実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦的なⅡ  実戦教師塾通信二百七十三号

2013-04-20 15:59:56 | 子ども/学校
 若き教師に向けて

     ~その2「グチが作る学校の王道」~


 1 「これでいいのでしょうか」


      
          季節到来 愛車です

 グチはいいのだろうか。ケースバイケースである。いいことはないにしても、仕方がない場合はある。しかし、前号で示したようなグチはダメだ。
「(生徒が)ひどいもんです」に始まり、そこに自分の「善意と熱意」を訴え、最後に「だめですよ」と結論づける。さらに、「だめですよ」のあとには「ね」を付け加えることを忘れていない。
 こういうグチの類も「報告」のうち、と考えている「優しい」スタッフもいる。しかし、この例は「ひとりプレゼン」→「ひとり協議(討論)」→「ひとり判決(結論)」回路というのであり、概して「ひとりよがり」というのだ。こういう手合いを甘やかしてはいけない。グチとは、自分の非力を嘆くという要素が含まれてこそ、可能性があるものだ。こんな自己肯定のガードでがっちり守ろうとする奴に、未来はない。
 さて、この無能野郎の「だめですよ」「ね」の「ね」のあとに来るものは、
「このままでいいのでしょうか」
である。これは通訳すれば、
「このままではすまんぞ!」
という戦闘宣言、報復の誓いであり、そして、
「あなたもそう思いますよ、ね」のお誘いであり、ならば
「共に手を打とうではありませんか!」
と、あっと言う間に「意志統一」!?の入口にいざなわれていたりする。
 いやあ、これが暴走行為として認定されるほど、学校は健全ではない。言われた方が、自分はそんな話に付き合っているような余裕はない、というレベルだと助かる。しかし、ここに同意し、
「待ってました! 共に闘おう!」
と迎える景色は、残念ながらまだまだ多いのだ。


 2 「いいこと」は「いい」か

 1957年のスペイン映画で『汚れなき悪戯』という、大した映画ではないのだが、子どもの他愛ない遊びの「罪のなさ」を描いたのがある。こともあろうに、等身大のキリストの像を相手に、男の子(マルセリーノ)が他愛のない遊びを繰り返すという、まぁイエスの信者からすると、やっぱり少し大変な映画だったのかな。その後男の子が死んでしまうので、なんかそれでキリストも折り合いつけたのか、みたいな、変な後味の悪さがあった。
 もうひとつ、このブログ上で、一度紹介したような記憶もあるが、柳田国男の『遠野物語』で、

遠野のあるお堂の古ぼけた仏像を子供たちが馬にして遊んでいた。それを近所の者が神仏を粗末にすると叱りとばした。するとこの男はその晩から熱をだして病んだ。枕神がたってせっかく子供たちと面白く遊んでいたのに、なまじ咎(とが)めだてするのは気に食わぬというので、巫女(みこ)をたのんで、これから気をつけると約束すると病気はよくなった。

というのがある。両者、特に後者は「いいも悪いもない」ことを言ってる。「無邪気」なものはあるという、そういう話だ。
 ところが、学校または「学校的現実」はそうではない。
「『いいこと』は『悪いこと』よりいい」
のだ。当たり前でしょう、となる。すべての思考回路はストップする。

○服装は正しい方がいい
○言葉づかいは正しい方がいい
○そうじは勤勉にやる方がいい
○時間は守る方がいい
○食べ物(給食)は好き嫌いなく食べるがいい
○あいさつはきちんと出来た方がいい
等々。
これらはすべて、
「このようであった方がいいに決まってる」
ことである。
 問題はふたつある。ひとつ目は、以前ここで「際限のない正義」として、眉村卓の『ねらわれた学園』を引き合いに出しながら書いたことがある。学校、あるいは学校化社会というものは、いったん言い出したことは後に引けず、ひたすら深化し拡大する方向へと進む。もちろんここでいう「深化拡大」とは、積極的なそれではない、「偏狭な」という意味だ。
 例えばひところはやった服装や頭髪の議論・規則だ。男子の方に限定して考えてみよう。

○初期(黎明期)-みぐるしくないもので
○中期(勃興期)-長すぎないものを、アレンジが過ぎないものを
○後期(爛熟期)-前髪が眉にかからないように、後ろ髪は首にかからないように
○現在(混沌期)-パーマ&茶髪はだめ、見苦しくないように

と、大雑把に書いてみたが、当然これは「坊主頭」以降のことだ。「初期」以前だと、この坊主頭が、
「先生の指を頭に沿って入れた時、髪がその指をはみ出ないように」
だったり、坊主に伴う帽子の問題があって、
「校章を隠すように被ってはいけない」だの、
「フライパンでバターと共に固めてはいけない」
なんていうのもあった。こうするとどっちも、チイさんのハンチング帽のようになるのだ。昔も線引きの境界をどうするかという「問題」では、笑えるものがある。
 「後期(爛熟期)」は、実に様々なスタイルと指導が百花繚乱、桜吹雪で面白いのだ。スキンヘッドという「ネオ右翼」はいいのかとか、ヒゲを蓄えて来るのはどうも見苦しいとか。忘れていけないのは「整髪料」の出現である。まるで「発毛剤」のごとく、「においとべたつき」が摘発の対象になった。いや、製薬会社も大したもので、このあと「においなし/べたつきなし」の製品を開発する。じゃあなんのための「整髪」かとなるのだが、ここんとこの微妙な「おしゃれ」の主張は、向こうさん、ちゃ~んと残しておる。この辺りもホントに、大正製薬の「リアップ」のようだ。それで思うが、結局今流行りのキューピーさんの頭のような、あのお笑いのはなわが、今も広告塔となっている頭の格好って、この「後期」に使われた学校の規則「前髪は眉の上/後ろ髪は首より上」を通過出来る。モヒカン刈りをした生徒が、
「これで違反してないはずだけど」
と、すごんで見せたのを思い出す。やはり「現実は豊か」なのだ。それに追いつこうとすればするほど、生活は息苦しくなる。それは学校の問題に限らない。
 言葉づかいの問題もそうだ。「敬語」を「正しい言葉」と勘違いしているバカがいる。使う場所と相手を選ばないといけない。「マナー」として「敬語」を使うことがいいのであって、そうでない時それは、単なる「他人行儀」になるのだ。敬語は今や昔の「尊敬」「謙譲」「丁寧」のみっつではない。あとふたつ加わったらしい。バカで暇な学者どもが作っちまった。「多くの言葉で営まれている生活」を知らないマヌケな連中が「いい言葉」を奨励している。
 大切なことはなにか。簡単なことだ。
「むきにならない」
ことだ。

 私は小さい頃の十五夜、子どもたちだけで出掛けたことを思い出す。こっそり(本人たちはそのつもりなのだ)他人の家に忍び込んで、縁先に備えてある団子を盗んで食べる、そんな「悪気のない悪さ」のことだ。なぜか大人たちもこの夜だけは、夜遊びを公認した。そして、まんまと「獲物」をいただく快感に、私たちはおおいに満足した。しかし、この快感に関与してくれない相手もいくつかあった。ひとつは、
「どこのどいつだ! 盗っ人が!」
と烈火のごとく怒る家だ。もうひとつが、
「こらこら、こそこそしないで上がって食べていけ」
と、家に招き入れる家だ。
 どちらも、子どもたちのことをちっとも分かっていない。

             愛車 第二弾
          


 ☆☆
40年以上も前に、大学で中途半端に見た大島渚の『日本の夜と霧』、ようやく全編見ました。この映画がきっかけで、大島はプロダクションを追い出され、自ら若手の監督だけのプロダクションを立ち上げます(後の『atg』)。『愛のコリーダ』では、フランスでの撮影。「日本では本番(猥褻な)映画を撮れないから」というのがその理由でした。そんな大島のこの『夜と霧』を理解するのは、多分私たちの世代までだろうな、と思った次第です。
でも、『戦場のメリークリスマス』はもちろん、小学生の子を車にぶつからせ、それで生計を立てつつ、日本を漂流する当たり屋一家を描いた『少年』、これもお勧めですよ。

 ☆☆
なんか寒いですね。北海道は雪!だとか。せっかくしまったストーブです。エアコン使わない私なので、着膨れしています。
北海道の石川先生から本が届きました。『教師力の極意』という、前回と違ってタイトルでげんなりせず(失礼!)、少し(失礼!)楽しみです。ありがとうございました。

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