尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

5年ぶりの「にゅうおいらんず」ー浅草演芸ホール8月上席(昼の部)

2024年08月05日 21時48分34秒 | 落語(講談・浪曲)
 浅草演芸ホールの8月上席(昼の部)に行ってきた。例年この時期は落語芸術協会の噺家バンド「にゅうおいらんず」の公演がある(10日まで)。三遊亭小遊三がリーダーで、春風亭昇太春風亭柳橋などに加えて、見かねたクロウトも入って楽しくやってる。前に見て面白いからまた行きたいと思いつつ、なかなか行く機会がなかった。前はいつか検索したら、2019年以来5年ぶりだった。その間に音曲の桂小すみが加わり、少し安定感が出たかも。昨年から桂宮治もトランペットでゲスト参加。
(にゅうおいらんずの面々=2023年)
 最初にやったラテン音楽「セレソ・ローサ」、聞けば誰でも一度は聞いたことがあるような曲だが、小遊三のトランペットを昇太が延々と引き延ばし「殺す気か」なんて言われてた。小遊三がやりたいと言い出したということで、自分にはラテンの血が流れてるからと笑わせていた。今年初めてやったという「東京ドドンパ娘」も楽しい。1961年、渡辺マリのヒット曲、なんて言われても知らないけど、なんだか聞いたことがあるのが不思議。もともと「にゅうおいらんず」はニューオリンズのもじりだと言うが、ジャズっぽいアレンジが乗りやすい。場内手拍子で盛り上がる。

 ところで「にゅうおいらんず」公演期間は、そこに出る小遊三、昇太、宮治らの「笑点メンバー」は当然落語でも出番がある。それに「特別興行」ということで、普段より高く(3500円)開始時間も早い(11時10分)。そこでいつもより出が早いので、うっかり遅れて来る人がいる。今年の新真打山遊亭金太郎も来てなくて、早く来ていた春風亭昇也が先に出た。「二つ目に戻せ」とかメチャクチャいじられていたが、金太郎が出て来たら「待ってましたと掛け声を掛けて」なんて笑わせていた。噺は「筍」を凄い早口で演じて受けてたが、僕は柳家三三の方がいいなと思った。少し後に金太郎が出た時は、掛け声が掛かって大笑い。

 ところがもっと大物がいた。それが柳亭小痴楽で、12時半出番のところ12時10分に起きたと電話があったという。小痴楽はよく遅れるので、誰も驚かないらしい。妻も寄席の仕事だと知ってる日には起こさないというから凄い。大御所の三遊亭遊雀が先に出て来た経緯を説明すると場内爆笑。小痴楽の場合は楽屋で誰も怒ってなく喜んでるというのが笑える。大分遅れて仲入後の2時過ぎに出て来たら「待ってました」の大洗礼。「松山鏡」という江戸時代に鏡を知らない村で起こる笑話をやった。本来仲入直後は桂宮治だったので、その後に出て来た宮治から「自分の顔を鏡で見ろ」とかいじられて、舞台に小痴楽が乱入してきた。
(柳亭小痴楽)
 こういう今どき珍しい昔風の落語家が生きていけるのが寄席のいいところか。正直、「にゅうおいらんず」よりインパクトがあった。他には瀧川鯉昇三遊亭遊之介などが面白い。バンドで出る小遊三、昇太、柳橋らはやはり落語は小味になるので、落語を楽しむには別の機会の方が良い。漫談のナオユキが初めてだけど面白く、マジックの北見伸&スティファニーは大受けしていた。桂小すみの冷蔵庫に感謝する歌もおかしかった。ただ、5時間越えの長丁場は、休憩が入るとはいえ長過ぎ。お尻が痛くなった。
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梯久美子『戦争ミュージアムー記憶の回路をつなぐ』を読む

2024年08月04日 22時10分10秒 |  〃 (歴史・地理)
 岩波新書の7月新刊、梯久美子戦争ミュージアムー記憶の回路をつなぐ』は重いテーマを取り扱いながらも、とても読みやすい。題名通り日本各地にある戦争ミュージアムを訪れて紹介する本だが、「通販生活」に連載されたという成り立ちから一編が長くない。簡潔にまとまっていて、すぐに読めるのである。どこから読んでも良いし、旅行のガイドにもなる。14箇所の施設が紹介されているが、多分全部行ってる人はほとんどいないだろう。北は稚内から、南は石垣島まであって、近年に出来た施設も多いからだ。まずは読んでみて、夏休みに近くにあるところに足を運んでみては? 「自由研究」や「研修」にも役立つ本だろう。

 梯久美子(かけはし・くみこ、1961~)はノンフィクション作家で、『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道』(2006)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。その後、大著『狂うひと─「死の棘」の妻・島尾ミホ』(2016)が高く評価され、読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞などを受けた(文庫版を持ってるけど、あまりに分厚くてまだ読んでない)。戦争に関する本が多いようだが、近代文学に関する本もある。また『廃線紀行―もうひとつの鉄道旅』(2015)という本もある。
(梯久美子氏)
 この本に出ている14箇所の施設の中で、行ってるところは5箇所しかなかった。結構行ってるつもりだったが、長崎、舞鶴などその町に行ったことがないんだからやむを得ない。行ってるのは(掲載順で)、予科練平和記念館戦没画学生慰霊美術館 無言館東京大空襲・戦災資料センター原爆の図丸木美術館都立第五福竜丸展示館である。それらは東京、または関東近辺にあり訪れやすい。無言館や丸木美術館などは何度か行っている。単なる「戦争ミュージアム」というより、ある種「聖地」みたいな重みがある場所になっている。これらは名前を挙げるだけにしておきたい。
(回天記念館)
 この本には恐らく日本でもっとも知られた戦争ミュージアムが出てない。「広島平和記念資料館」「ひめゆり平和祈念資料館」「沖縄平和祈念資料館」である。広島に関しては関連書籍も多く、ホームページも充実しているからあえて取り上げていないと「あとがき」にある。沖縄も恐らく同じような事情だろう。これらは僕も行ったことがあるが、確かに本書を読む人なら、行ってなくても名前は知ってるだろう。それよりあまり知られていない施設を取り上げるのが、この本の特徴だ。例えば、山口県周南市にある「回天記念館」は、生還を全く想定しない恐るべき「特攻魚雷」である「回天」基地があった島にある施設である。1968年に出来ているが、フェリーで行くしかない瀬戸内海の島にあるので、なかなか行きにくい。
(満蒙開拓平和記念館)
 長野県南部の阿智村に2013年に出来たのが「満蒙開拓平和記念館」である。開館時には報道されたので、僕も存在は知っていた。長野県はかつて「満州国」に多くの移民を送り出した県で、ソ連軍の侵攻、引き揚げ時に大きな犠牲を出した。「満蒙開拓」は当時の国策だが、実は「開拓」ではなく中国農民の土地を奪って与えられたものだった。そのような「加害」と「被害」をともに記憶して伝えようというのが、この施設の特徴だ。僕も一度行ってみたいと思いながら、信州の観光ルートから外れる場所にあってなかなか行くチャンスがない。非常に大切な記念館だと思う。
(舞鶴引揚記念館)
 その外地からの引き揚げに関しては、多くの人の帰還港となった京都府舞鶴市に「舞鶴引揚記念館」が1988年に作られた。この地域(若狭湾沿岸一帯)には行ったことがなく、日本三景の天橋立も見てない。正直言うと、こういう施設があることもこの本で知った。何でもシベリア抑留に関する収蔵品は、2015年に世界記憶遺産に登録されたという。ここも元気なら一度は訪れたい場所である。また石垣島にある「八重山平和記念館」はいわゆる「戦争マラリヤ」を記憶する施設である。戦争マラリヤが軍命令に基づき「有病地帯」へ住民が移動させられた「国策」によるものだったことを僕はこの本を読むまで知らなかった。
(八重山平和記念館)
 沖縄に関しては、撃沈された疎開船である「対馬丸記念館」(2004年開館)も掲載されている。冒頭にあるのは「大久野島毒ガス資料館」で、広島県の瀬戸内海にある大久野島に作られた毒ガス製造工場の資料館である。ここも前から一度行きたいと思っているのだが、東京からはなかなか遠い。今では「休暇村大久野島」が作られウサギの島として世界に知られている。他にも「象山地下壕(松代大本営地下壕)」「長崎原爆資料館」「稚内樺太記念館」が載っている。日本の北から南まで、それぞれの地で異なった戦争の記憶が継承されていることがよく判る。ここで取り上げた場所に他意はないが、自分もあまり知らなかった場所を中心にした。

 最後にここで取り上げられていない施設を紹介しておきたい。最初は「しょうけい館 戦傷病者史料館」である。ここは地下鉄九段下駅近くにあったが、再開発にともない近くに移転して2023年10月にリニューアルオープンした。厚生労働省が設置した施設で無料で観覧できる。戦傷病者という今では忘れられている(少なくとも取り上げられることが少ない)テーマに特化して、戦争に関して重大な視点を提示している。今でも世界に戦争が絶えない中で、決して忘れてはいけない重みがある施設だ。

 もう一つが「アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館」(wam)で、いわゆる「日本軍慰安婦」に関する展示と活動を行っている。西早稲田のビル内にあって金土日月の週4日しか開館していない。しかし、今もつぶれずに存続していることが貴重だ。こっちは有料だが、是非一度は訪れて欲しい施設である。ここも是非紹介して欲しかった場所だ。
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ジョン・ヒューストン監督特集ー孤独な魂を見つめた作品群

2024年08月02日 22時23分50秒 |  〃 (世界の映画監督)
 都営地下鉄新宿線菊川駅(墨田区)近くに「Stranger」(ストレンジャー)という名の小さな映画館がある。全部で49席しかなく、カフェが併設されている。僕の家から遠くはないんだけど、一駅だけ都営地下鉄を使わないと行けない。季節が良い時は歩けるが、今の猛暑では無理。そうなると運賃が新宿、渋谷へ行くより高くなってしまう。ということであまり行かないんだけど、7月19日から8月8日まで「ジョン・ヒューストン特集」として、5本の映画を上映している。そのうち2本は初公開である。ジョン・ヒューストンは晩年の作品をリアルタイムで見ているが,その頃から気になる監督だった。

 ジョン・ヒューストン(John Huston、1906~1987)は映画一家だった。父のウォルター・ヒューストンは息子の監督作品『黄金』(1948)でアカデミー助演男優賞を獲得し、娘のアンジェリカ・ヒューストンも父の監督作品『女と男の名誉』(1985)でアカデミー助演女優賞を獲得した。自分も『黄金』で監督賞を得たから、オスカー三代なのである。デビュー作『マルタの鷹』(1941)でハンフリー・ボガートを大スターにし、『アフリカの女王』(1951)でボギーにオスカーをもたらした。という具合にハリウッドのど真ん中で活躍した監督に見える。しかし、彼はアメリカには珍しく骨があって作家性が高い映画を作ってきた。
(ジョン・ヒューストン監督)
 複雑な人生行路や偏屈な性格もあるし、ハリウッドに吹き荒れた「赤狩り」を嫌って国外で作った時期もある。『アフリカの女王』撮影中は狩猟に熱中するなど奇人ぶりが目に付き、その様子は後にクリント・イーストウッド監督『ホワイトハンター ブラックハート』という映画になったぐらいである。戦時中は陸軍に所属し、ドキュメンタリー映画を4本作った。日本では全く紹介されないままで来たが、4作目の『光あれ』(Let There Be Light、1946)が今回初公開された。これが何と「戦争神経症」を扱って、戦意を喪失させると35年間公開禁止になった映画なのである。
(『光あれ』)
 58分間の短い映画で、何の「やらせ」もないと冒頭に出る。隠しカメラを駆使して、日本の羽仁進監督が子どもたちを撮影した『教室の子供たち』(1955)に10年先立っている。ただ「健忘症」で名前も言えなかった人が一回の催眠療法ですぐ名前が言えるなどホントかな的なシーンも多い。沖縄戦で心に傷を負った兵士が多いのも驚き。統合失調症やうつ病ではなく、PTSDに当たる症例が多いように思ったが、あっという間に寛解してスポーツに興じて退院していく。むしろ「米軍のケア」の宣伝映画にも感じたが、当時としては戦争をきっかけに精神を病むという事実自体が秘匿すべきものだったのかもしれない。

 しかし、ヒューストンは再びこのテーマを取り上げている。それはアメリカ文学の名作とされるクレイン『赤い武功賞』(1895)を映画化した『勇者の赤いバッジ』(The Red Badge of Courage、1951)である。南北戦争を舞台にするが、北軍の新兵は実戦に恐怖を感じて戦線を離脱してしまう。その後戻って「勇者」と讃えられる活躍を見せるが、戦争の恐ろしさ、怯える兵士の心情を描き出している。しかも第二次大戦の英雄と言われながら、本人はPTSDで苦しんでいた人気俳優オーディ・マーフィーを主演に起用した。ただ内容が暗い反戦映画とみなされ、監督に無断で20分近くカットされ69分の映画になっている。
(『勇者の赤いバッジ』)
 その後はアイルランドでメルヴィル『白鯨』の映画化を進めたり、『赤い風車』、『黒船』など世界各地を舞台にした映画が多い。60年前後から再びアメリカが舞台にした作品が多くなり、ハンフリー・ボガートとマリリン・モンローの遺作『荒馬と女』(1960)を作った。それ以後は低迷が続くが、『禁じられた情事の森』(Reflections in a Golden Eye、1967)もその時期。原題を見れば判るが、カーソン・マッカラーズ黄金の目に映るもの』の映画化である。エリザベス・テイラー、マーロン・ブランドが主演し、独特な赤い画調が美しい。しかし、「不倫」「同性愛」などを正面から描けない中で作られ、見てて人間関係をよく理解出来ない。早すぎた映画化だったのかもしれない。
(『禁じられた情事の森』)
 拾いものだったのが『ゴングなき戦い』(Fat City、1972)で、70年代初頭の気だるいムードがよく出ている。カリフォルニア州ストックトンという小都市でロケされた、全盛期を過ぎたボクサーの物語。主人公は有望な新人を見つけたり、酒と女に浸りながら時々リングに立っている。チャンピオンをめざすのがボクシング映画の定番だが、ここにはタイトル戦も八百長も出て来ない。田舎町で時々試合をしているボクサーの人生である。有望な新人をジェフ・ブリッジスがやっている。酒場で知り合う女を演じたスーザン・ティレルがアカデミー助演女優賞にノミネートされた。アメリカではヒットしたらしいが、日本では初公開。
(『ゴングなき戦い』)
 『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』(The Dead、1987)は公開当時に見て感銘を受けた。ジョイス『ダブリン市民』の挿話の映画化で、1904年のクリスマス・パーティを描いている。もう高齢の姉妹が毎年開く会で、来る人も壮年ばかり。ダンスをしたり、歌、ピアノ、朗読などを皆が披露して、食事をする。ただそれだけの映画なんだけど、非常に美しい画面に目が離せない。そしてラストに静かな悲しみが広がるのである。非常に繊細な心情を描いた見事な映画だと思う。83分の遺作で短いが滋味がある。
(『ザ・デッド』)
 ジョン・ヒューストンの映画を初めて見たのは、多分テレビで見た『黄金』だと思う。熱狂と挫折に心惹かれた。今回の5本はむしろ主人公の孤独な魂が身に沁みるような映画が多い。初めて劇場で見たのは『殺し屋判事ロイ・ビーン』(1972)で、実に楽しい快作だった。1984年の『火山のもとで』も見事だった。マルカム・ラウリー原作の映画化で、メキシコの火山の麓で暮らす男の孤独が描かれる。ずいぶん商業的な失敗作も多いけど、いくつかの作品は非常に力強く繊細である。忘れられない映画監督だ。
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韓国映画『密輸 1970』、抜群の面白さに拍手!

2024年08月01日 20時29分09秒 |  〃  (新作外国映画)
 7月12日公開の韓国映画『密輸 1970』(リュ・スンワン監督)はちょっと油断しているうちに上映が少なくなってきた。どうしようかと思ったけど見に行ったら、これが抜群の面白さで驚いた。海洋版『テルマ&ルイーズ』だという人があって、なるほどと思った。懐かしムードの歌謡曲に乗せて、猛然たるスピードで駆け抜けて時間を忘れて見てしまう。アクション&コメディの純然たる大エンタメ作品だが、冒頭から編集のうまさが光る。そして「サメ映画」でもあるんだから、大いに笑える。

 1970年の韓国西海岸クンチョン(架空の漁村)。海女たちがアワビを捕って暮らしていたが、化学工場の排水で不漁続きになる。そこに「密輸」の話が持ち込まれ、やむを得ず船主の娘でリーダー格のジンスク(ヨム・ジョンア)は話に乗ることにする。船が荷物を海底に沈め、それを海女たちが引き揚げるのである。今では「密輸」というと麻薬か覚醒剤かという感じだが、その当時の韓国はまだまだ経済発展途上にある。正規に輸入すれば多額の関税がかかるから、日本製の電気製品などをそうやって「密輸」するのである。ところがある日、税関の船が突然検査にやって来て、ジンスクは父と弟を失い,自らも逮捕されてしまった。
(海女の面々)
 それから2年。ジンスクはようやく監獄から出て来ている。そして、あの日一人だけ捕まらなかった親友のチュンジャ(キム・ヘス)が密告したんじゃないかと疑っている。チュンジャはソウルに逃げてすっかり垢抜けて、今も怪しい商品ブローカーとして幅をきかせていた。と思うと、そこにはやはり組織があり「ショバ代」を無視したチュンジャは,ある日痛めつけられてしまう。組織のボス、クォン軍曹(チョ・インソン)はチュンジャを始末しようかと思うが、うまい密輸方法があるとクォン軍曹に持ち掛けるのだった。
(チュンジャ)
 そして久しぶりにクンチョンに戻ったチュンジャだったが、そこではジンスクの父親に使われていたドリが偉くなって羽振りをきかせている。出所した海女たちは命令に従う立場になっていた。何とか海女たちを使って大々的な密輸を始めたいのだが…。それに加えて税関の係長として取り締まりの中心にいるジャンチュン(キム・ジョンス)、喫茶店のアルバイトだったのに今では店を乗っ取っているオップン(コ・ミンシ)など怪しい人物たちが入り乱れている。そこにクォン軍曹がヴェトナム帰りの部下を連れて現場視察にやって来るが、ひそかにドリはクォン軍曹に対抗心を燃やしていた。
(クォン軍曹)
 かくしてすべての人々がクンチョンに集まるが、昔のいきさつからジンスクはなかなかチュンジャを信用できない。一体2年前の真相はいかに? そして密輸場所に選ばれたのは、最近サメが出るとして海女たちが恐れていた場所だった…。ということで、驚くべき真相、驚くべきアクションが怒濤のように展開され、やり過ぎ的なお約束の結末に一気になだれ込んでいく。エンタメの極意は「反復」にあるが、この映画も重要な展開はすでに伏線として提示されているので、見事な「反復」に笑ってしまう。
(喫茶店で)
 この映画は2023年韓国映画の興収3位とヒットし、青龍賞で作品賞など4冠、大鐘賞では監督賞を得た。リュ・スンワン監督は『ベルリン・ファイル』『モガディシュ 脱出までの14日間』などを作った人だが、今まで見てなかった。素晴らしい疾走感で見せるが、海洋アクションの凄さも見どころ。まさかホントに海で撮ってるのかと思うが、もちろんプール撮影だという。海女はこんなに長く潜っていられるのかと思うぐらいワンシーンが長い。俳優たちは昔の日本映画を思わせる面構えで懐かしい。そして何より「歌謡映画」という作りになっていて、クンチョンだと昔の演歌っぽく、ソウルだとポップ調。昔の曲だけでなく、新たに作ったのもあるらしいが、見事に乗せられる。ムチャクチャ面白かった。
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2024年も育鵬社は採択せずー都教委の中学教科書採択

2024年07月31日 22時47分53秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 東京都教育委員会の定例会が2024年7月25日に開かれて、来年度からの中学校教科書の採択が行われた。前回2020年に引き続き、今回も中高一貫校、特別支援学校すべてで育鵬社は採択されなかった。それは事前に予測されたことで、僕も今回は(コロナ禍の4年前と同様に)教科書展示会を見に行かなかった。今回も左右両派ともに大きな集会や運動はなかったように思う。関連する運動団体のホームページを久しぶりにのぞいてみたが、両派ともにほとんど更新されていないようだった。
(東京都教育委員会=都教委ホームページから)
 最近書いてないから、「中学教科書問題」を簡単に説明しておきたい。中学校の教科書は4年ごとに新しくなる。それに合わせて、4年ごとに教科書を採択し4年間同じ社を使うことになる。教科書は法律で使用する義務があり、いくらデジタル化が進もうと(今のところ)紙の教科書を買う必要がある。ただし義務教育段階の小中学校は、公費で負担する「教科書無償化」が1963年に始まり1969年に全学年で実施された。それ以前は学校ごとに教科書を決めていたが、無償化をきっかけに教育委員会が設置全学校の教科書を決めることになった。ということで、2024年は2025年度から4年間使用する教科書を決める年である。

 戦後の歴史を振り返ると、何回か「教科書問題」が起きてきた。現行の教科書を「左翼的」だと非難する右派勢力が文部省(2000年から文部科学省)を突き上げて、教科書批判を繰り返すというのが大体のパターンだった。しかし、1997年に結成された「新しい歴史教科書をつくる会」は自分たちが自ら教科書を作成し全国で採択をめざすとともに、その教科書を一般に市販するという今までにない特異性があった。教科書は産経新聞の子会社扶桑社から発行され、2001年から採択可能になった。

 こうして21世紀初頭には全国各地で「扶桑社を採択せよ」と迫る右派系と「扶桑社を採択するな」という反対派の運動が繰り広げられた。しかし、実際に扶桑社を採択したところは少なかった。一般に都道府県は高校以上を設置し、中学校は設置しない。しかし、特別支援学校(当時は養護学校)とその頃から作られ始めた中高一貫校の中等部では、都道府県立学校なので都道府県教育委員会が採択する。そして東京都(石原慎太郎知事)と愛媛県(加戸守行知事)の養護学校だけが扶桑社を採択した。右派系首長だった影響だろう。(石原、加戸両氏ともすでに故人である。)

 その後、2005年の採択でも大きな伸びを達成できず、「つくる会」内部ではその原因を「右派的すぎた」として分裂が起きた。八木秀次氏らは新しく「育鵬社」(扶桑社の100%子会社)を作って新しい教科書を作ることになった。一方藤岡信勝氏ら残留派は「自由社」から教科書を出し続けた。2024年はさらに竹田恒泰氏らが「令和書籍」という会社を作って「国史教科書」という教科書を出した。つまり右派系だけで3つも教科書があるのだ。令和書籍は検索しても会社のホームページが出て来ない謎の組織である。「国史」と学習指導要領と違う分野名の教科書が認められるのは不可解だ。
(育鵬社)(自由社)(令和書籍)
 経過説明だけで長くなってしまった。東京都では2005年から都立中高一貫校が設置され、現在10校になる。そして、2004年に採択された白鴎高校附属中に始まりすべての学校で扶桑社が採択されてきた。2011年以後は歴史分野だけでなく公民分野も育鵬社が採択されてきた。(教科書は4年ごとに新規採択が原則だが、学習指導要領改訂の影響で2011、2015、2020年に新規採択が行われた。)それが前回2020年に初めて育鵬社を採択せず、中高一貫校すべてで山川出版社を採択したのである。その年も育鵬社を採択した公立校は、全国でも栃木県の大田原市、石川県の金沢市加賀市小松市、山口県の下関市岩国市和木町などだった。
(都立中高一貫校の採択資料=根津公子氏のホームページから)
 今回も大田原市ではすでに育鵬社の継続が決定された。他市は8月に決定のようである。今後全国的に見て右派系教科書が大きくシェアを伸ばすことは考えにくい。今までは右派系政治家による支援が行われ、それが保守的首長を頂く各教委に少なからぬ影響を与えてきた。知事や市長が教科書を決めるわけではないが、権限のある教育委員を議会に提案する力を持っている。しかし、安倍元首相の死亡、その後の「統一教会問題」、安倍派「裏金問題」などが続き、右派系勢力に大きな陰りが見られる。3つも右派系教科書が出たことも、右派の分裂状況を反映しているだろう。

 東京都においては、かつてのような極端に右派的な教育委員は見られなくなった。教育長も入れて女性が3人いて、バランスが良くなった感がある。しかし、最大のきっかけは山川出版社の中学教科書が前回から登場したことだ。高校は各学校ごとに決めるが、進学校はほとんど山川だろう。そこに連続することを意識すれば、中学段階から同じ会社の教科書を使用する方が指導が楽になるだろう。自分で詳しく調べたわけじゃないが、歴史用語や各種副教材のスタイルなども共通しているんじゃないか。大学受験を考慮すれば、中学といえど山川に優位性があると思われる。(学力差のある公立中ではより一般的な東京書籍のシェアが多い。)

 それと同時に、教科書を各教科多数出してきた東京書籍、教育出版、帝国書院、山川出版社などの方が、全般的に各学校への手当が厚いはずである。教科書デジタル化を考えると、「教科書専門会社」の方が安心して採択できるだろう。今後の歴史教育が大きく変わっていく中で、「教科書が諸悪の根源」的な陰謀論的発想は時代遅れになっていくはず。大体「サヨクの影響力がある教科書を使うから自虐的になる」などど本当に信じている人などいないだろう。それでは戦後ほぼすべての時代で自民党(または自民党に連なる勢力)が政治権力を持ち続けた理由が説明できない。自分たちが政権を握って教科書検定をしているのに、そんなバカなことがあるわけがない。自民党政権が「考えさせない」教育を続けたから、選挙の投票率が低いというなら判るけど。
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猛暑の迎賓館を見に行くー50周年記念で「羽衣の間」の写真を撮る

2024年07月30日 22時44分16秒 | 東京関東散歩
 関東以西は毎日ものすごい猛暑が続いている。とても散歩どころではないんだけど、昨日(7月29日)「迎賓館赤坂離宮」に行ってきた。JR、東京メトロ四ツ谷駅から徒歩7分(とホームページに出てる)と、それほど遠くもない。でも余りにも暑くて(東京でも38度になった)、何で来ちゃったんだと思ってしまった。まあ今日無事に書いてるぐらいだから、大丈夫だったわけだが。

 迎賓館は国宝に指定されている。国宝指定建築物は是非見るようにしているが、迎賓館に今まで来なかったのは「内部で写真が撮れない」からだ。外観だけに1500円の参観料は高いかもと思っていた。(事前予約して和風別館も見ると、2千円。)しかし、今年は「迎賓館」(として整備されてから)50周年として、7月は特別に「羽衣の間」の写真撮影可だった(8月は「東の間」、9月は「花鳥の間」の撮影可)。ということで、「羽衣の間」は7月中に行かないと写真を撮れないから行ってみたわけ。

 迎賓館はよく正面からの写真が使われるので、僕も「主庭」から見た外観を知らなかった。内部を見た後、庭を見ることになるが、写真的にはこっち側の方が見ごたえがある。噴水があったり、松の木がアクセントになっている。迎賓館はもともとは1909年に「東宮御所」、つまり皇太子(大正天皇)の居所として建てられた。しかし、大正天皇はほとんど使わずに「離宮」となった。あまりにも壮大なネオ・バロック様式で使い勝手が悪かったともいう。だけど、やはり近代日本洋館建築の最高峰ではある。
   
 受付を済ませて中へ入ると、いろいろとグルグル回って行く。広いのでどこがどうやら判らないし、写真を撮れない。羽衣の間ってどこだと思う頃、出て来た。全景はホームページからコピーする方が理解しやすい。
(羽衣の間)
 ここは広さ約330平方メートルで、典型的なロココ様式なんだという。名前は天井に謡曲「羽衣」の壁画(フレスコ画)があるから。もともと舞踏会場として設計され、迎賓館で一番大きなシャンデリアがある。
   
 実際に撮ったのがこんな写真だが、やはり観客がいるから難しい。つい大きなシャンデリアに目が行くわけ。ここは今は晩餐会の招待客に食前酒、食後酒を提供する場になっているという。こうしてみると、誰が見てもヴェルサイユ宮殿の影響というか模倣。昨日書いたハイチ(サン=ドマング)で大もうけをしたブルボン王朝が建てた宮殿を、アジアの後発帝国主義国が精一杯マネした。複雑な感慨もあるが、ここまでやれば立派とも思う。内部には日本風の装飾も施されている。見終わると、外へ出て主庭へ回る。ものすごく暑くて、行きたくないけど、せっかく来たんだから。
   
 横から見るのもなかなか面白い。4枚目の樹木はゴルバチョフ「お手植え」の記念植樹である。そしてもとへ戻ると、前庭に行ける。こちらがよく写真で見る正面側になる。そこではパラソルと椅子があって、お茶が飲めるところがある。暑くて休みたいを通り越えて、早く駅に戻りたいという気持ちで寄らなかった。
   
 ここはもともと片山東熊が設計した。近代建築史に名高いジョサイア・コンドルの弟子で、宮内省に勤務して多くの建築に携わった。京都国立博物館奈良国立博物館東京国立博物館表慶館新宿御苑御休所などが残っている。戦後になって国に移管され、国会図書館や東京オリンピック組織委員会などが置かれたこともある。当時の迎賓館は旧朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)だったが、狭すぎるとして赤坂離宮を迎賓館に改修した。その「昭和の大改修」は村野藤吾が担当し、1974年に完成。その時谷口吉郎設計による「和風別館・洗心亭」も作られた。

 現在も迎賓館として使用されているので、外国からの賓客があるときは非公開となる。2016年からそれ以外の日は公開されている。観光立国をめざすとした菅官房長官が残した恐らく唯一の「善政」だろう。外国人観光客は確かに多かった。また行くかどうかは微妙だが、国宝なんだし一度は見ても良いのかなと思う。「権力者の館」ではあるが、それはお城だって同じだし。
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君はハイチ革命を知っているか?ー『ハイチ革命の世界史』を読む

2024年07月29日 22時46分45秒 |  〃 (歴史・地理)
 君はハイチ革命を知っているか? 「ハイチ革命」とは、18世紀末に中米カリブ海にある小国ハイチ(当時はフランス領サン=ドマング)で起きた黒人奴隷による革命である。1804年に独立を達成し、「世界初の黒人共和国」を樹立した。ハイチはその後苦難の道のりを歩み、今でも西半球最貧国と呼ばれる。現時点では政府がほとんど機能せず、国土の大部分をギャング組織が支配していると言われている。余りにも先駆的な「反植民地革命」だったため長く世界から認められず、世界史上でも「忘れられた革命」になってきた。しかし、今ではアメリカ独立革命フランス革命と並び「18世紀の三大革命」とされている。

 最近岩波新書の浜忠雄ハイチ革命の世界史』を読んで、この記事を書いている。2023年8月に出た本だから、ほぼ一年前に出た本だが、「積ん読」だったわけではない。新書といえど税込で千円を超えるから、もう世界史の新書はいいかなと思って買わなかったのである。今回読んだのは、きちんと中南米カリブ海地域の歴史を知りたいと思ったからだ。ガルシア=マルケスの小説はずっとコロンビアのカリブ海沿岸地域を描いていた。さらに、ちょっと前に『MV「コロンブス」炎上問題、「教養欠落」が問題なんだろうか?』(2024.6.23)を書いたので、「コロンブスが『発見』した島」で何があったのかをきちんと考えたいのである。

 その島はイスパニョーラ島と名付けられたが、後に聖ドミニコ(13世紀初頭にドミニコ会を創設したスペインの修道士)にちなんで「サントドミンゴ」と呼ばれるようになった。現在島の東3分の2が「ドミニカ共和国」となり、首都がサントドミンゴなのも、この聖ドミニコから来ている。17世紀になってスペインが衰えフランスが強大になり、次第に島の西部を占領するようになった。スペインには撃退する力がなく1697年にフランス領と認められ、フランス語読みで「サン=ドマング」と呼ばれた。
(ハイチの場所)
 スペイン領時代から原住民タイノ族は鉱山などで酷使され、また白人の持ち込んだ病原菌によって原住民はほぼ絶滅するか逃亡した。人口は十万人から百万人いたとされる。(なおスペイン人が新しい作物などを得てアメリカ先住民に病原菌が流入したことを、今は歴史学用語で「コロンブス交換」と言うらしい。)そこでスペイン人はアフリカから黒人奴隷を導入し、奴隷制プランテーション農業が盛んになった。18世紀フランス経済はサン=ドマングの砂糖貿易に支えられ、砂糖きび栽培はぼうだいな黒人奴隷に頼っていた。表が掲載されているが、18世紀末には黒人奴隷が40万以上にもいて、白人3万人を大きく越えていたのである。

 過酷な環境にたえかねて、1791年8月21日に黒人奴隷の一斉蜂起が始まった。蜂起はあっという間に広がり、北部の大部分を解放した。サン=ドマングでは解放奴隷のトゥサン・ルヴェルチュール(1743?~1803)がリーダーとなり、奴隷解放を宣言した。その時本国フランスは大革命のさなかで、1789年に採択された「人権宣言」は「人は、自由かつ諸権利において平等なものとして生まれ」と格調高く述べている。ならばフランス領内に奴隷の存在は認められないはずだ。根強い抵抗を排して、やがてフランス議会が奴隷廃止を決定する過程は興味深い。結局「恩恵」として解放を認めたのは、革命後の周辺諸国との戦争の影響が大きかった。
(トゥサン・ルヴェルチュール)
 しかし、ナポレオン政権になって情勢が暗転する。ナポレオンは1801年にトゥサンを罠にかけて逮捕し、フランスまで連行して投獄した。(トゥサンは1803年に獄死した。)その後ナポレオンは秘密指令で奴隷制復活を指示し、大軍をサン=ドマングに派遣した。しかし、サン=ドマングの人々は団結してフランス軍を打ち破り、1803年末には全土を解放した。そして1804年1月1日に「ハイチ独立宣言」を発したのである。国名をハイチとした理由は不明だが、これは先住タイノ族の言葉で「山の多いところ」を意味するという。絶滅した先住民の尊厳の回復も込められた国名だったと思われる。

 この本を読んで驚いたのは「世界史の偉人」とされてきた人々の実像である。今書いたようにナポレオンは奴隷制復活をもくろんだ。「独裁者」であり「解放者」でもある二面性が指摘されるナポレオンだが、それはヨーロッパ内の視点に過ぎず、植民地から見れば抑圧者だった。ガルシア=マルケス『迷宮の将軍』が描いた「ラテンアメリカ解放者」シモン・ボリーバルも不利になるとハイチに援助を求めるのに、結局は奴隷の反乱を恐れていた。さらにアメリカの奴隷解放令を出したリンカーンの実像は衝撃。彼は確かに奴隷を「解放」したが、黒人を社会をともに担う存在とは考えずアフリカやハイチへの「黒人植民」を考えていたのだ。

 ハイチを承認する国はなかなか現れず、結局は1825年にフランスに巨額の賠償金を支払うことと引き換えに、独立が承認された。フランスが払うのではなく、フランス人植民者の利益分の賠償をハイチが負わされたのである。あまりにも巨額のため支払いは度々遅延し、なんと支払いが終わったのは1922年だったが、それもアメリカからの借款による返済だった。この重い賠償金がハイチの国力を奪ったのは間違いない。「独立」したものの世界から無視されて「忘れられた革命」となったハイチ革命。それはあまりにも先駆的な革命だったために、世界史から忘れられたのだ。しかし、アフリカ諸国が次々と独立したものの、政治的、経済的に苦難が続くのを見ると、今こそハイチの先駆性の教訓をくみ取る必要がある。

 この本は世界史認識がひっくり返る本である。僕は若い頃に児童文学者乙骨淑子(おつこつ・よしこ、1929~1980)の『八月の太陽を』(1966、愛蔵版1978)という本を読んでいる。ハイチ革命とトゥサンの生涯を1960年代に児童文学として描いた恐るべき先見性に満ちた作品である。この本ぐらいしか若い頃にハイチ革命の本はなかったと思う。一応世界史の教科書には小さく載ってるし、歴史教員だったんだから(日本史が専門だが)、僕はハイチ革命の存在を知っていた。しかし、世界史的意義について、この本を読むまできちんと考えてこなかった。多くの人がそんなものだろう。これは「世界」を認識するために必読の本だ。
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最後の作品『出会いはいつも八月』ーガルシア=マルケスを読む⑩

2024年07月27日 22時08分41秒 | 〃 (外国文学)
 ガルシア=マルケスを読むシリーズは、『百年の孤独』で終わったようなものだが、もう一つ『出会いはいつも八月』(En agosto nos vemos)を読んだので簡単に紹介しておきたい。この本はガルシア=マルケスが生前最後に書いていた作品とされる。作家は晩年に認知症を患い、結局発表されることなく終わった。2014年に亡くなった後、原稿が整備され発表されるはずだったが、やはり完成度に問題があるとして中止になったらしい。しかし、家族には残念な思いが残り、没後10年を迎える前に改めて刊行されることになったという。日本では2024年3月に旦敬介訳で刊行されたという「新作」なのである。

 ガブリエル・ガルシア=マルケスは重要な作家だから、このような「遺作」も読んでいいかなと思って思わず買ってしまった。本文だけなら90頁ほどという中編というべき作品に定価2200円というのは、一般的には高すぎるだろう。まあはっきり言えば、他に読むべき本がいっぱいある中で、あえてこの本を読む必要もない。それでも読めば面白いし、一番最後にこんなことを書いてたんだという感慨はある。今までは「過去」を描くことが多かったが(19世紀から20世紀半ば頃)、この作品は島に観光用リゾートホテルが建ち並んでいるので明らかに現代。その意味では貴重な作品ではある。

 さらに今まではどちらかというと、男性の目から「愛と性」を描くことが多かったが、今回は女性の目から描いているのも珍しい。コロンビアのカリブ海沿岸地域(と思われる)に、アナ・マグダレーナ・バッハという46歳の女性がいる。(ちなみに、この名前は作曲家のバッハの二度目の妻と同じ名前。20歳で16歳年上の作曲家に嫁ぎ、13人の子どもをなしたという人である。ストローブ=ユイレ夫妻によって映画化され、日本でもかつて話題になった。)この命名はジョークなのか、作中のアナ・マグダレーナの夫も音楽家である。母親を亡くし、遺言で母は街から離れた島に葬られた。
(英語版=Until AUGUST)
 彼女は八月の命日に船で島に墓参に出掛ける。そして、ある年たまたま見知らぬ男と出会って結ばれたのである。名前も職業もわからぬ男との一夜が妙に忘れられず、翌年も八月になると見知らぬ男に抱かれたいという願望を抱くようになった。ということで、翌年はどうなったか。翌々年はどうなったか。毎年島は少しずつ開発が進んで変わっていく。その変化の中で、毎年八月だけ島に出掛ける数年間を描いている。この間に夫や二人の子どもの様子も触れられるが、基本的には「アナ・マグダレーナ・バッハの八月」だけを事細かに描いている。そして50歳の年、島では開発のため母の墓も改葬されたのだった。

 この小説はこれで終わりなんだろうか。多分そうなんだろう。もっと面白くなりそうな手前で終わりになっちゃう感じがしてしまう。でも作家の創作力はここまでしか描けなかったんだと思う。興味深い設定だし、毎年どうなるかは一種のミステリーみたいな興趣がある。だけど今ひとつ薄いのは、女性を描いたからか、あるいは現代を描く難しさか。いや『百年の孤独』や『コレラの時代の愛』を思い浮かべれば、ガルシア=マルケスはもっと長大で、女性心理にも細かく分け入る小説を書いていた。やはり体力的、精神的な衰えによって、ここまでの淡彩に終わったと思う。

 ということで、この小説はファン向けのボーナス・トラックみたいなものだろう。ガルシア=マルケスに取り組んでみようというときに、これは抜いても構わないと僕は思う。もちろんそれでも十分面白いし、最後まで「愛」をテーマにしていたことも判る。ガルシア=マルケスの重要作品では『族長の秋』(1975)が残っているが、これは止めておく。集英社のラテンアメリカ文学全集の第1回配本として、1983年に発売された。その時に読んだけれど、全集を探し出すのも億劫。短編で読んでないのもあるし、ノンフィクションでは自伝、紀行などずいぶん翻訳されている。地元の図書館にあるのを確認しているが、いささか飽きてしまった。読みやすい日本の小説を読みたい気分。同時にラテンアメリカの歴史に興味が出て来た状態。
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他の知事・市長経験者は当選しないー過去の都知事選で判ること

2024年07月26日 22時17分46秒 |  〃  (選挙)
 都知事選のデータを見ていて気付いたこと。今さら都知事選について何を書くのかと思うだろうが、今年の都知事選ではなく過去から見えてくるデータに関心がある。「東京」を繁栄した首都のように思っている人が多いかもしれないが、この町は決して住みやすい町ではない。そのことは今は書かないけど、「東京都制」を何とかして欲しいと思う。「東京都解体」「東京市復活」を掲げて知事選に立候補する人はいないだろうか。暑すぎて映画館に行く気も起こらないので、少し過去の話を。

 今まで都知事選で現職が落選したことがない。これは今回の選挙中も指摘されたことだが、では過去最高得票の落選者は誰か。それは1975年の石原慎太郎候補の2,336,359票である。この時の当選者は3選を決めた美濃部亮吉知事で、2,688,566票だった。かなり迫っていたのである。この時の記憶が高齢の保守系有権者に残っていて、それが1999年の当選につながったのではないか。

 次が1967年の松下正寿候補の2,063,752票。自民、民社が推薦したが、社会、共産推薦の美濃部亮吉候補に競り負けた。美濃部氏は2,200,389票だったから、わずか14万票程度の差だった。落選候補が200万票を越えたのは、この2回だけである。この時は公明党が独自候補を立て、60万票ほどを獲得した。つまり1967年に「革新都政」が成立した最大の原因は、公明党が自民党に付かなかったことである。ちなみに1975年には公明党は美濃部3選を支持したが、79年からは基本的に自民党に同調している。
(過去の主な都知事)
 半世紀前の過去はともかくとして、その後美濃部知事(3期)、鈴木俊一知事(4期)を経て、1995年には青島幸男知事が当選した。当時は「自民、社会、さきがけ」の村山富市内閣だったこともあり、自民、社会などの主要政党がこぞって石原信雄氏(元内閣官房副長官)を推したことに、青島氏が反発して立候補したのである。結局都政に足場がない青島知事は大した業績も残せないまま1期で去った。この経験から、石丸伸二氏には「都議会にはどう対応するのか」を問う必要があった。

 今回の石丸伸二氏のように、他の場所で知事や市長を務めた人が立候補したことはかなり多い。例えば2011年知事選に出た東国原英夫候補である。石原慎太郎知事が4選を決めたが、東国原氏も1,690,669票を獲得し次点だった。(全体の28%。)この時は東日本大震災直後で、選挙運動も盛り上がらないまま現職が当選した。東国原氏は直前まで宮崎県知事を務めていた。しかし、1月にあった知事選に出馬せず、都知事選に立候補したのである。
(2011年都知事選)
 その前に、2007年には石原知事の対抗馬として、前宮城県知事の浅野史郞氏が民主党など野党に支援されて立候補したことがある。後の東国原氏とほぼ同数の1,693,323票を獲得している。2012年には前神奈川県知事の松沢成文氏(現参議院議員)が出馬したが、3位で敗れている。2016年に小池百合子氏が当選したとき、自民党は小池氏ではなく元岩手県知事の増田寛也氏(現日本郵政社長)を推したが、1,793,453票で敗れた。(小池氏は290万票ほど。)古くは1963年に東知事の対抗馬として前兵庫県知事の阪本勝氏が出ているが、こうしてみると当選した人は誰もいない。

 市長経験者としては、1995年に前出雲市長の岩國哲人氏が立候補したが、3位で敗れた。ついでに書くと、2007年には元足立区長の吉田万三氏が出たこともある。保守分裂のため当選した共産党系区長である。この時も共産党推薦で立候補して、63万票近くを獲得している。そして、2024年の石丸伸二氏ということになる。こうしてみると、与党系で出ても、野党系で出ても、完全無党派で出ても、他の自治体トップの経験者は当選出来ないという「法則」があるということか。

 都知事選では200万票を越える得票がないと当選出来ない。今まで他の自治体トップ経験者は160、170万票程度しか取れていない。2016年の増田氏のケースで判るように、何で東京の国会議員がいっぱいいるのに東京以外の人を知事にするのかと反発が出て来る。野党系の場合、野党支持者はまとめられても、無党派層に浸透するのが難しい。今回の石丸氏もずいぶん得票したが、当選には遠かった。「知名度」とともに、なんで地方の市長が東京の知事になりたいのという素朴な疑問を越えられないということか。

 今後も他の自治体トップでは難しいと思う。全都的に支持を得るには、他県、他市のトップだった過去が足を引っ張るのかもしれない。東京の有権者に違和感を感じさせるということではないか。今まで誰も言ってないと思うので、ちょっと書いてみた次第。
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都知事選、「石丸+蓮舫」票が小池票を上回る地区はどこかー都内格差の可視化

2024年07月25日 22時13分59秒 |  〃  (選挙)
 都知事選について、改めてデータに基づき考えたい。当選した小池百合子の得票率は42.77%だった。従って過半数は得ていない。(前回2020年はほぼ6割の得票で、過半数を大きく超えていた。なお、21世紀の都知事選では、2003、2007年の石原慎太郎、2012年の猪瀬直樹が過半数を獲得している。)日本の選挙には「決選投票制度」がないので、これで当選である。

 それはいいんだけど、法定得票(有効投票数の1割)を越えたのは(言うまでもなく)3人だけだった。多数が出ていても、4位の田母神俊雄は27万票弱、全体の4%である。以下、10万票を超えた人が3人いる。それはそれなりに重いんだろうが、選挙情勢的には無視して良い。そこで上位3人を見ると、2位石丸伸二得票率24.3%、3位蓮舫得票率18.81%だった。合計すると43.11%になり、若干小池票を上回る。具体的に票数を見ると、小池(2,918,015)、石丸(1,658,363.406)、蓮舫(1,283,262)となる。石丸+蓮舫=2,941,625.406票となる。

 まあ、二人合わせれば2万票ちょっと上回るわけだけど、これはまあ誤差の範囲である。有力二人合わせて、やっと現職とほぼ同じなのである。知事選後、「石丸候補は何故躍進したのか」「蓮舫候補は何故3位に終わったのか」はいろんな人がいろいろ語っているけれど、本当に検証するべきなのは「前回より減ったものの、小池知事は何故圧勝出来たのか」の方だろう。それを解明せずにあれこれ語っても、2位にはなれても東京で当選出来ない。
(東京各地)
 東京と言っても広い。各地域には大きな違いがある。それを考えるために、何かいい地図がないかなと検索したところ、東京都企業立地相談センターという部署の地図が見つかった。そこでは各地域が色分けされている。23区部は「都心・副都心」「城東」「城南」「城西」「城北」の5つのエリアに分かれている。多摩地区は「北多摩」「南多摩」「西多摩」の3エリア。それに加えて「島しょ」エリアがあり、全部で9つになる。ここで考えたいのは、各エリアで各候補の得票がどう違うのかである。
 
 とは言うものの、全部見るのは大変だ。幾つかを抽出して、「小池票」と「石丸+蓮舫票」を比べてみる。どういう意味があるのかというと、小池知事の支持傾向に地域差があるのかがそれでつかめると思うのである。一票単位で比べるのは面倒なので、千票単位で四捨五入する。先に見たように、全都的には「小池票」=「石丸+蓮舫票」になっている。では、まず国会議事堂、首相官邸がある千代田区を見てみる。小池(1万3千)、石丸(9千)、蓮舫(5千)で、ほぼ全都の傾向と同じである。

 人口が最大の世田谷区(城西地区)を見ると、小池(18万7百)、石丸(13万4千6百)、蓮舫(9万8千7百)なので、小池票は一番なんだけど2位、3位を足すと5万票近く離されている。同じ城西地区の杉並区(小池=11万3千、石丸=7万7千、蓮舫=6万6千)や中野区(小池=6万4千、石丸=3万9千、蓮舫=3万4千)も似たような傾向にある。これは多摩地区の隣接市も同じで、武蔵野市(小池=3万、石丸=2万、蓮舫=1万8千)、三鷹市(小池=3万9千、石丸=2万6千、蓮舫=2万2千)なども同傾向である。

 この城西、北多摩地区には「野党系首長」が多い。選挙前に都内52の区市町村長が小池氏に知事選出馬要請を行った。それに加わらなかった首長も10人いるが、世田谷、中野、杉並、立川、小金井などほぼ城西、北多摩地区の区長、市長である。2021年衆院選で、立憲民主党候補が小選挙区で当選したり、あるいは比例区で復活当選したのも同じ地域が多い。つまり、もともとこの地区では非自民系の有権者が多いのである。

 では先の地域分けの「城東地区」を見てみる。僕が住んでる足立区は小池(14万8千)、石丸(7万)、蓮舫(5万2千)で、2位、3位を足しても現職に2万6千票も及ばない。ここでは都議補選も行われ、千票も差が付かなかったが14万票で立憲民主党候補が当選した。つまり小池支持者でも、都議補選では自民党に入れなかった人が相当いた。だけど、知事選では小池と書くのである。

 続いて足立の隣の葛飾区を見ると、小池=9万8千、石丸=5万3千、蓮舫=3万7千。その南の江戸川区では、小池=14万4千、石丸=7万4千、蓮舫=4万8千。城東地区でも、江東区や台東区では少し両者の票が上回る。しかし、それは「二人合わせれば」ということで、小池を抜いてトップになれるということではない。それにしても、ここで判るのは東京の一番東にあたる城東地区では、石丸票と蓮舫票の差が非常に大きい。先の中野区や三鷹市などを見れば歴然としている。

 面倒なので他の地区は検討しない。僕がここで書きたかったのは、城西、北多摩地区などに住んでいる非自民系の人は、小池知事が盤石ではないという肌感覚を持っていたのではないかということだ。当初石丸候補がこれほど取るとは予想されてなく、もし無党派票が蓮舫候補に集中すれば「勝機あり」と見えていたのではないか。しかし、城東地区に住んでいる自分から見れば、「小池に勝つのは難しいだろう」という肌感覚になる。そして蓮舫陣営の運動は城東地区であまり展開されなかった(と思う)。

 そして、野党系リーダーばかりでなく、野党系「文化人」や「市民運動家」、マスコミ関係者などもおおよそ「城西地区」に住んでいる。そこの感覚で発信するから、城東地区には浸透しないのではないか。非自民系の弱い地域で、地道な運動を行う以外に勝機はない。そして、実はこの選挙データは経済的、文化的な「都内格差」に基づいていると僕は考えている。そこを検証しない限り、東京は変わらないままだろう。(なお選挙のデータは各市区の選挙管理委員会のホームページに出ている。また新聞では、選挙直後の火曜日朝刊の地方版に掲載されている。)
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都知事選ポスター問題再論、内田樹氏のとらえ方

2024年07月24日 22時04分20秒 |  〃  (選挙)
 都知事選関係の問題をもう一度。まず「ポスター掲示板」問題から。「NHKから国民を守る党」が都知事選に24人の候補者を立てて、その「掲示板を利用する権利」を販売したという問題が起きた。選挙後に公職選挙法改正の論議があるところまで書いている。このように一党があまりにも多くの候補者を立てたために、掲示板にポスターが貼れない候補者が出た。都選管はそれに対して「クリアーファイル」を渡して、それに入れて掲示板の外側に貼るように指示した。これが「不公平」であるとして、選挙無効の訴えが相次いでいる。これに対しては僕は「笑止千万」としか思ってない。
(自宅近くの掲示板)
 何が不公平なのか。確かにちゃんと掲示板に貼れないのは公平性に問題がある。だが、それを主張出来るのは全都の掲示板にクリアーファイルを貼っていた候補者だけだろう。前にも紹介したが、わが家近くの掲示板(複数)は最後の最後までたった9人の候補者のポスターしか貼られてなかった。マスコミで「主要候補」に入っているはずの候補でもポスターがない人がいた。僕は別に驚きも嘆きもしない。都知事選や参院選はいつもそんなものだからだ。半分以上の枠が空いたままになるのは僕の地区では通常のことだ。こっちこそ「不公平」だと思う。クリアーファイルで貼っていたポスターは恐らく都心部のごく限られた掲示板だけだと思う。

 僕は下に載せた「掲示板ジャック」も見ていない。クリアーファイルも見てない。知事選の間、何も自宅に引きこもっていたわけではなく、都心部の主な地区には行っていた。だけど、銀座、新宿、渋谷、池袋、上野などで駅から映画館や寄席などに行く動線上にポスター掲示板は一箇所もなかった。人が集まる主要駅にこそ掲示板を立てればいいと思うが、候補者が余りにも多いから掲示板が大きいのである。商業活動に影響を与えるから設置出来ないのかなと思う。住んでる人が駅まで行く途中にはあるんだろうけど、暑い時期にわざわざ裏の方まで入り込まない。東京東部の周辺地域には、都知事選の運動は及ばないのである。
(「掲示板ジャック」)
 ところで、この問題をもう一回書いてるのは、東京新聞7月21日付(日曜)の「時代を読む」というコラムを読んだからである。ここでは毎週違う人が月1回書いてるが、当日は内田樹(うちだ・たつる、1950~)氏の文章が掲載されていた。「性善説システムからのお願い」と題されたその文章を読んで、なるほどそういう見方もあるなあと思ったのである。なお、内田氏の肩書きは「神戸女学院大学名誉教授、凱風館館長」になっている。これじゃ知ってる人にしか判らない。Wikipediaには「フランス文学者、武道家(合気道凱風館館長。合気道七段、居合道三段、杖道三段)、翻訳家、思想家、エッセイスト」となってる。

 まあ、これでも判らないかもしれない。要するにフランス哲学者レヴィナスの研究、翻訳、紹介から始まり、21世紀になる頃から数多くの一般書を書いて知られた人である。僕も最初期の『ためらいの倫理学』や『「おじさん」的思考』なんかを面白く読んだ。対談等を含めると、すでに100冊を遙かに超える本を出していて、とてもじゃないが飽きてしまったが。しかし、うっかり忘れていたような視点からの鋭い指摘は時々ハッとさせるものがある。
(内田樹氏)
 さて、今回の問題に対する内田氏の考え方は以下の通り。「これまでも政見放送や選挙公報にはあきらかに市民的常識を欠いた人物が登場したけれども、それは「民主主義のコスト」だと思って、私たちは黙って受け入れていた。だが、今度の都知事選の非常識さは前代未聞だった。」「でも、こういう行為をする人たちは別に選挙を利用して金儲けをしたり、売名をしたいわけでもないと思う。彼らの目的は公選法が「性善説」で運用されているという事実そのものを嘲笑することにあるのだと私は思う。」

 「供託金さえ払えば、公器を利用して、代議制民主主義というものの脆弱性と欺瞞性を天下にさらすことができる。民主主義というのがいかに理想主義的な仕組みであるか、それを暴露して冷笑することがこのような行為をする人たちを駆動している本当の動機だと私は思う。「民主主義がどれほどくだらない制度だか、オレたちが好き放題にしているのを見ればわかるだろう?」と彼らは国民に向かって挑発的に中指を立てているのである。」

 なるほど、言われてみればこの「民主主義システム嘲笑論」は、世界に広がる「極右」勢力の気分をよく表わしている。今までの常識を「時代遅れ」と決めつけ、タテマエを非難して「ホンネ」を掲げる風潮。禁止されてないんだから、やって構わないという主張。揚げ足を取るようなやり取りで「論破」したと自分でみなす「論争」。そんな様子を思い出すと、彼らはシステムを嘲笑するのが目的なんだというのは、実に正確に言い当てている気がする。

 そして内田氏は「だからといってこういう行為を処罰できるように法整備をすることは原則としては反対である」という。その後の論理展開はかなり面倒くさい議論になっているので、ここでは省略する。詳しく読みたい人は自分で探して欲しい。僕は内田氏と違って、公選法を改正することに反対ではない。というか、常識で理解出来る範囲の問題行動があったとき、それを明文で禁止する法改正を立法院がするのをあえて止める理由が自分にはない。確かに無くて済めばその方がいい規定だろうが、そういうことをした人がいるんだから、僕が反対するような問題でもない。
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喜んでるのに、なぜ「悲願」と表現するのか?

2024年07月23日 21時56分08秒 | 気になる言葉
 パリ五輪の開会が近づいて来た。開会式は26日(金曜日)で、それに先立ちサッカーや7人制ラグビーの予選が明日(23日)から始まる。東京はものすごい猛暑が連日続いているが、パリの最高気温はなんと20度台半ばほど、最低気温は10度台になっているらしい。快適というより、むしろ観客には冷涼と言うべきか。一方、アメリカ大リーグのオールスター戦も16日に行われ、大谷翔平選手がスリーランホームランを打った。日本のプロ野球でも、ただいま現在オールスター戦第1日をやってる。2回にセリーグが3本のホームランで9点も取って試合的には面白くなくなった。

 他にも多くのスポーツが行われているが、高校野球の地方予選もその一つ。少しずつ代表校が決まりつつある。青森では冬の高校サッカーを制した青森山田が野球でも7年ぶり12回目の出場、秋田では6年前に準優勝した金足農が7回目の出場を決めている。一方、南北海道代表は初出場の札幌日大。ここは北海高校という40回出ている強豪校があり、札幌日大は今まで3回決勝に進出したものの準優勝に終わった。また宮城県代表も初出場の聖和学園。ここも30回出場で2022年に東北勢初優勝を飾った仙台育英、また22回出場の東北(ダルビッシュ有を擁して2002年に準優勝)という強豪校がある地区である。

 というようなスポーツの話を書きたいわけではない。これらのデータは特に知ってたわけじゃなく、今調べて知ったのである。僕はこの札幌日大や聖和学園が「悲願の初優勝」と報道されていることに、突然「なんで?」と気付いたのである。大相撲も今名古屋場所をやってるが、横綱照ノ富士が10連勝している。それに続くのが大関3場所目の琴櫻で2敗と2差が付いている。テレビや新聞では「悲願の初優勝」に向けて「これ以上は落とせません」なんて言っている。
(聖和学園が「悲願」の初優勝)
 僕が思ったのは、優勝して喜んでるのに何で「悲しい願い」なんだという疑問である。悲劇、喜劇というわけだから、悲願じゃなくて「喜願」と言う方が良くないか。大体「願い」というのは、悲しいことにならないようにと願うわけだから、これって反対の言葉がくっついている。言葉に慣れちゃって、今まで何の疑問も持たなかったけど、一体なんで「悲願」と言うんだろう。
(札幌日大も「悲願」の初優勝)
 そこで調べてみたが、結局「仏教用語」だった。仏教から来た言葉が意識せずに日常語になっていることは多い。(安心、挨拶、差別、自由、退屈、利益などなど。)問題の「悲願」は、「仏・菩薩(ぼさつ)がその大慈悲心から発する誓願。阿弥陀仏の四十八願。薬師如来の十二願などの類」ということなのである。ここで「慈悲」という言葉が出て来る。そこで慈悲を調べると、「慈・悲・喜・捨」(じ・ひ・き・しゃ)の内、最初の2つをひとまとめにした用語・概念であり、本来は慈(いつくしみ)、悲(あわれみ)と、別々の用語・概念であると出ている。

 「悲」は願望が実らず残念な状況ではなく、「あわれみ」という意味だった。そして特に浄土系の教えでは「阿弥陀様がすべての人間を救おうと立てた誓い」を意味している。そのように御仏の計らいで願いが叶ったと考えるとき、それは「悲願が成就した」ということになるんだろう。「かなしい」という言葉を「愛しい」とも書けるように、単に「sadness」だけを意味するのではなく、愛しい(いとしい)というようなニュアンスを含んでいる。そういう意味合いで「悲願」というわけである。
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愛と抵抗の年代記、『百年の孤独』②ーガルシア=マルケスを読む⑨

2024年07月21日 22時21分47秒 | 〃 (外国文学)
 ガルシア=マルケス百年の孤独』を読む2回目。昔読んだときの本を探し出してきた。なんと1972年に出た初版を持っていたので驚いた。いつ買ったのか不明だが、1982年まで読まなかったのは確か。値段は950円で、300頁ほどの本である。文庫で600頁を越える本が300頁で収まるのは、小さな字で二段組みなのである。今ではとても読む気になれない。一番最後にジャン・ジュネノーマン・メイラートーマス・マンカミュの全集の広告が載っている。こういう作家の全集を買う読者がいて、そういう読者層向けに『百年の孤独』が出版されたわけだ。今ではちょっと考えられない人選だろう。
(初版本)
 文庫ではアウレリャノ・ブエンディアと書かれているが、初訳ではアウレリャーノ・ブエンディーアと長音になっている。前に読んでる人は、そっちに慣れているだろう。帯を見ると「まさしくあのホメーロスや、セルバンテス、ラブレーが描いた〈巨大な人間劇場〉!」とうたっている。なるほど間違いじゃないだろうが、今はこのような受け取り方は少ないと思う。20世紀の小説は人間心理の深淵を究める方向に進み、さらに「物語性」を否定する「ヌーヴォロマン」へ至った。そんな時に現れた『百年の孤独』は、大昔のセルバンテス、ラブレーのような「ホラ話」の復活と思われたんだろう。
(スペイン語版)
 この小説を改めて読み直してみると、「全部愛の話」だと思った。そもそもその後に書かれた『コレラの時代の愛』や『愛その他の悪霊について』など、ガルシア=マルケスほど「愛」、それも「奇怪な愛」を書き続けた作家はいない。もちろんどんな作家も愛を描くし、ガルシア=マルケスだって「権力」や「宗教」も考察している。短編の場合だと、特にテーマを打ち出さず「奇想」をそのまま描いた作品も多い。しかし、なんと言ってもガルシア=マルケスの最大のテーマは「」だった。「愛」を裏返せばもちろん「孤独」である。『百年の孤独』は題名にあるように「孤独の考察」でもあるが、それは「愛の不在」でもある。

 『百年の孤独』のブエンディア一族は「愛」に憑かれているが、愛に恵まれない。およそ(普通の意味での)「幸福な結婚」から生まれた子どもがいない。「正式な結婚」は不幸な運命しかもたらさず、ブエンディア家を継ぐ次世代は母親や父親が判らぬような子どもばかりが多い。もっとも「正式な結婚」をするためには、町に行政当局や教会がなくてはならない。マコンドは何もない状態から建設された町で、つまり「平家の落人」みたいな一族なのである。それにしても複雑な愛と性の絡みあいが何回も繰り返される。それらは幸福な結実を見ずに終わることばかり。一方で愛を拒絶して自ら孤独に沈潜する人も多い。「孤独癖」の一族でもあった。そして一番最後に現れた本当の情熱こそ、延々と生き続けたウルスラの「予言」の成就だったとは。
(執筆していた頃)
 ガルシア=マルケスの小説はすべて「」がない。つまり長編小説の場合、普通「第1章」「第2章」などと分かれている。章なんて書いてなくても、数字の「1」「2」などで分けられるのが普通だ。それがないから延々と最後まで切れ目がないのかと最初は心配するだろうが、さすがにそんなことはない。何十頁か読むと、数字が付いてないだけで明らかに判る区切りがある。この巨大な小説は、「愛」をテーマとみなした場合、前半は「ウルスラ」、後半は「フェルナンダ」の時代となる。もっとも後半になっても初代ホセ・アルカディア・ブエンディアの妻であるウルスラ・イグアランは全然死なないけど。

 それでも明らかに一家の主導権(二代目家母長)は、初代から見てひ孫世代のアウレリャノ・セグンドが祭で見初めて遠くの町まで求婚に出掛けて結ばれたフェルナンダ・デル・カルピオに移る。敬虔なカトリックで「家風に染まぬ嫁」だったフェルナンダは、結果として子どもたちに不幸をもたらして孤独のうちに世を去る。それが「女系」で見た『百年の孤独』だが、これを「男系」で見るとまた違ってくる。ブエンディア一族こそ、2代目の「アウレリャノ・ブエンディア大佐」とひ孫世代の「ホセ・アルカディア・セグンド」(フェルナンダの義兄)という偉大な伝説的抵抗者を二人輩出した一家なのである。
(執筆当時頃の夫妻)
 コロンビア内戦で伝説的な自由の闘士となったアウレリャノ・ブエンディア大佐は、将軍になれるのに一生「大佐」を名乗っていた。(まるでリビアのカダフィ大佐だが、カダフィの方が後である。)出世のために起ち上がったのではないのだ。国家と無関係に生きてきたマコンドに、国家権力が入り込み横暴を極める。そしてついに町の若者が蜂起するが、その時リーダーとなったのが町を作った一族のアウレリャノだった。そして何度も何度も死地をくぐり抜け、伝説的な勝利と敗北を繰り返し最後は町に戻ってくる。自由党幹部がいくつかの大臣の椅子と引き換えに「停戦」を承諾して、現場の戦闘員は切り捨てられたのである。

 これはコロンビアで実際に続いた内戦を描いている。19世紀から20世紀に掛けて「千日戦争」と呼ばれる3年も続く内戦が繰り広げられた。アウレリャノ・ブエンディア大佐は他の作品にも出て来るが、抵抗のシンボルとしての「永久革命家」である。しかし、実際の戦争の中で彼も変貌していく。恐るべき政治的思考に囚われていくのだ。さらに戦場のあちこちで「献上」された美女たちとの間に、すべてアウレリャノと名付けられた17人の子どもまで産まれた。しかし、彼らは新しい蜂起を恐れる国家の謀略で次々に殺害される。大佐は部屋に閉じこもって、蜂起以前の仕事だった魚の金細工に打ち込み、恐るべき孤独の中で死んでいく。

 後半になると、鉄道が敷かれ「文明」が押し寄せる。ブエンディア家がアメリカ人観光客にバナナを提供したことから、バナナの特産地であると知られた。アメリカの会社がバナナ農園を築き、行政や警察の庇護のもとマコンドの新しい支配者となった。アメリカ帝国主義による経済的植民地化で、中南米各国は「バナナ共和国」と呼ばれた。余りに過酷な労働条件に怒った労働者がストを起こしたとき、そのリーダーがホセ・アルカディア・セグンドだった。しかし闘争は敗北し、軍隊の発砲で3千人が死亡し死体は海に捨てられた。この大虐殺は政府が事実と認めなかったので、やがて「そんなことは起こらなかった」と忘れられた。

 このような国家的な「フェイクニュース」により人々の記憶が消されていく状況は、現代の世界で多く見られる。中国の「天安門事件」を若い世代が知らないというが、記憶の抹殺と言うべきだろう。同じようなことが20世紀初頭のマコンドで起こり、すべては忘れ去られた。そして4年間の大雨でバナナ農園は壊滅し、人々はバナナ農園があったことさえ忘れていく。何という歴史的な「孤独」だろう。こうして、愛の年代記の裏にあった抵抗の年代記も、恐るべき孤独をもたらすのである。『百年の孤独』は奇想のマジック・リアリズムばかり言われるが、コロンビア民衆の抵抗の歴史が刻まれた書であることももっと重視するべきだ。
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マジック・リアリズム、『百年の孤独』①ーガルシア=マルケスを読む⑧

2024年07月20日 21時58分10秒 | 〃 (外国文学)
 ガルシア=マルケス連続読書は、いよいよ『百年の孤独』である。論点がたくさんあるので、2回に分けて書くことにする。『百年の孤独』は1967年に発表され、世界で累計5千万部売れたという大ベストセラーである。日本では鼓直(つづみ・ただし)訳で1972年に翻訳され、1999年に改訳された。そして2024年6月に初めて新潮文庫に収録されたわけである。原題は「Cien Años de Soledad」で、英訳題は「One Hundred Years of Solitude」。つまり、普通に訳すなら「孤独の百年」である。それを『百年の孤独』と訳したところに妙味があり、日本語として詩的な深みが出ている。検索すると、宮崎県の会社が作っている「幻の焼酎」の名前にもなっている。そういえば聞いたことがあるが、製造本数が少なくて入手が難しいという。
(新潮文庫)
 以前に寺山修司が舞台化し、さらに映画化を試みたが、原作者の許可を得られなかった。そのため作者死後に『さらば箱舟』と改題されて公開された作品が実は『百年の孤独』になるはずだった。今回Netflixでドラマ化されるということで、改めて世界的注目されている。ということで、話題だから読んでみようという人もいるだろうが、早くも挫折した人がいるかもしれない。だから、友田とん『『百年の孤独』を代わりに読む』(ハヤカワ文庫)という本まで出てるぐらいである。そういう話を聞くと、どんな難解な小説かと身構える人もいるかもしれない。でも、この本は特別に難しい本じゃない。
(Netflixでドラマ化)
 しかし、自分も今回読み直すのに一週間ぐらい必要だった。案外「読みにくい本」でもあるのだ。それは何故だろうか。まず一つは純粋に長いということ。文庫本で注や解説を抜いて625頁ある。他の新潮文庫と比べて薄い紙を使っているので、「読み進み感覚」がスロー。しかも地の文ばかり続いて会話が少ない。司馬遼太郎の歴史小説みたいな気持ちで取り組むと、全然進まないのにガッカリする。もう一つは、同じ名前がひんぱんに出て来て混乱するのである。日本でも親の名前を襲名するということはあるが、基本的には子どもに親と同じ名前は付けない。しかし、アメリカのジョージ・ブッシュ元大統領の長男がジョージ・ブッシュ元大統領、という風に外国では親子で同じ名前を付けたりする。

 この小説はホセ・アルカディオ・ブエンディアに始まる一族で、その子がホセ・アルカディオとアウレリャノ、その次の世代がアルカディオとアウレリャノ・ホセ、その次の世代はホセ・アルカディオ・セグンドとアウレリャノ・セグンド…という具合。女性の場合は、レメディオスとかアマランタの名前が繰り返される。これじゃ混乱しても無理はない。一応家系図が出てるけど、関係者も多いから忘れてしまう。ところで何でこんなに似たような名前を付けるのか。実際にコロンビアで多いのかも知れないが、それだけではない。この小説より『コレラの時代の愛』の方が長いけど、「長さ感」では『百年の孤独』の方が上だと思う。
(家系図)
 それは『コレラの時代の愛』が基本的には時間が線的に進むのに対し、『百年の孤独』は時間が円環的な構造になっていて同じような話が繰り返されるからだ。その仕掛けの謎はラストに解明されるが、この物語は一番最初に書かれていた「予言」が実現する物語だった。それも「繁栄」ではなく、「滅亡」に至る物語である。ホセ・アルカディオ・ブエンディアウルスラ・イグアランは訳あって村を離れ、自分たちの新しい村を創る。それが「マコンド」で、『百年の孤独』は簡単に言えば「マコンド盛衰記」である。また「ブエンディア家の人々」とも言えるが、一家の盛衰が町の運命と絡まり合っていることが特別だ。

 物語は19世紀初め頃に始まり、題名通り百年間の時間が経つ。日本で言えば、江戸時代の徳川家斉将軍時代から昭和になるまでで、この間の変化はものすごく大きい。それは近代文明が世界を支配した時期である。ブエンディア家によって栄えていたマコンドも、外部から影響を受けることによって変わってしまう。それまでも「ジプシー」の一団が年に1回訪ねてきて、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは不思議な文物を入手して錬金術に熱中する。しかし、何十年か経つと「国家」と無縁に生きてきたマコンドにも、地方政府と教会が作られる。さらに何十年か経つと鉄道や飛行機などの「近代文明」がマコンドにも出現する。そして小説世界が全く変わってしまう。後半三分の一はひたすら衰えていく物語だから、読むのが辛いのである。

 この間マコンドでは不思議な出来事が起こり続ける。死者が甦るし、死なない人はずっと死なない。家母長と言える初代のウルスラは何と150歳近く行き続ける。目が見えなくなっても周囲に悟られず家族を見守っている。「小町娘」と言われるレメディアスは文字通り「昇天」してしまう。(小町娘はもう古いだろう。英語の「ザ・ビューティ」で良いと思う。)「ジプシー」のメルキアデスが籠っていた部屋は、彼の死後(いや、一度死んでから、甦ってマコンドに来るのだが)も塵が積もらず、空気も澄んでいる。後半になると4年と11ヶ月2日間も雨が降り続くし、その後は10年間の干ばつがやってくる。

 こういう現実にはあり得ない描写が連続し、その魅力に世界は驚かされたのである。そこで「マジック・リアリズム」という用語が作られて、ラテンアメリカ文学の代名詞ともなった。だけど、今回読み直してみると、そういうもんだと知って読むからかもしれないが、案外驚きはない。こういうものに慣れてしまったのもあるだろう。前にも書いたが、全く同年に発表された大江健三郎万延元年のフットボール』にもマジカルな描写が見られる。何もガルシア=マルケスの、あるいはラテンアメリカ文学の発明というよりも、同時に多くの作家たちが同じような試みをしていたんだと思う。

 それは従来の「リアリズム」、あるいはそれを越えたはずの「社会主義リアリズム」では、もはや世界の大きな変化を表せなくなってしまったという時代認識があったのだろう。だけど、それは単に「ファンタジー」とは呼ばない。どんな奇想天外な世界が展開されようが、それはファンタジー小説ではなかった。やはりラテンアメリカの現実にしっかりと根ざしたリアリズムだった。初めて読んだ時は驚くべき幻想小説にも見えたが、再読するとラテンアメリカ民衆史でもあり、壮大な愛の神話だった。
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公選法改正、「ネット事前運動」や「戸別訪問」の解禁も議論を

2024年07月19日 21時47分03秒 |  〃  (選挙)
 都知事選関連の問題はもっと考えるべきことがある気がしてる。結局それは「東京一極集中」という問題になる。まあ、そのことは後に回して、先に公職選挙法(公選法)の改正問題を考えてみたい。自民、公明両党は改正に向けた議論を始めていて、秋の臨時国会の大きなテーマになるだろう。「つばさの党」事件や「ポスター掲示板販売」問題が起こった以上、それらの明らかに選挙をおかしくする行為を禁止するのは当然だ。ついでに「政党その他の政治団体は、各選挙の当選者定数を越える候補者を公認することはできない」というルールも作って欲しいところだ。

 しかし、そういう「禁止事項を加える」だけでなく、この際「選挙運動の自由」を大幅に拡大するべきだと思う。まず日本の選挙運動期間は非常に短い。アメリカの大統領選なんか、常にガンガン議論している。まだ民主、共和両党の候補を決める段階だけど、事実上「事前運動」をずっとやってる。それが良いかどうかはまた別だが、衆議院選が12日参議院選と知事選が17日は明らかに短すぎる。多くの人が休日の土曜、日曜が(告示の曜日にもよるが)1回か2回しかない。これで議論が活発になるはずがない。だから、普段から顔と名前を売っている現職が出る場合、新人が勝つのはとても難しいのである。

 だけど、実際の選挙運動が長すぎるのも困る。選挙カーが回ってくると騒音だし、燃料代も公費負担である。だから実際の選挙運動は今と同じ期間でもいいけど、ネット上の運動なら告示日なんか関係ない。「次の選挙に立候補します」とネット上で宣言することに何か問題があるだろうか。都知事選なんか「後出しジャンケン」なんて言われて、誰が出馬するのかなかなか判らない。そして選挙期間中もほとんど議論がない。逆に早く立候補を表明して、どんどんネット上で支持を広げる戦略もアリではないか。インターネットの使い方に関しても、上記画像にあるように「SNS」は可なのに、電子メールは不可など、不可解なルールが存在する。こんなバカげたルールは意味不明。何を使っても良いが、他候補への根拠無き非難などを刑事罰で禁止する規定の方が必要だろう。
(ネット選挙の現状)
 一方で、「マスコミの公平性」も緩和するべきだ。今回明らかに小池、石丸、蓮舫3候補が大量得票が見込まれた。(新聞やテレビ局は世論調査をしてるんだから、事前に承知している。)だから、3氏の討論会をやって欲しいわけだが、小池知事が「公務優先」を理由にして出ないということで、実現しなかった(と言われる)。でも、「蓮舫対石丸」の討論会でいいから、テレビや新聞、ネットメディアでやって欲しかった。終わってから石丸氏を各番組に呼ぶんじゃなく、選挙期間中にもやれば良い。他の候補が不公平だと言うだろうが、多少は知名度がある候補数人に5分程度のアピール時間を確保すれば十分だ。

 もう一つ「戸別訪問」の問題もある。もともとなんで禁止なのかというと、「買収が起こりやすい」からと言われる。また労働組合が支持する革新党が有利になることも保守陣営は心配したんだろう。でも今じゃ誰が録音録画しているか判らない。迷惑な戸別訪問をする陣営は、録音がネットに掲載されてあっという間にネットで叩かれるに決まってる。確かに今戸別訪問を解禁すれば、公明党(創価学会)や共産党の支持者がやって来て、支持者じゃない人には迷惑もあるだろう。でも嫌なら嫌で、ビラだけ受け取って帰って貰えば良い。支持しない政党のビラでも貰って読むべきだろう。
(戸別訪問と個々面接の違い)
 理解出来ないルールが残り続け、選挙運動期間も少ない。これでは盛り上がるわけがない。僕は街で選挙運動を見る機会が非常に少ない。ほとんど誰とも会わないのを覚悟している。いつもそうだからである。もっとも今回は都議補選の候補者の演説は二人とも聞いた。(立憲民主と自民から出た。)地元密着の選挙なら、運動にもぶつかるのである。しかし、住民が1400万もいて、離島もある東京都の知事選では、候補者を見る機会が少ない。業界団体や労働組合、宗教団体などに参加している人は今とても少ない。誰からも働きかけがないなら、選挙の投票率が下がるのも当然だろう。自分で調べて投票に行く人ばかりじゃないんだから。以前書いたことと重なる論点もあるが、あえてまた書くことにした。
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