岩波新書5月刊の蓮池薫『日本人拉致』を読んだ。早く書くつもりが都議選を書いていて遅れてしまった。大事な本だから少し忘れかけているが書いておきたい。言うまでもなく蓮池薫さんは「北朝鮮」(この本に従って以後はカッコを付けずに書く)による拉致被害者である。事件は1978年7月に起こり、奥土祐木子さんとともに北朝鮮に拉致された。そして、2002年9月の小泉(純一郎)首相訪朝後の2002年10月に帰国した。その時点では「一時帰国」とされ、北朝鮮には二人の子どもが残っていたが、後に2004年5月に子どもたちも帰国した。もう20年以上前になるから、若い人だと拉致事件を良く知らない人もいるかもしれない。
蓮池薫さんは当時中央大学法学部在学中で、帰省中の新潟県柏崎市で拉致された。その頃日本各地で拉致事件が頻発していた。蓮池薫・祐木子夫妻とともに同時に帰国したのは、地村保志、(濱本)富貴惠夫妻と曽我ひとみさんだが、帰国後に翻訳などで活動した人は蓮池さんだけである。現在は柏崎にある新潟産業大学教授を務めていて、北朝鮮による拉致事件の内情を書き残す人は事実上蓮池さんしかいないだろう。この本は雑誌『世界』2023年1月号から2025年1月号に掛けて隔月に掲載されたものという。この間諸事情から公にしなかった当時の生活を、もう隠すべきことはないと書き綴ったのが本書である。
拉致問題に関しては幾つも疑問があるが、中でも多くの人は以下の2点について蓮池さんの見解を知りたいだろう。まず最初は北朝鮮は拉致問題を「解決済み」とするが、日本政府は小泉訪朝時に示された「8人死亡」に疑問を示している問題。もう一つは「なぜ拉致事件が起こされたのか」という根本問題。前者については「8人死亡」は事実とは認められないとする。死亡とされた時期以後に横田めぐみさんを目撃しているからである。「よど号」グループの事件関係者など接点がなかった人もいるが、全体的に死亡時期や埋葬(その後の水害による墓地被害)などは疑わしいことばかりだという。本書を読めば概ね納得出来ると思う。
2002年に当初「一時帰国」を許された人たちは、蓮池夫妻、地村夫妻、曽我ひとみさん(元米兵ジェンキンスさんとの間に子どもがいた)と、全員が北朝鮮に「人質」を残して日本に来たのである。そういう条件がある人だけが選ばれて、「生存拉致者」として帰国を許されたと蓮池さんは推測する。それは当時の北側当局者とのいろいろなやり取りからの推測である。当時はキム・ジョンイル(金正日)国防委員長(朝鮮労働党総書記)が拉致を認めるとは想定されてなく、ボートで遭難していたところを救助されたなど様々な荒唐無稽なストーリーを練習させられたという。しかし、首脳会談でトップが認めたことでもう必要なくなった。
そういうことを考え合わせると、「一時帰国」を許しても大丈夫そうな(「人質」がいる)被害者を選び、事前に想定問答を繰り返して「救助されて感謝している」と日本で言えるような人のみ「生存を認めた」と想定しても無理がない。実際にどうだったかは完全には判定出来ないけれど、北朝鮮側の主張には多くの問題があり信用出来ないというのは認められると思う。2002年当時8人全員が生存していたのか、その後の20年を経て今も全員生存しているかなどは、僕にはなんとも言えない。しかし間違いなく当時の北側の説明には疑問が多い。それが北朝鮮社会に暮らさざるを得なかった蓮池薫さんの実感なのである。
なんで拉致されたかは、もちろん朝鮮労働党関係者じゃないと完全には判明しない。しかし、当初「工作員」教育も受けたところから、工作員リクルートだった可能性はある。後にそれは無理と理解して(拉致されてきた人を「外国」で工作員に当たらせるのは「危険」が大きい)、工作員への日本語教育をさせられる。その相手も多様であり、全員が全員党に献身的で工作員教育に燃えているかというとそうではないことが判る。その後、翻訳業務などに移るが、「まず拉致ありき」だったらしいとする。
当時は日本人だけでなく、韓国人など多くの拉致事件が起きていた。レバノン人拉致事件はレバノン政府が強硬に抗議して帰国している。日本でも未遂事件や犯行が判明した事件が事前にあったという。それを警察が公表して危険性を明らかにしていれば、防げた可能性があるという。しかし、日本警察は公安的発想から「日本側の捜査能力を知られることになる」として、当時マスコミ等に明らかにしなかった。その意味で防げた事件だったのである。その後10年以上経ってから、「謎のアベック失踪事件」が少しずつ取り上げられるようになった。北朝鮮側の拉致とする見方を否定する人もいたが、僕は当初から疑ったことはない。
この本で一番恐ろしいことは、「独裁下を生きるということ」という最終章に書かれている。いや、もちろん拉致そのものが恐ろしい権力犯罪なわけだが、北朝鮮にはそれなりの「日常」がある。担当が変わるたびに指示が変わって右往左往する。野心的な室長がトップになると大変である。北朝鮮は「命を賭けた政争」の国だからである。拉致被害者といえども、同じ社会に生きていて、子どもには真実を明かせない以上、順応して行かざるを得ない。これは北朝鮮に限らないだろう。「独裁下を生きる」こととはどういうことか。我々の想像力を鍛えるためにも必読の本だろう。