実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

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実戦的なⅢ  実戦教師塾通信二百七十四号

2013-04-23 17:45:14 | 子ども/学校
 若き教師に向けて

       ~その3「無能を乗り越える手だて」~part1「原理」



 ◇この「手だて」の部分、やっぱり長くなりそうです。一回では終わりません。とりあえず今回は「原理的」なところを書きます。

 1 自由な食事

 給食の話から始める。どうして給食か。ここは学校での、
「こうしないといけない」
そしりを免れるための道を考えたい、そんな手続きとして「給食」をたたき台にしたいということだ。
 小学校に勤務の時、私は給食指導なるものをやっていた。30~40年前の十年間だ。そして、その後中学校に異動。そこで15年ほど過ぎてから、中学校での給食指導という場を、私は迎えることになる。久しぶりの給食というものに対して私は、以前の考え方を若干変えないといけないと思った。小学校教員時代の「食」の事情に関しては、
「好き嫌いや栄養のことは家庭でやります。学校では美味しいものをおねがいします」
という親たちの声が象徴していた気がする。この頃は「食生活」が「育てる/育つ」ものとして考えられていた。
 しかし、その15年後の世の中では「食」はまったく違っていた。「飽食」の時代を謳歌していた人々の食べ物に対する感覚は、
「(安いし)うまい」
「なんだったら高くてもいい」
「柔らかい」
「たくさん(または欲しい分)」
といった「大雑把」なものだった。欲しいと思えば「いつでもどこでもなんでもある」という感覚は、贅沢を表しているかのように見えて、実は「淡白な味けなさ」を意味していた。ここに「食を構成するこだわり」といったものが残っているとすれば、もう「好み」だけだ。

 給食が始まって驚いた。生徒たちは揃いも揃って、
「いらない」「少し」
を連発。食材の入ったバケツ(食缶)には、たっぷりと惣菜が残された。それだけではない。配られるままに受け取った料理も、子どもたちは当たり前のように残した。給食台の上の食缶やトレーの中に、子どもたちは無造作に、汚いものでも捨てるように戻した。見るからに食べ散らかしたものは、ほんとに汚く見えた。無惨この上ない眺めだった。
 私の頭の中には目まぐるしく、今の子どもたちの食生活と生活の実態が駆けめぐった。子どもたちの食生活は、

○家でも勝手に(自由に)食べている
○親は子どもが「食べる」ものを与えている
○子どもは「食べたいもの(だけ)」を親にせがんでいる
○親は「その日の気分」の料理・食事をしている
○子どもは「その日の気分」で食事をしている

      
   嫌いなものレギュラー、椎茸とピーマン、デザートの飛車角マドレーヌ

まあ全部殆ど同じことを言っている。好き嫌いや栄養などは二の次である。結果、肉への偏食傾向や、「やわらか~い」「とろけるぅ!」指向。今さらだが、これはプリンやはんぺんに言ってるんではない。肉に言ってやがる。そして、家庭での「食べなさい」の言葉の消失。また、そのバックにある「いらない」の声。親は、
「こうしないと『食べてくれない』」
と言う。だから「リクエスト」と言えば聞こえはいいが、かつてあった積極的な響きが双方にあるわけではない。親の方に「頑張るぞ」という姿勢が脆弱だし(しっかり「頑張っている」家もあるのだが)、頼む方も、
「今日は絶対ハンバーグ!」
と、胸の前で手を合わせるわけではない。有り合わせ、または「なんでもあるデパ地下で買った」ものに、「食べなさい」と言わせる力はない。何せ子どもが「いらない」と言っても、他に食べるものがある。母が作ったカレイのムニエルにそっぽを向いて、冷蔵庫からパックのグラタンをチンすればいいだけだ。


 2 ふたつの違和感

 また、この時食事は、必ずしも「家族」一緒ではない。「いらない」という言葉さえないまま、料理は家人それぞれの「好み」と「都合」にあわせて扱われる。
 これらを裏打ちする子どもたちの生活感覚は、とりあえず「自由」、いやもう少し厳密に言えば「不自由がない」ことだ。給食の時、自分の行為が「不自由な」者の振る舞いに見えてはいけない、という気遣いが発生するのはそのせいだ。だから、
「好き」より「嫌い」
が先行する。それが「自分が自由に選んできた証拠」となるからだ。また同じことだが、見苦しいかも知れない、という遠慮で、
「少し」
が幅を利かせ、
「山盛り」や「お代わり」
を忌避する。「意地汚いのではないか」というわけだ。小学校では女子に多く見られるこの傾向は、中学校では男子まで浸食される。 
 そして、こどもたちにとって、この給食には学校での息苦しさ/違和感が発生している。給食は、
「お揃い」
なのだ。一番が、もちろん
「メニュー」
である。みんな同じ!? なんてこった。席も給食のための班だとぉ? 「勝手」ばかりでなく「自由」でない? と子どもたちは頭を抱える。ここんとこクリアするのが大変な子どもは結構多い。給食の時間に脱けだして、コンビニでカップラーメンや菓子パン&スナック菓子なんぞを買って、部室裏で食べる子があとを絶たないのは、この「不自由さ」も根拠となっている。
 さて、おまけに「いただきます」なる儀式もあると来ている。やっぱり「自由」でも「勝手」でもない。それで、子どもたちが給食に覚える違和感は、時として軽蔑にまで発展する。
 私はこのままでいいとは思えなかった。いや、これはとんでもないことだと思った。

 そろそろひとつ、ここで押さえたい。「メディアリテラシー」のように、目先を変えて子どもの興味を引こうという方法をこの給食にたとえると、子どもの「好み」にあわせた「複数のメニューを」となる。実際それをやっているバカなところもあるらしい。「食べない」ことさえ「自由」の選択肢に入れている子どもたちの現実は、そんな解決法を相手にしないと思われる。
 「おいしくたくさん食べても太らない」というタニタ社員食堂のメニューは、たったの一個だ。このメソッドの大好評はご存知だろう。この方式は、栄養バランスやカロリー、そして大切な「味」のほかに、「仲間みんな」で(社員食堂なのだ)、「同じもの」を「語りながら」食べる、というコンセプトがある。ここには「食事」の重要要素がたくさん盛り付けされているのだ。まさに「同じ釜の飯を食う」とはよく言ったものだ。
 そして、もうひとつの学校的体質がもたらす風景が、
「好き嫌いなく食べる子がいい子」
であり、
「全部食べるまで昼休みは許しません!」
という「毅然とした」姿勢だ。
 こうして食材/料理はますます行き場をなくして、惨めな姿をさらす。イチローの超偏食生活は、思えばこの学校給食がトラウマになっていると、私は記憶している。

 確認しよう。子どもたちの行動/選択には理由がある、ということだ。その筋道を探ることからしか解決は見えない。こどもを「なだめた」り「おだてた」りすることや、逆に「強制的」な「矯正」によっては、解決は先送り、または遠くへとやることになる。
 「実際」どうするか。次号からやってみよう。再び「給食」でやってみよう。


 ☆☆
薄ら寒い日が続きますが、明日から福島行きとなります。お味噌協力者のみなさん、いつもご協力ありがとうございます。また配りながら、少ししゃべってきます。今回、天気が崩れそうです。配る時に雨が降っていなければ、と願っています。
風薫る季節、もうすぐですね。

 ☆☆
やりましたね、佐藤琢磨。インディ500、とうとう優勝です。一年間で11戦戦われるこのインディは、総本山がインディアナポリスでのレースです。F1だと、モナコ戦が頂点というところ。一昨日のロングビーチのコースは、インディには珍しいストリートのコースでした。インディにあんなコースがあったんですねえ。インディのコースは、通常「オーバル(楕円)」状で、陸上競技のトラックのようになっています。アメリカ風の豪快さというか、大体さ加減を感じませんか。ここをひたすら左回りにぐるぐると回る。単純なコースなので、殆どブレーキを踏むこともなく、いつも時速350キロを出している。血液も内臓も、二時間近く常に右側に寄りっぱなしだそうです。
流暢な英語で、被災地を気づかう爽やかな笑顔でした。
おめでとう、佐藤琢磨!
       
   少し関係ないデザインですが、佐藤琢磨におめでとうということで(初版は「砂糖」琢磨でした。カッコわりい。ご指摘ありがとうございます)。
  

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