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償い  実戦教師塾通信二百四十二号

2013-01-08 12:29:09 | 子ども/学校
 学校の扉


 ある事例 「さらし者にするな!」


 もう昨年の暮れのことだが、やり切れない報告/相談を受けた。
 からかわれたというより、繰り返しの陰湿ないたずらを受けた子に謝罪させようとして、先生たちは「主犯格」を含めた複数の生徒を呼び出した。その仕打ちのいきさつを、被害者の生徒に話させた。すると、親が学校に怒鳴り込んだ。
「みんなの前でさらし者にするとはなにごとだ!」
実はこれ、わざと読者が勘違いをするように書いてみた。

 まず、この被害者生徒は直接話をしたのではない。先生たちが、その生徒の話を「録音」をしたのだ。きょうび流行りの言い方をさせてもらえば、この生徒はいわゆる「発達障害」を抱えていた。それで先生たちが、この生徒が当人たちを前にうまく話せないと困ると「配慮」したのだ。
 そして、学校に怒鳴り込んだ親は、この被害生徒の方の親ではなく、加害側の「主犯格」の親だった。この場合、指導する場所に居合わせたのは被害生徒と加害生徒数名、そして教師が数名である。おそらく、そういう半分公開の場面のことを指して「さらし者」と言ったと思われる。


 クレーマー?

 こういう親に対して、世間がクレーマーという称号を与えてバッシングするのが、いっとき大流行した。「携帯取り上げた分、通信料払え」だの「学校で風邪移された。治療費とタクシー代払え」など、確かにやり方としては、「大人げない」現象もあるやに思う。今の学齢期の子どもを持つ親は「人との接触が少なく育った/人間を知らない」世代であることは間違いないからだ。しかし、クレーマーと呼ばれる親の殆どは、世間の間違った認識から攻撃を受けている、とはこのブログに限らず、機会がある時に書いてきた。彼らは、そんな憤りをするくらいに、学校に対して不満を貯めていた、と考えるのが正しい。大体の原因は学校が持っていると考えた方がよろしい。それがクレーマー問題だ。この事例に関して言えば、怒った親は、以前からこの担任に不安/不満を抱えていた。このブログの熱心な読者は覚えているかもしれない。この担任も、忘れ物を点数化し「減点方式」をしている担任だった。この親はそのことでも担任とぶつかっていた。そんな鬱積が、この「さらし者!」なる怒りへと登り詰めたと思えた。
 どう考えてもこの「指導」のいきさつは過ちだらけなのだ。


 大切なのは「証拠」ではない

 おそらく、この「主犯格」の生徒は、よくある「やってない」「ふざけただけ」を繰り返してきた。しかも、嫌がらせを受けた生徒は、自分が受けた仕打ちよりもその場の状況が険悪になることを嫌った。そして、発言を何度も変えた。この子は何より、みんなの様子、周囲の雰囲気が悪くなることを嫌がったのだ。そんな繰り返しをしてきた。結局学校は、事件や問題が「解決しない」ことで業を煮やした、ということのようだった。
 つまり、学校は被害生徒から「確かな発言を獲得する」という道を選んだ。そのことで「犯人」を追い込もうとした。基本的な考えが間違いだ。初めに言うが、「証拠」は「罰への道」を開きはするが、「反省の道」を開くわけではない。ここが一番大切だ。
 まず一つ目の誤りは、この「証拠提示」という方法は、被害生徒が望まない方法だったことを学校側は気付かないといけなかった。つまり加害側も含め、周囲の生徒が不安そうにざわめくからだ。ここのところをその被害生徒が乗り切れる、という判断が学校にあったとは思えない。おそらく、それが「出来るかどうか」ではない、学校は「やらないといけない」判断をした。それで学校は、周囲が不安でざわめく前に被害生徒から事情を聴取/録音した。
 このことがこの子に、その後どんな大きな不安をもたらしたかは、痛いほどだ。そして、二つ目の誤りがこのあとに起こる。「何よりの証拠」をつきつけられた人間は、罪に服する選択をしない時、もうひとつの「居直り」の選択をする。そしてこの場合、加害生徒が「その証拠(録音)は本当なのか」と居直った時、その証拠を提出したその子は、犯人以上に追い込まれ、証拠を自ら「撤回する」のだ。
「さっきの(録音)はちがいます」
こんなひどい話はない。
 そして最後に、普段から学校に不満をため込んでいた向こうの親が、
「うちの子をさらし者にするとは何事だ!」
と、たけり狂った顔で現れる。この被害を受けた子は行き場がない。


 無用な「摩擦」

 自分がやった行為と向き合う、ということと、証拠と向き合うこととは違う。自分がやったことがどんなことなのか、それを理解できなければ、自分の行為と向き合うことは不可能だ。相手がそのことを拒絶している時、その「解決の道」は閉ざされている。ここで解決を急げば「摩擦」が起こる。そしてそれは要らぬ「摩擦」だ。「解決」から「和解」にいたる道は、さらに遠ざかることになる。
 この件でもっとも大切なことは、被害側の子の居る場所があったかどうかだ。一番大切なことだが、この子の家は、この子を愛していたことだ。手のかかる子ですがよろしくお願いしますという親の姿勢は、学校側に丁重に過ぎるのではないか、という点では少し心配だが、この子に「戻れる場所」があったこと、それが大切だ。
 ならば、学校は長期戦となろうとも、この子に対する嫌がらせの卑劣さを繰り返す連中に、いつかそのことと「向き合う機会」が来るチャンスをうかがうしかない。そして、その時間をこの子とその親からもらった、と考えるべきだ。あとは、この子の親と同じに、
「この子を見守る」
ことだ。
 この「守る/見守る」で、私はいつも思う。介護施設の職員の顔だ。揃いも揃って、
「老人たちは私たちが守ります」
という、いかめしい恐い顔をしている施設はろくな場所ではない。学校の先生も同じだ。恐い顔して、
「ひとのため」「日本の未来のため」
そして、
「悪いことは許しません」
なんて顔してる先生にろくなのはいない。悪いことったって、たかが子どものやること、そうやって子どもは大人になるんです、とニコニコ笑ってるのがいい。


 大人どうしの「摩擦」

 しかし、こんな無用な「摩擦」を起こすことが間違いであることを指摘すれば、そこで別な「摩擦」が起こる。現場(先生どうし)での「摩擦」だ。これは本当は必要な「摩擦」だ。私たちはこの必要な「摩擦」を起こしつつある。「焦り」を「解決」と勘違いして、要らぬ混乱を持ち込む傾向はこれからも増える。「罪を償うこと」は「罰を受けること」だというどうしようもない勘違いはこれからも続く。たとえて言えば、
「学校事故の際に、必ず学校側に味方についてくれる病院を確保するべきだ」
なる声がそうだ。初めから自分(学校)を疑わない姿勢からは、相手の「理解」とか「承認」という基本的なスタンスは出て来るわけがない。 
 本当はこの大切な作業を、学校の「管理職」と呼ばれる人たちがやらないといけない。しかし、その「摩擦」の必要であるか不要であるかを問わず、すべての「摩擦」を嫌い、回避してきた習慣を彼ら管理職も持っている。やはり困難な作業だが、その掘り起こしを始めたところだ。この作業はしかし、このブログの「<子ども>の現在」シリーズで提起しているような、長期的かつ困難な事業ではない。

 ここ二、三年で足掛かりが出来ると思っている。


 ☆☆
じゃあそう言うオマエは、生徒といつもニコニコ笑ってやってきたのか、と言われれば困ってしまいます。恐かっただろうなあ。でも、この間教え子が「厳しい分優しかった」と、過去を振り返って言ってくれました。嬉しかったな。

 ☆☆
6日付の東京新聞のトップニュース見ましたか。「過大値採用 建設に道~八ッ場ダム根拠降水量~」という見出しです。1947年カスリーン台風の検証で八ッ場ダムの必要が提案されたのは周知のことかと思います。しかし、その降水量が捏造されたものだったという記事です。つまり、果たして八ッ場ダムは必要だったのか、というトップ記事なのです。
実はこんなことは、あの藤原先生はじめ多くの専門家の指摘していたことです。大切なことはこのことが、大手の新聞のトップに書かれたということです。しかも、これから公共事業を大々的に再開しようという安倍政権が発足した直後ですよ。藤原先生、どんな気持ちでこの新聞を読んだかなと思います。早く会いたいです。

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