後述するように二つの意味がある。
(外岡秀俊)
 外岡秀俊という人は、2011年3月末まで朝日新聞の記者だった。1953年生まれで、2011年3月に早期退職した。外岡秀俊は朝日に入ってどういう記事を書くのだろうと僕はずっと注目してきた。この人の名前はまず新人作家として認識した。東大卒業間際の1976年に、河出書房の新人賞「文藝賞」を「北帰行」(ほっきこう)で獲得して、華々しく作家デビューしたのである。この年は「群像」新人賞を受けた村上龍限りなく透明に近いブルー」が芥川賞を獲得し大ベストセラーになっていた。ところが外岡は受賞時点ですでに朝日入社が決まっていた。朝日を蹴って作家専門でやっていくか注目されたが、本人は新聞記者の道を選んだ。それで僕は朝日の署名記事に「外岡秀俊」の名があると注目してきたのである。
(「北帰行」)
 朝日新聞で、外岡氏は学芸部、社会部、ニューヨーク特派員、ロンドン特派員、論説委員、ヨーロッパ総局長、東京本社編集局長などを歴任した。アメリカで書いた記事などは僕もよく読んだ記憶がある。学芸記者、社会部記者を経て、欧米の特派員が長かった。日本を外から眺めながらも、日本社会への関心は失わなかった。阪神淡路大震災を長く取材して「地震と社会」(上下、みすず書房、1997)をまとめたのである。(2冊にわたる大冊なので僕は読んでない。)そして退職直前に、東日本大震災が起こった。

 大震災から1年後に、外岡秀俊は二つの新書を刊行した。まず、3.6刊の岩波新書「3・11 複合被災」。「これほどの無明を見たことはなかった-地震、大津波、そして原発事故 現地を歩き、全体像を描く」と帯にある。「たとえば震災から十年後の2021年に中学・高校生になるあなたが、『さて、3・11とは何だったのか』と振り返り、事実を調べようとするときに、まず手にとっていただく本の一つとすること。それが目標です。」とある。震災から一年という節目で、1年間の総まとめとして書かれた本。そして確かに、この本は一冊手元に置いておくべきだと僕は思う。特に原発事故に関しては諸「事故調」の報告が出て、情報が古くなった部分もあると思う。それにしても、10年後の中高生がコロナ禍のただ中にあるなどと誰も予想できなかった。 
(「3・11 複合被災」)
 著者の見方は、この震災は「類例のない複合被災」であるという言葉につきる。災害が起こり大きな被害が出るが、だんだん「復興」が進んで行くという、今までのタイプの大災害と今回は異なっている。あまりにも広い範囲の大津波、もともと過疎が進み、行政機能が行き届かなかった地域では、なかなか「復旧」も「復興」もできない。そもそも「復旧」できるかどうかも難しい。そういう「取り返しのつかなさ」が一番大きく現れているのが、原発事故。事故の日から何年立てば、元の町に戻れるのか。もう戻れないのか。そういうことも判らない。いくつもの町がそのまま、「消失」してしまった。この本には一年目の出来事しか書かれていない。「2011年」という特別な年の思いが本の中に閉じ込められている。

 2.29刊の朝日新書「震災と原発 国家の過ち」は、他の「3・11本」と全く違っている。副題が「文学で読み解く『3・11』」である。「この不条理は すべて文学に 描かれていた!」と帯に書かれている。震災直後に被災地を取材し、「アエラ」に原稿を書いたのが最後のルポだったという。新聞社を離れてフリーになって、何ができるか。「そのときに考えたのが、文学作品を再読しながら、被災地で考えを深めてみよう、ということだった。」
(「震災と原発 国家の過ち」)
 そこで取り上げられた本は以下の通り。
カミュ『ペスト』 復興には、ほど遠い 
カフカ『城』 「放射能に、色がついていたらなあ」 
島尾敏雄『出発は遂に訪れず』 「帝国」はいま 
ハーバート・ノーマン『忘れられた思想家ー安藤昌益のこと』 東北とは何か 
エドガール・モラン『オルレアンのうわさ』 原発という無意識 
井伏鱒二『黒い雨』 ヒロシマからの問い 
ジョン・スタインベック『怒りの葡萄』 故郷喪失から、生活再建へ 
宮沢賢治『雨ニモマケズ』 「救済」を待つのではなく 

 コロナ禍で世界的に読まれた「ペスト」がまず挙げられていたことに驚いた。ということは④の東北論などはともかく、現在のコロナ問題を考える時のきっかけにもなる読書リストなんじゃないか。この本は小さな本だけど、文学はこういう風に読めるのかと改めて教えてもらった気がした。正確に言えば、ノーマンモランは、「狭義の文学作品」ではない。ハーバート・ノーマンは、日本で生まれたカナダ人で、日本史を研究した。カナダ外務省に入り、占領中はカナダからGHQに派遣され、日本の民主化に参加した。その当時の研究が「忘れられた思想家」で、安藤昌益再評価のきっかけとなった。アメリカの「赤狩り」時代に「スパイ」と疑惑をもたれ、1957年にカイロで自殺したという伝説的な日本史研究者である。

 エドガール・モランはフランスの社会学者で、様々な著作があるがほとんど翻訳されている。「オルレアンのうわさ」は、フランスの町で反ユダヤ主義のうわさが広まる過程を分析した有名な著作。この本を「神話の形成」をめぐるものとして、原発論議の中で読み解くというのは、ちょっとビックリ。卓見である。この本は、文学という視点から震災に迫った稀有の本だと思う。こういう視角で、震災を論じるというのは大事なことだと思う。

 ところで外岡秀俊は朝日入社後も小説を書いていたことが今では判っている。1986年に福武書店から中原清一郎名義で出た「未だ王化に染はず」という長い小説が外岡氏の著作なのである。中原名義ではその後に「カノン」(2014、河出書房新社)、「ドラゴン・オプション」(2015、小学館)、「人の昏れ方」(2017、河出書房新社)という本が出ている。あまり注目されたという記憶が無いが、こうしてみると退職後はジャーナリスト以上に小説家として活動していたと言える。僕は最初の「未だ王化に染はず」は刊行当時に読んでいる。天皇制国家に同化されず、未だ狩猟民で生きる「未開の民」の生き残りが北海道の大地に生き残っていたという大胆な設定の本である。稀に見る「反天皇制」の書として忘れてはいけない本だと思う。
(「未だ王化に染はず」)
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デズモンド・ツツ、新井満、古谷三敏他ー2021年12月の訃報

2022年01月06日 23時37分50秒 | 追悼
 2021年12月の訃報特集。南アフリカのデズモンド・ツツ(Desmond Mpilo Tutu)が12月26日に死去。90歳。名前は「トゥトゥ」と表記すべきだろうが、慣例に従って「ツツ」と書いた。(葬儀におけるラマポーザ大統領の感動的な弔辞でも「トゥトゥ」と聞こえた。)反アパルトヘイト運動に尽力して、1984年にノーベル平和賞を受賞した人である。「大主教」と書かれるが、これは1986年に聖公会のケープタウン大主教に就任したことによる。ノーベル賞受賞時は南アフリカ教会協議会事務総長だった。一貫して非暴力を主張したことで知られる。大主教としても女性や同性愛者の聖職者を擁護した。
(デズモンド・ツツ)
 アパルトヘイト撤廃後に設置された「真実和解委員会」の委員長を務めて、国民和解のプロセスに重要な役割を果たした。そのことも忘れてはいけない大切な業績だ。国内ではネルソン・マンデラやANC(アフリカ民族会議)をも批判できる権威を持ち、対外的にも特にアフリカの平和維持に最後まで力を尽くした。同じノーベル平和賞受賞者のアウンサンスーチーに国内のロヒンギャ族保護を要請するなど、公正な人間性が信頼された人物だった。

 作家、作詞家、作曲家の新井満が12月3日死去、75歳。本名は「みつる」だが、創作活動では「まん」と読ませた。芥川賞作家、レコード大賞作曲賞受賞者だが、何だか「イベント・プランナー」的な仕事をした人だと思う。それは電通社員だったことと関係あると思う。作家では「ヴェクサシオン」(野間文芸新人賞)、「尋ね人の時間」(芥川賞)を読んだが、80年代後半で忘れてしまった。その前からカネボウのCMソング「ワインレッドのときめき」を歌って知られていた。一番有名なのは訳詞、作曲を務めた「千の風になって」(2003年)である。僕は不思議な歌詞だなあと思ったけど売れた。何をするも自由だけど、なんで長野冬季五輪や平城遷都1300年、北海道新幹線開業などのイベントに関わるのか、正直僕は疑問だった。
(新井満)
 「ファミコンの父」とも呼ばれる上村雅之が12月6日死去、78歳。シャープを経て、71年に任天堂に入社。開発第二部長としてファミリーコンピュータなどの開発を指揮した。その後、立命館大学大学院特任教授、同大のゲーム研究センター長を務めた。
(上村雅之)
 漫画家の古谷三敏が12月8日死去、85歳。手塚治虫、赤塚不二夫のアシスタントを務め、「おそ松くん」「天才バカボン」に関わった。その後、70年から82年まで「ダメおやじ」を連載して大ヒット。毎日新聞日曜版に「ぐうたらママ」を75年から2020年まで45年間連載した。また「寄席芸人伝」「BARレモン・ハート」など多彩な作品を発表した。大泉学園駅前で作品と同名のバー「BARレモンハート」を経営した。
(古谷三敏)
 俳優、声優の神田沙也加が12月18日に死去、35歳。12月に一番大きく報道された訃報だが、僕はこの人のことを松田聖子と神田正輝の間に生まれたと言うこと以外、ほとんど知らない。映画「アナと雪の女王」のアナ役を担当して紅白歌合戦にも出場した。札幌でミュージカル「マイ・フェア・レディ」に出演中だった。自殺だと報道されているが詳細は知らない。
(神田沙也加)

矢田部理(やたべ・おさむ)、5日死去、89歳。74年社会党から茨城県から参議院議員に当選し、以後4回当選。小選挙区制、社民党への改称に反対して離党、新社会党を結成して初代委員長になった。98年は比例区で立候補し落選。
丸谷明夫、7日死去。76歳。吹奏楽の名指導者として知られ、全日本吹奏楽連盟理事長を務めた。大阪府立淀川工業高(現淀川工科高)に実習教員として赴任、その後教員免許を取得し電気科で教えた。その間、吹奏楽部顧問として全日本吹奏楽コンクールに41回出場、32回金賞受賞という全国最多の成果を挙げた。阪神タイガースの優勝パレード、高校野球大会などで指揮をするなど、吹奏楽を越えて関西で活躍した。テレビ番組でも何度も特集されたというが、僕は名前も知らなかった。異動せずに一校で指導できた時代だったんだなと思った。
鈴木淳、9日死去、87歳。作曲家。67年に伊東ゆかりの「小指の想い出」が大ヒット。八代亜紀なみだ恋」、ちあきなおみ四つのお願い」、「X+Y=LOVE」など60年代から70年代の歌謡曲を作った。
高良留美子(こうら・るみこ)、12日死去、88歳。詩人、評論家。母は参議院議員を務めた女性運動家、高良とみ。詩人として50年代から活躍。1963年、詩集「場所」でH氏賞を受賞した。1988年に「仮面の声」(現代詩人賞)、2000年に「風の夜」(丸山豊記念現代詩賞)など多くの詩集がある。女性史や女性問題に関する著作も数多く、「高群逸枝とボーヴォワール」などを残した。訃報が小さく忘れられている感じだが、重要な人だと思う。
柏木博、13日死去、75歳。デザイン評論家。近代デザイン史を研究し、「家具や家電のみならず広告や都市も対象に、造形論にとどまらない、時代や社会を批評するデザイン論を展開し、広く社会に問いかけた」と訃報に出ている。非常に多くの本があるが、僕は知らない。
飯塚繁雄、18日死去、83歳。拉致被害者家族会前代表。金賢姫に日本語を教えた「リ・ウネ」とされる田口八重子さんの兄。
瀬川昌久、29日死去、97歳。ジャズ批評家。富士銀行に入社して、1953年にニューヨークに赴任。本場でデューク・エリントンやチャーリー・パーカーを聞いて、評論活動を始めた。戦前のジャズ・レコードを中心に、映画やミュージカルの評論活動を続けた。長年のポピュラー音楽への寄与に対し、2015年に文化庁長官表彰を受けた。映画監督瀬川昌治の兄にあたる。

ボブ・ドール、5日死去。元米国上院議員。98歳。1996年大統領選で共和党候補として現職のクリントンと争って敗北した。
マイク・ネスミス、10日死去、78歳。元「モンキーズ」のメンバーとして活躍した。解散後はカントリーのバンドで活動。
金英柱(キム・ヨンジュ)、14日死去、101歳(とされる)。金日成の実弟で、朝鮮労働党の要職をかつて歴任した。72年の南北対話では北側の責任者として署名した。この時点では後継候補ナンバーワンとみなされ、副首相を務めていた。その後金正日との後継争いに敗れ、70年代半ばに失脚したとされるが、一時復活が伝えられた。最高人民会議代議員はずっと務めていたというが、まだ存命だったのに驚いた。
リチャード・ロジャース、19日死去、88歳。イギリスの建築家。機能的デザインやハイテク志向のデザインで知られた。ロンドンのロイズ保険本社、ミレニアムドームなどで知られた。全世界で活躍し、日本でも汐留の日本テレビ本社、政策研究大学院大学などがある。
カルロス・マリン、20日死去、53歳。ヴォーカルグループ「イル・ディーヴォ」のリーダーでバリトン担当。クロスオーバー音楽のブームを先導した。新型コロナウイルスに感染していたと言われている。
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全斗煥、デクラーク、ソンドハイム等ー2021年11月の訃報③

2021年12月10日 22時48分44秒 | 追悼
 大韓民国の第11代、12代大統領全斗煥(チョン・ドゥファン)が11月23日に死去、90歳。韓国大統領は選出方法に関わらず、一期ずつ数える。全斗煥は5人目の大統領だが、李承晩が3期、朴正熙が5期務めたのを数に入れ、全斗煥が11代になる。陸軍士官学校同期で、政治行動を共にした盧泰愚が先月死去したのに続き、韓国現代史の中心人物が亡くなったことになる。韓国大統領の死亡順を見れば、要するに「悪人ほど長生きをする」という鉄則が正しいように思われてくる。
 
 全斗煥は韓国大統領として初めて正式に日本を訪問した人物だが、日本側のカウンターパートだったのは中曽根康弘である。1979年10月26日に衝撃的な朴正熙大統領暗殺事件が起きた。その後、12月12日に国軍保安司令官だった全斗煥が、戒厳司令官の鄭昇和を逮捕して軍内の実権を握る「粛軍クーデター」が起きた。それまで僕は全斗煥という人物を知らなかったが、この日から突如韓国の実権を握る人物となった。そして1980年5月17日に「非常戒厳令」を全国に拡大し、「ソウルの春」と呼ばれた民主化運動の弾圧に踏み切った。金大中らを逮捕し全羅道の光州で民衆の反発が強まると陸軍の特殊部隊を送り込んで弾圧した。僕は全斗煥と言えば、やはり光州事件を思い出すし、そういう人物を中曽根が国賓として呼んだのかと思ってしまう。
(全斗煥と中曽根)
 もちろん、だからと言って全斗煥を狙ってビルマで爆弾テロを起こした北朝鮮の行為は批判しなければならない。87年には大韓航空機爆破事件も起きたが、これらは88年ソウル五輪の招致に成功した韓国に対し、北側の焦りがあったのだろう。87年の民主化運動で大統領直選になって盧泰愚が当選した。しかし、大統領退任後に親族の蓄財疑惑が発覚、隠遁生活を余儀なくされる。金泳三政権になると、「過去の清算」が進んで、過去の粛軍クーデターにさかのぼって「内乱罪」で裁かれることになった。96年に死刑判決が出るが、金大中大統領の特赦によって無期に減刑された。最後まで光州事件への「謝罪」はなかったと報道されている。
(囚人服姿の全斗煥(右)と盧泰愚)
 僕が初めて韓国を訪れたのは、全斗煥がまさに大統領になろうとする1980年夏だった。ハンセン病回復者定着村のワークキャンプに参加したわけだが、その後に光州を訪れた思い出がある。なかなか外国人が行きにくかった時期だが、僕はソウルから夜行寝台列車で出掛けた。そんなのがあったのである。ハングルは読めるが、会話が上手に出来るわけではない。その上、事件の数ヶ月後だから、安易に聞いて回るわけにもいかない。早朝について中心部をウロウロしただけで、再び列車に乗って海岸部の麗水に移った。韓国で読んだ新聞には、数多くの経済団体などが「全斗煥将軍を大統領に推戴します」という広告を載せていた。その時は「統一主体国民会議」なるものが作られて、全斗煥を大統領に決めたのである。

 南アフリカの「白人最後の大統領」だったフレデリック・ウィレム・デクラークが11月11日に死去、85歳。どうしても過去を抜きに語れない全斗煥と違って、デクラークはネルソン・マンデラとともに1993年ノーベル平和賞受賞した人物として記憶されている。前任のボタから後継に指名され、1989年に大統領に就任。その時点ではデクラークが「アパルトヘイトを廃止する大統領」になるとは思われていなかった。しかし、獄中のマンデラを呼び寄せて会談し、マンデラを信頼してアパルトヘイト廃止を表明する。全住民参加のマンデラ政権が出来ると、当初は副大統領として参加したが、96年には連立政権を離脱して辞任。97年には政界を引退した。その後も貧困など多くの問題を抱えつつ、南アはマンデラ、ムベキ、ズマ、ラマポーザと一応民主政権が続いている。
(デクラーク)
 カンボジア王族で、カンボジア和平後に王党派政党を率いてフン・センと政権を争ったノロドム・ラナリットが11月28日に死去、77歳。1944年にシアヌーク国王の第二王子として誕生。長く続いたカンボジア内戦の後に、1991年のパリ和平会議後に最高国民評議会議長に就任した。1993年の実施された選挙では、王党派政党フンシンペック党を率いて、事前予想を覆す第一党になった。人民党のフン・センと二人首相となり、王政復古後は第一首相となった。しかし、1997年に両派の武力衝突が起き、フンシンペックが敗退して首相を解任された。その後は抵抗を続けたり、欠席裁判で有罪になったり、恩赦で帰国して政界復帰を目指したりするうち、次第に王党派は弱小化していった。フランスで死去。
(ノロドム・ラナリット)
 アメリカのミュージカル界で活躍した作曲家、作詞家スティーヴン・ソンドハイムが11月26日に死去、91歳。「ウェストサイド物語」の作詞、「フォリーズ」「太平洋序曲」「スウィーニー・トッド」などの作詞・作曲をしている。トニー賞とグラミー賞を8回ずつ、アカデミー賞を1回受賞するなど、アメリカでは非常に有名で重要な人物とされている。ミュージカルに関して、ウィキペディアに長大な記述が載っているが、僕にはよく判らない。 
(ソンドハイム)
ネルソン・フレイレ、1日死去、77歳。ブラジルのピアニスト、モーツァルトやシューマンで知られた。アルゲリッチとの親交でも知られる。
太田淑子、10月29日死去、89歳。「ジャングル大帝」「リボンの騎士」などの声優。テアトル・エコーでも活躍した。
中原伸之、1日死去、86歳。元日銀審議委員。大胆な金融緩和を主張し、安倍元首相のブレーンと言われた。
小川洋、2日死去、72歳。前福岡県知事。福田康夫内閣から菅直人内閣までの内閣広報官を務めた。
川嶋辰彦、4日死去、81歳。学習院大学名誉教授。秋篠宮紀子妃の父。
徳山諄一、8日死去、78歳。コンビでミステリーを書いた作家、岡嶋二人の一人。もう一人は井上夢人。
長谷川和夫、13日死去、92歳。精神科医で認知症への理解を広げる活動を続けた。非常に多くの著書がある。本人も晩年に認知症を公表した。
江上泰山、19日死去、85歳。元臨済宗相国寺派宗務総長。金閣寺炎上を僧侶として目撃した。
元幕内豊ノ海、20日死去、56歳。巨漢で知られ、最高位は前頭筆頭。99年引退後は二子山部屋の親方として3年間勤めた。
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中村吉右衛門、ワダエミ、古葉竹識等ー2021年11月の訃報②

2021年12月09日 22時52分35秒 | 追悼
 日本人の訃報だけでも書くことが多いので、外国人は3回目に。歌舞伎俳優の中村吉右衛門(2代目)が11月28日に死去、77歳。僕は歌舞伎をほとんど見ていない。だから円丈の落語について演目を語るようには、吉右衛門の弁慶は、俊寛は、などと書くことが出来ない。それが残念なんだけど、初代を追悼する「秀山祭」を2006年からやっているのは知っていて、一度は見ておきたいと思っていた。兄の白鸚より先に逝くとは思っていなかったのである。1944年に5代目市川染五郎(後の8代目松本幸四郎、初代白鸚)の次男に生まれた。母は初代中村吉右衛門の娘で、結婚するときに男児を二人以上産んで、一人は吉右衛門を継がせると約束したのである。そのため兄と違って中村吉右衛門(播磨屋)を継ぐ運命のもとに育つことになったのである。
(中村吉右衛門)
 しかし、父や兄とともに、松竹を離れて東宝に移った時期もあった。1961年から74年である。当時は中村萬之助を名乗っていて、兄の染五郎と「さぶ」(山本周五郎原作)を演じて大人気だったという。その時代は知らないが、その後は主に歌舞伎を中心に活躍した。他ではテレビの「鬼平犯科帳」で鬼平を演じたことが有名。多くの人はそれで記憶しているだろう。映画では「鬼平」劇場版を除けば脇役が多いが、篠田正浩監督「心中天網島」で紙屋治兵衛を演じて見事な演技を見せている。また香川県の「こんぴら歌舞伎」の復興に力を注いだことも重要で、その成功が各地に波及していった。テレビの文化番組のナレーター、美術展などの音声ガイドなどもかなりやっていたので、多くの人がどこかで接していたと思う。3月28日に倒れて、舞台を降板。一時復帰が伝えられたが、結局叶わなかったので、病状はかなり深刻なのかと想像はしていた。全く残念なことだ。
 (弁慶)(鬼平)
 衣装デザイナーのワダエミが11月13日に死去、84歳。本名は和田恵美子だが、「ワダエミ」と表記していた。夫はNHKの演出家だった和田勉で、夫の外部公演の舞台衣装を担当するうちに舞台や映画の衣装を数多く手掛けるようになった。1985年に黒澤明監督の「」を担当し、アカデミー賞衣装デザイン賞を受賞した。これはシェークスピア「リア王」を日本の戦国時代に移したものだが、確かに衣装は重要な役割を果たしていた。それをきっかけに、イギリスのピーター・グリーナウェイや中国のチャン・イーモウなどの作品を手掛けた。日本映画では勅使河原宏監督「利休」や大島渚監督「御法度」などがある。
(ワダエミ)(黒澤明「乱」)
 広島東洋カープ監督として1975年の初優勝に導いた古葉竹識(こば・たけし)が11月12日死去、85歳。現役時代は俊足の内野手(主に遊撃)として1958年から広島で活躍、二度の盗塁王に輝いた。1963年には打率3割3分9厘で、わずか2厘差で長嶋に及ばず首位打者を逃した。しかし、他の年は打率もそれほど高くなく生涯打率は2割5分ほどだが、生涯出塁率が3割を超えている。1970年に野村監督に請われて南海に移籍、翌71年に引退した。その後南海のコーチをしていたが、74年に広島のコーチに就任。75年に外国人監督ジョー・ルーツが突然辞任した後を継いで、5月に監督に就任した。
(古葉竹識)
 広島は各球団の中で唯一優勝経験がなく、「お荷物」扱いされていたが、この年に初めて優勝した。優勝決定は後楽園球場の巨人戦で、僕は大学の友人と授業後に見に行ったけど、もちろん入れず外から熱狂的な応援を聞いていた。ドームじゃない時代である。山本浩二衣笠祥雄のカープ黄金時代だった。79、80、84年にも優勝し、日本シリーズも制覇した。85年まで務めて退任、86年から3年間大洋の監督をした。2003年の広島市長選、2004年の参院選比例区に自民党から出馬したが、いずれも落選した。それはともかく、野球史に残る名監督で、野球殿堂入りしている。
(75年の初優勝、胴上げされる古葉監督)
 「神田川」の作詞家、喜多條忠(きたじょう・まこと)が11月22日死去、74歳。かぐや姫の「マキシーのために」が初の作詞で、その後かぐや姫のために「神田川」「赤ちょうちん」「」とヒット曲を書いた。「神田川」は自身の体験が基だと言うが、「四畳半フォーク」などと言われながら大ヒットした。この時代の曲は大体口ずさめるわけだが、僕は「マキシーのために」が一番好きだった。他にはキャンディーズの「暑中お見舞い申し上げます」もあるが、意外なことに石川さゆりや五木ひろしの演歌が多い。2017年に伍代夏子の「肱川あらし」で日本作詞家大賞受賞。
(喜多條忠)
 朝日新聞論説主幹だった松山幸雄が10月30日に死去、91歳。ワシントン特派員、ニューヨーク支局長、アメリカ総局長を歴任し、83年から91年にかけて論説主幹を務めた。国際派ジャーナリストとして当時は非常に有名で影響力もあった。「『勉縮』のすすめ」など多くの本が評判になったが、長生きして忘れられてしまった感がある。吉野作造賞、石橋湛山賞などを受賞している。
(松山幸雄)
 元ラグビー日本代表監督、早稲田大学名誉教授の日比野弘が11月14日死去、86歳。早稲田大学ラグビー部で活躍した。1970年に早大監督に就任して大学選手権、日本選手権で優勝した。76年、82~84年、87~88年に日本代表監督を務め、83年の海外遠征でウェールズ戦で接戦を演じた。今でも語り草と言われる試合だという。世界との差が大きかった時代の噺である。 
(日比野弘)
 占術家(新聞にそう出ている)の細木数子が11月8日に死去、83歳。「六星占術」が80年代にブームとなり、テレビにも多数出演して「視聴率の女王」と呼ばれた。
(細木数子)
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三遊亭円丈と川柳川柳ー2021年11月の訃報①

2021年12月08日 23時09分31秒 | 追悼
 2021年11月の訃報では瀬戸内寂聴を別に書いた。他にも重要な訃報が相次いだが、最初にまず落語家の三遊亭円丈川柳川柳の二人を書いておきたい。落語にちょっとでも関心がある人だったら、この二人の訃報が同じ月に続いたことに深い因縁を感じたと思う。二人はともにかつて「昭和の名人」と称えられる6代目三遊亭圓生の弟子だった。そして1978年の圓生の落語協会脱退問題に巻き込まれることになった。僕はこの二人の高座を何度となく聴いていて、特に円丈師は年齢からもまだまだ聴けるものと思っていただけにとても残念な思いがする。2021年になって寄席に出てないなと思って心配していたが…。
(三遊亭円丈)
 三遊亭円丈から先に書くが、11月30日に死去、76歳。1964年に圓生に入門し、1978年に真打に昇進して圓丈を襲名した。(ここでは本人がよく使っていた「円丈」と書く。)現在の新作落語の元祖というべき落語家で、現代落語に非常に大きな影響を与えている。もともと柳家金語楼の「兵隊落語」など新作落語はずっと存在してきたが、それらは大体「人情もの」だった。それに対し、円丈は不条理演劇のような奇想天外でSFのような設定を落語に持ち込んだのである。それは弟子の三遊亭白鳥三遊亭天どん等だけでなく柳家喬太郎や協会を越えて春風亭昇太桂文枝等に大きな影響を与えた。

 まさに新作落語の「ラスボス」というか「ビッグボス」のような存在であって、「円丈ゲノム」という落語会が開かれるぐらいである。「渋谷ジァン・ジァン」で開かれていた円丈主催の「実験落語の会」というのが、そもそもの源流だという。小劇場ジァン・ジァンは渋谷の公園通り、山手教会の地下にあって何度も行ってる。中村伸郎の「授業」(イヨネスコ作)とか、エリック・サティの「ヴェクサシオン」全曲演奏など今も鮮烈だ。上の山手教会は先に書いた瀬戸内寂聴の追悼で書いた富士茂子さん支援集会が開かれた場所である。だけど実験落語の会には行こうと思わなかったのである。当時は関心がなかったんだなあ。
(著書「御乱心」を持つ円丈)
 円丈は東京都足立区の東部にある六町(ろくちょう)、一ツ家(ひとつや)に長く住んでいた。僕も同じ足立区だが、東京の特別区は広いから一度も行ったことはない。むしろ東武線沿線に住む者からすれば、「陸の孤島」みたいな地域なのである。ところが2005年になって、「つくばエクスプレス」が開業するに伴って「六町駅」というのが出来た。そこから青井、北千住、南千住と乗れば、次は浅草駅になる。この浅草駅は東武や地下鉄銀座線の乗換駅ではなく浅草六区にあって、浅草演芸ホールの真下にある。これが円丈には嬉しいことで、浅草演芸ホールのマクラによく使われて、いつも大受けしていた。

 東京東部は東京人の中で「差別」されていて、中でも足立区は一番下になる。同じ足立区でも、千住に住んでる人は、荒川北方に住んでる人を「川向こう」と「差別」する。そんな「川向こう」であっても、そこは「東京の一部」には間違いないから、「埼玉より上」ではないか。というような隠微な差別心理を背景にして「悲しみは埼玉に向けて」という新作の傑作が生まれた。もっとも地方では受けないし、東京でも新宿末廣亭向きではないが、上野鈴本や浅草演芸ホールならば必ず爆笑になる。確かに面白いんだけど、聞いたときの気持ちはかなり複雑だ。地方出身の妻は非常に驚いたという。しかし、僕は長く教員をしていたから、確かに東京各地に「学力差」があることを現実問題として知っているのである。

 円丈最後の高座は2020年12月23日の国立演芸場の「悲しみは埼玉に向けて」だという。この日は「平成」時代には祝日だったわけで、毎年国立演芸場で円丈を中心に新作落語の会が開かれてきた。今年も白鳥、喬太郎、林家彦いち、柳家小ゑんで「年の瀬に新作を聴く会」として開かれる。もう発売初日にあっという間にネットで即売してしまう人気公演だが、僕は数年前に何とかチケットを確保して行ってみた。ところがそこでの円丈は非常に驚くべき混乱ぶりだった。はっきり言って落語になってなかった。そんなのを聴いたことがなかったが、本人もショックだったのだと思う。早くからホームページを持っていた落語家だが、謝罪の言葉が書かれていた。しかし、僕は何となく「加齢に伴う度忘れ」以上のものを感じて不吉な気がした。

 それ以後も寄席には出ていたが、以前は円丈が出ているから見に行こうという気が起こったが、そこまでは思わなくなった。その後も何回か見ているが、タブレットやネタ帳を見ながらやっていた。それもアリだとは思うけど、寂しい気もした。新作の話ばかり書いたが、晩年の高座では古典を演じることも多かった。圓生に古典をしっかり仕込まれていて、二つ目時代に130以上覚えたという。昔のことは忘れないと言うけれど、自分で作った新作より古典が自然に出て来る年齢になったのか。古典落語の大ネタもやっていたと言うが、むしろ「強情灸」なんかに感心した。チャッカマンで灸を据えるところなんか爆笑である。趣味も多く、特に「狛犬研究家」として有名だった。また「純喫茶」探訪やパソコンゲームなどもホームページでずいぶん書いていた。

 さて、そんな円丈の兄弟子だったのが、川柳川柳である。11月17日没、90歳。55年8月に圓生に入門したが、古典絶対主義の師匠に対して、新作や音楽で売れてしまってなかなか昇進出来なかった。同じく55年1月に入門した5代目圓楽は62年に真打に昇格したが、川柳(当時の名はさん生)は74年まで真打になれなかった。しかも、圓楽、圓丈らは師匠の「圓」の付く名を貰ったのに対し、さん生は師匠の後ろの方の「生」のまま真打になったのである。それは圓生の性格もあるようだが、さん生の方にも度重なる飲酒による失敗があった。特に有名なものに師匠宅前での「脱糞事件」というのまである。
(川柳川柳)
 戦前の古今亭志ん生にも「トンデモエピソード」がいっぱいだが、戦後で一番トンデモだったのはこの人ではないか。そこで1978年に様々な理由あってのことだが、三遊亭圓生を中心に落語協会を脱退する事件が起きた。これはもともと古今亭志ん朝や立川談志なども参画予定の大反乱だったのだが、東京の寄席4つの「席亭会」が認めず、結局落語協会を脱退したのは圓生一門に止まった。圓丈は疑問を持ちながらも師匠に従って脱退し、1980年に圓生が急死した後に落語協会に復帰した。そのあたりのことを書いた「御乱心」という内幕ものは最近小学館文庫で復刊されて、ブログで紹介した。(「伝説の書、三遊亭円丈「御乱心」復刊!」)

 さん生も師匠について行くつもりではあったが、実は脱退話を聞かされていなかった。そのことを酔った勢いで志ん朝に暴露してしまい、もめる原因となった。その結果師弟関係が破綻して、さん生は落語協会に残留することを決めた。破門され三遊亭を名乗ることも認められず、仮に柳家小さんの一門となって川柳川柳(かわやなぎ・せんりゅう)を名乗ることにしたのである。そういう過去を持ちながら、高座ではいつも大受けだった。ある意味、他の誰よりも受けていたと思う。何度も聞いているが、数年前までよく寄席に出ていた。同じ噺だから別にいいかと思っているうちに、気付いていれば寄席で見なくなっていた。
(著書「ガーコン落語一代」を持って」
 その噺というのが「ガーコン」である。これは軍歌とジャズで綴る昭和音楽史のようなものだが、ガーコンというのは足踏み式脱穀機の音のこと。とにかく抱腹絶倒のネタで近年は他の人がやっても受けるという。これに甲子園出場校と入場曲を挙げていく「パフィーで甲子園」を演じることもあった。そしてトリを取る時などは、ソンブレロ姿に変わってギターを抱えて漫談を語る。それも見ているが、「爆笑王」というに相応しい大受けだった。二人とも寄席では大受けするので、席亭には有り難かっただろう。本当にちょっと前まで、毎月のようにどこかの寄席に出てたんだけど、亡くなってしまったんだなあと思うと悲しい。
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瀬戸内寂聴の訃を悼み、徳島ラジオ商殺し事件を思い出す

2021年11月13日 00時00分04秒 | 追悼
 2021年11月9日に瀬戸内寂聴が亡くなった。1922年5月15日生まれで、99歳である。2004年に岩波書店から出た「同時代を生きて」という本では、鶴見俊輔ドナルド・キーン瀬戸内寂聴の3氏が大いに語り合っていた。この3人は1922年生まれの全くの同世代人だった。そして、鶴見俊輔が2015年7月20日に亡くなり、ドナルド・キーンが2019年2月24日に亡くなった。そして、この二人に続き瀬戸内寂聴が亡くなった。日本の作家としては、宇野千代の98歳は越えたが、野上弥生子の99歳10ヶ月には僅かに及ばない。ちなみに佐藤愛子は97歳の誕生日を迎えたばかりである。百歳まで生きることはかくも難しい。

 僕は瀬戸内寂聴さんの話を聞いたことがある。それは徳島ラジオ商殺し事件の再審開始を求める集会でのことだった。1953年に徳島市で起こった殺人事件で、「内縁の妻」の富士茂子が逮捕され、懲役13年の有罪が確定した。しかし、これは公権力の乱用としか言いようがない恐るべき事件だった。難航する捜査に対して、検察官が2人の少年店員を無理やり逮捕し嘘の供述を迫ったのである。開高健が「片隅の迷路」で小説化し、山本薩夫監督「証人の椅子」(1965)として映画にもなった。富士茂子は1966年11月に仮釈放されたが、その間何度も再審を求めながらも退けられてきた。

 徳島市に生まれた瀬戸内寂聴は同じ町に起こった事件に心を寄せ、早くから富士茂子の熱心な支援者だった。1970年代後半になって、本格的に日弁連が支援することになり、本人の体調を考えると恐らく最後になるだろうと思われた第5次再審請求が1978年1月に起こされた。その直前に東京で支援集会が開かれ(場所は渋谷の山手教会)、そこでずっと支援してきた瀬戸内寂聴市川房枝(参議院議員)が登壇して話をしたのである。日本女性史に輝く偉大な2人の話を聞いたわけだが、僕は小さい体で必死に無実を訴える富士茂子の姿だけを覚えている。そして彼女は1979年11月15日に亡くなった。
(富士茂子さんの写真を掲げて再審開始を求める人々)
 再審請求は姉妹によって継承され、日本で初の死後再審を目指すことになった。そして1980年12月13日、徳島地裁は再審開始を決定した。僕はその日、徳島まで出掛けていた。決定が出る日を知らせないことも多いのだが、その時は決定を出す日が公表されていた。審理経過からも開始決定が出る可能性が高いと思われていた。再審開始決定の瞬間を見ることはなかなか出来ないので、僕はどうしても居合わせたかったのである。夜には再審開始を報告する集会が開かれ、ここでも瀬戸内寂聴の話を聞いた。細かい内容は覚えていないけれど、袈裟をまとって威風あたりを圧する存在感は印象的だった。このエネルギッシュな支援活動に瀬戸内寂聴の真骨頂を見た思いがしたものだ。

 僕は「法話」を聞きに行ったりしたことはない。抹香臭いことは嫌いだし関心も薄い。1973年に今東光の手で中尊寺で得度したわけだが、もちろんそれ以前から瀬戸内晴美の名前は知っていた。本を読んではなかったが、それなりに有名な(どちらかと言えばスキャンダラスな)「女流作家」だったから。今東光は河内を舞台にした小説を沢山書いた直木賞作家だが、天台宗の大僧正で自民党の参議院議員でもあった。何で尼僧になったのか、その頃は全く判らなかったし興味もなかった。しかし、もっと後になって瀬戸内晴美名義の伝記小説を読みふけるようになった。面白くて役に立つのである。

 特に日本近代史の中で、自由を求めて闘い続けた女性たちを描き続けた。伊藤野枝を描いた「美は乱調にあり」(1966)に始まり、管野スガ(大逆事件)を描く「遠い声」(1970)、金子文子を描く「余白の春」(1972)、伊藤野枝と大杉栄を描く「諧調は偽りなり」(1984)、平塚雷鳥らを描く「青鞜」(1984)などである。描写が生き生きとしている上に、自由を求めるテーマが胸を打つ。直接授業に使うわけではないが、時代をイメージするのに役立つのである。他にもいっぱい伝記小説を書いているけれど、読んでない本が多い。「夏の終り」などの小説も持っているけど読んでない。いつでも読めると思っているうちに作者が亡くなってしまった。瀬戸内寂聴は林真理子に対して「作家は死んで一年経つと、本屋の棚から無くなってしまう」と言ったそうだ。

 しかし、一年と言わず、ここ数年ほとんど瀬戸内の小説は文庫コーナーで見なくなっている。今挙げたような本は、今後も若い日本の女性を勇気づけるだろう。いつまでも読めるようになっていて欲しい。その他、多くの社会運動にも関わり、安保法制や原発にも反対してきた。それらはマスコミ上で多く報道されている。どんな人が何を言っているかを見ると感じることが多い。(上記の伝記小説の多くは近年岩波現代文庫で再刊されている。)
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コリン・パウエル、盧泰愚、カーン博士等ー2021年10月の訃報③

2021年11月07日 22時27分30秒 | 追悼
 アフリカ系アメリカ人として初の統合参謀本部議長(ブッシュ父政権)となり、後にアフリカ系初の国務長官(ブッシュ子政権)になったコリン・パウエル(Colin Luther Powell)が10月18日に死去、84歳。ジャマイカ系移民の子に生まれ、陸軍に入った。ベトナム戦争で2度負傷、帰国後に軍内部で昇進し、陸軍大将まで昇進した。レーガン政権では国家安全保障担当補佐官、ブッシュ父政権で現役に復帰し、統合参謀本部議長となってパナマ侵攻や湾岸戦争を指揮した。その頃から共和党の大統領候補として取り沙汰されるようになったが、家族から「黒人大統領を目指せば暗殺される」と強く反対された。
(コリン・パウエル)
 ブッシュ子政権で国務長官に就任し、2003年イラク戦争直前の国連安保理で「イラクは大量破壊兵器を持っている」と演説した。しかし、実は間違った情報によったもので、戦争後に大量破壊兵器は発見されなかった。パウエルはこれを「人生最大の汚点」と述べている。僕も当時リアルタイムで演説を見たが、一定の説得力はあると思った。(しかし、大量破壊兵器の有無の関わらず開戦反対の立場。日本政府は開戦を支持したが、パウエルのように真摯に反省したのか。)共和党穏健派を代表する立場で、葬儀に際しては党派を超えた哀悼の意が表され、トランプ以外の有力政治家が参列した。

 元韓国大統領の盧泰愚(ノ・テウ)が10月26日に死去、88歳。87年に久しぶりに行われた大統領直接選挙で13代(5人目)の大統領に当選、1988年のソウル五輪を成功させた。外交では「北方外交」を展開し、ソ連、中国との国交を結んだ。しかし、元々は軍人で、1979年の朴正熙大統領暗殺後に、全斗煥らと「粛軍クーデター」を起こした一員である。全斗煥政権では体育相を務めて五輪準備を担当した。全斗煥から後継指名を受けたが、民主化運動が高揚し(「6月民衆抗争」)、盧泰愚は「六・二九民主化宣言」を発して直接大統領選を受け入れた。政治犯も赦免し、結果的に大統領選には金泳三、金大中がともに立候補し、民主派票が割れて盧泰愚が当選した。大統領時代は「普通の人」を掲げて親しみやすさを演出していた。大統領引退後に政治資金隠匿が発覚し、粛軍クーデターや光州事件も再捜査され、結局懲役17年、追徴金2688億ウォンが確定した。1997年末に特赦された。
(盧泰愚)
 パキスタンの「核開発の父」と言われるアブドゥル・カディール・カーンが10月10日に死去した。85歳。オランダでウランの濃縮技術を身に付け、70年代以後パキスタンで核兵器の開発を進めた。核技術の国際的な闇ネットワークを築いたとされ、イラン、リビア、北朝鮮などへ核兵器技術を密売したと言われる。パキスタン政府の関わりなくして不可能と思われるが、そこには触れずにカーン博士が2004年に関与を「自白」。以後、2009年まで自宅軟禁された。パキスタンでは責任を自らで負って国家と軍を救ったとみなされ、対立するインドに対抗できる核兵器を開発した国民的英雄とされている。
(カーン博士) 
 ソプラノ歌手のエディタ・グルベローヴァが10月18日に死去、74歳。70年にウィーン国立歌劇場と契約、一躍世界に知られた。チェコ生まれ、父はドイツ人ながら、イタリアオペラを得意とし「ベルカント(美しい歌)の女王」と呼ばれた。15回以上も来日公演を行っている。当時のチェコを逃れて西欧各地で活躍した。
(エディタ・グルベローヴァ)
 オランダの指揮者ベルナルド・ハイティンクが10月21日死去、92歳。ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者を61年から88年まで務めた。その後はロンドン・フィルやロイヤル・オペラハウスなどの指揮者を務め、現代最高峰の一人とされた。日本には62年のコンセルトヘボウを皮切りに10回以上も訪れて公演している。正統的な指揮で知られ、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ブルックナー、マーラー、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチなどの交響曲全集を完成させている。
(ベルナルト・ヘイティンク)
・イラン・イスラム革命以後の最初の大統領だったアボルハサン・バニサドルが10月9日に死去、88歳。60年代から反帝政運動に参加し、パリに亡命。79年の革命後にホメイニ師とともに帰国した。革命試験では蔵相に就任し、80年の大統領選で大統領に当選した。しかし、保守派との対立が深まり、81年6月に国会で弾劾決議が可決され辞任。国外に脱出してパリで亡命生活を送り、イスラム体制を批判する活動を続けた。
・ハンガリーの経済学者、コルナイ・ヤーノシュが10月18日没、93歳。戦後に共産党に入党し、経済誌記者をしながら経済学を勉強した。次第に社会主義経済を批判するようになり、1980年の「不足」では社会州経済では物資やサービスが恒常的に不足することを説き、ハンガリーでは「不足」が不足と言われるベストセラーになった。1984年からハーバード大学教授。東欧各国で社会主義経済からの脱却に大きな影響を与えた。邦訳書も数多い。

橋本敦、8月29日没、93歳。元共産党所属の参議院議員。ロッキード事件などの調査、追求で知られた。1988年に謎のカップル失踪事件を質問誌、当時の梶山静六官房長官から「北朝鮮による拉致の疑いが濃厚」との答弁を引き出した。
里村龍一、10月5日没、72歳。作詞家。もともと釧路の漁師だったが、森進一の歌詞募集に応募して優勝し作詞家デビューした。細川たかし「望郷じょんから」、千昌夫「望郷酒場」、香西かおり「雨酒場」など。
醍醐敏郎、10月10日没、95歳。「ミスター講道館」と呼ばれた柔道家で、史上15人しかいない最高位の10段だった。戦後の柔道界のスターで国際的な普及にも努めた。ケガが多く全日本優勝は2度に止まるが、名勝負が語り継がれた。引退後は指導者となり、東京五輪コーチ、モントリオール、ロサンゼルス五輪監督を務めた。著書に「柔道教室」など。
前田五郎、10月16日没、79歳。坂田利夫と組んだコメディ№1のツッコミ担当。初めは吉本新喜劇で活躍し、1967年から坂田利夫と組んで活躍した。2009年に中田カウス脅迫状事件への関与が報道され、本には否定するもののコンビ解散、吉本から契約解除になった。
花柳千代、10月17日没、97歳。1940年に花柳流から花柳千代の名を許され、1951年に花柳千代舞踊研究所を設立した。分野を超えて日本舞踊の普及に務めた。東京新聞主催全国舞踊コンクールで36回の指導者賞を受けた。
飯島敏宏、10月17日没、89歳。テレビプロデューサー、監督、脚本家。TBS入社後、60年代半ばから円谷プロの「ウルトラQ」に関わり、以後「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」などの監督をした。脚本も担当し「バルタン星人」の生みの親と言われている。その後木下プロに出向し、後会長。「金曜日の妻たちへ」など多くのテレビドラマを演出した。
渡辺淳、10月20日没、90歳。フランス文学者。50年代からフランスのレジスタンス文学、思想などを紹介した。映画や演劇の評論活動でも知られた。「パリの世紀末」(中公新書)などパリに関する著作も多い。翻訳も多く、ロラン・バルトやエドガール・モランなどを日本に紹介した。
樋口有介、作家。10月23日没、71歳。那覇の自宅で亡くなっていたのが見つかった。1988年「ぼくと、ぼくらの夏」でサントリーミステリー大賞読者賞を受賞して作家デビュー。「彼女はたぶん魔法を使う」に始まる柚木草平シリーズは創元推理文庫に入っている。「風少女」で直木賞候補。「ピース」は中公文庫で新版が出たばかりだが、一読驚くようなミステリーである。
長谷川健一、10月22日没、68歳。福島県飯館村で酪農を営んでいたが、原発事故で避難を強いられた。原発事故被害者団体連絡会の共同代表を務め、裁判外紛争解決申し立てを求めた申立団の団長を務めた。
仲條正義、10月26日没、88歳。グラフィック・デザイナー。芸大卒業後資生堂に勤めたが、61年に独立して仲條デザイン事務所を設立した。資生堂の企業文化誌「花椿」のアートディレクターを務めた他、「暮しの手帖」の表紙イラストも担当した。他にも松屋銀座、東京都現代美術館、日光江戸村などロゴ・デザインを担当した。

 最後に死刑囚、高橋和利が10月8日に死亡したことを書いておきたい。87歳。誤嚥性肺炎で5月から入院中だったという。この訃報を新聞は小さく報じたが、どこも「鶴見事件」と呼ばれる冤罪主張事件だったことを伝えないのは何故だろう。大河内秀明弁護士による「無実でも死刑、真犯人はどこに」という本もある。救援会のホームページもあって、「鶴見事件について」がある。マスコミは少なくとも無実を主張し再審請求中だったというぐらいは報じるべきだ。
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中根千枝、森山真弓、坪井直、副田義也等ー2021年10月の訃報②

2021年11月06日 22時09分40秒 | 追悼
 社会人類学者中根千枝が10月12日に死去、94歳。講談社現代新書の「タテ社会の人間関係」(1967)がベストセラーになって名前を知られた。この人の肩書きを「社会人類学者」ではなく、「東大名誉教授」と書くような、人間を業績ではなく「どのような場に属しているか」で判別する社会が「タテ社会」になる。日本の労働組合が会社ごとに作られるのを見ても、現在も日本社会の基本システムであり、今回の衆院選理解の鍵でもある。今読むとそんなに面白くもないと思うけど、日本を考えるときの基本文献ではある。人類学者として日本の農村を調査した後、ヨーロッパ各地やインドなどの調査を続けた。中根氏には「女性初の」が付きまとった。女性初の東大教授であり、学士院会員であり、学術系の文化勲章受章者。
(中根千枝)
 「女性初」つながりで、女性初(にして唯一)の内閣官房長官を務めた森山真弓が10月14日に死去、93歳。中根千枝は津田塾専門学校卒業、東大法学部入学の同期になる。東大在学中に政治家の森山欽司と結婚。1950年卒業とともに労働省に入省、女性官僚の草分けとなった。夫は運輸相などを務め、労働、教育などでタカ派として知られた。妻の真弓も1980年に参議院議員に転身、夫は政界入りに消極的だったというが、結局参院3回、衆院4回の当選を重ねた。1989年海部内閣で環境庁長官として入閣、山下徳夫がスキャンダルで辞任した後に官房長官に横すべりした。その後も宮澤内閣で文部相、小泉内閣で法相を務めた。2009年総選挙に立候補せず引退。
(森山真弓)
 政治家では鹿野道彦が10月21日に死去、79歳。森山真弓が官房長官を務めていた1989年~1990年に農水相を務めていた。その後の政界再編で自民党を離党、「新党みらい」を経て新進党に合流。党首選で小沢一郎と争ったこともある。新進党解党後、「国民の声」を経て民政党で幹事長に就任。後に野党が結集して民主党に参加、国対委員長を務めた。選挙では山形1区で遠藤利明(現選対委員長、元五輪相)とし烈な争いを繰り広げ、3勝3敗になっている。2005年には比例でも当選出来なかったが、2009年に当選。民主党政権の菅、野田内閣で21年ぶりに再び農水相を務めた。民主党内閣では安定した行政能力を買われ、ポスト菅の代表選にも立候補した。
(鹿野道彦)
 長年被爆者の先頭にたって核廃絶を訴えた坪井直(つぼい・すなお)が10月24日に死去、96歳。2000年から日本被爆者団体協議会(被団協)代表委員を務めていた。広島工業専門学校在学中に爆心から1.2キロ地点で被爆して大やけどを負った。(その時の様子がたまたま中国新聞カメラマンによってとらえられていた。)その後、中学の数学教員となり、被爆体験を語り続けた。校長を経て1986年に定年退職。その後、世界に非核を訴える活動に積極的に取り組み、アメリカやフランスなどにも出掛けた。2016年、オバマ米大統領(当時)の広島訪問時に対面して握手を交わしたことで知られる。2018年、広島市名誉市民。
(坪井直)
 社会学者の副田義也(そえだ・よしや)が10月8日に死去、86歳。社会事業や社会福祉の研究者として「生活保護制度の社会史」や「福祉社会学宣言」などの著書がある。しかし、それ以上に有名なのは漫画評論家としての活動で、漫画研究の本がいくつもある。もともと作家を志向していて、小説「闘牛」で開高健や大江健三郎とともに1958年1月期の芥川賞候補となった。(開高が受賞。)晩年には交通遺児などを支援する「あしなが育英会」を熱心に支援して「あしなが運動と玉井義臣 歴史社会学的考察」(岩波書店、2003)を書いた。この本は政治家と官僚がいかに民間のボランティア的活動を妨害してきたかの歴史的証言として必読である。教員としては日本社会事業大、東京女子大、筑波大、金城学院大に勤務した。
(左=副田義也、右=あしなが育英会の玉井義臣)
 東映の社長、会長を務めた高岩淡(たかいわ・たん)が10月28日に死去、90歳。東映京撮所長として太秦映画村を開業したことで知られる。母親と前夫との子、つまり異父兄が作家の檀一雄で、そのつながりで東映で壇の代表作「火宅の人」を映画化した。また姪にあたる檀ふみも東映で映画デビューをしている。企画、製作作品には「柳生一族の陰謀」「野菊の墓」「鉄道員(ぽっぽや)」「金融腐食列島 呪縛」など多数。
(高岩淡)
 ピアニストの神谷郁代(かみや・いくよ)が10月6日に死去、75歳。桐朋学園高校卒業後に、毎日音楽コンクール優勝、ドイツに留学してエリザベート王妃国際音楽コンクールで6位入賞。ヨーロッパ各地で演奏活動を展開した。古典から現代音楽まで手掛けたが、特にベートーヴェンで知られた。
(神谷郁代) 
 日本のその他の訃報は、外国人の訃報と合せて3回目にまとめる。
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柳家小三治、白土三平、山本文緒等ー2021年10月の訃報①

2021年11月05日 22時53分17秒 | 追悼
 毎月書いている訃報特集、2021年10月は後半に重要な訃報が相次いだので、3回に分ける。最初は日本の芸術・芸能関係の大きな訃報から。落語家の柳家小三治が10月7日に死去、81歳。遠からず小三治師匠の訃報を聞くことになるだろうと思って、僕はここ数年もう一回聞きたいと思っていたのだが、適わなかった。何度か入院していたけど、そのたびに復帰して今後の落語会も予定されていたのだが…。僕は小三治を何度も聞いているけれど、ファンというほどでもなかった。僕が落語をよく聞くようになったのは、20世紀の終わり頃からだった。その時点では小三治はもう大師匠で、飄飄としたといわれる芸風が確立され近寄りにくい感があった。
(柳家小三治)
 1959年に5代目柳家小さんに入門、東京の落語家で人間国宝に指定されたのは、この師弟だけである。1969年に17人抜きの抜てきで真打昇進、10代目小三治となった。多分この頃が一番面白かったのだと思う。多趣味で知られ、バイク、スキー、クラシック音楽、俳句などが有名。句会で長く付き合った小沢昭一を新宿末廣亭夜の部のトリに招いたこともあった。映画「小三治」というドキュメンタリーもあるが、柳町光男監督「カミュなんて知らない」では池袋にあった実在の蕎麦屋「ここのつ」の店主を演じていた。落語に入る前の「まくら」に味があると評判で、それだけで本になっている。2010年から14年に落語協会会長。

 漫画家の白土三平が10月8日に死去、89歳。父親のプロレタリア画家・岡本唐貴の影響で美術を学び、戦後に紙芝居、貸本漫画に進んだ。貸本時代に長大な「忍者武芸帳」を長井勝一が経営した三洋社から刊行した。続いて長井が青林堂を設立し、創刊された「ガロ」に「カムイ伝」の連載を始めた。戦後漫画史の神話時代である。当時大衆小説や映画、テレビなどで忍者ブームが起こっていたが、白戸漫画では忍術に科学的説明が付き、被差別者としての忍者が描かれた。僕は若い頃に「忍者武芸帳」を漫画文庫で読んだけれど、「カムイ伝」は読んでない。四方田犬彦の長大な「白戸三平論」は面白かった。大島渚監督「忍者武芸帳」を見ると、現在の中世史では疑問が多いと思いつつ、信長政権に抵抗を続ける革命的ロマンティシズムに励まされる思いがする。
(白土三平)
 一番驚いたのが作家の山本文緒の訃報だった。10月13日、58歳。少女小説家としてデビューして、やがて一般向けの小説を書き始めた。次第に評判になっていったが、中でも「恋愛中毒」(1998)でブレイクし、「プラナリア」(2000)で直木賞を受賞した。これらは実に恐ろしい小説で、人間の心の怖い部分をグイグイと明るみに出す。2003年にうつ病で作家を休業したが、その報に意外感を持たなかったのも事実だ。その後エッセイで復帰し、昨年(2020年)刊行された「自転しながら公転する」が評判になり、島清恋愛文学賞、中央公論文芸賞を受賞した。これから本格的に活躍するのかと思った矢先、膵臓ガンで亡くなった。大変残念なことだった。
(山本文緒)
 舞踊家、バレエ指導者の牧阿佐美が10月20日に死去、87歳。今年の文化勲章受章者だが、没後の追贈ではない。決定後に死去したということになる。日本の伝説的バレリーナ橘秋子の娘で、幼少時期からバレエを学んだ。1956年に母とともに牧阿佐美バレエ団を創設し、草刈民代などを育てた。1999年から新国立劇場のバレエ団を率いた。僕はバレエのことはよく判らないのでこのぐらいで。
(牧阿佐美、「徹子の部屋」に出演時)
 作曲家のすぎやまこういち(椙山浩一)が9月30日に死去、90歳。「ドラゴンクエスト」などゲーム音楽の作曲で知られた。というよりザ・タイガース「花の首飾り」「モナリザの微笑」、ヴィレッジ・シンガーズ「亜麻色の髪の乙女」、ガロの「学生街の喫茶店」などの作曲がこの人なのである。しかし、晩年はすっかり歴史修正主義者としての活動が目立った。安倍政権の熱烈な支持者でもあり、右派系の政治家に多額の政治献金を行ってきた。まあ思想信条は自由ではあるけれど、どうなってるんだろうと思わないでもない。(子どもも親しむゲームの作曲家があまりにも政治的であるのはどうなのかという意味。自分の金をどう使うかは自由だが。)
(すぎやまこういち)
 まだ続くのだが、一端ここで終わって次回に続けたい。
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