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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

門田博光、永井路子、天沢退二郎、鈴木邦男他ー2023年1月の訃報②

2023年02月10日 22時51分06秒 | 追悼
 2月9日になって、映画監督小沼勝の訃報が報道されたので、①に追加した。芸能界以外で一番知られた物故者は、プロ野球選手の門田博光(かどた・ひろみつ)だろう。1月24日に亡くなっているのが見つかった。74歳。1969年に南海ホークスに入団。2年目に打点王を獲得した。その後、一本足打法でホームランを量産し、通算567本は王、野村に次ぐ歴代3位の記録になっている。1988年には40歳にしてホームラン、打点で2冠を獲得しMVPとなり「中年の星」と呼ばれた。89年にオリックス、91年にダイエー(現ソフトバンク、元南海)に移籍し、92年に引退。名前は有名だったが、テレビなどで見た記憶はほとんどない。野球のテレビ中継が毎日あった時代だが、それはほぼ巨人戦オンリー。日本シリーズにも1回(南海時代に)出ただけ。88年の活躍も家でテレビを持ってなかったから見てない。引退後は指導者にならず評論家をしていた。
(2006年、殿堂入り表彰時)
 歴史小説家の永井路子が1月27日に死去、97歳。歴史小説の多くが戦国か幕末かを舞台にするのに対し、永井作品は古代、中世を扱ったものが多かった。直木賞受賞作の『炎環』は源実朝暗殺事件を「裏に三浦氏あり」との仮説で描き、歴史学界にも影響を与えた。(現在は否定的な説の方が強いようだ。)その他、奈良時代の『氷輪』、平安初期の『雲と風と-伝教大師最澄の生涯』、日野富子を描く『銀の館』など多数。大河ドラマ『草燃える』(鎌倉時代の東国武士)、『毛利元就』の原作者。男性中心の歴史観に対し、女性の役割を評価する作品を書いた。また判りやすい歴史エッセイでも知られた。僕も何冊か読んでいるが、特に面白かったのは『悪霊列伝』。茨城県古河市で育ち、旧蔵書をもとに「古河文学館」を開館、また旧居を別館として公開している。
(永井路子)
 詩人、児童文学者、フランス文学者で、宮沢賢治研究で知られた天沢退二郎(あまさわ・たいじろう)が25日死去、86歳。宮沢賢治に影響を受け学生時代から詩を書き、数多くの詩集を刊行した。『《地獄》にて』(1984)で高見順賞。さらに『光車よ!まわれ』『《三つの魔法》』シリーズなど児童文学でも評判になった。フランス文学者としては明治学院大学で教えるとともに、多くの翻訳を行った。アラン・フルニエ『グラン・モーヌ』(岩波文庫)は素晴らしかった。また『《中島みゆき》を求めて』などの著書もある。しかし、一番重要だと思う業績は、やはり宮沢賢治全集を作ったことだろう。弟の宮沢清六から生原稿を見せて貰い、何度も花巻に通って『校本宮澤賢治全集』(1973~77)をまとめ、その後新修、文庫版をへて、『新校本 宮澤賢治全集』(1995~2007)を完成させた。これによって賢治研究の基礎が作られたのである。
(天沢退二郎)
 政治運動家、著述家で、「新右翼」と言われた「一水会」の創設者、鈴木邦男が1月11日死去、79歳。「生長の家」の家庭で育ち、早大時代には生長の家系の右派学生運動で活躍。1969年に右派系学生運動の連合で委員長となったが、内部争いで1ヶ月で退任した。70年の三島由紀夫事件に衝撃を受け、72年に民族派団体「一水会」を設立した。75年に東アジア反日武装戦線を評価し、三一書房から『腹腹時計と〈狼〉』を刊行し論壇にデビューした。以後、新左翼系著名人などと知り合うが、21世紀になると非暴力の立場をはっきりさせた。また、反差別を掲げてヘイトデモ反対行動に参加した。周囲からは「右翼からリベラル派になった」などと評されたが、まあ、「反差別」や「死刑廃止」こそ日本の伝統だという思いはホンネなのだろう。何回か映画上映後のトークを聞いたと思うけど、本を読んだことはない。面白い人、勇気ある人ではあった。
(鈴木邦男)
 国際的に知られた数学者の佐藤幹夫が1月9日に死去、94歳。京大名誉教授。関数を極限まで一般化した「佐藤超関数」、微分積分を代数的に調べる「代数解析学」、概均質ベクトル空間の研究など、現代の数学、物理学に大きな影響を与えた。文化功労者。すごい人らしいんだけど、研究テーマのそれぞれを調べても、僕には難しすぎて全く意味不明。
(佐藤幹夫)
 現代音楽の作曲家として知られた松平頼暁(まつだいら・よりあき)が1月9日死去、91歳。本職は生物物理学者で、立教大学教授を務めた。一方、作曲家松平頼則の子として生まれ、独学で作曲を学んだ。様々な様式に基づくシステム化された作曲を模索するとともに、一柳慧やケージの影響で偶然性の音楽も手掛けた。国際的な評価が高く重要な現代音楽家と言われている。
(松平頼暁)
 「本の雑誌」創刊者で、本や競馬の評論でも知られた目黒考二が19日死去、76歳。本が読めないとの理由で次々と会社をやめ、ついには会社の同僚だった椎名誠らと1976年に「本の雑誌」を創刊した。実質的な編集長として多くの新人を発掘したことで知られる。また北上次郎名義で冒険小説やミステリーの評論を行い、1994年『冒険小説論 近代ヒーロー像100年の変遷』で日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞を受賞。藤代三郎名義で数多くの競馬関連本も出している。面白本に関するこの人の眼力は素晴らしいものがあり、刊行中の「日本ハードボイルド全集」(創元推理文庫)も楽しみにしていたので残念。
(目黒考二)
 1987年から95年まで、内閣官房副長官を務めた石原信雄が29日死去、96歳。竹下、宇野、海部、宮沢、細川、羽田、村山の7内閣を支えた。(当時は最長。現在は杉田和博、古川貞二郎に次ぐ3位。)この間は消費税導入、昭和天皇逝去、湾岸戦争、PKO法制定、非自民政権誕生、自社連立と戦後最大級の政治変動に見舞われた時期だった。退任後、95年の東京都知事選に立候補した。自社さ連立の村山政権時で自社など各党相乗りとなり、それに反発した青島幸男が当選してしまった。僕も当時は「各党相乗り」に反発して青島に入れたのだが、結果的には石原信雄知事が当選していたら、「現職2期目」は圧倒的に強いから、もう一人の石原(慎太郎)都知事は誕生しなかったのは間違いない。僕の人生にも大きな影響を与えていただろう。
(石原信雄)
 セコム創業者の飯田亮(いいだ・まこと)が7日死去、89歳。1962年に日本初の警備会社、日本警備保障を設立。1964年の東京五輪の警備を一手に担って飛躍し、テレビドラマ「ザ・ガードマン」のモデルになった。74年に東証二部、78年に一部に上場し、83年に社名をセコムに変更した。誰も手掛けていなかった分野を切り開いた戦後史の重要人物である。
(飯田亮)
阿部市次、2022年10月10日死去、99歳。松川事件元被告人で最後の存命者。一審で死刑判決を受けたが、61年の仙台高裁差し戻し審で無罪判決、63年に最高裁で確定した。
石井昭男、2022年12月30日死去、82歳。78年に明石書店を創業し、人権問題の出版につくし、08年にマグサイサイ賞を受賞。
金川千尋、1日死去、96歳。信越化学会長。90年から10年まで社長を務め、シリコンウェハー事業で世界最大手に育てた。
仲尾宏、1日死去、86歳。歴史学者。在日コリアン・マイノリティー人権研究センター理事長。朝鮮通信使研究の第一人者で、著書に『朝鮮通信使 江戸日本の誠信外交』(岩波新書)などがある。
河野一郎、6日死去、93歳。英文学者、翻訳家。東京外大名誉教授。カポーティ『遠い声、遠い部屋』、マッカラーズ『心は孤独な狩人』、シリトー『長距離走者の孤独』など、英米現代文学の紹介に務め、僕もずいぶん読んできた。
岸義人、9日死去、85歳。化学者。世界で初めてフグ毒「テトロドトキシン」の人工合成に成功した。また乳ガンの抗がん剤「ハラヴェン」を開発するなどして、ノーベル賞候補と言われた。文化功労者。
三枝佐枝子(さいぐさ・さえこ)12日死去、102歳。1958年に「婦人公論」編集長となった。(女性として初の商業誌編集長。)1973年に商品科学研究所所長、1978年に西武百貨店監査役。家庭と職業を「両立」させた先駆者だった。
中山きく、12日死去、94歳。沖縄戦の元白梅学徒隊の生存者として、体験を語る活動を続けた。
大村益夫、15日死去、89歳。早稲田大学名誉教授。朝鮮近代文学の研究で知られ、多くの翻訳を行った。
石田穣一、17日死去、94歳。元東京高裁長官として、永山則夫の差し戻し審判決で死刑を宣告した。退官後に沖縄に移住し、那覇で死去。「ゆたか・はじめ」名義で鉄道趣味を生かしたエッセイも書いた。国内の鉄道全線を完乗しているという。
上田誠也、19日死去、93歳。地球物理学者でプレートテクトニクス理論を広めたことで知られる。東大名誉教授。
石井紫郎、17日死去、87歳。日本法制史研究者。中世・近世の土地制度を研究した。
西原春夫、26日死去、94歳。刑法学者、元早稲田大学総長。「間接正犯」の研究で知られた。憲法学者西原博史(18年没)の父。
カール・アレクサンダー・ミュラー、9日死去、95歳。超伝導酸化物の発見で、1987年ノーベル物理学賞を受賞した。
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高橋幸宏、ジェフ・ベック、三谷昇、龍村仁等ー2023年1月の訃報①

2023年02月08日 22時25分44秒 | 追悼
 恒例の毎月の訃報まとめ。1月は小説家の加賀乙彦を別に書いた。広い意味の芸能関係と、それ以外の学者、官僚などに分けて書きたい。最近訃報まとめが長くなりすぎて自分でも大変なので、できるだけ簡潔に。

 最初は「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)のドラマーだったミュージシャン、高橋幸宏、1月11日死去、70歳。1972年に「サディスティック・ミカ・バンド」(加藤和彦を中心に、当初は加藤ミカ、角田ひろ、高中正義で発足、角田脱退後に高橋が加入)に参加。1978年に細野晴臣坂本龍一と「イエロー・マジック・オーケストラ」を結成し、シンセサイザーとコンピューターを駆使した「テクノ・ポップ」で世界を席巻した。(83年解散。)その間、代表作「ライディーン」を作曲した。解散後はソロで多くの歌手に曲を提供したり、大林宣彦監督『四月の魚』に主演するなど多彩な活動を行った。
(高橋幸宏)
 イギリスのロックギタリスト、ジェフ・ベックが1月10日死去、78歳。1965年にエリック・クラプトン脱退後のヤードバーズに加入。67年に脱退後は、ジェフ・ベック・グループやソロで活躍した。日本ではエリック・クラプトン、ジミー・ペイジとともに「三大ギタリスト」と呼んだりする。米国グラミー賞を8回受賞した他、奏法などで多くの影響を与えた。
(ジェフ・ベック)
 ロックバンド「シーナ&ロケッツ」のギタリスト、鮎川誠が1月29日死去、74歳。福岡で活動後、78年に上京して「シーナ&ザ・ロケッツ」と結成。その後もずっと活動を続けた日本を代表するロックバンドになった。初期にはYMOの全国公演にギタリストとして参加もしたいる。また俳優としてもテレビ、映画に出演した。以上3人とも僕は全然詳しくないんだけど。
(鮎川誠)
 俳優の三谷昇が1月15日死去、90歳。劇団文学座、雲、円に所属、日活ロマンポルノを初め数多くの映画にも出演した。29歳の時に事故で右目を失明したこともあり、気の弱い男や不気味な悪役などの怪演で知られた。舞台では別役実作品に欠かせない存在で、映画では黒澤明『どですかでん』や伊丹十三監督『マルサの女2』などがある。テレビにもたくさん出ている。
(三谷昇)
 映画監督の小沼勝の訃報が2月9日の報道されたので、追加する。1月25日死去、85歳。日活ロマンポルノで、耽美的、SM的な作品を多数作ったことで知られている。1971年に『花芯の誘い』で監督デビュー。1974年に、『花と蛇』(原作者の団鬼六を怒らせたという)や『生贄夫人』など谷ナオミ主演映画で有名になった。77年の『夢野久作の少女地獄』も作った。2000年には一般映画『NAGISA』でベルリン映画祭キンダー部門グランプリ受賞。江ノ島を舞台に、ひと夏の少女のゆらぐ心情を繊細に描いている。この映画は公開当時に見たが、2019年に国立映画アーカイブの「逝ける映画人を偲んで」企画で上映されたので再見した。この時に監督と主演松田まどからのあいさつを聞いた覚えがある。(1.10追加)
(小沼勝)
 映画監督の龍村仁(たつむら・じん)が1月2日死去、82歳。龍村仁といえば「キャロル事件」である。1973年にNHKの教養部ディレクターだった龍村は、ロックバンド「キャロル」(矢沢永吉、ジョニー大倉等)に衝撃を受けてドキュメンタリーを作成、それを7時半の時間帯に放送したいと考えた。しかし、上層部が難色を示し、再編集されて半年後の昼間に放送された。龍村は上層部に抵抗して、同じくNHK職員だった小野耕世とともに、ATGで記録映画『キャロル』を製作し、その間欠勤して解雇され裁判闘争を起こした。しかし、その映画は期待したほど面白くなかった。その後、1992年から2010年にかけて『地球(ガイア)交響曲』を第一番から第七番まで製作した。全部は見てないけど、一部見た感じではこれもちょっとなあという感じの映画だった。
(龍村仁)
 イタリアの女優、ジーナ・ロロブリジダが1月16日死去、95歳。50年代にフランス映画『花咲ける騎士道』『夜ごとの美女』に出演して世界的に人気を得た。その後ハリウッドに進出し多くの娯楽映画に出たが、巨匠の名作などは少なく、演技賞などには恵まれなかった。割と知られた主演作に『ノートルダムのせむし男』『わらの女』などがある。またアメリカの女優、シンディ・ウィリアムズが1月25日死去、75歳。あまり大成しなかったが、『アメリカン・グラフィティ』でリチャード・ドレイファスの妹で、兄の友人ロン・ハワードと付き合ってた人である。二人が「煙が目にしみる」で踊っていた場面が忘れられない。
(ジーナ・ロロブリジダ)(シンディ・ウィリアムズ)
 アメリカのシンガーソングライター、デヴィッド・クロスビーが1月18日死去、81歳。クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSN&Y)のクロスビーである。はじめ「ミスター・タンブリン・マン」をヒットさせた「バーズ」を結成、67年に脱退後、68年に「クロスビー、スティルス&ナッシュ」を結成、70年にニール・ヤングを加えCSN&Yを結成した。傑作「デジャヴ」を残すもメンバー間のあつれきから活動停止。90年代以後、「クロスビー、スティルス&ナッシュ」として3回来日公演をしている。
(デヴィッド・クロスビー)
 アメリカの歌手、というよりエルヴィス・プレスリーの一人娘として知られるリサ・マリー・プレスリーが1月12日死去、54歳。生涯で4回結婚したが、その中にはマイケル・ジャクソンニコラス・ケージがいる。父との死別、ドラッグ中毒、子どもの自殺など過酷すぎる人生を送ったように思える。最後は心臓マヒだった。
(リサ・マリー・プレスリー)
ジョセフ・クー、3日死去、89歳。香港映画の作曲家。ブルース・リーの『ドラゴン怒りの鉄拳』『ドラゴンへの道』『死亡遊戯』などを手掛けた。その後、武侠映画や『男たちの挽歌』などの音楽も担当。さらに広東ポップブームのヒット曲を多く作曲した。カナダへ移住して同地で死去。
ポール・ヴェキアリ、18日没、92歳。フランスの映画監督。日本では『薔薇のようなローザ』(1985)が公開されただけだが、フランスでは作家性の強い巨匠として知られているという。
清元梅吉、20日死去、90歳。清元節三味線方として人間国宝に認定された。
向井政生(むかい・まさお)、21日死去、59歳。TBSアナウンサー。ガンを公表していた。
つばめ真由美、24日死去、62歳。歌手。双子の「ザ・リリーズ」の妹。「好きよキャプテン」がヒットした。
田川律(たがわ・ただす)、28日死去、87歳。音楽評論家。大阪労音で「関西フォーク」を支え、その後69年に「ニュー・ミュージック・マガジン」創刊に関わった。また演劇の黒テントにも関わっている。著書に『まるで転がる石みたいだった』『日本のフォーク&ロック史—志はどこへ』などがある。
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小説家加賀乙彦の逝去を悼む-「長編小説」と「死刑問題」

2023年01月19日 22時52分10秒 | 追悼
 小説家、精神科医の加賀乙彦(本名小木貞孝=こぎ・さだたか)が1月12日に亡くなった。93歳。僕はこの訃報を18日の朝刊を見て初めて知った。最近似たようなことを何回も書いているが、朝刊を見る前にテレビのニュース番組やパソコン、スマホのニュースを見ていた。全部見たわけではないから確実ではないけれど、少なくともすぐ気付くようなポータルサイトには訃報が載ってなかったと思う。これは非常にまずいだろう。加賀乙彦のような重要人物の訃報を落とすなんて、ニュースサイトや番組を編集している人の「教養」に問題があるのである。それは日本の文化力の低下を示している。

 小説家としての業績は後に回して、まず「死刑制度」の話から書きたい。死刑制度の存廃は世界的に重大な問題で、アムネスティやEU(欧州連合)は日本政府に対し早期の死刑廃止を要望してきた。主要先進国で死刑制度を維持しているのは、日本とアメリカ合衆国だけである。死刑制度にどういう意見を持つかはともかく、そういう世界的な状況を知っていれば、死刑問題の世界的重大性を理解するはずである。そして死刑制度に少しでも関心を持てば、加賀乙彦の本を読むことになる。

 加賀乙彦が小説家に専念する前は、精神科医小木貞孝だった。そして東大助手を経て、若い頃に東京拘置所医務官を務めた。1957年にフランスに留学するまで勤務し、その間東拘に収容されている多くの死刑囚と交流を持ったのである。特に「メッカ殺人事件」と呼ばれる事件(1953年に東京新橋のバー「メッカ」で強盗殺人事件の死体が発見された事件)の死刑囚・正田昭(しょうだ・あきら)と深いつながりを持った。正田は獄中でカトリックに入信し、小説を書くようになった人物である。

 医務官としての体験から、小木名義の学術書『死刑囚と無期囚の心理』(1974)が書かれた他、一般向けに加賀名義で中公新書から『死刑囚の記録』(1980)が刊行されている。これは名著であり、死刑制度について実証的に考えるための必読書だ。そこで得られた結論は死刑制度がいかに残虐なものかということである。加賀乙彦は人生の最晩年に至るまで、死刑囚の表現展(平野啓一郎『ある男』、及び石川慶監督による映画化作品に出てくる展覧会の実際のもの)の文芸部門選者を務めていた。死刑廃止集会で何度も選評を聞いているし、講演も聞いた。この加賀乙彦と死刑問題との関わりはもっと知られるべきだ。

 次に小説家としてだが、加賀乙彦は芸術院会員であり、2011年に文化功労者に選出された。しかし、日本学術会議と日本学士院の違いを知らないジャーナリストがいたぐらいだから、日本芸術院も知らない人が多いんだろう。文化勲章文化功労者の相違も知らない人がいる。加賀乙彦は生涯で谷崎潤一郎賞日本文学大賞(現在は廃止)などの日本最高レベルの文学賞を受けている。しかし、それらは知らず、純文学作家の賞と言えば芥川賞しか知らないという人が結構いるのではないか。加賀乙彦は芥川賞は受けていない。一回「くさびら譚」という短編で候補になったが、ほとんど無視された。1968年前期は丸谷才一年の残り」と大庭みな子三匹の蟹」という強敵がいたのである。

 それ以後、芥川賞の候補にもならなかったのは何故か。それは加賀乙彦は基本的に長編作家、それも大長編を書く小説家だったからである。芥川賞は基本的に文芸雑誌に掲載された短編(一部は中編)小説を対象にする。加賀乙彦はそんな日本の文壇慣習には囚われず、自分の書きたい小説を書き続けた。西欧近代小説に範を取った大ロマンこそ加賀文学である。だけど、文庫でも分厚くて何冊にもなる、しかもテーマは戦争とか死刑とかの重い小説を実際に読んだ人は少ないだろう。そういう小説家は日本では少ないが、いないわけではない。同じく同人雑誌「文芸首都」に拠った辻邦生である。ただ辻邦生は歴史に材を取った大ロマンが多いのに対し、加賀乙彦は自伝的作品が多いという違いがある。

 僕も持ってるけど読んでない本が多いので、以下は簡単に。留学体験をもとにした『フランドルの冬』(1968、芸術選奨新人賞)で知られ、1973年の『帰らざる夏』(谷崎潤一郎賞)で陸軍幼年学校時代の体験を描いて認められた。そして前期の代表作『宣告』(1979)で日本文学大賞を受賞した。これは先に述べた死刑囚正田昭をモデルにした作品で、死刑囚の世界に本格的に取り組んだ日本文学史上稀有な作品である。この本は初版本を持っているけど、読み始めて挫折した珍しい本だ。まだ学生だった自分にとって、実際の殺人者がいっぱい出て来て、モデルの人物は最後に死刑を執行されると知っている本は重すぎたのである。それ以来40年以上経ってしまったが、今なら読み切れるだろう。
(『宣告』上巻)
 『錨のない船』(1982)は日米戦争下に生きた外交官(来栖三郎)を描く大作。『湿原』(1985、大佛次郎賞)は朝日新聞に連載された冤罪と新左翼テロ事件を題材にした作品で、珍しく連載をちゃんと読んでいた。非常に面白く出来映えが良いと思うが、最近は入手しにくいようだ。さらに『ヴィーナスのえくぼ』(1989)、『海霧』(1990)、『生きている心臓』(1991)などを著した。1987年にカトリックの洗礼を受け、その後に『高山右近』(1999)、『ザビエルとその弟子』(2004)など日本のキリスト教史に取り組んだ。しかし、この間に書かれた真に重要な作品は他にある。

 それは『永遠の都』『雲の都』という自己の家族を題材にした大長編である。『永遠の都』は当初は『岐路』(1988)、『小暗い森』(1991)、『炎都』(1996)として刊行されたが、1997年に文庫化されたときは全7巻に改めて分けられた。題名で判るように戦前・戦中期を描き、空襲で終わる。加賀乙彦の祖父は医者の家で、医者一家の大河小説という点で北杜夫『楡家の人々』を思い出させるが、こちらは遙かに長大である。僕はこれを文庫になったときに買って、ある年の夏休みにまとめて読んだ。もう寝食を忘れて読みふけるという言葉が相応しい面白さ。多くの人物が生き生きと描かれ、家族の後ろに「東京」の歴史が浮かぶ。
(『永遠の都』文庫版第1巻)
 長すぎて読んでない人が多いと思うけど、これは間違いなく戦後日本文学の重要なな達成である。しかし、その僕でも続編である『雲の都』(全5部、2002~2012)はまだ読んでない。ついに文庫化されなかったのである。加賀乙彦は本来、この畢生の大長編を読んで評価するべき小説家である。だから、なかなか大変。でもいつかチャレンジしたいと思ってはいる。それだけの充実した時間は確実に得られるからである。本気になって取り組むべき本は多いものだ。
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佐藤蛾次郎、絵沢萌子、あき竹城他ー2022年12月の訃報②

2023年01月09日 22時18分50秒 | 追悼
 2022年12月の訃報。日本の「芸能人」を中心に、その他の人々をまとめて。佐藤蛾次郎が12月9日に死去、78歳。一人暮らしの自宅を訪問した長男が浴室で風呂に入ったまま動かなくなっているのを見つけて救急車を呼んだという。それが10日午前のことで、結局死亡時刻は9日と判断された。佐藤蛾次郎と言えば、『男はつらいよ』シリーズの「源公」(帝釈天の寺男)だというのが一般的だろう。確かにその役は印象的だが、それより1970年の日活映画『反逆のメロディー』も忘れがたい。多くの映画、テレビドラマに出たが、端役でありながら忘れがたい俳優だった。料理が得意で、自分でスナックを開店して芸能人が多く集まっていたというが、コロナ禍で2020年で閉店していた。『男はつらいよ』のロケではよくカレーを作って振る舞っていたという。
(佐藤蛾次郎)(源公)
 絵沢萌子が12月26日に死去、87歳。1972年に神代辰巳監督のロマンポルノ作品『濡れた唇』で圧倒的な存在感を発揮して名前を覚えることになった。これがポルノ会社になった日活が案外頑張っているじゃないかと評判を呼ぶ最初だっただろう。その時すでに37歳。それまでは舞台を中心に、映画も新藤兼人監督『強虫女と弱虫男』に出ていたと今回ウィキペディアで知った。ロマンポルノ映画に数多く出演しているが、何と言っても『赫い髪の女』が最高だと思う。その後も数多くの映画、テレビに出ていて、特に70年代から90年代頃の名作には大体脇役で出ていた印象がある。『祭りの準備』『竹山ひとり旅』『復讐するは我にあり』『マルサの女』などだが、中でも印象的なのは『月はどっちに出ている』。主人公姜忠男の母親役で、「北」に住む息子のために見つからないようにお金を箱に入れるシーンがあった。
(絵沢萌子)
 あき竹城(たけじょう)が15日死去、75歳。日劇ミュージックホールのダンサーで山形弁のトークが評判を呼んで、テレビに出るようになり、さらに映画にも出た。今村昌平監督『楢山節考』に緒形拳の後妻役で出演して地位を確立した。その後も大河ドラマなどで活躍したが、やがて山形弁でトークする面白おばさんといったキャラでヴァラエティ番組で大活躍した。2年前からガンで闘病していたというが、秘密にしていた。
(あき竹城)
 水木一郎が6日死去、74歳。数多くのアニメでテーマソングを歌い「アニソンの帝王」と呼ばれた。『マジンガーZ』を初め「仮面ライダー」シリーズ、『宇宙海賊キャプテンハーロック』などだが、僕には知らないアニメが多い。2002年からは中日ドラゴンズ応援歌「燃えよドラゴンズ!」も歌っていた。知ってる人にはものすごい思い入れのある人らしいんだけど、僕は知らない人の方。僕の頃は高校生、大学生になったらほとんどアニメを見なかったもので、世代が一つズレているのである。
(水木一郎)
 高見知佳が12月21日に死去、60歳。この訃報には驚いた。2022年7月の参院選で愛媛選挙区から立憲民主党推薦で立候補していたからである。その時は自覚症状はなく、11月に痛みを訴えて診療を受けたところ子宮ガンだったという。もともと愛媛県新居浜市出身で、2018年に離婚してから帰郷し、母の介護をしながらタレント活動もしていたという。84年に「くちびるヌード」が資生堂のCMソングに選ばれ人気になった。映画『蒲田行進曲』では銀ちゃんが小夏を捨てて付き合う女を演じていた。その後はテレビの司会をするなどの仕事が多かった。2001年にメキシコ系アメリカ人と結婚し、一時は沖縄でメキシコ料理店を経営していた。
(高見知佳)
 江原真二郎が9月27日に死去していた。85歳。50年代後半に東映映画で活躍し、その後テレビ、舞台でも活動した。もともと京都で育ち、東映撮影所に出入りするうちスカウトされた。今井正監督に見出され、『』『純愛物語』に主演した。これは1957年のベストテンで1位、2位である。また中原ひとみと共演して親しくなり、60年に結婚した。子どもが二人いて、72年から82年に、一家でライオン歯磨のCMに出演したことで知られた。家城己代治監督の『裸の太陽』(1958)が一番良いと思う。また内田吐夢監督の宮本武蔵シリーズでは、吉岡清十郎を演じた。テレビへの出演も大体は20世紀のことだったので、若い人は名前を知らないだろう。
(江原真二郎)
 志垣太郎も3月5日に死去していた。70歳。70年代に甘いマスクで人気を得た俳優である。70年のNHKドラマ「男は度胸」で天一坊役で出演。71年の「おれは男だ!」で森田健作のライバル役で人気となった。大河ドラマや「水戸黄門」など多くのテレビドラマに出演する他、ヴァラエティ番組でも活躍した。
(志垣太郎)
 60年代の東宝映画で活躍した藤山陽子が11日に死去。80歳。オール東宝ニュータレント1期生に選ばれ、1961年の『大学の若大将』でデビューした。上品な顔立ちで令嬢役などで活躍、若大将シリーズ、社長シリーズなどに出演した。映画よりも、テレビ「青春とはなんだ」「これが青春だ」などの青春学園ドラマの教師役で人気を得た。67年に結婚を機に引退した。
(藤山陽子)
花井幸子、10月1日没、84歳。ファッションデザイナー。64年に独立して、68年に銀座に「マダム花井」をオープンした。全日空を初め多くのデパート、学校などの制服を手がけた他、『宇宙戦艦ヤマト』の衣装デザインにも関わった。
岸本健、4日没、84歳。スポーツ写真家。東京五輪からソチ五輪まで夏冬のすべての五輪を取材した。66年にスポーツ写真集団「フォート・キシモト」を設立した。
島袋宗康(しまぶくろ・そうこう)、9日没、96歳。元参議院議員。沖縄社会大衆党委員長から、92年に参院選に出て当選。96年に再選された。
笠浩二(りゅう・こうじ)、14日死去、60歳。元ロックバンド「C-C-B」のドラマー、ヴォーカル。89年の解散後は熊本県南阿蘇村に移住して農業をしながら音楽活動を続けていた。2016年の熊本地震で被災し、復興支援プロジェクトを呼びかけた。
常磐津英寿(ときわづ・えいじゅ)、15日死去、95歳。三味線演奏家。常磐津節の奏者として人間国宝に指定。
福田喜重(ふくだ・きじゅう)、16日没、90歳。染色工芸作家。97年に刺繍でただ一人の人間国宝に指定された。
田中裕二、17日死去、65歳。バンド「安全地帯」ドラマー。
湯浅勇治、17日没、66歳。指揮者。元ウィーン国立音大准教授。30年にわたってウィーンで教え多くの後進を育てた。ウィーンで死去。
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磯崎新、渡辺京二、矢崎泰久、藤井旭他ー2022年12月の訃報②

2023年01月08日 19時43分56秒 | 追悼
 2022年12月の訃報、日本人編。映画監督の吉田喜重を別に書いた。他の人では、俳優・歌手などの芸能関係者がかなり多かったので次に回したい。今回は主に芸術、学問などに関わって「本を書いた人」を取り上げる。まず建築家の磯崎新(いそざき・あらた)。12月28日に死去、91歳。名前はずいぶん前から聞いていたが、建築のことはよく知らなかった。訃報を聞いてから、こういう人だったのかと深く感じるところがあった。建築のノーベル賞と言われるプリツカー賞を2019年に受賞したが、磯崎は79年の賞設立から10年ほどは審査側にいたため受賞が遅れたと言われる。下の画像は受賞時に共同設計した施設の前で。
(磯崎新、背景はトリノのパラアイスホッケー施設)
 磯崎新は70年代以降の「ポストモダン」と呼ばれた動きの中心にいた。1983年の「つくばセンタービル」がポストモダン建築の代表作と言われる。そういう知識も今回知ったことだけど、80年代以降の東京では都庁舎を初め、東京芸術劇場、江戸東京博物館、現代美術館、国際フォーラムなど巨大施設が次々と作られた。磯崎はこれらの建築を批判していたのである。お城のような都庁(91年完工)は師にあたる丹下健三の後期代表作と言われるが、磯崎はあえて低層の都庁舎プランで86年のコンペに臨んだという。発注元の東京都が「首都のランドマークとなる高層ビル」を求めていたので、落選覚悟の思想的行動である。「権力の象徴」みたいな高層を嫌い、4棟建てのビルの中に市民が自由に出入りできる巨大広場を作るという設計だったという。
(つくばセンタービル)
 大分生まれで、早く父母を失ったが、苦労して東大に進んで丹下健三に学んだ。1963年に丹下健三研究室を辞め独立。初期作品には九州の建築が多い。「大分県立大分図書館(現アートプラザ)」「北九州市立図書館」「北九州市立美術館」などである。その後、国内、世界各地に多くの作品が残されている。自分が見ているのは、「利賀山房」「利賀村野外劇場」「東京グローブ座」「水戸芸術館」などである。著書に『建築の解体』『建築家探し』など多数。『磯崎新建築評論集』全8巻(岩波)にまとめられている。岩波書店から84年に創刊された雑誌「へるめす」の編集同人は、磯崎新、大江健三郎、大岡信、武満徹、中村雄二郎、山口昌男だったが、これで大江以外は皆物故したことになる。時間の流れを感じる。
(北九州市立美術館 本館・アネックス)
 思想史家の渡辺京二が12月25日に死去、92歳。熊本で65年に雑誌「熊本風土記」を創刊、後に石牟礼道子の『苦界浄土』の原稿を掲載した。石牟礼の要請で「水俣病を告発する会」を結成して患者を支援した。石牟礼道子の文学的同志として最後まで支えたことで知られる。その間、98年に『逝きし日の面影』(和辻哲郎賞)で近代日本を江戸時代の目から相対化した。この本が評判になって、21世紀に出した『黒船前夜 ロシア・アイヌ・日本の三国志』(大佛次郎賞)、『バテレンの世紀』(読売文学賞)など大きく評価されるようになった。僕は持っているけど、それらは読んでいない。むしろ70年代に出た『小さきものの死 渡辺京二評論集』(1975)、『評伝 宮崎滔天』(1976)、『神風連とその時代』(1977)、『北一輝』(1978)などが刺激的で再評価が必要だろう。いずれも「近代」を問い直す志を持った書で、初志を一貫させたのではないかと思う。
(渡辺京二)
 元「話の特集」編集者の矢崎泰久(やざき・やすひさ)が12月30日に死去、89歳。80年代には非常に有名人だったけれど、「話の特集」が95年に休刊しているからか小さな訃報だった。65年に発刊した「話の特集」は和田誠、永六輔、伊丹十三など各方面の多彩な才能を集めた自由な雑誌作りが評判になった。これらの人がエッセイストとして評価を得たのは、この雑誌の存在が大きかった。70年代後半には「革新」陣営に一石を投じる「革新自由連合」を設立した。中山千夏が参議院議員に当選(80年)したときは、公設秘書を務めた。様々な集会などで何度も話を聞いているが、晩年は恵まれなかったらしい。著書に『編集後記』『「話の特集」と仲間たち』など多数。永六輔、中山千夏との共著も数多い。
(矢崎泰久)
 天体写真家として世界的に知られた藤井旭(ふじい・あきら)が12月28日に死去、81歳。アマチュアの天体写真家として20代から世界的に知られた存在で、400冊にもなる著書で天体観測の楽しさを広めた。1969年に私設の天文台「白河天体観測所」を開設、所長には愛犬のチロが就任した。チロは81年に死に84年に刊行した著書『星になったチロ』は、課題図書に選ばれるなど大きな反響を呼んだ。天文台は東日本大震災と原発事故の被害により2011年に閉鎖された。2019年度日本天文学会天文教育普及賞。そう言えば、昔から藤井旭と名の付いた本をいっぱい見た記憶が蘇ったが、天文学者なんだと思い込んでいた。
(藤井旭)(『星になったチロ』)
 歌人、短歌史研究で知られた篠弘が12月12日に死去、89歳。短歌結社「まひる野」代表で、元日本文芸家協会理事長、現代歌人協会理事長、日本現代詩歌文学館長(岩手県北上市)なども務めた。と言っても、僕は短歌界には暗く名前を聞いても特にイメージが湧かない。短歌では多くの賞を受賞しているが、それと同時に短歌の歴史研究でも知られたという。2020年の『戦争と歌人たち ここも抵抗があった』が注目された。ところでこの人の本職は小学館で百科事典を編集したことだった。『ジャポニカ』シリーズで大いに当てて取締役に就任した。
(篠弘)
樋口覚、11月24日没、74歳。文芸評論家、歌人。05年『書物合戦』で芸術選奨文部科学大臣賞。
岳宏一郎、1日没、84歳。歴史小説家、作品に『群雲、関ケ原へ』など。
岩成達也、9日没、89歳。詩人。『フレベヴリィ・ヒツポポウタムスの唄』で高見順賞など。大和銀行常務も務めた。
北博昭、23日没、80歳。現代史研究家。二・二六事件の史料発掘に務めたことで知られる。著書に『二・二六事件全検証』など。
鈴木嘉吉、16日没、93歳。元奈良文化財研究所長。平城宮跡の大極殿、朱雀門、薬師寺東塔などの再建、解体修理などの指導にあたった。
篠田浩一郎、25日没、94歳。フランス文学者、東京外大名誉教授。当初は19世紀フランス文学を専門としたが、やがてロラン・バルトなどの影響を取り入れ、記号論などを駆使した文学評論を行った。一般書も多く翻訳も数多い。著書に『中世への旅 歴史の深層をたずねて』、『空間のコスモロジー』、『小説はいかに書かれたか 『破戒』から『死霊』まで』(岩波新書:、『都市の記号論』、『ロラン・バルト 世界の解読』など多数。翻訳には ポール・ニザン『アデン・アラビア』、ミシュレ『魔女』、ロラン・バルト『サド、フーリエ、ロヨラ』など。60年代後半から80年代にかけて思想的にも大きな影響を与えた。
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ペレ、ベネディクト16世、バーバラ・ウォルターズ他ー2022年12月の訃報①

2023年01月06日 22時52分22秒 | 追悼
 2022年12月の訃報。最初に外国人の訃報を書きたい。外国人の訃報は没後すぐに報道されることが多いので、日本人を後にする方がよい。非常に有名な人物の訃報がないなと思っていたら、月末に相次いだ。以下、29日以後の訃報が続く。まず「サッカーの王様ペレ。29日死去、82歳。日本でも非常に大きく報道されたが、ブラジルでは3日の服喪期間が発表された。本名はエドソン・アランテス・ド・ナシメントで、ペレは愛称。父もサッカー選手で、父の所属チームのゴールキーパー、「ビレ」の大ファンだったが、幼児期にビレと発音出来ずに「ペレ」と呼ばれるようになったという。15歳でプロデビュー、通算1363試合に出場して1281得点。ブラジル代表のエースとして、ワールドカップで3回優勝、クラブ選手権でも2度の世界一となった。

 まあペレがいかに素晴らしい選手だったかは、様々な情報をすぐに得られるのでこれ以上は書かない。そんな素晴らしい選手だったら、現役時代の活躍を見ただろうと思うかもしれないが、ワールドカップ優勝時(58、62、70)は時代的に知らない。それに90年代以前はワールドカップのテレビ中継はほとんどなかった。日本チームも出場してなかったし、野球の大リーグもやってない。オリンピックだけしか外国のスポーツ大会の中継はなかったのである。しかし、日本でも引退試合が行われ、それを見に行ったという人もいたので驚いた。人格高潔で、単なるスポーツ選手を超えた影響力を持った人である。ところで案外報道されていないのは、ミステリー小説も書いたこと。『ワールドカップ殺人事件』は創元推理文庫から翻訳されている。なかなか面白いので、是非一読を。
(ペレ)
 前ローマ教皇ベネディクト16世が31日に死去、96歳。本名はヨーゼフ・ラッツィンガーというドイツ人で、保守的な神学者として知られていた。1981年に教理省長官となり、教皇就任までその地位にあって教皇庁を実質的に取り仕切っていた。2005年、ヨハネ・パウロ2世の死去後に教皇に選出されたが、その時すでに78歳という高齢だった。ドイツ人の教皇は約950年ぶりだった。教皇としては世俗化に対抗する保守化路線を維持した。2015年に高齢を理由に在位中の退位を発表した。これは約600年ぶりの出来事。カトリック教会による児童への性的虐待事件に関しては、隠ぺいしてきたとの強い批判を浴びた。
(ベネディクト16世)
 アメリカで初めて女性のテレビ司会者となったバーバラ・ウォルターズが30日死去、93歳。1974年にNBCの朝のニュース番組『トゥデイ』の司会者となった。1962年から番組に関わり、一部のコーナーのプロデューサーなどを担当した。出演者が欠席した時に自分で出演するようになり、やがて人気を得るようになった。1976年には『ABCイヴニング・ニュース』で女性初のアンカーとなり、2014年まで務めた。女性が深刻な政治、経済ニュースを議論すると思われていなかった時代に、時代を切り開いた人である。番組では有名人物へのインタビューで知られ、キューバのカストロ首相と自由に関して議論を交わした。1999年のモニカ・ルインスキー(クリントン大統領の性的スキャンダルの告発者)のインタビューは7400万人が視聴したと言われる。
(バーバラ・ウォルターズ)
 イギリスのファッションデザイナー、ヴィヴィアン・ウエストウッドが29日死去、81歳。70年代にパンクやニューウェーブの先駆的ファッションで知られた。店の常連だったロックバンド「セックス・ピストルズ」のプロデューサーとして活躍し「パンクの女王」と呼ばれた。政治的活動でも知られ、気候変動、核軍縮、公民権運動などを支持した。しかし、ファッションと環境保護活動が矛盾するなどと批判もされてきたらしい。2006年に英女王からデイムの称号を与えられた。
(ヴィヴィアン・ウエストウッド)
 フランスの女優ミレーヌ・ドモンジョ(Mylène Demongeot)が1日死去、87歳。17歳で出演した1957年の『サレムの魔女』で注目され、以後『悲しみよこんにちは』『黙って抱いて』『アイドルを探せ』など50年代後半から60年代前半にアイドル女優として活躍した。日本映画『ヨーロッパ特急』『東京タワー』にも出演している。
(ミレーヌ・ドモンジョ)
エドゥアルド・アルテミエフ、29日死去、85歳。ロシアの作曲家。タルコフスキー監督の『惑星ソラリス』『』『ストーカー』の映画音楽で知られた。1980年のモスクワ五輪のテーマ曲も作曲した。シンセサイザーを使ってソ連の電子音楽の祖と言われる。
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吉田喜重監督の逝去を悼む-『エロス+虐殺』『秋津温泉』の思い出

2022年12月09日 23時39分26秒 | 追悼
 映画監督であり、批評や小説でも活躍した吉田喜重(よしだ・よししげ)が12月8日に亡くなった。89歳。最近になく没後すぐに公表された。いま、名前を「よししげ」と書いたが、それが本名である。しかし、一般的には「きじゅう」と呼ぶことが多かった。最近特集上映などがなかったので、ここで書くことはなかったと思う。しかし、僕は非常に好きな監督で、日本映画史上でも重要な監督の一人と評価している。シネマヴェーラ渋谷で2008年6月21日から7月11日にかけて行われた「吉田喜重レトロスペクティブー熱狂ポンピドゥセンターよりの帰還ー」には頑張って通い、トークの後にサインを貰って握手した思い出がある。
(妻の岡田茉莉子とともに「徹子の部屋」で)
 最近映画監督の訃報を続けて書いているが、吉田喜重は89歳と高齢なので思わぬことだったという感じはしない。もっとも妻である女優の岡田茉莉子によれば、直前まで元気だったという。2020年には『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』という長大な小説を発表していて、映画は作らずとも近年まで厳しい問題意識を持ち続けていたのである。吉田喜重は福井県に生まれたが、戦後に家族とともに東京に移り、都立城南高校を経て東大仏文科を卒業した。城南高校というのは、現在では僕の最後の勤務校、六本木高校である。大学卒業後に松竹に入社した。東大卒が映画会社に入る時代になったのである。
(岡田茉莉子との結婚式で)
 映画史的には吉田喜重は「松竹ヌーベルバーグ」の一員として出発した。テレビが台頭して映画観客が漸減する中で、松竹は大島渚青春残酷物語』のヒットに味を占めて、若手助監督をどんどん監督に昇格させた。大島、吉田の他に篠田正浩、後の直木賞作家高橋治、大島映画の脚本家として知られる田村孟などである。1960年の『ろくでなし』でデビュー、続いて『血は渇いている』『甘い夜の果て』と作った。今見るとそんなに悪くもないと思うが、あまり印象に残らないのも確か。転機になったのは1962年の『秋津温泉』だった。スター女優岡田茉莉子の100本記念作品で、岡田自身がプロデューサーを務め、吉田に監督を依頼した。これをきっかけに二人は親密になり、1964年に結婚することになる。
(『秋津温泉』)
 『秋津温泉』は藤原審爾の原作を吉田が自由に脚色したもので、原作も読んでみたが映画の方がずっと面白かった。岡山県北部の「美作三湯」の一つ、奥津温泉が舞台となっている。戦時中に結核で死に場所を求めていた青年が、旅館の娘と知り合って生きる希望を取り戻す。その後の男と女の戦後史を描きながら、理想を失っていく男と変わらぬ愛に生きる女の姿を抒情的に描き出す。林光の音楽が素晴らしく、何でこうなっていくのかという理想と幻滅に寄り添っている。戦後の理想主義が破綻していくという寓意を愛の神話として定着させた。この映画が非常に好きなのは、僕はグズグズ煮え切らない「腐れ縁」映画が好きなのである。成瀬巳喜男の『浮雲』、ポーランドの『COLD WAR あの歌2つの心』、ウォン・カーウァイ『ブエノスアイレス』などである。結局この映画は脚本が素晴らしい。それにもちろん、輝くばかりの岡田茉莉子の美しさ。

 1964年に岡田茉莉子との結婚式でヨーロッパに滞在中、『日本脱出』を無断で会社がラストシーンをカットしたことに抗議して退社。その後は独立プロ「現代映画社」で活動した。『水で書かれた物語』『女のみづうみ』『情炎』『炎と女』『樹氷のよろめき』『さらば夏の光』だが、最初の『水で書かれた物語』を除いて成功していない。多くの批評でも観念的に判りにくいという評価だと思う。僕もそうは思うけれど、露出過多の白っぽい画面の中に繰り広げられる運命のドラマは魅力がある。美的な感覚は満足出来るんだけど、ストーリー性がないと厳しいということか。

 その後はATG(アートシアターギルド)の映画が中心となる。第1弾が『エロス+虐殺』(1970)で、これは驚くべき大傑作だと思う。大正時代の大杉栄伊藤野枝神近市子らの有名な「自由恋愛」の破綻(神近市子が大杉を刺した日蔭茶屋事件)を現代の「フリーセックス」と絡めて描いている。当時はまだ神近市子(戦後に社会党から衆議院議員に当選)が存命で、公開中止の裁判を起こして問題となった。先頃亡くなった一柳慧の音楽が素晴らしく、長谷川元吉の撮影も見事。大杉役の細川俊之も忘れがたい。映画は傷害場面を何度も描くが、内容が違っている。「事実」と「真実」、さらに「歴史はこうあるべきだった」という痛切な歴史認識が見るものに刺さる。難しいけれど、これぞ「前衛」という作風で、よく判らないけど傑作を見てるんだという思いが湧き上がってくる。若い頃から何度か見ているが、何度も見ても心に響いてくる。
(『エロス+虐殺』)
 好きな2作で長くなったので、後は簡単に。その後、ATGで3本作ったが『煉獄エロイカ』(1970)は確かに難解すぎてよく判らない。『告白的女優論』(1971)も成功とは言えないが、岡田茉莉子、有馬稲子、浅丘ルリ子の3人をアート映画で並べたのは見応えがある。二・二六事件を描く『戒厳令』(1973)は別役実が脚本を書き、三國連太郎の北一輝が凄かった。政治的テーマだが、それまでと同じように「前衛」風に作っている。完全には納得出来ないのだが、問題作に間違いない。
(『告白的女優論』)
 その後長く映画を作らず、テレビの美術番組『美の美』を作り続けた。これは非常に評価が高かったけれど、僕はほとんど見てない。そうしたら、突然1986年になって西友(当時はセゾン系のスーパーだった)が出資して『人間の約束』を作った。これは佐江衆一原作の「老人問題」映画で、すさまじい迫力があった。僕はその迫力に打たれて、その年のベストワンだと思った。ここでも主人公の三國連太郎が素晴らしかった。凄い役者だと思う。興行的にも成功し、続けて『嵐が丘』(1988)を作ったが、こっちは意余って力足らずだったと思う。
(『人間の約束』)
 その後、1998年に『小津安二郎の反映画』を刊行し、鋭い小津論を展開した。もともと松竹時代に有名な「新年会事件」があり、吉田の小津批判に小津が怒ったとされる。もう映画は作らないのかと思ったら、2003年に『鏡の女たち』が公開された。これは原爆をテーマにした重厚な映画で、完全には納得出来なかったが問題意識の重要性には感動した。最後の著書もナチスの戦犯だったヘスをめぐるもので、ずっと戦争と責任の問題を考え続けた人だった。長いこと映画を作ってないし、作った映画はアート系の公開が多かった。よほどの映画ファン以外は見てない人が多いと思うけれど、このような大監督がいたと知って欲しいと思う。フランス政府は勲章を贈ったが、日本では何もない。まあそんなものは要らなかっただろうけど。
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江沢民、鮑彤、エンツェンスベルガー他ー2022年11月の訃報②

2022年12月07日 20時50分33秒 | 追悼
 2022年11月の訃報外国人編。時々同じ月に関連のある人が亡くなることがある。2021年11月に落語家の三遊亭円丈川柳川柳が亡くなったが、ともに6代目三遊亭圓生の弟子として「落語協会脱退騒動」を生き抜いた因縁の人である。一年後の11月は、1989年の「天安門事件」を境に人生行路が異なった二人の元中国共産党幹部が亡くなった。江沢民鮑彤である。

 元中国共産党総書記(第3代)、元中華人民共和国国家主席(第5代)の江沢民(チャン・ツェーミン、こう・たくみん)が11月30日に死去、96歳。もともとは機械技術者としてソ連に留学したテクノクラートで、82年に中央委員に昇格し、83年に電子工業相となった。1985年に上海市長、87年に中央政治局委員兼上海市党委員会書記に就任した。天安門事件当時は改革派と保守派の中間的立場にあったが、党中央に従って胡耀邦追悼座談会を報じた雑誌に停刊を命じ、それが中央の目に止まったとされる。そして、1989年6月の天安門事件後にすべての役職を解任された趙紫陽に代わって、党総書記、中央政治局常務委員に就任した。

 それまで政治局員ではあるもの常務委員じゃなかったんだから、これは紛れもなく「抜擢」である。誰が決めたかと言えば、それは鄧小平である。従って、現在の習近平のような「皇帝」ではなく、その下で働く「宰相」だったと言える。その後は詳しく書くまでもないと思う。一党独裁体制を維持しながら経済発展を進め、その点だけを取れば評価する声もある。習近平は「社会主義を守った」と追悼集会で述べたが、どこが「社会主義」なのか。単に言論の自由のない独裁政権を作り上げた。ただ、2002年に(2005年まで保持した国家軍事委員会主席を除き)中央の役職を退任したのは、今の習近平体制と違うところだった。
(江沢民)
 中国の改革派として知られ、趙紫陽元総書記の秘書を務めた鮑彤(パオ・トン、ほう・とう)が11月9日に死去、90歳。1980年に趙紫陽の秘書となり、国家経済体制改革委員会副主任、党組副書記を兼任した。87年には中央委員に昇格したが、89年の天安門事件で失脚。さらに中央委員としてただ一人逮捕され、国家機密漏洩罪で懲役7年の実刑を受けた。1996年に刑期を終えたものの、その後も当局の厳しい監視下に置かれていた。しかし、最後まで中国共産党のあり方を批判し続けた。「今の共産党は庶民を信用していないのだと思う。信用していないから、その口をふさごうとする」と2015年に朝日新聞記者の取材に語っていた。この二人は1989年に人生の明暗が分かれたが、100年後にはその評価が逆転していると僕は確信している。
(鮑彤=パオトン)
 ドイツの作家、詩人、評論家のハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーが11月24日に亡くなった。93歳。西ドイツを批判的に論評して、60年代、70年代には多くの翻訳がなされていた。現代ドイツの非常に重要な詩人、批評家と見なされているが、日本では訃報が報じられなかった。『何よりだめなドイツ』『政治と犯罪』『ハバナの審問』『スペインの短い夏』『ヨーロッパ半島』などが日本でも翻訳され、大きな反響を呼んだ。ドイツ統一後も発言を続けていたようだが、その後は『数の悪魔』のような数学を楽しみながら紹介する本が多く紹介されている。
(エンツェンスベルガー)
 映画監督のジャンマリー・ストローブが11月19日に死去、89歳。2006年に亡くなった妻のダニエル・ユイレとともに、商業的妥協を一切排した映画製作を続けた。フランス生まれだが、アルジェリア戦争への徴兵を拒否して西ドイツに亡命して映画を作り始めた。『妥協せざる人々』(1965)、『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』(1967)などで世界的評価を得た。後者は大分遅れて日本でも公開されヒットした。他に『階級関係 カフカ「アメリカ」より』(1984)『シチリア!』(1999)など多数。アテネ・フランセ文化センターでたびたび特集上映が行われている。あまりにも厳格に娯楽性を排除しているので、見るのはなかなか大変だが、非常に重要なヨーロッパの映像作家だと思う。
(ジャンマリー・ストローブ)
 インドの弁護士、人権運動家のエラ・バットが2日死去、89歳。ガンディー主義に基づき、女性労働者の地位上昇のために力を尽くした。労働組合やマイクロ・クレジット銀行設立を進め、「自営女性労働者協会 (SEWA)」を設立した。これはインドだけでなく南アジア一帯で活動している。それらの活動は世界的に評価され、フィリピンのマグサイサイ賞、スウェーデンのライト・ライブリフッド賞、インドのインディラ・ガンディー賞、日本の庭野平和賞などを受賞した。日本ではほとんど知られず、マスコミの訃報もなかったと思う。今回調べていて初めて知った名前である。
(エラ・バット)
 アメリカの歌手、アイリーン・キャラが11月25日死去、63歳。1980年の映画『フェーム』に出演、主題歌も歌ってアカデミー歌曲賞を受賞。1983年の『フラッシュ・ダンス』の主題歌「フラッシュダンス…ホワット・ア・フィーリング」も大ヒットし、2度目のアカデミー歌曲賞、グラミー賞を受けた。その後はレコード会社ともめてあまり活躍出来なかったという。
(アイリーン・キャラ)
エドワード・プレスコット、6日死去、81歳。2004年ノーベル経済学賞受賞者。
ガル・コスタ、9日死去、77歳。ブラジルの国民的歌手。カエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルらとブラジルの黒人音楽とロックなどが混交した「トロピカリズモ」を主導した。軍事政権による音楽検閲に反対し軍事政権と対立したことでも知られる。
マーハン・カリミ・ナセリ、イラン出身の難民。12日死去、72歳または75歳。1988年からパリのシャルル・ド・ゴール空港の片隅で暮らしていたことで知られる。自伝が映画『ターミナル』として映画化された。フランスの難民認定を受け、2007年にホームレス施設に収容されて19年間の空港生活はいったん終わったが、数週間前に空港に戻って第2ターミナルで心臓マヒのため死亡した。
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村田兆治、普久原恒勇、渡辺徹他ー2022年11月の訃報①

2022年12月06日 22時13分03秒 | 追悼
 2022年11月の訃報特集。映画監督の大森一樹崔洋一を別に書いたので、他の日本人の訃報を1回目に書きたい。最初に元プロ野球投手の村田兆治。11日に自宅の火災で亡くなったというニュースに驚いた。72歳。「マサカリ投法」と呼ばれた独自の投球フォームで知られ、通算勝利数217勝をあげた。1967年にドラフト1位で、東京オリオンズ(現ロッテ)に入団。最優秀防御率3回(75、76、89)、最多勝利1回(1989)、最多奪三振4回などのタイトルを取った。もっとも通算勝利数は17位で、最多の金田正一の400勝どころか、同僚だった小山正明の320勝(3位)などには全く及ばない。
(マサカリ投法)
 それは1982年に肘を痛めて活躍出来ない年が続いたからである。82年4勝、83、84年は0勝だったが、当時の日本人投手には珍しくアメリカに渡って「トミー・ジョン手術」を受け、85年になって17勝5敗という鮮烈な復帰を成し遂げた。(カムバック賞受賞。)それ以後は日曜日ごとに登板し、「サンデー兆治」と呼ばれ、1990年まで22年間に渡って選手を続けた。なお、148暴投というプロ野球記録を持っている。引退後は子どもたちへの野球教室を続けていた。特に試合の機会が少ない離島の子どもたちのために「離島甲子園」を開催したことで知られる。
(晩年の村田兆治)
 猛練習、「人生は先発完投」というモットーで知られ、無骨な男として有名だった。1990年には「昭和生まれの明治男」が新語・流行語大賞の特別部門で妻とともに表彰されたぐらいだ。それだけに訃報のちょっと前に、飛行機に乗る際に暴行容疑で逮捕されたというニュースにはビックリした。新聞切り抜き用のナイフを持っていたと語っていたが、野球教室や講演に急いでいたんだろう。自分が曲がったことをするはずがない、俺のことを知らないかと思ったりもしたと思うが、それは通じなかったということか。火事で亡くなるとは痛ましいことだった。

 沖縄を代表する作曲家、普久原恒勇(ふくはら・つねお)が11月1日に死去、89歳。1965年に作曲した「芭蕉布」は「民衆の琉球国歌」などと呼ばれるほど有名になった。大阪で生まれ、レコード会社を経営していた伯父の養子になった。実父母の住む沖縄に戻って沖縄戦を体験し、戦後大阪に戻って西洋音楽を学んだ。60年代以降、多くの曲を作曲して全国的に親しまれた。「海の青さに 空の青」で始まる「芭蕉布」は多くの歌手にカバーされている。芭蕉布を戦後に復興させた平良敏子も9月13日に亡くなった。
(普久原恒勇)
 俳優の渡辺徹が11月28日に死去、61歳。1980年に文学座演劇研究所に入ったが、81年にテレビ「太陽にほえろ!」に出たことで知られるようになった。その後も大河ドラマ(『秀吉』の前田利家、『徳川慶喜』の西郷隆盛など)やバラエティ馬組にも出演し人気者となった。1987年には榊原郁恵と結婚して、明るいおしどり夫婦として知られた。最後まで多くの舞台に出ていた演劇人で、2001年菊田一夫演劇賞受賞。文学座の他、多くの商業演劇で活躍していた。30歳の時に糖尿病を発症し、以後も体重管理など大変だったようである。死因は敗血症だった。
(渡辺徹)
 俳優の白木みのるが2020年12月16日に亡くなっていたことが明らかになった。86歳没。1960年代のテレビ番組『てなもんや三度笠』で、藤田まこと、財津一郎らと掛け合いをして人気者になった。身長140㎝と非常に背が低かったので、子役に見えたけど実は大人で「そういう病気」みたいなものだと子どもながらに理解していた。吉本新喜劇などでも活躍していたというが、東京のテレビにはほとんど出なくなっていたので、訃報を聞いて思いだした。
(白木みのる)
 ノンフィクション作家のドウス昌代が11月18日に死去。1977年に『東京ローズ』を発表してデビュー。太平洋戦争下に米軍向け宣伝放送に携わった日系2世の女性を描き大きな話題となった。他に『ブリエアの解放者たち』、『日本の陰謀 ハワイ・オアフ島大ストライキの光と影』(大宅賞)や『イサム・ノグチ 宿命の越境者』(講談社ノンフィクション賞)など多数。夫のスタンフォード大名誉教授ピーター・ドウス(歴史学)もちょっと前の11月5日に亡くなっている。
(ドウス昌代)
 福音館書店の編集者(後、社長、会長)として多くの絵本、児童文学を送り出した松居直(まつい・ただし)が11月2日死去、96歳。絵の素養を生かして、いわさきちひろ、田島征三、安野光雅らを送り出すとともに、朝倉摂、丸木俊、堀文子らを児童書に起用した。また、寺村輝夫「ぼくは王さま」や中川里枝「ぐりとぐら」など多くのロングセラーを生み出した。自らも絵本を書くとともに、絵本に関する多くの研究書を残している。
(松居直)
 経済学者の小宮隆太郎が10月31日に死去、93歳。戦後を代表する近代経済学者で、東大で多くの教え子を持つと同時に、各種審議会などを通して政府の経済政策にも大きな影響を与えた。2002年に文化勲章。50年代にアメリカに留学し、ハーバードでレオンチェフの下で産業連関分析などを学んだ。スタンフォード大各員教授を経て、1969年から東大経済学部教授、定年後は青山学院教授を勤めた。日本の高度成長の基本には、異例に高い資本蓄積率と個人貯蓄率があったと説明した。1073年の「狂乱物価」や80年代の日米貿易摩擦などにも独自の主張を行っている。
(小宮隆太郎)
 外交評論家の加瀬英明が11月15日に死去、85歳。外交官加瀬俊一(初代国連大使)の子で、若い頃から保守政治家と親しく交わっていた。アメリカ留学後にブリタニカ百科事典の編集長を経て、言論活動を展開した。ものすごく多くの著書、翻訳があるが、当初の昭和天皇秘話みたいな路線から、次第に韓国批判や「ユダヤ人の知恵」的な本が多くなった印象がある。記録映画「主戦場」で右翼の首魁のように印象付けられていたが、多くの右派系団体に担がれていただけということだと思う。
(加瀬英明)

松原千明、10月8日死去、64歳。俳優。カネボウ化粧品のキャンペーンガールに選ばれ80年代にタレントとして活躍した。石田純一と結婚し、長女がタレントのすみれ。
松本一起(いっき)、4日死去、73歳。作詞家。中森明菜「ジプシー・クイーン」など80年代アイドル全盛期を支えた。
山本進、4日死去、91歳。芸能史研究家。6代目三遊亭圓生、8代目林家正蔵らの聞き書きなど落語関係の本が多い。
早野透、5日死去、77歳。ジャーナリスト。朝日新聞記者として、田中角栄の番記者を務め、田中派を初めとする自民党政治家に関する多くの本を残した。『田中角栄と「戦後」の精神』、『田中角栄 戦後日本の悲しき自画像』など。
村上芳正、6日死去、画家、100歳。三島由紀夫、澁澤龍彦、沼正一『家畜人ヤフー』などの装飾を手掛けた。
斑目春樹、22日死去、74歳。福島第一原発事故当時の原子力安全委員会委員長だった。
佐川一政、24日死去、73歳。「パリ人肉事件」犯人で、不起訴後に帰国し『霧の中』などの著作を執筆した。
中村邦夫、28日死去、83歳。元松下電器社長。「ナショナル」ブランドを廃止し、「家族的経営」の社風に抗して希望退職を断行した。その結果、落ち込んでいた業績が「V字回復」して注目された。
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映画監督崔洋一の逝去を悼む

2022年12月01日 21時56分34秒 | 追悼
 映画監督の崔洋一が11月27日に亡くなった。73歳。以前からガン闘病を明らかにしていたので驚きはない。ちょっと前に大森一樹監督の訃報を書いたばかりなので、同じように同時代に映画を見てきた崔監督の追悼も書いておきたい。

 名前で判るように「在日コリアン」だった。長野県佐久市出身で、1994年に「朝鮮籍」(これは戦前の植民地時代の朝鮮半島出身者を意味する「記号」である)から大韓民国の国籍に変更した。(変更時期はウィキペディアによる。)そして「在日」を描く映画を作った人としてマスコミの訃報でも大きく取り上げられた。それも間違いではないけれど、僕の見てきた感じでは崔監督の魅力はちょっと違った所にあったように思う。それは「アクションの魅力」である。

 一番高く評価され、崔監督の名を一躍知らしめたのは、1993年の『月はどっちに出ている』だった。唯一のキネ旬ベストワン。これは「在日」のタクシー・ドライバーとフィリピン女性を登場させたコメディ風の風刺作品だった。原作は梁石日(ヤン・ソギル)の『タクシー・ドライバー日誌』で、僕は前からこの作家を愛読していた。でも原作をどんどん離れて行くところが面白い。見ていて確かに面白かった。これは自宅近くでロケしたと判る場面があって、それも興味深かった。

 しかし、昨年(2021年)国立映画アーカイブの特集「1990年代日本映画――躍動する個の時代」で見直したら、これが案外普通の映画だった。主人公の母親が「北」に「帰国」した息子に送る荷物に秘かにお金を入れるシーンなど、当時は新鮮な「情報」だった。また日本社会の外国人を描くときに「オールドカマー」と「ニューカマー」を対比的に絡めるのもとても新鮮だったのだが、その後どんどん外国人労働者が普通に見かける時代になっていった。あれだけ新鮮だったルビー・モレノも今見ると普通である。「在日」社会派コメディとして、面白くはあるけれど、生涯の最高傑作なんだろうかと思ったのである。
(『月はどっちに出ている』、監督と主役)
 崔監督は大島渚『愛のコリーダ』や松田優作主演の「遊戯」シリーズなどの助監督を経て、1983年の『十階のモスキート』で監督デビューした。当時は名前も知らず、小さな公開だったので見逃したと思う。ベストテン9位に入って、その後見たけど、まあ普通に思った。ところが近年になって見直すと、ものすごく面白い。借金苦の悪徳警官をやった主演の内田裕也の追悼特集で見たからかもしれないが、堕ちてゆく警官を演じた鬼気迫る演技に魅せられた。娘役の小泉今日子の映画デビューで生意気ぶりが面白い。
(『十階のモスキート』)
 その後角川映画で『いつか誰かが殺される』など4本を監督した。その中で北方謙三原作の『友よ、静かに瞑れ』(1984)は、原作を変えて沖縄でロケした。それが何と辺野古なのである。最近初めて見て、出来は普通だがロケが面白かった。それ以後、沖縄を舞台にして『Aサインデイズ』(1989)、『豚の報い』(1999)を製作した。僕は崔監督は沖縄映画の系列が一番面白いと思う。もっともどっちもベストテンには入選していない。沖縄のロック歌手喜屋武マリーを描く『Aサインデイズ』は批判する人もいるようだが、僕は公開当時に見て感動した。又吉栄喜の芥川賞受賞作の映画化『豚の報い』も僕は見て満足した。不思議な世界を描くストーリーだが自然に見られた。ロカルノ国際映画祭にてドン・キホーテ(国際シネクラブ連盟)賞受賞。
(『豚の報い』)
 2004年の『血と骨』はやはりヤン・ソギルの自伝的原作の映画化で、ビートたけしが父親役を圧倒的な濃度で演じた。主演男優賞を得たが、助演賞のオダギリジョーも高く評価された。だけど、僕はこの映画は鬼気迫りすぎて好きになれなかった。原作の方が絶対に面白いと思う。それに「在日コリアン」役を日本人俳優が演じるのは、「当事者性」からどうなんだろうと思ったのである。そこまで高く評価されなかった『マークスの山』(1995)や『犬、走る。DOG RACE』(1998)の方が面白いんじゃないか。

 中でも2002年の『刑務所の中』は非常に特別な設定の映画だけど、素晴らしく面白かった。漫画家花輪和一が銃砲刀剣類不法所持で服役した実体験を描いた原作漫画の映画化。細部にこだわって描かれた原作を出来るだけ忠実に映像化した。原作はもっと凄いらしいけど、読んでない。刑務所が出て来る映画はいくつもあるけど、ここまでリアルな映画は前にも後にもないだろう。アクションなき、押さえられたアクション映画。山崎努を主人公に、香川照之、田口トモロヲ、松重豊などが同房という恐るべき空間である。僕はこの映画と『Aサインデイズ』が実は崔監督作品で一番好きである。
(『刑務所の中』)
 『クイール』(2002)は盲導犬を描いたヒット作。長編最後は『カムイ外伝』(2009)だが、どっちも見逃した。21世紀になって作品が少ないのは、2004年に宝塚大学で教えたり、日本映画監督協会会長になったりしたことが大きいと思う。それに『血と骨』でやり切った感もあったかもしれない。崔洋一は「在日」という枠だけでは捉えきれず、娯楽作も器用に作れる監督だった。

 それにしても80年代、90年代を担った映画監督がどんどん亡くなっているのはどういうことだろうか。溝口健二(1956年、58歳)や小津安二郎(1963年、60歳)の時代でもないのに。その後には新藤兼人(2012年、100歳)、鈴木清順(2017年、93歳)のような長命な人もいたのである。それに対して、相米慎二(2001年、53歳)、市川準(2008年、59歳)、森田芳光(2011年、61歳)、そして今年だけで青山真治(57歳)、大森一樹(70歳)、崔洋一(73歳)と続いている。大森、崔は長生きの方ではないか。でも現在の男性の平均寿命を大きく下回っている。長年の映画業界の労働環境や喫煙の多さなどが影響しているのだろうか。
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映画監督大森一樹の逝去を悼む

2022年11月15日 22時34分26秒 | 追悼
 大森一樹監督が亡くなったとスマホで知って驚いた。70歳と出ていた。若手だった人がそんな年になっているんだから、自分の年も推して知るべし。特に大ファンだったというのではないけれど、大森監督の話は何回か聞いていてビックリした。急性骨髄性白血病と出ている。大森監督は医者でもあり、長生きするもんだと思っていたけれど、難病ではやむを得ないか。

 映画監督という職業は、映画会社に就職して他の監督の下で助監督として修行して、それから昇格するというのが普通だった。ある時代までそういう人がほとんだだったけれど、60年代末頃から映画会社が「斜陽」になっていき、新規採用が少なくなってしまった。そして70年代半ばに全く新しいコースで映画監督になる人が出てきた。その代表が大森一樹監督なのである。

 大森監督は1972年に生まれた。兵庫県芦屋市で医者の家に育ち、京都府立医科大を卒業して医師免許を取得。一方、高校時代から自主映画を作り始め、1975年に16ミリで『暗くなるまで待てない!』を製作して評判になった。題名はオードリー・ヘップバーン主演のサスペンス映画『暗くなるまで待って』から取られている。この映画には当時映画を撮れなくなっていた鈴木清順監督が出演するなど、話題性も十分で素人離れしていた。東京でもホールなどで自主公開され、評判を聞いて僕は見に行ったのである。

 その後、1977年に新人のシナリオを対象にした城戸賞に『オレンジロード急行』が入賞した。(一つ上の「入選」は中岡京平で、藤田敏八監督『帰らざる日々』になった。)そのシナリオは松竹で映画化され、何と大手映画会社でプロの映画を作ってしまったのである。主演は嵐寛寿郎岡田嘉子。嵐寛寿郎は戦前から鞍馬天狗で有名だった大スター。岡田嘉子は戦前に樺太からソ連に越境した伝説のスター。当時は日本に戻って女優を再開していた。海賊放送局や自動車泥棒らが警察と繰り広げる大騒動を軽快に描き、僕は大好きだった。当時の評価は高くなかったが、2014年に見直した時もすごく面白かった。
(『オレンジロード急行』)
 2014年は、国立フィルムセンター(当時)で大森監督の小特集が行われた年である。その時、大森監督が何回もトークに立ち、いろいろな話を聞いたのである。『ヒポクラテスたち』(1980)を久しぶりに見て、やはりこれが代表作かと思った。自身の医学生時代を映画化したもので、ATG(アートシアター)で製作された。徳洲会が学生を勧誘に来るシーンなど、今になって判ったところも多い。続いてATGで『風の歌を聞け』(1981)を製作。言うまでもなく村上春樹のデビュー作の映画化で、小林薫真行寺君枝主演で、鼠は巻上公一がやっていた。大森監督は村上春樹と同郷で、中学が同じである。僕はこの作品も大好きで、村上春樹の映画化で原作のムードが一番生きているように思う。
(『ヒポクラテスたち』)(『風の歌を聞け』)
 ここまでが大森監督の作家性の強かった時代。その後、1984年から東宝で吉川晃司三部作『すかんぴんウォーク』『ユー・ガッタ・チャンス』『テイク・イット・イージー』を撮った。続いて1986年から斉藤由貴三部作『恋する女たち』『トットチャンネル』『「さよなら」の女たち』(乙羽信子の生涯を描くテレビ作品『女優時代』を入れれば4部作)を撮って、大手で面白い映画を巧みに撮る名手として実力を認められた。その次に『ゴジラvsビオランテ』(1989)を撮って新時代のゴジラ映画として高く評価された。(1991年に『ゴジラvsキングギドラ』を撮っている。)
(『恋する女たち』)(『ゴジラvsビオランテ』)
 これらの作品は、就職して多忙になったこともあり見ていない作品が多い。大手で作ったアイドル映画、特撮映画だから、ヒマでも見なかったかもしれないけど。最近になっていろいろ見る機会があり、何と言っても『恋する女たち』の面白さが際立っていると思う。金沢を舞台にして女子高生たちの恋愛模様を描き、ものすごく楽しい。先輩役小林聡美の怪演、野球部の柳葉敏郎の若さに目が釘付け。斉藤由貴もいいけれど、友人役の高井麻巳子(秋元康夫人)、相楽ハル子が貴重。キネ旬ベストテン7位になった。
 
 2005年から大阪芸術大学教授になったこともあり、その後も作品数が多いけれど見てないものが多い。1996年の『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』は宮沢賢治生誕100年記念で、神山征二郎監督『宮澤賢治 その愛』と競作になった。これは良かったと思う。2014年のフィルムセンターでは自選の12作品が上映されたが、21世紀の作品では『悲しき天使』(2006)しか選ばれていない。やはり圧倒的に80年代の映画監督だったと思う。まだ30代だった時代の勢いは素晴らしかったし、今見ても面白いと思う。自主映画出身でこれほど成功した監督はいない。こういう道があるんだと示した意義は非常に大きかった。
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神戸の詩人、安水稔和の逝去を悼むー2022年8月の訃報⑤

2022年11月10日 23時00分17秒 | 追悼
 詩人の安水稔和(やすみず・としかず)が2022年8月16日に死去、90歳。訃報が公にされたのは10月になってからだった。僕は新聞で知って、そう言えば昔この人の詩集を読んだなあと思いだした。それは素晴らしく瑞々しい青春の詩だったけれど、新聞記事では神戸に住んでいて阪神淡路大震災で被災したこと、その震災体験を執筆し続けたことが大きく取り上げられていた。いや、それは知らなかった。どこかで聞いたかもしれないが、東京ではあまり大きく取り上げられなかったと思う。震災関係の詩集やエッセイは関西の出版社から出されたが、地元の図書館に収蔵されていた。それを読んでみて、この記事を書いている。
(安水稔和)
 日本では現代詩はあまり読まれていないと思う。詩人の名も谷川俊太郎、大岡信、茨木のり子など少数を除いて思い浮かばないだろう。でも僕は若い頃にずいぶん読んでいた。それは角川文庫に確か全5巻の現代詩選集が入っていたからである。その本はどこかにあるはずだが、今はすぐには出て来ない。僕はその文庫本で多くの現代詩人の名前と作品を知ったのである。そして思潮社から出ている「現代詩文庫」を沢山買った。多分10数冊あると思う。そして、その一冊に「安水稔和詩集」があった。
 (現代詩文庫『安水稔和詩集』)
 その頃好きだったのは以下のような詩だった。(行分けは「/」で著す。)
 「君はかわいいと
 君はかわいいと/どうしていっていけないわけがあろう。/ただ言葉は変にいこじで妬み深く/君とぼくとのなかを/心よからずおもいがちで/君とぼくとのあいだを/ゆききしたがらない。/だから君/ちょっとお耳を。/どうだろう/言葉にいっぱい/くわせてやっては。/かわいいという言葉を/君のかわいい口にほうりこみ/君のかわいい唇のうえから/しっかりと封印しよう/ぼくの唇で。/奴めきっと憤然と/君の口のなかで悶死するにちがいない。/言葉の死んだあとに/愛が残るとすれば。/だから君/どうだろう
 「愛するとは
 愛するとは/どうひいきめにみても/あわれっぽいものだ。/雀の秘め事。/いつも離れていて/いつも離れられぬとおもいこむ。/おもいあまった意思が/身を投げる(以下、略)

 これらは25歳の時に刊行された詩集『愛について』(1956)に収録された詩である。全部引用したいぐらい、僕にとって魅力的だった。それは言うまでもなく、「男の子」が日常的に感じていることが書かれていたからだ。次の『』(1958)も良い詩がいっぱいある。
 「鳥よ
 鳥よ。/まっすぐに落ちてくる鳥よ。/落ちて落ちてもはや/おまえがおまえでなくなるとき、/なんと自由に/身をひるがえし/大地を横目に/おまえは新しいおまえとなることか。/おまえであったものが/土に頭を打ちつけ/あっけなく死んだその時に。(以下、略)

 ところで、その後僕は安水稔和を読まずに来た。というか、最近は詩を読むことも少ない。今回知ったけれど、安水稔和は1931年に神戸で生まれ、神戸の大空襲に遭遇した。その後に母親の実家の龍野(兵庫県)に5年間疎開したが、その後神戸市に戻り長田区に住んだ。大震災で一番大きな被害を受けた地区である。神戸大学に進学し、その後は神戸松蔭女子学院大学教授となった。ずっと神戸に住み続けた人生だったのである。大学在学中から詩作を続け「歴程」同人となり、いくつもの賞を受けた。

 1995年1月17日、そんな安水稔和が住む神戸市を大地震が襲った。今地震そのものに関しては書かないが、日本でこのようなことが起きるのかと大きな衝撃を受けた。東京では3月に起こった地下鉄サリン事件の衝撃によって「記憶の上書き」現象が起きた部分がある。しかし、僕は日帰りだけど現地を見ているので、その驚きを今も鮮明に覚えている。

 安水氏はからくも難を逃れた。数年前に建て直した家は倒壊しなかった。テレビが飛んで妻の寝ていた場所に落ちたが、起きていたので助かった。一家全員が助かったが、家の中はメチャクチャになった。通りを隔てた家まで火災で焼けた。電気も水もガスも止まったから、テレビも見られず情報が途絶えた。一週間後に朝日新聞から詩の依頼があり、それを読んで無事の消息が伝わった知人が多かったという。その時の詩が「神戸 五十年目の戦争」というものである。

 目のなかを燃え続ける炎。/とどめようもなく広がる炎。/炎炎炎炎炎炎炎。/またさらに炎さらに炎/
 目のまえに広がる焼け跡。/ときどき噴きあがる火柱。/くすぶる。/異臭漂う。/
 瓦礫に立つ段ボール片。/崩れた門柱の張り紙。/倒れた壁のマジックの文字。/みな無事です 連絡先は...。/
 木片の墓標。/この下にいます。/墓標もなく/この下にいます。/
 これが神戸なのか/これが長田のまちなのかこれが。/これはいつか見たまちではないか/一度見て見捨てたまちではないか。/
 (あれからわたしたちは/なにをしてきたのか。/信じたものはなにか。/なにをわたしたちはつくりだそうとしてきたのか。)/
 一九九五年年一月十七日。/午前五時四十六分。/わたしたちのまちを襲った/五十年目の戦争。/(以下、略)

 一読、忘れられない詩だ。どうしてこの詩を知らなかったのだろうか。その後、中越地震が、東日本大震災が、熊本地震が、その他多くの地震や集中豪雨などの災害が日本で起こった。この後に続く安水氏の詩がもっと多くの人に読まれていたならば、「何か」が違ったのではないか。「防災教育」などの場で、国民全員が読むべき詩ではなかったか。
(詩集『生きているということ』)
 今の詩を冒頭におき、4年目になるまで書き続けた詩を集めたのが「詩集『生きているということ』」(編集工房ノア)として刊行された。(第40回晩翠賞受賞。)今も入手できるようだが、まず地元の図書館で探してみてはどうか。是非一度読んで見て欲しいのである。先に書いた若い頃から、ずっと安水氏の詩は判りやすい言葉で書かれてきた。現代詩には言葉のアクロバットのような難解なものも多いが、特にこの詩集は表現的には誰でもすぐに通じると思う。それでも中に込められた重みは計りがたいぐらいだ。
(『神戸 これから 激震地の詩人の一年』)
 そして、震災後1年間に書かれた(話された)文章をまとめたものが「『神戸 これから 激震地の詩人の一年』(神戸新聞総合出版センター)である。ここには震災そのものではない文章(江戸時代の菅江真澄に関した文などだが、それらも震災に関連している)も入っているが、震災後に人がどのように生きていくか克明に記録されている。非常に貴重な文章で、これほどのものを知らなかったことにショックを受けた。東京では訃報に関しても追悼記事などは出ていないと思う。でも是非多くの人に読んで欲しいと思って、ここに紹介した。出来れば岩波文庫で『安水稔和詩集』を刊行して欲しいと願う。
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「冤罪弁護士」今村核氏の逝去を悼むー2020年8月の訃報④

2022年11月09日 21時57分04秒 | 追悼
 10月になって公表された8月の訃報が2件あった。それぞれ書くべきことがあるので、2回に分けて書くことにする。その一つが今村核弁護士の訃報で、まだ59歳だったから、本当に驚いた。掲載されてない新聞が多く、知らない人も多いのではないか。非常に大きな損失というしかなく、何と言っていいのか言葉を失う思いだ。

 事情はよく判らないながら、10月27日に旬報法律事務所のホームページに以下のような訃報が掲載された。「この間、都合により公表を控えておりましたが、当事務所の今村核弁護士が2022年8月20日頃死去いたしました(享年59歳)。謹んでお知らせいたします。なお、通夜ならびに葬儀につきましては、ご家族のご希望により、ご家族とご親族のみで執り行われる予定です。」
(今村核弁護士)
 僕は今村弁護士を個人的に知っているわけではない。ただ2冊の本で知っているだけである。そして、その一冊に関して、ここに書いた。「「冤罪弁護士」今村核を見よ!ー佐々木健一「雪ぐ人」を読む」(2021.7.31)である。新潮文庫から出た、佐々木健一雪(そそ)ぐ人 「冤罪弁護士」今村核の挑戦」という本の紹介である。僕はその本を読む前に、今村核冤罪と裁判 冤罪弁護士が語る真実』(講談社現代新書)を読んでいたので、この人がとてつもない人だと知っていた。

 日本の数多くの著名冤罪事件では、無罪を獲得するまで長年の苦労をする著名弁護士が存在する。しかし、今村核氏はそういう弁護士ではなかった。死刑・無期などの重刑事件では、ある程度大きな「支援会」が作られることも多い。そういう事件で無罪判決が出ると、新聞やテレビで大きく報道される。だが今村弁護士が担当したのは、新聞にも載らないような「小さな事件」ばかりだった。そのため、僕は今村核弁護士の名前を先の講談社現代新書を読むまで知らなかったのである。
(『雪ぐ人』新潮文庫)
 以下、基本的に先の記事をもとに書くことにするが、改めて読んで貰いたいことが多いのである。先の新潮文庫を読むと、「冤罪弁護士は儲からない」ことを痛感する。所属する弁護士事務所の経費を負担するのも大変なぐらいに。今村核という人は当然ながら冤罪事件だけを担当する弁護士ではない。そういう弁護士になりたかったわけでもない。ただ弁護士の使命感として、冤罪事件に本気で取り組んできたうちに、他の事件が手に付かないぐらいになってしまった。「疑わしきは被告人の利益に」の原則が貫かれていれば、今村弁護士はここまで苦労しない。

 しかし、「有罪率99.9%」を法務大臣自らが誇る国である。(ゴーン逃亡事件の後に森雅子法相がそう述べた。)常識があれば無罪だと思う裁判でも、日本では有罪となる。そういう判決を今村弁護士も経験してきたから、「そこまでやるか」的な弁護活動を行わないと日本の裁判では無罪を勝ち取れないと今村弁護士は覚悟したのである。そんな日本の裁判で今村弁護士は14件の無罪判決を得た。それもほとんど新聞にも報道されないような小さな冤罪事件ばかりでだ。多くの弁護士は刑事事件はあまり担当しないし、担当しても無罪判決の事件は生涯で一回あるかどうかである。
(「冤罪と裁判」)
 そういう事件が持ち込まれても、大体は貧しい庶民が巻き込まれたケースばかりである。全然「成功報酬」につながらないだけでなく、トコトンやるから精神的にも物質的にも負担が多い。そのことは『雪ぐ人』で紹介される「放火冤罪」や「痴漢冤罪」を読めばよく判る。「放火」事件では現場を再現して実際に燃やしてみる実験を行う。「痴漢」事件ではバスの車載映像を一コマごとに解析して、痴漢行為がなかったことを証明する。それでも一審は有罪判決だった。

 被害者は右手で触られたと証言し、被告人は携帯電話でメールしていたと反論した。だから右手の映像を分析したところ、裁判長は「左手で痴漢をした可能性もある」というのである。左手はずっとつり革をつかんでいたのだが、バスが揺れて一瞬映像が判りにくいところがある。映像を何百回も見ているうちに判ってくることがある。今度は左手も解析した鑑定を提出し、控訴審では無罪判決を得られた。心理学鑑定なども行ったのだが、それは裁判長に却下された。

 今村弁護士のモットーは、科学的な真実を求めることである。無罪判決を得るというより、事件の真相(例えば火事がどのように起こったのか)を明らかにすれば、それが無罪を明らかにするのである。もっともいかに科学的な真実を証明しても、それを受け入れない裁判官もいるのである。何でだろうかというのが、次の問題になる。先の痴漢事件で一審有罪判決を出した裁判官は、若い時は青法協や裁判官懇話会(どちらも最高裁からにらまれている団体)に関わっていたという。それが「変節」していったのは何故だろうか。それは判らないけれど、最高裁の人事のあり方にあると今村弁護士は指摘する。

 今村核という人の人生には考えさせられることが多い。この本から見えてくる日本のあり方はなんとも怖い。今村氏は怒っているが、それを佐々木氏を通して読むから、より深く怒りと絶望が伝わってくる。さすがに何度も取材を重ねた佐々木氏の文章は判りやすい。改めて多くの人に日本の冤罪問題を考えて欲しいから、特に入手しやすい新潮文庫の『雪ぐ人』は是非読んで見て欲しい。しかし、今村弁護士のように生きることはなかなか出来ないと思う。人生を振り返って思い返すことの多い本でもある。そのような今村核弁護士の訃報には非常に残念な思いが募る。
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一柳慧、津原泰水、清水信次他ー2022年10月の訃報②

2022年11月08日 23時06分00秒 | 追悼
 2022年10月の訃報、続き。作曲家の一柳慧(いちやなぎ・とし)が10月7日に死去、89歳。1954年、19歳で渡米してジュリアード音楽院で学ぶとともに、作曲家ジョン・ケージに大きな影響を受け、前衛芸術運動に参加した。1956年にオノ・ヨーコと結婚したことでも知られる(62年離婚)。61年に帰国して様々な芸術分野のアーティストと親交を深め、ジャンルを超えた活動を続けた。数多くの交響曲、協奏曲、オペラ、合唱曲などを作曲したが、現代音楽には詳しくないから聞いてはいない。2008年文化功労者、2018年文化勲章。僕は吉田喜重監督の傑作映画『エロス+虐殺』で名前を覚えた。朝日新聞の追悼文で片山杜秀がそのことに触れていて、さすが。素晴らしく美しい旋律に心が震えた。昔渋谷ジァン・ジァンで行われたエリック・サティの「ヴェクサシオン」演奏会で、ピアノを弾いていたのを聞いている。
(一柳慧)(ジョン・ケージと)
 作家の津原泰水(つはら・やすみ)が10月2日に死去、58歳。かねて闘病中だったというが、とても残念。ミステリー、SF、ファンタジー的な傾向の作家だが、広い意味で青春小説と言える作品が多い。『ヒッキーヒッキーシェイク』を版元の幻冬舎が文庫せず、ハヤカワ文庫から出た時に読んで、実に面白かった。そして幾つも読んで「津原泰水を発見せよ」と題して5回記事を書いた。「『ルピナス探偵団』の誘惑」「『ブラバン!』、ビターな青春小説」「凄いな『ヒッキーヒッキーシェイク』」「奇書『瑠璃玉の耳輪』」「津原泰水を発見せよファイナル」である。読み始めたら止められなくなった。『歌うエスカルゴ』のドラマ化希望。
(津原泰水)
 スーパーマーケット「ライフ」創業者、日本スーパーマーケット協会の創設者、清水信次が10月25日に死去、96歳。大阪で両親が経営していた清水商店を母体に、パイナップルやバナナの輸入から店を大きくし、61年に大阪府豊中市に「ライフ」1号店を開店。そこから一代で全国に270店舗を有する巨大スーパーに育てた。中内功(ダイエー)、鈴木敏文(イトーヨーカドー)、岡田卓也(ジャスコ)とともに、戦後流通業界の代表者である。1986年に中曽根内閣の売上税構想に反対したり、テレビの討論番組に出るなどして一般的知名度も高かった。参院選に2回出て落選。『闘魂人生必勝の道』というアントニオ猪木みたいな本も出している。
(清水信次)
 分子生物学者の古市泰宏(ふるいち・やすひろ)が10月8日死去、81歳。1975年、米留学中にmRNAに「キャップ」という構造を発見した。mRNAワクチンで使われていて、ノーベル生理学・医学賞、化学賞候補と言われた。新潟薬科大学客員教授。
(古市泰宏)
 アジア文化史研究者の前田耕作が10月11日死去、89歳。64年に第1次名大アフガニスタン学術調査団に参加、それ以来アフガニスタンのバーミヤン遺跡などを研究した。バーミヤン遺跡の保存、復元のために国際的に活動した。文化人類学者、考古学者の小山修三が10月26日に死去、83歳。オーストラリアの先住民研究を専門としながら、考古学者として三内丸山遺跡の研究も行った。民俗学博物館を経て、大阪府の吹田市立博物館長を務めた。
(前田耕作)(小山修三)
 撮影監督の金宇満司(かなう・みつじ)が10月27日死去、89歳。岩波映画撮影所に入社して、多くの作品で活躍した。熊井啓監督の『サンダカン八番娼館 望郷』の撮影をした人だが、『黒部の太陽』『栄光への5000キロ』の後、71年に石原プロに移籍した。テレビで「大都会」「西部警察」などを担当し、2005年に定年で辞めるまで常務として石原プロを支えたことで知られる。石原裕次郎の看病をした日々の回想記も残している。
(金宇満司)
 俳優、声優、ラジオパーソナリティの近石真介が10月5日死去、91歳。「サザエさん」の初代マスオ、洋画のジェームズ・キャグニー、ジェリー・ルイスなどの声で知られた。ラジオ番組「こんちワ近石真介です」のコーナーから始まった「はがきでこんにちは」は1971年から2020年まで続いた。テレビ「はじめてのおつかい」のナレーションでも知られた。
(近石真介)
 1951年のボストンマラソンで優勝した田中茂樹が10月4日死去、91歳。広島県出身で「原爆ボーイ」の活躍として注目された。柔道界最後の10段だった大沢慶己(よしみ)が10月21日死去、90歳。67キロの小兵で「昭和の牛若丸」と呼ばれた。
(田中茂樹)(大沢慶己)
 アメリカの歌手ジェリー・リー・ルイスが10月28日死去、87歳。エルビス・プレスリーやチャック・ベリーらとロックンロールの黄金時代を築いた。「火の玉ロック」などのヒット曲がある。88年「ロックの殿堂」入り。
(ジェリー・リー・ルイス)
 フランスの抽象画家ピエール・スーラージュが10月25日死去、102歳。墨だけで表現した作品で知られる。世界各地で展覧会が開かれ、特に存命中にルーブル美術館で回顧展が開かれたことで知られる。
(スーラージュ)

上村好男、5日死去、88歳。水俣病互助会長。長女の故・上村智子さんはユージーン・スミスの写真で知られる。
山本豊三、11日死去、82歳。俳優。50年代に松竹の青春映画で活躍。小坂一也、三上真一郎とともに「3代目三羽烏」と言われた。
松永光、11日死去、93歳。政治家。埼玉1区から10回当選し、文部大臣、通産大臣、大蔵大臣などを歴任した。
万波誠、14日死去、81歳。医師。宇和島徳洲会病院で「病気腎移植」を実施したことで知られる。
柴英三郎、18日死去、95歳。脚本家。内田吐夢監督『大菩薩峠』でデビュー。テレビの「三匹の侍」「傷だらけの天使」などを手掛けた。
三戸公(みと・ただし)、18日死去、100歳。経営学者。『ドラッカー』『公と私』などで知られた。立教大学名誉教授。
桃山邑(ももやま・ゆう)、18日死去、64歳。水族館劇場座長。
永田竹丸、19日死去、88歳。漫画家。トキワ荘に出入りし、漫画家として活躍した。第1回講談社児童まんが賞受賞。
矢吹申彦(やぶき・のぶひこ)、28日死去、78歳。イラストレーター。「ニュー・ミュージック・マガジン」「スイング・ジャーナル」などの表紙を手掛けた。また多くのレコードジャケットを手掛けている。東京散歩の本や絵本なども沢山書いている。

エデル・ジョフレ、2日死去、86歳。ブラジルのボクシング選手。バンタム級王者としてファイティング原田と闘い、判定で敗れた。再選でも敗れた後、フェザー級に階級を上げてチャンピオンになった。通算78戦72勝2敗4分けで、2敗が原田戦。
ロレッタ・リン、4日死去、90歳。アメリカのカントリーミュージックの歌手。社会的なテーマも歌ったため、ラジオ局から放送禁止にされた曲もあった。自伝が『歌え!ロレッタ愛のために』として映画化され、シシー・シペイシクがアカデミー賞主演女優賞。
ブリュノ・ラトゥール、9日死去、75歳。フランスの哲学者、人類学者。アクター・ネットワーク理論で知られた。2021年京都賞受賞。
アンジェラ・ラズベリー、11日死去、96歳。アメリカの俳優。英国で生まれたが、渡米して『ガス燈』などで活躍した。テレビドラマ「ジェシカおばさんの事件簿」で知られる。また舞台ではミュージカル「メイム」「スウィーニー・トッド」などでトニー賞を4回受賞。
ロビー・コルトレーン、14日死去、72歳。イギリスの俳優。「ハリー・ポッター」シリーズのハグリット役で知られた。
ハンナ・ホースラル、28日死去、93歳。「アンネの日記」で親友のハンネリとして登場した。戦後はイスラエルに移住した。
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アントニオ猪木と仲本工事ー2022年10月の訃報①

2022年11月07日 22時33分18秒 | 追悼
 2022年10月の訃報は2回に分けることにする。他に8月の訃報が10月に公表されたケースがあり、それを別に書きたい。10月は何と言っても、アントニオ猪木仲本工事の訃報ということになる。大きく報じられたというか、名前を多くの人が知っていたという意味だけど。9月30日に三遊亭円楽(6代目)が亡くなり、翌日にアントニオ猪木が亡くなった。実感的には二人続けて有名人が亡くなったと感じたわけだが、月ごとに分けて書く時には、ちょうど分かれてしまう。それも不思議な気がする。
(アントニオ猪木)
 アントニオ猪木の基本的なデータを書いておくと、1943年2月20日に横浜で生まれ、2022年10月1日に死去。79歳。本名は猪木寛至(いのき・かんじ)。13歳の時に家族とともにブラジルに移住し、サンパウロ近郊で暮らした。1960年にプロレス興行でブラジルを訪れていた力道山にスカウトされ、同年9月30日にプロレスラーとしてデビューした。(その日はジャイアント馬場のデビュー日でもあった。)当初は本名で登場したが、1962年11月にリングネームをアントニオ猪木に改名した。何となく、ブラジルでアントニオを名乗っていた日系ブラジル人のようなイメージがあるが、それは間違い。
(葬儀)
 僕はプロレスのことは詳しくない。当時の子どもたち多くと同じく、力道山はよくテレビで見ていた。幼いながら力道山が殺されたニュースも覚えている。だからアントニオ猪木もジャイアント馬場ももちろん知っていた。しかし、テレビ中継が少なくなり、自分も成長して他のことに関心が出て来ると見なくなった。それはプロ野球や大相撲も同じで、ラジオの深夜放送を聞きながら受験勉強していたのである。そういう僕でも「アントニオ猪木対モハメド・アリ戦」は見た。1976年6月26日である。この「世紀の凡戦」には、途中で「何だこれ」と思った記憶がある。今ではよく知られているように「異種間格闘技」の始まりで、真剣勝負だったとされる。猪木とアリの関係はその後も続き、入場曲「イノキボンバイエ」はアリから贈られたものだった。
(猪木・アリ戦)
 1989年の参議院選挙に、突然「スポーツ平和党」を結成して立候補したのには驚いた。この時の参院選は消費税やリクルート事件をめぐって、社会党が躍進した選挙だった。普段政治に関心がなさそうな体育教師が猪木に入れると燃えていた。しかし、与野党激突のさなかに新党を結成するやり方は、どうも与党を手助けする気がした。結局、1989年から95年まで務めて、次は落選。92年に当選していた江本孟も離党した。しかし、2013年になって、日本維新の会から立候補して2期目の参議院議員に当選した。この時の「維新」は「大阪維新の会」と「立ちあがれ日本」が合同した政党で、代表は石原慎太郎である。翌年に分裂した時は石原系の「次世代の党」に所属した。(以後、日本を元気にする会、無所属)。湾岸戦争前のイラク訪問や独自の「北朝鮮」外交を評価する声もあるが、僕にはどうもずいぶん右寄りの政治家だったという気がする。
(病床のアントニオ猪木)
 政治家としてはともかく、やはり「燃える闘魂」と呼ばれた猪木の技の数々、「卍固め」「コブラツイスト」「バック・ドロップ」などを聞くと、幼い頃のプロレスごっこを思い出して懐かしくなる。そういう人が多かったのだろう、朝日新聞の俳壇、歌壇に惜別の投稿が相次いだという記事は興味深かった。「闘魂の猪木が遺したこの言葉元気があれば何でもできる」(静岡・半田豊)、「カラーテレビがついにわが家に来た夜に出たぞ猪木のコブラツイスト」(愛媛・村上敏之)、「猪木馬場茶の間にプロレス流れてた昭和は二つ前の元号」(広島・森浩希)、「死ぬるまで燃ゆる闘魂星流る」(長野・懸展子)、「闘病の燃える闘魂一葉落つ」(福島・佐藤茂)…。やがて10月1日は「闘魂忌」という季語になるのだろう。

 ザ・ドリフターズで活躍した仲本工事が10月19日に死去、81歳。本名は仲本興喜。前日の18日午前に横浜市で交通事故にあって重体というニュースが流れていた。僕はザ・ドリフターズもあまりよく知らない。何と言っても「8時だヨ!全員集合」ということになるが、僕はこのテレビ番組を見ていないのである。テレビは一家に一台の時代で、親が見ない番組は子どもは見られない。だけど、メンバーの名前は知っていた。5人というか、6人の名前は言えるのである。
(仲本工事)
 今回調べて、都立青山高校から学習院大学へ進んだという経歴を知った。ずっと体操を続けていて、都大会でも2位になったとウィキペディアに出ていた。しかし、大学に体操部がなく、音楽に進んだという。だから、後々器械体操のギャグで知られるようになったわけである。ザ・ドリフターズと言えば、ザ・ビートルズの公演の前座を務めたグループである。後にはコメディアンというイメージが強くなったが、もともとは音楽グループだった。
(ザ・ドリフターズ)
 いかりや長介が2004年に亡くなり、そして2020年に志村けんが亡くなったわけである。仲本工事の最後の公式行事は「志村けんの大爆笑展」を訪れたことで、その時の写真をツイッターに投稿したという。最後は加藤茶と高木ブーの二人となった。
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