goo blog サービス終了のお知らせ 

尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

蓮池薫『日本人拉致』(岩波新書)を読むー独裁下を生きるということ

2025年07月01日 21時12分15秒 |  〃  (国際問題)

 岩波新書5月刊の蓮池薫日本人拉致』を読んだ。早く書くつもりが都議選を書いていて遅れてしまった。大事な本だから少し忘れかけているが書いておきたい。言うまでもなく蓮池薫さんは「北朝鮮」(この本に従って以後はカッコを付けずに書く)による拉致被害者である。事件は1978年7月に起こり、奥土祐木子さんとともに北朝鮮に拉致された。そして、2002年9月の小泉(純一郎)首相訪朝後の2002年10月に帰国した。その時点では「一時帰国」とされ、北朝鮮には二人の子どもが残っていたが、後に2004年5月に子どもたちも帰国した。もう20年以上前になるから、若い人だと拉致事件を良く知らない人もいるかもしれない。

 蓮池薫さんは当時中央大学法学部在学中で、帰省中の新潟県柏崎市で拉致された。その頃日本各地で拉致事件が頻発していた。蓮池薫・祐木子夫妻とともに同時に帰国したのは、地村保志、(濱本)富貴惠夫妻と曽我ひとみさんだが、帰国後に翻訳などで活動した人は蓮池さんだけである。現在は柏崎にある新潟産業大学教授を務めていて、北朝鮮による拉致事件の内情を書き残す人は事実上蓮池さんしかいないだろう。この本は雑誌『世界』2023年1月号から2025年1月号に掛けて隔月に掲載されたものという。この間諸事情から公にしなかった当時の生活を、もう隠すべきことはないと書き綴ったのが本書である。

 拉致問題に関しては幾つも疑問があるが、中でも多くの人は以下の2点について蓮池さんの見解を知りたいだろう。まず最初は北朝鮮は拉致問題を「解決済み」とするが、日本政府は小泉訪朝時に示された「8人死亡」に疑問を示している問題。もう一つは「なぜ拉致事件が起こされたのか」という根本問題。前者については「8人死亡」は事実とは認められないとする。死亡とされた時期以後に横田めぐみさんを目撃しているからである。「よど号」グループの事件関係者など接点がなかった人もいるが、全体的に死亡時期や埋葬(その後の水害による墓地被害)などは疑わしいことばかりだという。本書を読めば概ね納得出来ると思う。

(一時帰国した蓮池さんら5人)

 2002年に当初「一時帰国」を許された人たちは、蓮池夫妻、地村夫妻、曽我ひとみさん(元米兵ジェンキンスさんとの間に子どもがいた)と、全員が北朝鮮に「人質」を残して日本に来たのである。そういう条件がある人だけが選ばれて、「生存拉致者」として帰国を許されたと蓮池さんは推測する。それは当時の北側当局者とのいろいろなやり取りからの推測である。当時はキム・ジョンイル(金正日)国防委員長(朝鮮労働党総書記)が拉致を認めるとは想定されてなく、ボートで遭難していたところを救助されたなど様々な荒唐無稽なストーリーを練習させられたという。しかし、首脳会談でトップが認めたことでもう必要なくなった。

 そういうことを考え合わせると、「一時帰国」を許しても大丈夫そうな(「人質」がいる)被害者を選び、事前に想定問答を繰り返して「救助されて感謝している」と日本で言えるような人のみ「生存を認めた」と想定しても無理がない。実際にどうだったかは完全には判定出来ないけれど、北朝鮮側の主張には多くの問題があり信用出来ないというのは認められると思う。2002年当時8人全員が生存していたのか、その後の20年を経て今も全員生存しているかなどは、僕にはなんとも言えない。しかし間違いなく当時の北側の説明には疑問が多い。それが北朝鮮社会に暮らさざるを得なかった蓮池薫さんの実感なのである。

(横田めぐみさん)

 なんで拉致されたかは、もちろん朝鮮労働党関係者じゃないと完全には判明しない。しかし、当初「工作員」教育も受けたところから、工作員リクルートだった可能性はある。後にそれは無理と理解して(拉致されてきた人を「外国」で工作員に当たらせるのは「危険」が大きい)、工作員への日本語教育をさせられる。その相手も多様であり、全員が全員党に献身的で工作員教育に燃えているかというとそうではないことが判る。その後、翻訳業務などに移るが、「まず拉致ありき」だったらしいとする。

 当時は日本人だけでなく、韓国人など多くの拉致事件が起きていた。レバノン人拉致事件はレバノン政府が強硬に抗議して帰国している。日本でも未遂事件や犯行が判明した事件が事前にあったという。それを警察が公表して危険性を明らかにしていれば、防げた可能性があるという。しかし、日本警察は公安的発想から「日本側の捜査能力を知られることになる」として、当時マスコミ等に明らかにしなかった。その意味で防げた事件だったのである。その後10年以上経ってから、「謎のアベック失踪事件」が少しずつ取り上げられるようになった。北朝鮮側の拉致とする見方を否定する人もいたが、僕は当初から疑ったことはない。

 この本で一番恐ろしいことは、「独裁下を生きるということ」という最終章に書かれている。いや、もちろん拉致そのものが恐ろしい権力犯罪なわけだが、北朝鮮にはそれなりの「日常」がある。担当が変わるたびに指示が変わって右往左往する。野心的な室長がトップになると大変である。北朝鮮は「命を賭けた政争」の国だからである。拉致被害者といえども、同じ社会に生きていて、子どもには真実を明かせない以上、順応して行かざるを得ない。これは北朝鮮に限らないだろう。「独裁下を生きる」こととはどういうことか。我々の想像力を鍛えるためにも必読の本だろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『ルノワール』、揺れ動く思春期の生を見つめる秀作

2025年06月30日 21時25分19秒 | 映画 (新作日本映画)

 早川千絵監督の『ルノワール』が公開された。早川監督は長編映画デビュー作『PLAN75』がカンヌ映画祭「ある視点」部門新人監督賞特別表彰を受けて注目された。そして第2作の『ルノワール』は早くもカンヌ映画祭コンペティションに選ばれた。無冠に終わったが、今年の注目作に間違いない。地方都市(クレジットで岐阜で撮影されたと判る)に住む沖田フキ鈴木唯)は母親(石田ひかり)と父親(リリー・フランキー)と暮らすが、父親はいま入院中である。感受性豊かなフキはこの父の入院を通して、「大人の世界」に足を踏み入れていく。映画はその様子を1987年の「ある少女のひと夏」として提示する。

 冒頭がよく理解出来ないと思うと、それは夢だった。続いて学校で作文を朗読しているが、それは「みなしごになってみたい」という作文で、母親が学校に呼ばれてしまう。母は「勝手に親を殺すな」と叱るけど、フキにはほとんどこたえない。このフキを演じる鈴木唯(2013~)が実に見事で、驚くべき存在感で思春期の入口に佇む不安感を見せている。監督は影響を受けた映画として『ミツバチのささやき』『お引越し』『ヤンヤン夏の想い出』を挙げているが、特に相米慎二監督『お引越し』を思い出す作品。

(主人公を演じる鈴木唯)

 父が入院中だが、母は管理職になって多忙。父親はガンなので、特効薬を求めて怪しい療法に手を出したり、いろいろと大変だ。一人でいることが多いフキは、子どもの目で大人世界を探っている。マンションにいる女性(河合優実)と知り合うと、彼女の大変な話を聞く。英会話教室に通っていて、そこで知り合った友だちの家に行くと自分の家と全く違うのに驚くが、彼女も引っ越していく。そんな時に「伝言ダイアル」の存在を知り、つい電話してしまったりする。ちなみに「伝言ダイアル」は1986年から2016年までNTTが提供していたサービスで、固定電話からしか利用出来ない。「出会い系サイト」的に使われたケースも多かった。

(病床の父と)

 母もいろいろあることを娘は感じ取るが、忙しい母親とはなかなか話す時間もない。夏休みにキャンプファイアに行くとやはり楽しいけれど、家に帰るとふっと電話してつながった相手に会いに行ってしまったり。まさに揺れる少女の心をエピソードのつながりで、点描していく。題名はフランス印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールのことで、作中で主人公の少女フキが「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」を買って貰うエピソードがある。そこからこの映画も「印象派」的な作品とする論評もある。

(石田ひかりの母と)

 先に挙げた『お引越し』は、両親が離婚する家庭を娘の視点で描いた。一方『ルノワール』は「父の不在」を娘だけでなく周囲にも視野を広げて見つめる。ただ原作のある『お引越し』の方が物語的にはまとまっていて、『ルノワール』はエピソード羅列的になっている。どっちが上とは決められないが、僕はフキが揺れながらも、どう変貌していったか、もう少し知りたいと思った。映画は詩的な映像を提示して観客に想像して貰う作り方。『国宝』『フロントライン』の重量級の圧倒的な物語を見てしまうと、幾分淡彩に見えるのは否定できない。そこが観客動員にも影響しているかもしれない。(あまりヒットしてない感じ。)

(カンヌ映画祭で)

 前作『PLAN75』は興味深い映画だったが、ここでは紹介しなかった。高齢者の描き方に納得出来なかったのである。製作当時80歳を越えている倍賞千恵子を75歳役に起用していたが、まだまだ元気そうで設定に納得出来なかった。今回の『ルノワール』は洗練の度合いが上がって違和感なく見られるが、鈴木唯の存在感をどう生かすかという観点では、『お引越し』の田畑智子の方が印象に強い。才能ある監督であることは間違いないので、今度は原作ものか自作じゃない脚本で撮ってみて欲しい気がする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家から近い中学校、文学と映画の目覚めー僕の東京物語⑥

2025年06月29日 21時38分19秒 | 自分の話&日記

 「僕の東京物語」第6回は中学時代足立区立第十四中学校というのが、僕の通った中学校である。今学校の写真を撮るのは難しいので(球よけネットで覆われているし、部活動などをしている生徒がいると撮りにくい)、都議選の日に撮ってみた。旅行から帰った翌日で、朝起きたら食べる前に早く行ったのである。朝ならまだ暑過ぎないし部活もやってないだろう。家から30秒だから、そういうことも可能なのである。体育館で投票後、外に出ると校庭から校舎が一望出来たのである。

 

 1947年の新学制で中学校が設置されたときに、東京では単に順番で校名を付けた地区が多い。足立区でもその後の新設中学は地名を付けている。調べてみたら、二中や三中などすでにない学校もあり、近隣中学と統合されるときは地名が付くようだ。中学時代はそういうもんだと思っていたから疑問も持たなかったが、後に高校教員になって入選業務を担当すると、他区にもナンバースクールがあるので区別しにくいなと気付いた。僕の幼児期に中学が火事になった記憶があるが、調べてもよく判らない。

 今は部活動などで活躍していて、よく新聞でも見かける。僕の時代は半世紀以上も前になるが、北の方で唯一の中学だった。今は「日暮里舎人ライナー」が通る一帯には中学がなく、西北部の小学校を出た生徒は自転車通学が認められていた。しかし、僕の場合は小学校が徒歩10分以上かかったのに対し、何しろ裏門まで30秒、そこから教室までの方が5倍ぐらい遠かった。ルール上は8時半までに校門を通れば遅刻じゃなかったので、当時は8時15分からだった朝ドラを見てから登校しても間に合った。

(体育館が投票所)

 この「家から30秒」は便利だけど良くなかった。大体間に合うから時間厳守意識が薄くなり、逆に時間にルーズになる。遅刻癖が付いてしまい、後に直すのに苦労した。「放課後の道草」というのも不可能である。多くの人は中学時代に、部活動の思い出とか、初恋の思い出とか、進路の悩みなどを思い出すんだろうと思う。しかし、僕にはそういうのがなかった。当時はまだ「部活動」といわず「クラブ活動」だったけど、当時から地理や歴史に詳しいことになっていて、一応「社会科クラブ」なんてのには名を連ねていたと思うけれど、ちゃんと活動はしなかった。他のスポーツ系や文化系クラブにも入ろうという気はなかった。

(夕方の学校)

 というのも、小学生時代の「鬱屈」を抱えて中学生になったからである。田園地帯だった小学校の周りはあっという間に開発されて、遊び場が無くなっていった。それはまあ仕方ないが、実は小学校時代に幼いながら好意を持っていた女の子がいて、その子が転校してしまったのである。しかもそれが続いた。「僕が誰かを好きになると、いなくなってしまう」のである。これはこたえた。その後、中学時代に誰も好きにならなかったのはそのためだと思う。そして、このことが自分を「行動派」ではなく、一歩引いて周囲を見てしまう「観察派」にした最大要因になったと思う。だから、僕は中学時代に「文学少年」になったのである。

(十四中の正門)

 つまり、単に読書が好きというのではなく、「自分」を見つめると言うか、「自我」の問題として本を読むようになった。それは60年代末の時代風潮、ヴェトナム戦争や「チェコ事件」、ニュースでやってる「大学紛争」などの影響もある。塾に行くようになり、その帰り道が「放課後」だった。ある夜、新校舎建設中の学校に入り込んだ思い出もある。何か忘れ物があったのである。建設現場からすぐ校舎に入り込めた。警備会社がいるという時代じゃなく、そんなことも可能だったのだ。家に帰ったら、ラジオの深夜放送を聞いた。そして内外の最新音楽や映画の情報を得て、僕は映画少年にもなっていったのである。

(活躍する生徒が何人も!)

 「鬱屈」していた僕は、多分余り素直じゃない少年だった。後に教員になって、こういう感じだったかなと思う生徒が何人かいた。内面的にも、また時代風潮としても、すべては「諸行無常」という思いだったのである。そんな僕に面白かったのは、中学3年の頃から見始めたアメリカ映画、いわゆる「アメリカン・ニュー・シネマ」だった。高校は一応幾つか私立も受けているが、「紛争」後に自主ゼミを始めた上野高校に行きたかったから、普通に勉強してれば確実と踏んでいた。「学校群制度」だったから、上野じゃなく白鴎に振り分けられたのも、僕の「諸行無常」感を強めた。不運に取り憑かれていたというのが僕の実感だった。

 中学2年の時に新規採用の先生が担任になった。その先生は僕らを卒業させたら、辞職してイギリスに留学した。戻ってきたら高校の試験を受けて、都立高校の教員になった。後に僕が卒業した白鴎高校にも勤務したし、僕が墨田川高校の定時制課程に勤めていた時には、同じ高校の全日制に異動してきた。そういう因縁もあるし、中学時代ももっと別の語り方も出来ると思うんだけど、自分自身で思い出す中学時代は「不運な時代」で、学校外で本や映画に触れ始めた思い出の方が強いのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「生活保護減額訴訟」最高裁判決と死刑執行再開ーそれは何故同じ日だったのか?

2025年06月28日 21時16分16秒 | 政治

 2025年6月27日(金)に、大きなニュースが二つあった。「生活保護減額訴訟」の最高裁判決と2022年7月26日以来の死刑執行再開である。28日の主要新聞朝刊はこの2つを一面で大きく取り上げている。生活保護訴訟に関しては、5月4日に『生活保護基準引き下げ違憲訴訟ー注目される最高裁の判断①』を書いたので、それを参照。一方、死刑制度に関しては、『死刑執行がなかった2023年』や『日本の死刑制度をめぐる動きー「懇話会」の提言、国連人権委の特別報告』などの記事を書いてきた。

(最高裁判決を伝えるニュース)

 僕は昔からの死刑廃止論者なので、このまま日本も多くの諸外国と同様に「死刑執行の長期停止」から「死刑制度廃止」へと進んで行けば良いと考えていた。しかし、日本政府は死刑制度護持に固執していて、法務省に死刑制度を本格的に議論しようという方向性は見えなかった。従って、遠くない時期に死刑執行が再開される可能性は高いと思っていたが、それは参院戦後の7月下旬の可能性が高いと踏んでいた。6月の執行は10年間なく、7月下旬や8月上旬が多い。前回、前々回の参院選の年もそうだった。

 ここで「死刑執行再開の本格的批判」や「最高裁判決の本格的分析」は行わない。ただ、僕がどうしても書いておきたいのは、「なぜこの二つが同じ日だったのか」ということである。当初は単なる偶然だと思っていた。しかし、テレビニュースを見ていて、必ずしもそうではないのではないかと思った。最高裁判決は早くから決まっていた。裁判の判決は原告、被告双方の出廷を要するから、事前に日時が定められている。今回の判決は大ニュースだから、事前にマスコミ報道され僕も知っていた。

 一方、死刑執行は法務大臣が命令して5日以内に行われる。拘置所も役所だから、土日は閉庁日なので執行はない。だから、月曜日にサインすれば概ね金曜日に行われるだろう。死刑執行日は極秘裏に操作可能なのである。都議選で自民が惨敗した翌日、参院戦の直前に死刑を命令するとは、僕には想定できなかった。まあ参院選で自民党が惨敗し、そのまま首相退陣にでもなってしまえば、またも執行が出来なくなると強硬に法務官僚が迫ったという想定も可能なのかもしれないが。

 しかし、27日の最高裁判決に合わせたいという思惑はなかっただろうか。最高裁判決は4対1の多数意見だが、少数意見は「賠償も認めるべき」(宇賀裁判長)というものなので、「減額措置が違法なものだった」という判断は全員一致である。法律のプロとして、負けそうだという判断は法務省には可能だろう。この「生活保護減額」は自民党が政権復帰するときの公約だった。安倍政権の政治判断が12年経って裁断されたのである。だから、他の大きなニュースに隠れて目立たなくなると嬉しいはずだ。

(死刑執行再開のニュース)

 そして、たまたま最近はほぼ見てないNHKの7時のニュースを見ていたら、「今日伝える6つの主要ニュース」に最高裁判決が入っていないのである。「和歌山のパンダが明日中国に返還される」とか「大谷が今日もホームランを打った」というニュースが入っているのに。確かに少しは報道していた。しかし、ただ判決の表面を報道するだけで、安倍政権時代の政治的問題には触れなかった。一方「死刑執行」はトップニュースだった。しかし、死刑制度は世界的に廃止国が多く、ヨーロッパ諸国からは批判されているという報道はなかった。SNSで犯罪に巻き込まれる事件がいっぱいあり、皆さん注意しましょうという報道だけだった。

 しばらく執行がなかった最大の原因は「袴田事件」だろう。無罪判決が確定して、冤罪は恐ろしいという世論は強いが、冤罪可能性があるから死刑制度はなくすべきだという世論は必ずしも高くなっていない。だから「完全に冤罪可能性がない」「被害者数が非常に多い」「死刑制度がある以上死刑判決しかありえない」死刑囚が、次の執行対象に選ばれるのは想定できる。その場合、今回の「座間事件」の死刑囚が「選ばれる可能性」が非常に高いのは予測していた。

 NHKが今やどこまできちんとした報道機関と呼べるのかという疑問はあるが、犯罪内容の恐ろしさだけ強調する報道を繰り広げ、そしてパンダのニュースに移る。やがて最高裁判決のニュースを少し報じる。これが狙ったものかどうかは判定出来ないが、政権側に取って非常に都合の良い報道だった。まあ今やテレビのニュースだけしか見てないという人はほとんどいないと思うけど。とにかく政権側は死刑執行再開は参院選に不利にならない(むしろプラスになる)と思っているのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『中山教頭の人生テスト』、小学校のリアルを描く

2025年06月27日 21時45分09秒 | 映画 (新作日本映画)

 『中山教頭の人生テスト』という映画の紹介。渋い脇役が多い渋川清彦が本格主演した「学校映画」の佳作。上映が少なく別にいいやと思っていたが、墨田区にあるStrangerという小さな映画館でちょうど良い時間にやってるのを見つけた。ある意味この映画は『フロントライン』の反対の映画で、今の小学校のリアルを気味悪いぐらい伝えている。監督・脚本を務めた佐向大(さこう・だい)は以前に『教誨師』(2018、キネ旬ベストテン10位、大杉漣の遺作)を作った人。

 「教頭」と言うんだから、これは東京の映画ではない。(東京は全員「副校長」である。)舞台になるのは山梨県南部の富士川町で、「地方」だからノビノビした環境で小学生が生き生きと勉学に励んでいる、かと思うと最後まで見るとやはり全国どこも同じだった。ある小学校に勤める中山教頭渋川清彦)は校長試験を受けようとしているが、校長が推薦状を書いてくれない。登下校の児童がうるさいといつも苦情の電話を掛けてくる住民がいる。理科室の蛍光灯が切れて今日は用務員が休暇だから何とかしてくれとか、体育館の外部開放がダブル・ブッキングしているとか何でもかんでも「教頭」のところに持ち込まれる。

(中山教頭)

 5年1組には、いま大きな問題があった。担任の椎名先生高野志穂)が地域行事でちょっとトラブって、鷹森校長(石田えり)が担任を外す処置を取ったのである。校内に代われる教師がいなくて、新しく若い黒川先生を採用したらしい。この黒川の学級運営が厳格すぎて生徒も萎縮している。保護者からは早く椎名先生に戻して欲しいと何度も要望されるが、頑として認めない。その5年1組で「いじめ」「不登校」などのトラブルが発生して、校長が黒川を叱責すると今度は黒川先生が登校しなくなってしまった。そこで椎名先生を戻すかと思いきや、なぜか絶対認めない校長は中山教頭に臨時担任を命じたのである。

(教頭、椎名先生が児童の話を聞く)

 これはいかにもムチャである。ほとんど校長のパワハラ。そもそも冒頭の朝礼シーンで校長のあいさつを見た瞬間に、この校長には問題あるぞと僕は見抜いた。若い教師には「ルール絶対視」「ゼロ・トレランス」的な対応を取る人もいるかもしれない。しかし、臨時採用の若い教員(なんだと思うが)の学級運営には校長は気を配る必要があり、支援と指導を欠かしてはいけない。保護者から問題を指摘されたら、「授業観察」を行って適切な助言を行う必要がある。僕の見る限り黒川先生の授業は異常である。

(自転車で通う中山教頭)

 5年1組で男児の「ケンカ」があり、事情を聞いた子の父親が「我が子が疑われた」と乗り込んでくる。また別の児童の机からお菓子の包み紙が見つかる。その女児は母子家庭で今までも親が学校に非協力で大変だったが、その時は学校を出てそのまま不登校になった。中山教頭はますます多忙を極め、校長試験の勉強も出来ない。数年前に妻を亡くし、その時は事故の知らせを受けながら授業を優先してしまい、一人娘とは今もギクシャクしてしまう。その不登校女児はその後外部で問題を起こし、校長はある決断をする。周囲も驚くが、僕もこの処置は常識外れだと思った。校長のリーダーシップには問題がある。

 まあ何の問題もない良い学校は、ドキュメンタリー映画ならあるかもしれないが、劇映画である以上何らかの問題発生は予想通りである。題名からしても、映画内では教頭先生が大変な目にあうと予想できる。実はここに前校長、今は教育長(風間杜夫)が裏で暗躍していて、現校長をバカにして中山に早く校長になれ、俺がなんとかしてやるとけしかけている。そういう所は地方の教育事情かもしれない。中山の家庭事情をはさみながら、ついに椎名先生がこのクラスに潜む問題の根本を突きとめる。まさに子どもの世界は奥深く、なかなか大人からは見えないものである。それは教員の力量には無関係だと思うが、学校にも問題があった。

 映画というか、どうしても教員事情に関心が向いてしまう。僕は小学校教員の経験はないけれど、「組織としての学校はどうあるべきか」には共通性があると思う。あいさつを繰り返させるが、それは良いけれど自分もきちんと大声であいさつしなければ。児童・生徒にだけあいさつを求めるのは教師失格である。理科室で教頭が蛍光灯を取り替えているのに、授業を続けている黒川先生も不可解。若いんだから自分でやれよ。(ちなみに僕は見回り中に切れている蛍光灯があれば、自分で取り替えていた。)

 それにしても「良い子」には裏があることも多く、僕も手こずったことがある。20代、30代ぐらいだと、若いというだけで教師が子どもとすぐ仲良くなれる側面もあるが、子どもの世界を見抜くには経験不足のことがある。最初にこの映画は『フロントライン』と反対と書いた。新型コロナウイルスという未曾有の新事態に、今までと同様の対応では対処不可能な現実が生じ、それにいかに向かい合ったかが『フロントライン』という映画。一方、『中山教頭の人生テスト』はルールが確立されている学校という職場で、ルールだけでは対応出来ない事態が起こったときに「間違った」(法的には間違っていないが、実際は不可解)対応を取る。

 目の前の人間に真剣に向き合うことがまず何よりも大切だと改めて思った。しかしながら、映画の展開はやり過ぎで、全体的な完成度を犠牲にしている。「佳作」にとどまるかと思うので、多くの人に勧めるわけではない。ただ小学校に勤める人、小学生の子どもを持つ人、全般的に教育に関心を持つ人は見て損はないと思う。それにしても、全国どこも同じだなあと思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『フロントライン』、学ぶこと多い「コロナ禍」実話の映画化

2025年06月26日 21時22分55秒 | 映画 (新作日本映画)

 2025年は最近にない日本映画の大豊作年になっている。完成度の高いオリジナル脚本の実写映画が多いのが素晴らしい。最近では『国宝』が大ヒットして、僕が書いた記事もずいぶん読まれているが、吉田修一の原作である。(文庫で2巻と長いけど、スラスラ読めるから是非読んで欲しい。)そんな中で、『フロントライン』(関根光才監督)も忘れちゃいけない。2020年2月に横浜港に接岸したクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号で起こっていた実話を丹念な取材で再現した映画だ。何だかもう思い出したくない気もする題材。自分でも見たくないような気もあったが、見逃さなくて良かったと思った。学ぶことが多い映画

 まあ大体の人はそれなりに覚えていると思うが、2019年暮れに中国・武漢で「謎の肺炎」が発生した。その後世界に広がっていくのだが、日本ではダイヤモンド・プリンセス号で船客の中に感染者が出たというニュースが初の事態だった。3千人もが乗る大クルーズ船で何が起こっていたのか。そして、患者の対応にあたるとともに、水際でウイルス流入を防ぐ役割を誰が担ったのか。当時は知っていたのかも知れないが、僕はもう初耳みたいなことが多く、初期対応に当たった「DMAT」の隊員の活躍に頭が下がった。「ディーマット」というのは、災害派遣医療チーム(Disaster Medical Assistance Team)のことである。

 神奈川県庁に集まった神奈川DMAT調整本部長の結城小栗旬)に厚労省官僚の立松松坂桃李)が出動をお願いする。「DMAT」の出動案件には災害や事故はあったが、感染症拡大は想定されていなかった。結城は当初難色を示すが、立松から「誰かにお願いするしかないんですよ」と言われて出動を決断する。「3・11」でも共に活動した仙道窪塚洋介)は船に乗り込んでリーダーシップを発揮する。また岐阜から参加の真田池松壮亮)は妻子を置いて参加したが、妻には絶対に自分のことを周囲に言うなという。この4人の男優の丁々発止が見どころで、近年にない「男のドラマ」。犯罪や政治じゃなくても、これほど濃密なドラマが作れる。

 次第に広がる感染者、長引くとともにコロナ以外でも疾患を持つ高齢者の不調が多くなっていく。船内の不満は高まるが、それらは今ではSNSで拡散されていく。マスコミは横浜港に集結し、船に出入りする人々の一挙手一投足を追いかける。そんな中で、あくまでも人命救助を最優先する結城と、ウイルスを国内に持ち込ませまいとする立松のせめぎ合いが激しくなる。この2人、つまり小栗旬と松坂桃李の演技合戦が凄い。人はなぜ医者になったか、なぜ官僚になったか、それぞれの生き方がぶつかり合い、やがて双方の理解も進んで行く。そこが最大の見どころで、福祉や教育など人と関わる職にある人は是非見るべきだ

(クルー役の森七菜)

 以上の人々には皆モデルがあり、取材を重ねて作られた。そのような「実話」を映画化したものだから、当然ながら日本社会の現実を反映して対策会議の出席者は男性ばかり。男性医師は子どもを妻に託してDMATに参加している。実話だから、どうしてもそうなってしまうのだが、そんな中で強い印象を残すのがクルーの羽鳥寛子森七菜)である。あるアメリカ人夫妻の対応にあたるが、これもモデルがあるという。是非映画で見て欲しいのでエピソードの内容は書かないが、一体どう決着するんだろうかとドキドキする。それだからこそラストの展開には感動するのである。雌伏数年、ついに「森七菜に助演女優賞を」と言える映画が現れた。

 この映画は「現場で医療に携わる人たちの努力」が印象的で、マスコミは批判的に描かれる。また政権内部の動き、医療界の動きなどは出て来ない。官僚は立松しか出て来ないので、全部彼がやっていたかのようだがそんなわけない。乗客やクルーも(当然だけど)印象的な数人しか出て来ない。当時は厚労省の対応など相当批判されたように思うけれど、前代未聞のパンデミックに際して準備不足の中、現場の努力で持ちこたえたという描き方である。僕はこの描き方がどこまで適切なものなのか判断出来ない。しかし、エンタメ映画として成立しつつ、実話の映画化をよくも成功させたものだと感心した。日本では珍しいと思う。

 企画・製作・脚本は増本淳で、元フジテレビのプロデューサーで今はフリーの脚本家だという。福島第一原発事故を扱ったNetflixの連続ドラマ『THE DAYS』(2023)を作っている。監督は『生きてるだけで、愛』の関根光才監督。実際のダイヤモンド・プリンセス号が撮影に使われたというネット記事もあったが詳細は知らない。明らかにセットじゃ出来ない映像が素晴らしい。

 たった5年前のことなのに、僕はずいぶん忘れていた。多くの人もそうだろう。世の中には「白」と「黒」の間のグレーの領域がかない多い。そういう現実にぶつかったとき、その人の本質が露わになる。医者じゃなくても、この映画を見ると「自分は何のために生きているのか」「何のために仕事をしているのか」と自問し、「初心忘るべからず」とつぶやくのではないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都議選、台頭する「排外主義」、危険な「日本人ファースト」の発想

2025年06月25日 21時37分04秒 |  〃  (選挙)

 2025年の都議選で「参政党」が3議席を獲得した。4選挙区で立候補して、3勝1敗の成績。もう少し詳しく見ると、大田区(7人区)で4位、世田谷区(8人区)で2位、練馬区(7人区)で3位で当選し、八王子市(5人区)では7位で落選した。これを見ると、大規模な選挙区でまず擁立する堅実な戦略を取ったわけである。そして、23区周縁部の3つの選挙区では上位当選した。多摩西部の八王子(萩生田光一の地元)では落選だったが、それでも2万票取っていて、最下位当選者とは2千票差だった。

(参政党の当選議員)

 参政党は3年前の参院選で神谷宗弊議員が当選し、2024年の衆院選では3議席を獲得した。都議選では「減税」や「コメ」問題などを取り上げて、都議選期間のYouTubeの政党検索数トップだったという。最近行われた地方選挙では尼崎や鎌倉の市議選で当選するなど、「地道な活動」により全国政党化が進んでいる。もともと強烈なナショナリズム、「日本人ファースト」という主張で知られ、参院選の公約でも「外国人総合政策庁」を設立して「外国人参政権は一切認めず、帰化一世にも被選挙権を付与しない」などと人権無視の公約を明記している。なかなか注目すべきことも言ってるけれど、基本は「極右政党」だろう。

 ところで今回の都議選最大のサプライズは、間違いなく千代田区佐藤沙織里候補の当選である。35歳の無所属新人で公認会計士と出ている。ここは政争・スキャンダルの多い地区で、2021年の区長選では「都民ファーストの会」の現職都議だった樋口高顕氏が自公推薦候補を破って当選した。2025年2月の区長選で樋口氏が再選されている。その時の区長選で次点だったのが佐藤氏だった。樋口氏に代わって4年前に都議に当選したのは、板橋区から移ってきた平慶翔(たいら・けいしょう)だった。

(当選した佐藤氏)

 平慶翔はタレントの平愛梨の弟、平祐奈の兄にあたる(つまりサッカー選手長友佑都の義弟)こともあって、知名度が高い。自民党も候補を立て、情勢報道を見ても両者の争いとなっていた。ところが実際に票を開けてみると佐藤(7,232票)、平(6,986票)、林(自民=6,134票)とギリギリ246票差の勝利である。今回の全都的傾向からは、平圧勝でもおかしくないわけだが、何で佐藤沙織里氏が当選したのか。区長選から半年も経ってなくて知名度があったのかもしれないが、ネット上で大騒ぎになっている。

(2025千代田区長選の結果)

 さて、この佐藤氏の主張が「日本人ファースト」なのである。チラシがネット上にあったので見てみると、この人は税理士でもあって「減税」の主張が一番大きい。「もしお金のプロ(公認会計士、税理士)が都議になったら」と(まあ無所属1人で都民税を変えられるのかとも思うけど)、なかなかキャッチーな主張だ。しかし下の方には「不法外国人」とあって「憲法違反の外国人生活保護1200億円、外国籍限定補助金の廃止」と非人道的で意味不明(外国籍限定補助金って何だ?)な主張をしている。他にも「入国時に国保の前払金徴収」「治安維持の財源確保のため外国人観光客の宿泊税を強化」など排外的主張が並んでいる。

 参政党や佐藤氏の主張は、「減税」が受けているのか、それとも「排外的主張」が受けているのか。僕にはよく判らないが、減税は他の政党も主張している。世田谷区など立憲民主党、共産党、国民民主党なども当選しているし、れいわ新選組(落選)も出ていた。それらの野党ではなく、参政党の方が上なんだから(国民民主党は2人出ていて合わせれば参政党とほぼ同じになるが)、やはり「排外的」主張が受けているか、少なくともそれがマイナスになっていないと想定できるのである。

 このように今や首都のど真ん中の千代田区で「日本人ファースト」=排外的主張を行う人物が都議に当選する時代になったのである。この事は今回の都議選の最大の問題じゃないだろうか。ところで「日本人ファースト」などという発想は実に危険なものだと思っている。その事を最後にちょっと書いておきたい。例えば参政党は先の国会で「選択的夫婦別姓」に反対の立場から質問を行った。しかし、選択的夫婦別姓や同性婚の制度がないことで、日本人の中に困っている人がいて裁判も起こしている。「日本人ファースト」なら率先して賛成するべきではないか。そうじゃないなら「多数派日本人ファースト」と称するべきだ。

 あるいは「生活保護費」が削減されて困っている人がいる。生活保護費を減らせという人は、「日本人ファースト」とは思わない。「外国人生活保護廃止」などと言う人もいるが、これは一見「日本人ファースト」のように見えて、実は税金を納める義務がある定住外国人を福祉の対象から外すなど「国際人権規約」に反する非人道的で国辱的な主張に他ならない。「日本人ファースト」というなら、僕は日本人が世界に発信するべき「核兵器廃絶」をまず最初に書くべきではないか。

 僕は「日本人」「外国人」などと枠を作って「分断」する思考は間違いだと思うが、では「人間ファースト」なら良いかというとそれも違う。それでは「動物の権利」や「地球環境」が思考の枠外になってしまう。そもそも各政党は日本国民に選ばれている以上、主張に差はあっても「日本人ファースト」になりやすく、現になっている。どの政策もプラスマイナスがあり、どれがファースト、セカンド、サードと決めていくのが「政治」なのであり、「アメリカファースト」も「都民ファースト」も変だ。

 今までは「排外主義」や「歴史修正主義」は自民党の右派として存在した。そのため最終的には「統治権者の配慮」でマイルドになるケースが多かった。しかし、今や自民党の右側に存在する政党が議席を得る時代である。今後どうなっていくかは判らないけれど、「ドイツのための選択肢」のような政党として伸びていく可能性も否定は出来ないと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2025都議選、「納得」と「驚き」ー自民惨敗、「都民ファースト」が第一党

2025年06月24日 21時49分42秒 |  〃  (選挙)

 2025年6月22日に東京都議会選挙が行われた。今までの都議選の記事を探してみると、何と前回2021年だけだった。それは『勝者なき都議選ー2021東京都議会選挙』で、4年前は7月4日だった。もう言われてみないと忘れているけど、それは「東京五輪」の直前で菅義偉内閣時代だった。コロナ禍真っ只中ということもあり、投票率は42%ほどだった。なんか忘れてるよねえ。

 今回は自民党が過去最低となり、公明党がなんと3人も落としてしまった。その分「都民ファーストの会」が堅調で第一党になった。しかし、そうは言っても全127議席中の31人で、4分の1ほどしかない。もはや世田谷(8人区)を除き複数当選はない。練馬区(7人区)では2人いた現職のうち1人は落ちている。小池百合子知事の支持率は今も高く、特に選挙前に打ち出した「夏季の水道基本料金無償化」(なんとなく水道料がタダになるかのように思っている人がいるかもしれないが、基本料金だけである。一般住宅では2~3千円程度。)それでも他党より支持が集まったということになる。

 今回の投票率47.59%だった。下のグラフを見れば判るように、投票率は一回ごとに増減を繰り返している。ダイエットのリバウンドのような状態になっているが、これまでは下がった次は5割になった。今度はそこまで行かなかったが、それでも体感的には結構増えた気がする。直後に参議院選挙もあるし、いろいろ話題の新党も参戦し、それなりに話題豊富だったということか。国政与党と国政野党の間で、地域政党である「都民ファーストの会」が票を集めたが、参院選ではその票はどこに向かうのか?

(都議選投票率の推移)

 自民党は今回都議会でも「裏金」(政治資金報告書不記載)問題があった。そのため現職議員でも非公認者が6人出ていた。「裏金」議員全員ではなく、都議会自民党幹事長経験者に絞って非公認とした。無所属で戦った6人のうち、3人が当選、3人が落選だった。しかし、告示当日に井上信治都連会長が非公認の大田区鈴木章浩、世田谷区三宅茂樹の応援に行っている。二人とも落選で、応援の効果がなかったというより、むしろ逆効果だったのかも。いきさつはともあれ、「非公認」とした以上「会長」が応援に行ってはいけない。石破政権の給付金が不人気と言うが、僕は井上会長のふるまいが「無反省」だったことも大きいと思う。

(自民党は歴史的大敗)

 都議選は「参院選の前哨戦」と言われたが、これに対し「再生の道」の石丸伸二氏がNHKで噛みついていた。どの党が言ってるんですかというけど、どの党もそう思ってやっている。それは時期が近いとか、「首都決戦」が全国に波及するなどの理由もあるが、一番大きいのは「1人区」から「8人区」まである都議選の仕組みが参院選に似ているからだろう。また東京だから都市部ばかりかというと、そんなことはない。地域のつながりが強い23区東部、リベラル系が強い23区西部から多摩地区東部、農山村地帯や離島まであって、全日本の縮図といっても良い。そういう事情で次の国政選挙を占うには最適の選挙になるわけである。

 その「1人区」は7つあるが、島部は自民党の裏金「非公認」議員(追加公認)が国民民主党候補にダブルスコアで圧勝した。これは何回やっても同じで、当選した三宅正彦氏は最大の伊豆大島出身で、次点の伊藤奨氏は島の学校を転々として八丈高校卒業という事情が絡むのである。その他の6つは「都民ファーストの会」が3(中央、青梅、昭島)、「無所属」が3(千代田、武蔵野、小金井)である。無所属の内2人は野党系推薦で、もはや自民党は1人区で勝てないのである。また野党系は上手に「共闘」すれば健闘できるのだ。千代田区の無所属当選者は実は今回最大のサプライズで、もう一回別に考えたいと思っている。

(小池知事と「都民ファースト」第一党に)

 今回の情勢を象徴するような選挙区が「北区」である。都民現、公明現、共産新が当選で、次が自民新、維新新だった。新人だからかもしれないが、今回議席を減らした公明や共産にさえ自民が及ばない。「豊島区」はもっと凄くて、都民現、共産現、公明新が当選で、次点が再生新、一番下が自民新である。「再生の道」にさえ及ばなかった。4人区、5人区で候補を一人に絞った地区は、さすがに当選しているけれど、少なくとも今回に限っては自民党は大敗北である。このように地方議員が減ることが、今度は国政選挙でもボディブローになってくる。手足になって働く議員、支持組織が細っていることを示している。

 公明党は前回23人当選のところ、22人を擁立して最初から守りの姿勢だった。長らく全員当選を続けてきたが、今回3人も落選したのは驚き。特に新宿区で現職が立憲民主党新人にわずか257票差で競り負けた。ここは公明党や創価学会の本部がある地区なので、まさかのまさかという感じである。上は自民、共産、国民民主で、自民、共産候補が固い個人票を持つ中、国民民主党が割り込んできた。大田区は現職2人が共倒れ。故池田大作氏の出身地で公明党が強い地区だったが、もはや複数当選は厳しいのか。僕の住む足立区は2人当選したが、5位と6位だった。それも25,806票と25,332票で差がない。浮動票が少なく身内票をまとめた感じ。

 立憲民主党は17人当選だが、推薦した無所属が複数当選しているので、統一会派を組むことが出来れば公明党を上回り、場合によっては自民党会派に並ぶ可能性もある。それを考えれば、一応「批判票」の受け皿になったのかと思う。共産党は品川、葛飾、江戸川、八王子、町田で現職が落選し、前回19人が今回14人当選にとどまった。選挙区事情が違うが、国民民主党が入っている地区が多い。共産党の不振は公明党の事情と似ていて、支持者の高齢化が進んで集票力が落ちてきているのかと思われる。

 最後に「再生の道」を書くつもりだったが、止めておく。政策を掲げないこともあるが、同じ地区に2人立てる(かなりあった)など当選させる気が初めからないとしか思えなかった。そういうムードが有権者にも伝わって広がらなかったのか。参院選にも立てると言うが、どうなることか。国民民主党はゼロから9人だから大躍進である。だけど当初は支持率がもっと高く、目標が11議席だったので何だか大勝利感がない。だけど今も一定の強い支持があるのである。しかし、都政では「小池与党」になるだろう。その意味では国民民主党票は「保守」「小池支持」であり、自民減少の理由の一つだったのではないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高妍『隙間』第4巻(完結)で、沖縄戦を考える

2025年06月23日 21時41分40秒 | 〃 (歴史の本)

 前に紹介した台湾の漫画家、高妍(ガオ・イェン)の『隙間』(すきま)の第4巻が6月12日付で刊行された。これで完結となるが、最後は「沖縄戦」をめぐる話になっている。西田昌司参議院議員の「ひめゆり発言」があった「戦後80年」の年に是非読むべき本だ。もちろん、林博史沖縄戦』(集英社新書)を読んでもいいわけだが、多くの人には漫画の方が読みやすいだろう。(なお、前に紹介した記事は、2025.4.25付の『台湾の漫画家・高妍『隙間』ー台湾と沖縄「隙間」の歴史をつなぐ』。)

 『隙間』という長編漫画は、台湾で育った若い女性、楊洋(ヤン・ヤン)が沖縄の県立芸術大学に短期留学した時の出来事を基にしている。楊洋は両親がなく祖母に育てられたが、祖母も亡くなった。台湾の民主化運動に学び自ら社会運動に参加するが、彼女の「目覚め」をもたらした男性リーダーへの片思いにも悩んでいる。そんな楊洋は留学時期が終わろうとしているのに、沖縄の歴史には詳しくないことを自覚する。そこで沖縄で親しくなった友だちと一緒に、沖縄戦の歴史に関わる資料館などを回るのである。

(高妍)

 今までの3巻では台湾の民主化運動の歴史、特に同性婚が認められるまでの経緯など日本ではあまり知られていないことを学ぶことが出来た。今回の第4巻は話変わって、沖縄戦を台湾の若い女性が知っていく過程を描いている。まあ、日本人からすると話自体は知っているというか、そこまで詳しくないかもしれないが、一応どこかで聞いたような話だろう。つまり、沖縄戦で多くの民間人が犠牲となったこと、その際「日本軍」の方が恐ろしいぐらいだったなどという歴史的事実である。

 台湾でも米軍による大空襲があった。(1945年5月31日の台北大空襲では、日本人を中心に3000人が死んだとされる。)しかし、この本によれば戦後の国民党政権はそのことをほとんど語り継がず、知らない人が多いらしい。米軍はマリアナ諸島、硫黄島を制圧した後、沖縄本島を攻撃したわけだが、米軍がどういう戦略で来るかは判らないから台湾も緊迫していたわけである。そこら辺の歴史を台湾の人は知らない。沖縄と台湾、地理的には近いのに、戦後の歩みはお互いの理解を妨げてきた。

(佐喜眞美術館)

 特に宜野湾市の「佐喜眞美術館」に丸木位里、丸木俊夫妻の『沖縄戦の図』を見に行くところは圧巻。僕も埼玉県東松山市の丸木美術館には何度か(時には生徒を連れて)訪れたことがあるが、夫妻のことはちょっと忘れていたなと思った。ここで著者が言っているのは、台湾の人は自分たちが勝ち取ってきた民主主義、人権の歩みを守りたいと思っている。沖縄の人は戦争で多くの住民が亡くなるようなことが二度とないよう平和が続くようにと思っている。この二つが歴史の中で両立する道はどこにあるんだろうか。著者と同じく、僕も自問するのだがなかなかうまい方向性が見つからない。

 実は著者高妍さんは6月22日に神保町の東京堂書店でサイン会を行ったはず。僕も行ってみたい気もしたけれど、旅行から戻ってきた翌日で、都議選に行くだけで休んでいたいなと思って予約をしなかった。もったいなかったかもしれない。漫画なんだから絵が大切だけど、テーマが深いためについ内容だけの紹介になったかも。内容はハードだが、台湾や沖縄の南国ムードの中で展開される美しい絵が魅力的。特に若い女性たちのネットワークとヴァイタリティが素晴らしい。

 日本では「保守派」が「反中」意識から「台湾有事は日本有事」などと勇ましいことを言うことがあるが、そういう人たちは日本では同性婚の強硬な反対派である。そこにある「ねじれ」をどう理解すれば良いのだろうか。『隙間』という漫画は、台湾の若い人権活動家の歩みを紹介し、沖縄との架け橋を探し求める。是非多くの人に読んでみて欲しい「社会派少女漫画」。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

容認できないアメリカのイラン攻撃、今後の推移は想定不能

2025年06月22日 21時58分19秒 |  〃  (国際問題)

 アメリカイランの核施設を攻撃した。今日は都議選で、明日は沖縄県の「慰霊の日」なので、別の記事を用意していた。しかし、恐らく本年最大のニュースが起きた以上書かずにおれない。2025年6月21日夜(アメリカ時間)にトランプ大統領が発表したが、日本では22日(日曜)の朝午前9時過ぎに報道された。トランプ大統領がSNSに投稿したという速報で、イランは現在サマータイムで日本との時差は4時間半だという。だからイランへの攻撃は現地時間で真夜中頃だったのではないかと思われる。

 これに先立って13日にイスラエルがイランを攻撃していた。その時点でアメリカとイランは15日に核協議を行う予定になっていた。また15日からカナダでサミットが開催されることにもなっていた。そのためアメリカはイスラエルにイラン攻撃の自制を求めていたと報道されていた。しかトランプ大統領がイスラエルを批判したという話はなく、逆にアメリカも攻撃に加わるかも知れない、降伏せよなどと投稿したうえで、19日には攻撃是非を「2週間以内に判断」としていた。実際の攻撃はその2日後だった。

(「2週間以内に判断」)

 この経緯をイラン側から見れば、明らかに「最初からイスラエルアメリカはグルだった」としか見えないだろう。当初核協議が予定されているから攻撃はないだろうとイランを油断させる日程を設定した。さらに「2週間」とか「ディール」など今後の交渉が可能であるかのように言って、世界に「攻撃があるとしてもまだ先」と思わせておいてさっさと攻撃した。今回は明確な形での「最後通牒」がなかったのである。イラク戦争時でも一応あった「何日までに何をせよ」という通告が(表に出ている形では)なかったのである。これでは「真珠湾攻撃」を非難出来なくなるんじゃないか。トランプ流の無法ぶりが際立っている。

 もちろん「最後通牒」があれば認められるということではない。今回の攻撃自体が示しているように、「アメリカの自衛権行使」としてイランを攻撃するなどあり得ない。「イスラエルの自衛権行使」も認められない。イランが核兵器を開発したとしても、イスラエルは事実上の核兵器保有国だとされている。自分が先に核兵器を(国際的には認められない形で)開発しておいて、対立国が核兵器を開発することを批判できるはずがない。それなら自国が何で核兵器を持っているのか、その理由が理解できない。

(攻撃されたイランの核基地)

 ところでイランは核兵器を開発していたのだろうか。原子力発電には必要のない高濃度のウラン濃縮を進めていたのは事実なんだと思う。しかし、今直ちに核兵器を開発できる段階にはなっていなかったと思われる。だが今後技術が「進展」すれば、イランが核兵器を保有するという事態が起きた可能性はある。だけど、そうだったとしても「予防措置として事前的に他国を攻撃する」ことは許容できない。それが許されるなら、イランだって「ハマス」だってイスラエルを攻撃する権利が生じるはずである。

 今回非常に心配されたのは、アメリカの攻撃があれば大規模な核廃棄物の飛散、さらに「メルトダウン」事故のようなことが起きるのではないかということだ。今のところ、周囲の放射線量の数値には変動はないと報道されていてホッとする。イラン側によれば、攻撃に先立って核物質は別の場所に移動させていて無事だったということだ。それが本当ならイランも攻撃を予想していたことになるし、アメリカも移した先を突きとめて攻撃しなければ今回やったことの意味が薄れてしまう。今後も続くのである。

(イランの指導者ハメネイ師)

 これから一体どうなってしまうのだろうか。一つはイランの対応。次にアメリカ国内の反応。最後に「世界史的な影響」とでも言うべきもの。アメリカ国内を先に考えると、「MAGA派」は「トランプは中東で戦争を始めないと公約して当選した」などとけん制していたが、始まってしまったら支持せざるを得ないだろう。アメリカの宗教右派などはいろいろ言ってもトランプを支持する以外の選択肢がなく、トランプもそれを判っていて「俺様に付いてくればいいんだ」ということだろう。共和党内強硬派ももちろん支持。民主党もなかなか批判に踏み切れないかもしれない。アメリカが泥沼に入り込まない限り、今までも反戦運動は難しかった。

 一方のイランの対応がどうなるかは読み切れない。「イスラム体制存続の危機」なので、体制存続を最優先するならさっさと「恭順の意」を表明して、核開発を一切放棄するということもありうる。しかし、そのような判断が出来る体制なのか疑問もある。今までロシアにドローンを提供するなど、まさか自分が攻撃されるとは思ってなかったのかもしれないが、だからといってロシアは口先批判以上のことをするはずがない。軍や革命防衛隊幹部がイスラエルのピンポイント攻撃で死亡していて、有効な反撃が出来るか。それにしてもモサド(イスラエルの諜報機関)恐るべし。その余りにも「見事」な情報収集には恐怖を覚えるしかない。

 「ホルムズ海峡封鎖」で世界恐慌、株価大暴落などは起こりうると読んで置いた方がいい。イランもアメリカ軍基地を攻撃したいところだが、クウェートやカタールなどにある米軍基地を攻撃は出来るけど、基地がある国を攻撃すればアラブ諸国との関係が悪化してしまう。今回は米軍基地からの攻撃ではないので、難しいところ。アメリカが大国イランに地上侵攻することは考えにくいが、今後欧米でのアメリカ大使館やアメリカ関係施設へのテロは十分警戒しているんだろうが、要注意。

 ところで、このイラン攻撃は大きく世界史を変える可能性がある。僕はイラン・イスラム体制を支持する者ではないが、だからといって他国が攻撃して良いわけがない。「国際法違反」の最たるものだが、もうそういうことを議論出来なくなるかもしれない。ロシアもアメリカも勝手をして良いなら、中国だって良いはずだと中国指導部は考えるのか。イランの体制を崩壊させたら、今度は「北朝鮮」はどうなるのか。世界は完全に「帝国主義時代」に逆戻りするのか。それでも「国際連合」など世界秩序の枠組はないよりは良いのか。今後の想定は安易には出来ず、成り行きを注視していく以外のことは我々には出来ない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1年ぶりの日光旅行ーイタリア大使館別荘記念公園とクリンソウ

2025年06月21日 22時07分02秒 | 旅行(日光)

 1年ぶりに奥日光へ行ってきた。いつもの「休暇村日光湯元」泊である。この時期は本来梅雨なので、観光シーズンじゃない。だから宿の方でもこの時期に安いプランを企画している。ところが今年は6月から猛暑続きで、特に関東以西では毎日35度近い日が続いている。もちろん予約したのは1ヶ月ぐらい前なので、これは予想に反した大当たり。奥日光も晴れ渡り、昼間はむしろ暑いぐらい。朝晩は20度を切るけれど、標高1500mを越える奥日光でも晴れれば陽射しがきつい。(まあ夏至だから。)

 東武の特急で日光へ行って、そこで車を借りる。最近のパターンで一番楽。最近よく行ってるピザ屋「リンネ」で食べてから、一気にいろは坂を上って、そのまま中禅寺湖道路を展望台まで行く。だけど、あれ、男体山の上の方は雲が掛かっているじゃないかということで、写真は省略。そこから下って歌が浜駐車場に停めて、久しぶりのイタリア大使館別荘記念公園(Italian embassy villa memorial park)に行った。ここは凄く気持ちの良いところだけど、天気が悪いと行ってもつまらない。今は外国人も多いのに驚いた。

   

 上の1枚目は湖畔に出て撮った男体山、2枚目が下から見た旧別荘、3枚目は湖畔のデッキ、4枚目は珍しく自分の写真を撮って貰ったので、載せてみる次第。下の最初の2枚は中の写真、次の2枚は2階から撮った湖風景。2階は大使館員の寝室だったところだが、風の通りが気持ち良く、湖が一望出来てなんてぜいたくな「別荘」だろうと思う。戦前はここでヨーロッパの大使館員たちが夏にヨットや釣りを楽しむ「国際避暑地」だったのである。すぐそばにイギリス大使館別荘記念公園もあるが、イタリアの方が気持ち良い。駐車場から15分ぐらい歩くが、まあこの程度が歩けなくならないようにしたいものだと思う。

   

 宿はいつものように気持ち良く、温泉はいつも以上に緑色が濃い感じだった。お湯も気温も高いので、露天風呂がちょうど良い感じ。ところで「風呂」「食事」は良いのだが、「寝具」には問題があった。下はムアツになって気持ち良いのだが、上のフトンがもう暑いのに羽布団だけなのである。最近そういう宿が多く、どこへ行っても夜暑くて眠れないのである。じゃあ、本や観光情報を見ようかと思うと、部屋が暗い。そしてスマホは電波が入りにくい。まあ、それでもいつの間にか寝てしまうのだが。 

 朝は早く目覚めたので風呂に行った後に、湖畔を早朝散歩。ウグイスの声が聞こえるし、さすがに涼しくて気持ち良い。湯ノ湖にはもう釣り客が何人も来ている。まあ似たような写真だから割愛。その後8時過ぎには出て、赤沼茶屋から「低公害バス」に乗って「西ノ湖入口」で下りる。このコースも毎度のことだが、目標は「現状維持」なので新しく山登りしなくてもよくて、その代わりに去年歩けたコースをまた行ってみるということである。「西ノ湖」(さいのこ)は毎年来てるので、経年変化も知りたい。

  (2024年)(2019年)(2011年)

 2024年のブログを見てみると、台風直後だった2011年はともかく、ほぼ同じ場所から撮影したのにもかかわらず、ほとんど湖面が見えなかった。ここまで少ないのは経験がなく、2024年は中禅寺湖の水位も極端に低く、華厳の滝もチョロチョロという感じだった。では2025年はどうだろうかというと、以下のような感じ。去年よりは明らかに湖が大きいが、それでも過去の水量に比べてみると低いままである。今年は雪が多かったというが、それだけではダメなんだろう。3枚目、大きなウロのある木があった。

   

 西ノ湖から少し戻って、川沿いに中禅寺湖を目指す。2キロぐらいの気持ちの良いカラマツ林だが、調べてみると今年は最近も熊の目撃情報が多い。久しぶりに「熊除け鈴」を付けて歩いた。中禅寺湖の東岸にあたる千手が浜は今の時期はクリンソウを見る客でいっぱい。千手堂というクリンソウ群落地は、実は今まで知らなかったのが奥が深く、ずっと赤、白、ピンクの花が咲き乱れていた。これほど花の適期にあたるのも珍しい。まあ写真ではよく判らないと思うけど、実にキレイなのである。

   

 男体山も良く見えて最高。そこからまたバスに乗って戦場ヶ原近くの赤沼まで戻る。さて、どこでお昼を食べるか。湖畔で食べるか、いろは坂を一気に降りて市街まで戻るか。と思っていた時に、ひょいと頭に浮かんだのが「両棲類研究所」である。中禅寺湖畔にあって、長いこと謎の建物だったところで、いつも「ここは何だろう」と思っていた。まあ閉鎖した博物館みたいなものかと思っていたのだが、ある時期から停まっている車を見るようになった。そしてサンドイッチマンの「帰れマンデー」を見ていたらここが出て来て、食べるところもあるという話だったのである。へえと思った記憶があるが、行ったことがなかった。

(千手が浜から男体山)(両棲類研究所)

 正式には「日本両棲類研究所」と言って入場料1000円もした。両棲類というのは、カエルやイモリやサンショウウオである。爬虫類ほどじゃないけど、あまり気持ち良くないという人もいると思う。しかし、ここはそのカエルやサンショウウオを飼育して展示している施設なのである。イモリは奇跡の再生能力を持つようで、そんな研究もしているらしい。昔あったのがいったん閉鎖され、2019年に再開されたという。日光のガイドにはほぼ出てない幻(謎)の施設だけど、ちゃんとやってた。見る価値があるかどうかは、ひと様々だろう。でもまあ、一度は見ても良いかも。両棲類のぬいぐるみもいっぱいで、絶対他で入手不可能なお土産。

(オオサンショウウオ)(ペスカトーレ)

 2階で確かにカフェをやってて、テレビ見たときはカレーが美味しいと言っていたが、今はスパゲッティがペスカトーレとペペロンチーノ、他にフレンチトーストとシナモントーストしか主食的なメニューがなかった。アイスクリームやドリンク類は他にあったけど。それも結構値段が高いので、入場料を含めると人数が多いとかなり掛かる。だけど、人生で一回見てもいいかなと思った。ここでは詳しく書かなかったが、展示内容はかなり面白かった。その後、「小杉放庵記念美術館」で日光杉並木展を見て、昔の杉並木はこんな感じだったのかと思って、帰って来た。今回は「イタリア」づいていたなと帰ってから気付いた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『私の東京地図』『キャラメル工場から』『素足の娘』他ー佐多稲子を読む

2025年06月19日 21時50分04秒 | 本 (日本文学)

 佐久間文子美しい人 佐多稲子の昭和』を読む前に、佐多稲子の作品を少し読んでみた。先に読んだのは評伝の影響を受けすぎないようにという配慮である。この際、昔読んだものをずっと読み直そうかと思ったが、時間もかかるし時代が古くなっていて飽きてしまった。一番心に響いたのは、『私の東京地図』(1949)である。佐多作品の中でも、(連作)長編小説としては一二を争う人気作だろう。過去の町並みが焼けてしまった敗戦直後の東京を歩いて、自分の過去を追憶し自己点検する。下町の幼年期に始まり、やがて夫と共に非合法活動に関わり東京を転々とする。自分の歩んできた人生を東京の変化を見つめながら振り返る。

 読んだのは1972年に出た講談社文庫で、前に読んで好きな本。今は講談社文芸文庫に収録されていて、一応在庫はあるようだ。久しぶりに読み直してみると、夫(窪川鶴次郎)やその仲間と知り合って「左傾」していくところが案外面白くない。昔は切実なテーマだったと思うけど、その後の流れを今では皆知っているということが大きい。それより幼い頃の向島、上野池之端、日本橋界隈を見事に甦らせる文体と構成に感心する。「東京下町の作家」としての佐多稲子の姿を伝える作品だ。点描される思い出の人物が鮮烈なのである。林芙美子の『放浪記』より素晴らしい「佐多稲子の放浪記」じゃないだろうか。

(佐多稲子旧居跡のプレート)

 長崎から出て来た佐多稲子(当時は田島一家)が住み着いたのは隅田川の東、今の墨田区(当時は向島区)だった。すみだ郷土文化資料館の横手に佐多稲子旧居跡のプレートがある。(今回撮ったのではなく、3月の隅田川散歩の時に撮ったもの。)小学校を辞めて働きに出たキャラメル工場は神田和泉町(千代田区の北東部)にあり、時には隅田川を渡って歩いて通うこともあった。賃金が安いため交通費を稼げない日もあったからである。「東京地図」が頭にないと実感が湧かないが、下町で苦労して育った人である。

 その工場体験を描いたデビュー作『キャラメル工場から』を表題に掲げた本が、ちくま文庫の佐久間文子編『キャラメル工場から 佐多稲子傑作短編集』(2024)である。『私の東京地図』や『時に佇つ』など「連作」の中からも選ばれていて、佐多稲子の本質が短編作家だとよく判る。戦中戦後の庶民を見つめて忘れがたい作品が多いが、特に『』(1963)は前にも何度か読んでるが素晴らしい傑作。東京で働く少女が母危篤と電報がありながら故郷に帰れない。死んだ知らせが来て泣きながら列車を待つ上野駅の一瞬間を切り取った作品だが、人間本質に迫り崇高さをも感じる名作。「60年代」の本質を伝える短編で、読んでない人は是非。

 1971年に出た「新潮日本文学」の『佐多稲子集』という本は半世紀以上読まずにいた。いつ買ったかは覚えてないが、まあ学生の頃だろう。定価700円だった。3つの長編といくつかの中短編が収録されているが、『素足の娘』(1940)は興味深かったが、『くれない』(1938)と『灰色の午後』(1960)という小説は、読みにくいわけではないのだが内容的にウンザリした。

 面白かった『素足の娘』だが、評伝を読むと重大なフィクションが施されていた。兵庫県の相生の造船所書記として働く父のもとで暮らした日々は、少女が大人になっていく日々でもあった。主人公は小説の途中で明らかにレイプされ、そのことをめぐって様々に思い惑う。そんなテーマが戦前に書かれていたのかと驚いたが、それが虚構なのだという。周辺の人物はほとんどモデルがいて、現地では皆がよく判るらしい。そのため主人公を山で襲うという設定の人物にもモデルが想定され、妻にも疑われて非常に迷惑したのだという。佐多稲子は直接会いに行って謝罪したというが、この問題は奥深い。しかし、相生には碑が立ったという。

 戦時中の『くれない』と戦後の『灰色の午後』は、名前が変わっているが明らかに窪川夫妻をモデルにしている。それは当時誰でも判ったことで、窪川鶴次郎の「過ち」(まあ浮気、今でいう「不倫」)と夫婦の危機は新聞にも出たから皆知っていた。周囲の人物も壺井栄、宮本百合子、原泉など、設定が変わっているけど大体想像出来る。男が他の女に心を移すという話だけなら、古来よりたくさんあるだろうけど、ここでは二人は「同志」であり、また「作家同士」でもあった。共産党員であっても浮気はするだろうが、妻が治安維持法違反容疑で逮捕、起訴され、いよいよ判決という日の前夜も帰らないというのは「階級的裏切り」に近い。

 しかし、そういう問題もあるけれど、夫からすれば同じ家に同じ仕事をする妻がいるのはなにかと気詰まりで、夫婦がともに「知的職業」に就くという新時代ならではの状況なのである。だから当時の女性には共感され、『くれない』はベストセラーになって家計を多いに助けたようだ。「女給あがりのプロレタリア作家」だったはずが、一般誌(「新潮」「中央公論」「婦人公論」など)からも続々と注文が来る。夫より妻が売れて人気作家となったである。この状況(「かつて左傾の過ちを犯したものの、一般的な人気が高い女流」)こそが、軍部に目を付けられ戦地へ派遣される要因となる。子どももいる佐多稲子には拒めなかっただろう。

 だがそれだけでなく、当初は戦争への批判意識を持っていたはずが、長引く「夫婦の危機」の中でいつの間にか当局寄りに変わって行くが自分でも気づけない。そして「戦地の兵士」への同情と涙は「ホンモノ」でもあった。戦地で会った兵士たちとは戦後も交流が続くのである。完全に「執筆禁止」だった宮本百合子と違い、有罪ながら執行猶予だった窪川稲子はその「人気」ゆえに戦争に呑み込まれる。この問題は今も生きてはいるが、もういいよというぐらい事細かに夫婦のいさかいを読むのも辛い読書だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『美しい人 佐多稲子の昭和』(佐久間文子著)を読むーある女性作家の20世紀

2025年06月18日 22時12分09秒 | 本 (日本文学)

 20世紀に活躍した女性作家、佐多稲子(さた・いねこ、1904~1998)の評伝『美しい人 佐多稲子の昭和』(芸術新聞社、3000円)を読んだ。新聞記者だった佐久間文子(さくま・あやこ)氏の著書で、値段を見た時にはちょっと躊躇したけれど、僕は佐多稲子を愛読してきたから買うしかないと決断した。2024年11月20日発行で、これは佐多稲子生誕120年の年に出たことになる。最近になく面白かった本で、やはりこの手の本、つまり文学と歴史それも社会運動史が関わる分野には興味が尽きない。

 生没年を見れば判るように、佐多稲子ほぼまるまる20世紀を生きた人だった。長命だったうえ、晩年(僕がすでに文学趣味に目覚めた後)に数多くの賞を受賞したので、僕は若い頃に「現役作家」として読んだのだった。1972年に出た感動的な『樹影』を除くと他の本は概ね過去の体験を基にするか、または長年の友人・同志だった中野重治を送別する『夏の栞』のように現在を扱っていても内容は過去に関わる本だった。人生を見事に切り取った文体に僕は魅了され、また凛とした生き方にも感銘を受けた。

(晩年の佐多稲子=NHKアーカイブ)

 「数奇」と表現するべきだろう若い時期、奇跡的に作家となり夫や同志とともに「プロレタリア文学」の旗手となるも、逮捕され有罪となる。戦時中は戦地慰問団に加わり、戦後は「戦争責任」を問われた。戦後「党」(もちろん日本共産党である)に再入党するも二度も「除名」されている、などということは僕が読んだ頃までは、多くの人にとって大きな意味を持っていた。「昭和」の女性作家としては、林芙美子宮本百合子などと並びたつ存在で、昔よく出ていた日本文学全集では必ず一巻を当てられていた。

 しかし、亡くなってもう四半世紀も経つのか。名前も知らない若い人が多くなっているんじゃないか。林芙美子は映画化、舞台化されて残ったが、佐多稲子も何本か映画化されているが有名なものはない。その意味では『二十四の瞳』の壺井栄(佐多稲子の非常に親しい友人だった)の方が今も知られているかもしれない。次回書くように、今回少し佐多作品を読んでみて、「女性と仕事」「党のあり方」など書かれた当時は切実なテーマだっただろう問題が今では色あせてしまったところも目に付いた。

(若い頃の佐多稲子)

 佐多稲子の戸籍はもう一枚で収まりきれないほど、幾度もの変遷をしてきたと自ら書いている。長崎で若い父母(旧制中学在学中の18歳の父、女学校在学中の15歳の母)の間に生まれ、戸籍は両親のもとに入れなかった。それでも両親は自ら育てて弟も生まれたが、母は22歳で早世する。明治時代にこんなカップルがいたとは驚きである。父はその後東京に出て来るも、なかなか仕事が無く稲子は小学校を途中で止めてキャラメル工場に働きに行った。それが後に『キャラメル工場から』というデビュー作になるのである。また当時は知らなかったものの、同じ小学校に後の作家堀辰雄がいたというのも奇縁だった。

 こんな風に事細かく佐多稲子の人生をたどっていると、いつまでも終わらない。後は簡単にするが、その後上野の料亭に勤めた後、父の住む相生(兵庫県)で暮らすが、再び同じ料亭に戻った。そこには美術館帰りの作家たちが立ち寄り芥川龍之介菊池寛などを知った。しかし本が好きなために経歴を偽って日本橋の丸善に勤務、そこでは大杉栄中條百合子(後の宮本百合子)を見た。関東大震災を丸善で経験した後、上司に資産家の息子を紹介され結婚。壮絶なDV、モラハラを経て自殺未遂で新聞に報道された時には妊娠していた。子どもを連れて一人で働ける場所を探して、駒込動坂のカフェに勤めることになった。

 このカフェこそが芥川龍之介室生犀星が住み(当時「田端文士村」と言われた)、彼らを慕う文学青年が集まる場所だった。彼ら堀辰雄中野重治窪川鶴次郎ら、後に雑誌『驢馬』(ろば)を創刊するメンバーたちが稲子と親しくなったのである。そして窪川と相愛の関係になっていき、1926年に結婚するに至った。窪川鶴次郎は今ではほとんど忘れられているだろうが、詩人、文芸評論家、文学研究家、そして左翼運動家として、近代文学史にちょっと名を残している。こうして『驢馬』同人たちが「発見」した新人女性作家として、1928年に『キャラメル工場から』が「プロレタリア文学」の新風として評判になったのである。

(窪川鶴次郎)

 これ以後の、作家同士の家庭環境、女性と仕事と育児、非合法活動と逮捕、戦時中の軍慰問などこそ、今も重大な問題を秘めているが、それは次回に小説をもとに考えたい。ここまでの「作家以前」を見ても、何という奇跡の連続で生まれた「作家」だったと思う。さらに浅草時代のカフェを舞台にした作品が川端康成に激賞されたが、その中の同僚が川端の「初恋の人」(元婚約者)だったというのも実に不思議である。佐多稲子(当時は田島稲子)はただの貧乏な少女に過ぎないのに、これほど「文学」に関わるエピソードが多いのは何の因縁だろうか。自殺する3日前の芥川に夫婦であって、自殺方法を聞かれたという逸話もある。

 一度目の結婚は「玉の輿」、二度目の結婚は「同志」だったが、どちらも不幸に終わる。作家デビュー時は「窪川稲子」だったが、戦後に正式に離婚して「佐多稲子」を名乗った。もうそういう名前でしか知らない時代に知ったから、党を離れても左派的な女性運動などに関わりながら、多くの著書を書いた作家という印象だった。その数奇な前半生をこの本でたどると驚くことが多い。もちろんこの本は戦前の党活動、戦時中の慰問、戦後の苦悩と新しい歩みなどを詳述している。今は長くなるから省略するけど。

 僕は若い頃に「文学青年」だったので、近代日本の数多くの作家を読んだものだ。同時代の大江健三郎、安部公房、遠藤周作などもいっぱい読んだけれど、芥川、川端、志賀直哉、堀辰雄なども愛読した。その中で中野重治も大好きだった。政治的立場の評価とは別に「雨の降る品川駅」などの詩に深い感銘を受けたものだ。その中野との関わりから、佐多稲子の名は早くから知っていたが、当時はあまり読まなかった。女性の作家はフランソワーズ・サガンやカーソン・マッカラーズなどは読んだけれど、どうも日本の女性作家は遠い感じがしたのである。しかし、佐多稲子の歩みは忘れられて良いものではない。

 もう一つ、この本には多くの同時代の女性たちの姿、生き方が描かれている。壺井栄、宮本百合子などはもちろん、原泉(はら・せん、女優、中野重治の妻)や中野鈴子(中野重治の妹)など忘れがたい。原泉は昔は非常に有名な俳優で、多くのテレビや映画にも出ていたから有名だった。最近市川崑監督の『犬神家の一族』を再見したのだが、そこでも脇役で出ていた。また瀬戸内寂聴は稲子との対談で、「お父さまと窪川さんとは、どこか似ていますか」と問うと「なかなかあなた、鋭い」と佐多稲子が答えたというエピソードも忘れられないものがある。まあ知らない人は読まないだろうが、「昭和100年」に読むのにふさわしい本。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山田昭次先生をしのぶ会(+梅雨の立教大学散歩)

2025年06月17日 21時54分20秒 | 追悼

 2025年6月14日に「山田昭次先生をしのぶ会」が立教大学マキムホール(MB01教室)で行われた。山田昭次先生は3月15日に亡くなり、そのことが報じられた時に『山田昭次先生の逝去を悼むー日本人の「良心」を貫いて』を書いた。近年この種の催しには欠席することが多かったが、今回は行ってみようかと思ったのは山田先生の様々な社会運動との関わりを知りたいと思ったのである。ともに何かの運動を担ったわけではない僕が書くのも僭越かと思うが、自分の備忘ということで記録しておきたい。

 司会者としてまず開会あいさつを行ったのは石坂浩一氏(立教大学異文化コミュニケーション学部立教大学平和・コミュニティ研究機構代表)で、今回の会の内容は今後「平和・コミュニティ研究機構」の紀要に掲載されるということだった。その後、韓国からの弔辞が聖公会大学のハン・ホング氏よりあり、その後紹介されたが大韓民国国家記録院というところで山田先生の遺した史料・著書なども(一部)保存されるとのことで、さすが山田先生の業績が国境を越えて残ることに感銘を覚えた。

 以後、9人の方が以下のような分野での思い出を語った。感想を書くと長くなるので、敬称略でまとめて紹介したい。

山田先生のあゆみ(高柳俊男)②朝鮮人戦時労働動員に関する研究(長澤秀)③金子文子に関する研究(留場瑞乃)④関東大震災における朝鮮人虐殺についての研究と活動(矢野恭子)⑤山田先生の著作(黒田貴史)⑥在日朝鮮人史研究会での活動(樋口雄一)⑦在日韓国人政治犯徐勝・俊植支援運動との関わり(大槻小百合)⑧立教大学の歴史の再検討(宮本正明)⑨粟屋ゼミのメンバーからの思い出(伊香俊哉)

 山田先生の関わった事柄がいかに広かったか、単なる学究ではなく誠実な市民運動家でもあったことが伝わる。配布された略年譜によれば、1959年に立教大学助手、1962年に一般教育部専任講師となり、1965年には助教授に昇格した。しかし、その後1972年に「文学部史学科から転籍要請があるも、一般教育の重要性に鑑み断る」と出ている。そして一般教育部在籍のまま、史学科、大学院でもゼミを担当したわけである。なかなか普通出来ないことではないかと思うが、どうだろうか。

 先の追悼記事では長くなることもあって書かなかったことを書いておきたい。山田先生が最後に取り組んだこと(の一つ)に「君が代斉唱、日の丸掲揚の強制への反対」(年譜の表現の通り)があった。最後の著作も2016年に出た共著の『学校に思想・良心の自由を 君が代不起立、運動・歴史・思想』(影書房)だった。僕も立教大学で山田昭次先生や粟屋憲太郎先生に学んだものとして、東京都の教員として採用された時には、少なくとも「日の丸・君が代」(当時は法的には国旗・国歌ではなかった)を推進する立場、つまり管理職にはならないと心に決めて仕事していたものだ。それは結構大変なことだったと思い返すのだが。

 多くの方の話に山田先生から電話があって運動に関わったというエピソードが多く聞かれた。僕はむしろ自分のやってることに先生の講演をお願いしたりしたわけだが、生涯でただ一度(だと思う)山田先生から電話で参加を要請された集会がある。それが「日の丸・君が代」反対集会なのである。21世紀初頭、石原都政下の時代で、多くの集会が開かれていたが、その時の集会は山田先生らが起ち上げた、規模的にはそんなに大きくない学習会だった。そこで「教育現場からの証言」を求められたわけである。

 その時は夜間定時制高校の教員をしていたが、卒業した高校が中高一貫化され都立中学に扶桑社の歴史教科書が採択されたことへの反対運動もやっていた。そのこともあって、僕は「日の丸・君が代」問題には深入りしていなかった。その頃は教育関係じゃない人からは、東京は国旗国歌や教科書問題で大変ですねと良く言われたものだ。しかし、僕がその時発言したのは、「石原都政下の極右イデオロギー教育政策」という視角だけでは解けない大きな問題があるということである。

 鈴木都政、青島都政を通して「異様なまでの都教委の中央集権化」が進行していたのである。教員の階層化(主幹はすでに設置されていた)、勤務評定の実働化(自己申告書の提出)、異動要項の改悪授業計画提出などが毎年のように進行していた。その対応で現場は疲弊していて、現場で自由闊達に教育を語り合うという気風も消えつつあった。管理職は教員を評価するだけでなく、自らも教育委員会に評価されている。その状況はほとんど知られてなくて驚かれたことが多かった。

 そんな中で東京の問題じゃないけれど、第一次安倍政権で「教員免許更新制」が成立した。そのことで「教員という仕事は、そこそこマジメにやってきたこと」を評価されない仕事になったのかと思い知ることになった。この制度は現場を悪くするだけだと確信していたが、結局その通りで10年ちょっとで廃止された。しかし、その経緯を見ていた僕は何か「心が折れる」という気になって、更新講習を受けずに2011年に退職したのである。その後、「年賀状」(にあたるもの)も一切作らなくなり、元同僚や昔の先生には失礼をすることとなった。それまでは山田先生にも送って丁寧な返事を貰うこともあったが、晩年にはもう連絡していない。

 立教大学で行われた追悼会に参加したことはもう一回あったなあと思い出した。1987年秋にチャペルで行われた日本文学科(当時)の前田愛先生をしのぶ会である。前田先生が亡くなった時(1987年7月27日)は穗高岳に登山中で全く知らなかったので、僕は葬儀には参加していない。立教大学では上限はあったが他学科、他学部の講座を卒業単位として認定していた。前田先生とは集中合同講義などでも接していたが、それ以上に講義で永井荷風日和下駄』を読んだことが忘れがたい。僕は教員を辞めた後、映画や寄席、散歩などで日々を送っているが、これは自分の『日和下駄』なのである。大学時代の影響は人生を決めるものだ。

 その前に時間があったので、久しぶりにキャンパスを散歩しようかなと思った。梅雨時というのは案外写真向きなのである。しかし、この日は午後に雨予報が出ていた。降り始めの時間は予報で違っていたけれど、結局1時半頃には結構降ってきたので、昔の研究室を見に行くのは止めた。「すずかけの小径」に2024年に長嶋茂雄を顕彰するプレートが出来たとホームページにあったので見て来た。(写真はいずれ書く予定の追悼記事で。)アジサイ(紫陽花)がところどころに咲いていてキレイだった。(下の2枚目)

   

 雨が激しくなってきたので、「立教学院展示館」に行くことにした。正門から入って左手に作られている。前に少し見たこともあったが、時間を掛けて見ていなかった。今回も展示はちゃんと見なかったが、前に書いた松浦高嶺先生の著書『学生反乱』が展示されていた。それより映像で見る学院の歴史コーナーがあって、そこは椅子に座れるので、休みながらずっと見ていたのである。これが長いんだけど面白かった。全部は見てないけれど、関東大震災から戦争戦後の時期を取り上げていた。

(立教学院展示館)(尹東柱に関する展示)

 戦争中に「幻の医学部設置計画」があったこと、それは「聖路加病院」を傘下に収めるというものだった。また戦時中に「キリスト教主義に基づく教育」という建学の精神がにらまれて、なんと「皇道主義に基づく教育」と変更した一時期があったとは驚いた。立教大学からも多くの学生が「学徒動員」されて101人の戦死が確認されていること、「自由の学府」と歌詞にある校歌を戦時中は歌うことが許されなかったが、学徒動員で故郷へ向かう学生に在校生が校歌を歌って送ったことなどが心に残る。

 この前慶應義塾大学で資料館を見たが、近年各大学で自校の歴史をふり返る施設が多く作られている。映画『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』でも関西大学の資料館が出て来た。それらの比較検討も課題ではないかと思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

外国人観光客の消費税免税問題ー廃止も考えるべきだが、現実には難しい?

2025年06月16日 20時31分36秒 | 政治

 現在訪日外国人観光客は(免税店で購入する場合)、消費税が免税になる。その措置を止めるべきだという議論が起こっているが、それをどう考えるべきだろうか。この制度は結構面倒な仕組みがあるが、出国時に持ち出すことを前提に「 通常⽣活の⽤に供されるもの」を免税指定店で購入する場合、消費税がかからない。具体的には菓子、衣料品、化粧品、服、鞄、和服、民芸品、カメラなどの購入が多い。意外かもしれないけれど、訪日観光客が多い韓国、台湾、中国人が一番買っているのは「菓子類」なのである。この数字は観光庁の「外国人旅行者向け外国人旅行者向け消費税免税店制度について」に出ている。

 免税額総額は2000億円ぐらいらしいから(朝日新聞6月13日朝刊)、大きいと言えば大きいが国家財政全体を考えれば死活的な問題というわけではない。免税を止めれば2000億税収が増えるわけだが、お土産を買うことで家電量販店などの売り上げが増え、日本の会社の法人税額も増えるわけで、どっちが良いとも言いにくい。しかし、買ったものが持ち帰られずに「転売」されることも多いという。もちろん「不正行為」で、出国時に確認するようだがその時点で改めて課税しても滞納になることが多いらしい。まあ、いろいろと良し悪しもあるだろうが、僕自身は最近は「廃止しても良いのでは」と思うようになってきた。

(外国人観光客の免税は必要か?)

 ところで何で外国人観光客には消費税が免税になるのだろうか。以下は自分の素人考えだが、大きく言って2つあると思う。まず「治外法権の反対」である。日本では幕末明治時代に長く「治外法権」に苦しんできた。日本国内の外国人に日本の法律を適用出来なかったのである。それを逆に考えれば、日本が決めた法律を外国在住者に適用するのもおかしいことになる。外国人旅行者は日本の政治に参加出来ないから、「代表なくして課税なし」という観点からは外国人に消費税を課すのはおかしいわけである。

 しかし、「定住外国人」には日本の消費税を払う義務がある。定住外国人にはもちろん国政参政権がない。(地方参政権がある国もあるが、日本ではどちらも認めていない。)その意味では消費税(だけでなくすべての国税)を払うのはおかしいとも言えるが、「税金の目的」は福祉や公的サービス、社会資本(インフラ)整備などにある。だから税金の恩恵を受ける定住外国人には税負担の義務がある。外国人にも福祉や教育などのサービスが保証されるのは当然だが、税負担があるから対価もあるわけである。

 従って、もし消費税が福祉目的税だったとしたら、外国人観光客に何の恩恵もないのに消費税を払わせるのはおかしいことになる。福祉目的税として導入するという議論も一時あったけれど、そんなことをしたら消費税をどこまで上げてもまかなえない。結局、消費税も「一般財源」であって、他のほとんどの税金と同じく国の総収入の一部になるわけである。だから外国人観光客から消費税を取っても、それはインフラ整備など観光客にも還元される。要するに免税するかどうかは、日本国民が判断すれば良い問題だ。

(観光客は免税、定住者は担税)

 ところですでに外国人観光客も多額の消費税を負担しているのである。それは最初に書いたように、免税されるのは出国時に確認出来る「通常生活の用に供される」ものに限られるからである。そうすると飲食店は免税にならない。いろいろ見聞きするところによると、外国人客が寿司、天ぷら、ラーメン、和牛ステーキ店などに殺到しているらしい。繁華街で道から見えるラーメン屋などほとんど外国人なので驚くことがあるけど、そう言えば飲食店に「免税店」なんて表示を見たことがない。「日本の食」が楽しみという外国人も多いらしいから、すでに多額の消費税を外国人が払っているのである。

 そう考えると、単価が安い菓子類など免税じゃなくなっても、それなりに売れるんじゃないだろうか。一方高額のブランドものなどは、そういう多額の購買力がある人には消費税を払って貰っても良いのではないか。転売を防ぐためにも免税を廃止した方が良い。もし政策的に観光客の購買を後押ししたいというなら、一部の伝統的工芸品などを売る観光地の店などだけ免税措置を継続するという方法もある。世界のどこでも買えるブランド品、大量生産可能な菓子や衣料などはもう免税から外して良いと思う。

(オーバーツーリズム)

 京都や鎌倉、東京の浅草などは明らかに「オーバーツーリズム」にあると思う。国としても外国人観光客を増やすというだけを目的とする段階は過ぎただろう。住民生活に不便が生じたり、「これはやっぱりちょっと」という外国人のふるまいを見聞きすることもある。何らかの対策を早めに講じないと、変な「外国人排斥」意識を生じさせるかもしれない。僕はそうならないためにも、オーバーツーリズム対策の原資として用いるということで免税を廃止しても良いのではないかと思うようになったのである。

 ところで、「免税廃止」は現実にはなかなか難しいのではないかとも思う。それは輸出企業への消費税返還に結びつくからである。日本国が決めた消費税は日本に住んでいる人に負担義務がある。だからこそ外国人観光客には免税になるわけだが、同様に輸出品の場合は「日本に住んでない人には消費税負担義務がない」ということで、その製品を作るに当たって原材料費を購入した際に(日本企業に)支払った消費税分が還付される特例がある。それはなんと大企業中心に1.9兆円にも上るという(2022年)。

 このため国内で売ってる金額より安い額で輸出されているわけである。これが「隠れ輸出補助金」としてトランプ政権に目を付けられている。いわゆる非関税障壁ということになる。しかし、観光客に消費税を負担して貰うんだったら、輸出品の還付措置も辞めてはという議論も起きるだろう。世界には消費税がある国、ない国など制度は様々に違っている。日本には消費税があり、国内でもそれを含めた原価で価格設定しているのに、輸出品は消費税分を引いて売っているというのもちょっと何か変な気がする。だけど、輸出額の大きな大企業はこの消費税還付措置廃止には反対するだろう。僕はどっちも止めたらと思うけど、現実は難しいか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする