宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

スピリチュアル女子大生CHIE ~ オススメ神社 その2

2013年06月09日 | こっくり亭日記

 
新年に、「スピリチュアル女子大生CHIEのオススメ初詣スポット」というのを見たときは、「浅草の今戸神社」となっていたのだが、実は、本当にオススメなのは、「新大久保の皆中稲荷神社」(かいちゅういなりじんじゃ)らしい。

オススメ初詣スポットに、今頃になって行くというのも遅すぎる話だが、行かないよりはマシだろうと思って、行くことにした。

ていうか、行くもなにも、あの新大久保駅のすぐそばにある、小さな祠のこと!?

東京の新大久保といえば、大阪の鶴橋と並び称される、コリアタウンの東の横綱だ。韓国人の留学生が、「せっかく、はるばる日本に来たというのに、新大久保にいるおかげで、ちっとも外国にいるという気がしない」とのたまう、日本の中の韓国。

皆中稲荷神社は、焼肉を食べたついでに立ち寄るのに、ちょうどいいところだった(笑)。あそこは、そんなに霊験あらたかなスポットだったのか・・・!? 知らなかった。

もちろん、神社は、街が「韓流の聖地」になるよりも、ずっと前からそこにある。神社や寺院にはアリガチなことだけど、ここは、見た目よりもずっと歴史が長い、由緒ある神社なのだ。周囲に何もなかった頃から、神社は建っていた。

「徳川家康の鉄砲隊の1人がなかなか腕が上がらず悩んでいたところ、こちらに祈願した途端、急に命中率が上がった」という言い伝えがある。

このため、今でも、「宝くじが当たる神社」という評判だ。

・・・そう聞くと、なんだか、すごく運が良くなりそうな気がして、ワクワクしてくるから不思議なものだ。

韓流アイドルの歌と写真が、街中にあふれている中で、ここは小さな別世界。入り口は狭くて、奥行きが深い。奥に入ると、静かな境内に、心が洗われる。都会の喧騒が、ここでは夢マボロシのようだ。

参拝する人々が、1人、2人と、少ないながら切れ目なく訪れている。ここが、知る人ぞ知る、隠れた開運スポットだと分かっている様子。

たしかに、ここは、つい立ち寄ってみたくなるスポットなのだ・・・。
 

スピリチュアル女子大生CHIE ~ オススメ神社 その1

2013年06月09日 | 注目のスピリチュアリスト
 


新年に、「スピリチュアル女子大生CHIE、オススメの初詣スポット」というのを見て以来、「行きたいな~」とは思ってた。でも、なかなか行けなかった。

それは、浅草の今戸神社。ここは、源頼義と源義家が、前九年の役で東北に遠征したとき、戦勝祈願で創建したと伝えられる、古~い神社だ。

ここは、「招き猫」の発祥地として知られている。恋愛祈願の神社として、霊験あらたかなんだそうな。

浅草の中でも、日頃はまず行く機会のない、奥まったエリアにある。近くの浅草寺や浅草神社のにぎやかさが、別世界みたい。

有名なスポットの割には、境内も広いとは言えず、地味な雰囲気。
 
それなのに、若い女性が多くて、妙に華やいでいた。さすがに、恋愛祈願スポットだけのことはある。参拝者の大半が女性だ。
 
評判どおり、招き猫は大人気で、写真を撮る人でいっぱいだった。頭をナデナデすると、いいことがあるらしい。

この招き猫の画像を携帯・スマホの待ち受け画面にすると、「1ヶ月以内に彼氏ができる」という話なのだ。ホンマかいな?

ていうか、「彼氏ができる」と言われたって、筆者には、うれしくも何ともない。最近は、新宿二丁目のゲイバー街がさびれて、新橋あたりにゲイが集団で移ってきてるという話だが・・・(?)。

それはともかく、せっかく来たから、お参りだ。

そう思って本殿の中を見ると、なんと、巨大な招き猫が鎮座しておられるではないか!?

霊験あらたかな巨大猫の像に向かって失敬だが、正直、化け猫にしか見えなかった・・・。でも、みんな、大マジメな顔をして、二礼二拍一礼している。

化け猫に向かってお辞儀する人々の姿を見て、思わず笑いそうになった。でも、考えてみれば、稲荷神社では、いつも、おキツネさまにお辞儀してるんだよな?

それを思えば、招き猫さまに幸運をお祈りするのは、ちっともおかしくない。やっぱり、深々とお辞儀して、心から幸運を祈ることにした。

それにしても、猫はかわいい。ホント、招き猫のおかげで、見たこともないほど楽しい神社だった・・・(笑)。

地球の短期滞在者には、エンパス体質の人が多い

2013年06月08日 | 精神世界を語る

筆者が言う「宇宙からの転生者」は、「直感が鋭くて、波動が良い」というのが特徴。

そして、地球ライフにナジメなくて苦労している人。もちろん、地球での人生は、誰にとっても楽なものではない。誰もが苦労はしてるけど、それ以前の問題として、「地球にナジメないことによる苦労」というものが大きい。

それでいて、人間としての意識の進化が、まだ始まったばかりというワケではない。そこがポイントだ。「地球での輪廻転生の経験は乏しいが、人間の意識としては、どこか他のところで異種の進化形になっている」というのが、肝腎なところ。

でもって、スピリチュアルな面には、なんらかの形で強い。その表れ方は人それぞれで、実にさまざまだけど、なんらかの形で、異質な鋭さを示すことがよくある。

ただし、霊力が強い人なら宇宙人かといったら、そういうわけでもない。地球に長期滞在して修行してきた人の、霊的なパワーは侮れない。

むしろ、厳しい地球の物質世界での過去世で、ヨガや気功や修験道や、その他もろもろの修行を積み重ねてきた人のほうが、法力は強いだろう。昔の野球マンガで言えば、「大リーグボール養成ギプス」をつけて投球練習をやってきたようなもんなんだから、そりゃ強くなるはずだ・・・。

もっとも、葦原瑞穂氏の「黎明」によると、

>短期滞在組のうち大部分は、他の恒星系から、この時期の地球における体験をするためにやってきた魂達で、そのうち大半の魂は、地球圏のアストラル・レヴェルに近い波動領域で表現を行っていたために、幽体が発達しているのが特徴です。

>このためテレパシーによる想念の伝達や、アストラル・レヴェル及びメンタル・レヴェルにおける視聴覚、植物や動物たちと会話する能力、意識的な幽体離脱等、長期滞在組の中でも、何転生にもわたってヨガの修行をしてきた人達が身につけるような潜在能力を、生まれつき持っていることがよくあります。


・・・というわけで、発達した幽体の力を、生まれつき発揮する人もいる。宇宙からの転生者は、幽体が発達しているというより、幽体で生きることに慣れ親しんできた存在で、肉体には慣れていない。

筆者は、「意識的な幽体離脱」とか、「動物と会話」とか、そういうことは出来ないけど(それにしても、かわいい鳥や獣と自在に意思疎通できるというのは、憧れの能力ではある・・・笑)、どちらかと言えば、聴覚タイプとは言えるだろう。あり得ないくらい遠くの人たちのヒソヒソ話が聞こえてきたりして、「我ながら、ときどき、妙に耳がいいな?」と思ってた。でも、誰も発してない音声も聞こえてくる。今は、クンダリニー瞑想で心の耳を強化している最中(笑)。

でも、世の中には、もっと明確にスピリチュアル能力が開発されている人が、意外と多い。ネット上はもちろん、リアルでも、そういう人たちを意外に数多く見てきた。

修行して身につけたわけでもないのに、生まれつきスピリチュアル能力が開発されている人というのは、「やはり、過去世で修行して身につけた法力の名残りなんだろうな!?」と思ってたけど、「単に、もともと幽体が発達している」という人がいたって、別におかしくない。

それ以上によくあるのは、「エンパス体質」だろう。これは、幽体が発達してるおかげで、周囲の波動を敏感に感じてしまい、すぐに影響を受けて、理由もなく落ち込んだり、舞い上がったりする人。これのおかげで、生きるのが困難になっている人は多い。またまた「黎明」から引用すると、

>幽体が発達していて、しかも自分の意志がそれを十分に支配していない人の場合ですと、周囲の人たちの想念エネルギーに無防備に同調してしまうために、雑多な波動の支配する地球上では、日常生活をする中でいろいろと面倒が生じます。

>たとえば、ごく普通の人であったとしても、不調和な波動を出している人には余り近づきたくないと感じるものですが、敏感な幽体体質の人が、このような不調和な波動の発生源に不用意に近づくと、自分の心が他人の不調和な想念にほとんど支配されてしまうようなことも起こります。

>また、誰かが何かを食べていると、自分の好みとは無関係にそれが食べたくなったり、他の人が何かをしていると、自分もそれと同じことをやってみたくなるといった傾向が、普通の人より遥かに顕著に看られますし、自分の意志とは無関係に、周囲の想念波動に肉体が反応するといった現象が生じることもあります。


最近では、こういうのが「エンパシー現象」と呼ばれ、注目されるようになってきている。それを90年代に書いていた葦原瑞穂氏は、さすがだ。

これは、霊体質の人には深刻な問題で、これが原因で健康を害した人もいるから、笑いごとではない。筆者はそこまで敏感体質じゃないと思うんだが、「黎明」によると、これは「多動性障害の原因」ということなので、実はそうなのかもしれない・・・(笑)。

いずれにしても、重度のエンパス体質は、人生を極めて生きにくくする。日本人には、特に多いと言われている。日本の社会は、伝統的に、他人に気を使うことに大きな価値を置き、それを推奨する社会だからだ。

これはやはり、瞑想によって抑えることが可能だと思われる。「見ざる、言わざる、聞かざる」で外界からのシャットアウトを目指す瞑想をしてみたら、どうだろう・・・?



ワンダラーは、意識では進化している

2013年06月08日 | ある宇宙人の人生

筆者は、「自分には、地球での過去世がない。地球での人生は、これが初めてか、あったとしても人生経験がとても少ない。どこか他の世界から紛れこんだ者なのだ」という話をすることが、よくある。

そうすると、「ドコの星の出身なんだよ?」とか、「過去世回帰のカウンセリングを受けて証明しろ」とか、食ってかかってくる人が、ときどきいる。

普通は、この「宇宙からの転生者」の話をすると、笑われるか、「妙に納得してしまう」と言われるかの、どっちかなんだが(笑)。怒りだす人もいるというのが、ネットの世界ならでは。


地球生命系においては、人は物質界で輪廻転生している。過去にどれだけ地球での生を経験してきたかは、人によって大きく異なる。この人生における時間は、一日24時間、一年365日で平等なんだけど、それ以前の人生経験を含めれば、その経験値には計り知れないほどの個人差がある。

地球で長く輪廻転生してきた土着の魂は、この、なんともキツい地球の物質世界にも、慣れてるから平気。そういう人にとって当たり前なことでも、この地球で転生した経験が浅い人にとっては、途方もなく難しかったりすることがよくある。

「地球に生まれてきたけれど、ここは、いくらなんでもキツすぎる。さっさと元の世界に帰りたい」というような、宇宙からの転生者が、ここで言う「ワンダラー」。

「私は、OO星のXXです。地球のアナタがたを救うため、メッセージを伝えに来ました」というような人は、「チャネラー」、もしくは「ウォークイン」と呼ばれ、別のタイプになる。ウォークインは、明確な目的のもと、地球人の身体に乗り移ってきた宇宙人の魂で、当然、自分がどこの誰だか知っている。上記のような、「宇宙人」と聞いて怒りだす人は、これをイメージしてるんだと思われる。

これに対して、「どこから来たかは知らないが、自分がどこか他の世界の者であることは分かる」というのが、ワンダラー。こちらは、宇宙の放浪者だ。ウォークインのような、明確な目的意識を持ったETソウルではない。早い話が、「地球にナジメない人」のこと。

「宇宙人」や「ワンダラー」と聞いてイメージするものは、人によって異なる。葦原瑞穂氏の「黎明」に出てくる、「地球の短期滞在者」という表現が、一番そのものズバリなんだけど、ちょっと長いんだよなあ(笑)。


地球の短期滞在者は、物質や肉体に関しては、不器用だし、得意ではない、

その代わり、直感や感性、観念的な面や、芸術的な面などが、大幅に発達している。その表れ方は、人によってさまざま。

筆者の場合は、それが、「精神世界を縦横無尽に探求する」ことに表れている。昔から、哲学・宗教や芸術ジャンルに関しては、一を聞いて十を知る。眼光、紙背に徹す・・・という調子なのだ。

それが実生活で役立ったのは、十代の後半の頃だろう。たとえば、高校の国語の試験では、「論語」や「老子」などが出てくる。こういうものを見て、思想の中身がすぐにピンと来るのが、なんたって特技。

歴史も同じで、精神集中すると、目の前に、地球人類の歴史の、さまざまな場面の情景が浮かんでくる。あとは、春夏秋冬の変化を思わせる、栄枯盛衰の流れをつかむことだけ。まさしく、易経ワールドだ。

それでも、高校一年のときは、あまりにも学校の成績が悪いので、親子面談でショックのあまり親が泣き出してしまったほどだった。でも、あるとき突如として成績が上がった。

あまりにも造作なく、しかも半端なく上がったため、元から秀才だった同級生が、ショックを受けて怒り出したほどだった。でも、こちらは直感だけで勝負してるんで、そういう正統派の秀才とは、もともとタイプが違ってた。特に、「このワケわかめな文章を読んで、これを書いた人が何を言いたかったのか、代わりに説明せよ」というようなのが滅法得意だった。やがて、「文系科目では全国でも屈指のレベル」と言われるまでになった。

筆者の場合、観念的な方面では、それくらい意識が発達していた。それだけの特技を、仕事や人生に役立てようと思えば、そういう道もあったと思うんだが、なぜか、経済学部に進んでビジネスマンを目指すことにした。「地球で価値ある人生経験を積むためには、社会の最前線で活躍しなければならないのだ」と、ナチュラルに思い込んでいたのだ。

そのせいで、どれだけ悪戦苦闘してきたかは、計り知れないものがある。失業・バイト・再就職を繰り返し、そのおかげで、今じゃ、こんなにいろんな業界を知ってる人間は滅多にいないんじゃないかと思うほどだ。それでも、そういう現実的な方面においては、いつまでたってもイマひとつ。地球で、最低でもあと十回は生まれ変わって経験を積まない限り、一度や二度の人生じゃ無理だろう(笑)。

その代わり、「独特の雰囲気の良さ」をホメられることが多かった。「何も考えてなさそうなところがいい」とよくホメられた。「いても、たいして役に立たないが、いなくなると、なんだか雰囲気が悪くなる」とも、よく言われてた。それが「波動の良さ」というものだろう(笑)。

動物は無邪気でかわいいけど、地球は厳しい弱肉強食ワールドだ。この環境に長く慣れ親しんできた土着の魂と違って、宇宙からの転生者は、純粋な優しさの世界の住人。そういう優しさが、オーラのように全身を包んでいる。そこが「独特の雰囲気」と言われることにつながる。

だから、人から好かれることによって、なんとか、やっていける。「地球の短期滞在者」が、この人生を乗り切るには、そこがポイントだろう。老子によれば、赤ちゃんは、虫に刺されることも、凶暴な鳥や獣に襲われることもない。だから、赤ちゃんをお手本にするのが、このエゴの世界を生き延びるコツなのだ・・・。

房中に悟りあり

2013年06月08日 | 東洋思想

「陰と陽」の世界観の根本にあるのは、「男と女が結合して、新たな生命が生まれる」という、古代人にとってはあまりに神秘的だった事実にある。他にも、太陽と月とか、昼と夜とか、植物の生長と枯死とか、いろいろあるんだけど、一番の根本なのは、やっぱり、それだ。男が陽で、女が陰。そこに発想の元があって、他はその発展形。

だから、古代人は、男女の結合に神秘を見出し、一生懸命マジメに研究していた。

このため、道教では、房中術が発達している。イマ風にいえば、「セックス・スピリチュアル」ということになるだろう。男の師匠から、女の弟子へ。女の弟子から、男の孫弟子へ・・・と交互に伝えられる秘伝。通常、洞窟の中で行うのが最も良いとされていた。中国の内陸部には、切り立った崖や、深い洞窟が多い。まさに打ってつけだったと思われる。

これは道教だけでなく、密教にもそういうところがある。平安時代、中国から秘伝の経典を持ち帰った弘法大師・空海に、比叡山の伝教大師・最澄が「経典を貸してほしい」と申し入れたところ、空海がそれを断ったため、この日本仏教史の大物2人の仲が悪くなった・・・というエピソードは有名だけど、一説には、この経典には「男女の交合」の奥義が記されていたため、誤解を恐れた空海が、見せるのを躊躇したのだという。

オウム真理教では、これを修行に取り入れていた。でも、「これは修行の一環だから」というのは、オウム真理教に限らず、宗教団体で女性信者を口説くのによく使われる口実だ。仏教系の某巨大教団でも、幹部がこれをやってたのがバレて、激怒した名誉会長に追放されたという事件があったけど、名誉会長自身、そういう風評が絶えない人。あくまでも風評であって、証拠はないらしいのだが・・・(笑)。


いずれにしても、これは筆者にとって、昔から、どうもナジミにくいテーマだ。

房中術という以前に、「男女の性」の問題は、相当な違和感を覚えてきたテーマのひとつ。といっても、筆者の場合は、「恋愛問題で悩む」なんてことの、ずっと手前にあるレベルで、「そもそも、地球的な男女関係そのものにナジメない」という面が確かにあった。

もっとも、かつての筆者は、「ボーッとしてるけど、顔で持っている」という定評があり、女の子にはかわいがられていた。でも、なぜか、いつまでたっても「女性とお付き合いしたことないの?」と言われるほど、ずっと恋愛初心者のレベルにとどまってた。「宇宙人みたいだけど、楽しいからいい」と、そこが逆に好評だった面もあるから、まあいいか・・・(笑)。

余談だけど、ある自閉症の専門家の話によると、発達障害ぎみな人には、「子供の頃は、人形みたいに顔立ちが整ってる人が少なくない」ということだ。筆者も、それに該当するのかもしれない。

少年の頃の美輪明宏やクリシュナムルティは、おそらく、その極致と言えるだろう。美輪明宏少年は、三島由紀夫に「悪魔的な美しさ」とまで評された。クリシュナムルティをインドから連れ帰ったリードビーター師は、「美少年趣味」と陰口をたたかれた。おそらく、釈迦もそうだったんじゃないかと思われる。その「人形みたいに整った顔立ち」は、長くは続かないのだが、「年を取ると、今度は、味のある賢者みたいな風貌になる人がよくいる」と、発達障害の専門家は書いていた。


それにしても、スピリチュアル界には、恋愛相談のプロが大勢いるのだから、教えを乞いたいところではある。

とはいうものの、学生の頃、試しにタロットカードで恋愛問題の占いをやってみたら、ズバズバ的中して、怖いくらいだったことがある。

人間、「自分には向いていない」と思い込んでたことが、実は隠れた才能だったりすることも、よくあるわけで、実は「恋愛タロット占い」に向いてたのかもしれない・・・(笑)。

胡蝶の夢

2013年06月08日 | 東洋思想

ブログを読んだ方から、メールをいただいた。

「老子に、『夢の中の蝶』の話があったはずだけど、探しても見つかりません」というお話。

例によって、技術的な問題で返信できなかったけど(笑)、それは多分、老子じゃなくて、かの有名な荘子の「胡蝶の夢」じゃないかと思います。

筆者も、これが大好きで、昔から暗誦してる一節。


>昔者(むかし)、荘周、夢に胡蝶と為る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。

自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。

俄然として覚むれば、則ち蘧々然(きょきょぜん)として周なり。

知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。

周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。



>あるとき、荘周(・・・荘子自身のこと)は、夢の中でチョウになった。チョウになって、ヒラヒラと飛んでいた。

われながら、楽しくて、満足感でイッパイだった。ホントは荘周だってことなんか、まるきり念頭になかった。

ハッとして目が覚めると、自分はなんと、荘周ではないか!!
 
でも、荘周が夢の中でチョウになってたのか? それとも、ホントはチョウなのに、夢の中で荘周になってるのか?

どっちが本当なのか、分かんないぞ。
 
荘周とチョウは、たしかに、形の上では区別があるはずだ。こういうのを、「物化」(物の変化)という。


・・・筆者もよく夢の中で空を飛ぶ。蝶や鳥になれたら、荘子みたいでカッコいいのだが、さすがにそこまではいかない(笑)。

そんなときは、空中に浮かぶのが当たり前に思えて、なぜ他人は空中浮揚できないのか、不思議で仕方ない。

毎回、目を覚ますと、空に浮かばない自分に気づいて、ガク然とする。「うわ、体が重い。浮かび上がれない。なんだ、コレは!?」とショックを受け、しばらくして、これが自分の通常の状態だったことを思い出す・・・。

この「胡蝶の夢」は、哲学の論理みたいに扱われることが多いけど、精神世界関係者が見れば、「スピリチュアル体験記」そのものだ。胡蝶の夢は、よほどリアルな霊夢だったのだろう。
 

陰と陽 ~ 易経ワールド

2013年06月05日 | 東洋思想

中国の思想の原点は、陰と陽だろう。YIN&YANGといえば、欧米でも普通に知られている。これは、古典の中の古典、「易経」の思想。気の遠くなるほど大昔の叡智が記されたとされる本だ。

易経は、占いの本。タロットカードに押されて、いまは流行らないとは言うものの、筮竹(ぜいちく)をガシャガシャと振るって、「乾(けん)です」、「離(り)です」というのが、易占だ。

タロットカードみたいに絵がかいてあるわけでもなく、陰と陽の二種類があるだけ。それを3つ、あるいは6つ並べて、組み合わせで吉凶を判断する。「陽陽陽」なら、こうなります。「陽陰陰」なら、そうなります。「陰陽陰」なら、ああなります・・・という風に、それぞれの卦(か、または、け)の意味するところが、易経にくわしく書かれている。

易経は、中国の古典の中でも、読む人が少ない。なぜかと言うと、読んでも意味不明だからだ。決して難しいワケじゃないんだけど、一言で言えば、神社で引く「おみくじ」の集大成って感じ。「失せ物、しばらくして出る」とか、「旅行、急がぬが吉」とか、ああいうのに似ている。それを、ちょっと高度にして、たくさん集めたような、摩訶不思議な本。だから、読む人は少ないけど、ハマる人は思いっきりハマる。


そんな占いの本なのに、なぜか、中国では古今で第一の哲学書と位置づけられている。それというのも、陰と陽の世界観のおかげ。

インドから入ってきた仏教を見て、その救済の教えの充実ぶりに、中国人はビックリ。世界に冠たるインドの哲学・宗教の、想像を絶する魅力にたちまち圧倒された。こりゃ、とてもかなわんワイとは思ったものの、日本の復古神道の人たちと同じで、「このままじゃ、インドの思想に圧倒されて、中国古来の心が失われてしまう。なんとか、仏教に負けない教えの体系を作りたい」と、儒教の先生方は負けじ魂でガンバった。

そんな儒教の先生方が目をつけたのは、易経の陰陽理論だった。中国思想の中から、哲学的な世界観を探したら、これしか見当たらなかったのだ。でも、儒学者だけに、プライドがある。「オレは、易経の哲学に興味があるだけだ。占いはやらないぜ。君子ともあろう者が、占いなんかできるか」という、妙なコダワリの世界になった・・・。このようにして、易経は、単なる占いの本を超えて、中国を代表する哲学書とされるようになった。


なんといっても、男は陽、女は陰というのが、陰陽の原点。というより、もともと、陽は男性の性器、陰は女性の性器の象徴だったと言われている。だから、男女の交合により、陰陽が調和する。道教には、この話が多い。学者が書いた研究書でも、そうなっている。

大学生のとき、女の先輩(イマ風に言えばスピリチュアル女子)が、「これを読んで勉強しなさい」と言って貸してくれた道教の本にも、男女の交合のことばかり書いてあった。でも、当時の筆者は、スポーツに限らず、何でも不器用だった。お姉さま方からは、「人形みたいにカワイイ」と言って可愛がられてはいたものの、そうカンタンに、その世界にナジメるはずもなかった・・・(笑)。


それはともかく、どんなことでも、マジメな理論にしてしまう人はいるもので、宋の大儒者の周敦頤、別名・「濂渓先生」が、そんな陰陽の世界観を、「太極図説」という深遠な哲学にまとめた。

この太極図は、韓国の国旗の元ネタにもなっている。



陽が上、陰が下になり、渦をまくように混ざり合っている。

それぞれに、小さな黒丸、白抜きの丸があるのは、陽のものにも陰があり、陰のものにも陽があることの象徴。

早い話が、男も、100パーセントの男らしさで出来ているわけではなく、一部には、女の要素も含まれている。

新宿二丁目のゲイバーには、女性の要素が多いタイプの男性が集まっていた。最近は、新橋あたりにゲイバーが移ってるって話もあるけど・・・。

気功の自然体 ~ 老子

2013年06月04日 | 東洋思想

中国の思想について語っていると、いつも政治の話になってしまう。

「赤ちゃんは柔弱だけど、皆から愛されて、害されることがない。だから、本当は赤ちゃんほど強い者はいないのだ」という話をして、「うんうん、赤ちゃんって、ホントにカワイイよね~」ですめばいいものを、最後は結局、「それに比べて、中国の政治体制は・・・」ということになる。老子自身がそういう人なんだから、仕方ない。

中国人は昔から、「私たちは、あの世で永遠の生命を得て、神の国で幸福になりましょうね」というような人々ではなかった。常に、現世での人生をなんとかすることに関心を向けていた。少なくとも、インドから仏教が入ってくるまでは・・・。

でも、仏教が盛んになってからは、中国人も大きく変わった。インド人の影響を受けて、極楽往生を強く願うようになった。極楽往生を願って「阿弥陀仏」(アーミーターフォー)と唱える人々が、世の中に満ちあふれた。

今度は逆に、仏教が流行しすぎて、大きな社会問題になった。出家して坊さんや尼さんになる人が増えすぎて、「この地域では、3人に1人が出家しています」というような世界になり、世の中が崩壊寸前になったため、皇帝が仏教弾圧令を出して、強制的に出家者を還俗させたほど。

でも、それだって、いつまでも続かなかった。やがて、儒教と道教が盛り返し、仏教は衰えた。中国人は、また元の現世志向に戻っていった・・・。

要するに、中国人は、一時期の例外はあったけど、伝統的に、「あの世」にあまり興味を持たないお国柄。常に、「この世」をなんとかすることに関心があるんで、何もかもが、政治の話題に行き着く。


それはともかく、老子がオススメするのは、まず全身の力を抜いて、リラックスすること。そして、頭をボーッとさせる。恍惚(こうこつ)とした中から、精気がこんこんと湧き出してくる。

これは、高校の漢文の授業だと、「老子といえば、無為自然です」の一言で片付けられ、生徒が「ハア?」となるところ。これでは、ツカミどころがない。高校生の頃、筆者は漢文の試験でいつも全国最高点レベルだったけど、それは漢文というより、東洋思想のマニアだから。「漢文の文法」の分厚い参考書を、いつも読もうとしては10ページ目くらいで挫折していたが、思想の「ツボ」さえつかんでいれば、自然にピンとくるから心配いらない。

気功もしくは、なんらかの東洋瞑想の素養のある人にとって、これは「無為自然の哲学」というより、気功の自然体そのもの。リラックスして思考を止めれば、気のエネルギーがこんこんと湧き出してくる。恍たり惚たり(こうたり、こつたり)、その中に精あり・・・。

とはいうものの、気功の自然体では、単にリラックスするだけでなく、「重心を、下に落とす」というのが重視されている。

立っても、イスに座ってもいいけど、とにかく、身体の力を抜く。上体を前後左右にゆらゆらと揺らして、特に肩の力を抜く。ガックリきて「肩を落とす」ってのがあるけど、ちょうどそういう感じで、ガックリと肩を落とす。

そして、体重を、座ってるなら尾てい骨、立ってるなら、足元に落とす。要するに、自分の重みを、真下にドーンと落とす。

背筋は伸ばす。頭の重みが、背骨の上にだらんと乗っかってる感じ。

顔も、脱力してニッコリ(^_^)

この、「肩の力を抜いて重心を落とす」というのは、「上虚下実」と言われて、気功では基本の自然体とされている。


こんな、肩の力を抜いた自然体で生きていれば、健康で長生きするし、物事がうまくいく。

ついでに、天下国家も、こんな気功の自然体のようになれば、争いもなく、うまく治まる。世の中の、上の方(つまり、王様や政治家)は余計なことをせず、下の方の庶民は、生き生きとしている。そうすれば、無理に国を治めようとしなくても、自然に世の中は丸く治まる。

それに比べて、中国の政治体制ときたら、暴動がそこらじゅうで起きてるってのに、無理やり力で押さえつけている。まったく、空母や潜水艦なんか、作ってる場合か。こういう、自然の原理に反する体制は、長続きしませんな・・・。

・・・とまあ、そんな具合に、最後はいつも体制批判になるのが、老子流(笑)。


「赤ちゃん」がお手本 ~ 老子

2013年06月04日 | 東洋思想

老子が、「水」と並んで、すばらしいものの見本に挙げているのは、「赤ちゃん」だ。

老子によると、赤ちゃんはカワイイので、虫も刺さないし、鳥や獣に襲われることもないという。確かに、「狼が人間の赤ちゃんを育てた」というような話は、古今東西によくある。

赤ちゃんは、一日中「ウエ~ン」と大声で泣いていても、声が枯れることはない。しかも、性欲がないのに勃起する(・・・男児の場合)。

これは、全身に尽きせぬ精気がみなぎっているからだ。

このため、気功の修行には、赤ちゃんを見習って、マネをする行法がある。といっても、「赤ちゃんプレイ」みたいに、幼児退行するわけではない。「握固」と言って、コブシをぎゅっと握りしめるポーズだ。

大人と違って、親指を内側に入れるのが特徴。つまり、他の四本の指で、親指を包むような握り方。そして、親指の先を、薬指の付け根につける。

この握り方で、赤ちゃんのように、みなぎる精気を逃がさず、たくわえるのだ。


水にしても、赤ちゃんにしても、老子は「柔らかさ」を重視していることがわかる。

柔は剛に勝つ。弱は強に勝つ・・・これが老子。

これは、古来より、「南の人の考え方」と言われている。

というのも、中国といっても広くて、北と南はもともと、まったくの異文化だ。

老子の考え方は、南の文化を代表している。同じ中国でも、北の人々は、もっと力まかせにゴリゴリと攻めてくるところがある。

大昔の中国人が書いた儒教の聖典のひとつ「中庸」でも、「柔よく剛を制すというのは、南方の強さだ」、「力まかせに攻めるのが、北方の強さだ」と評しているから、昔からそうだったのは間違いない。

東アジアの中でも、北方に属するのは、北京と韓国・北朝鮮。どれも、ゴリ押しの姿勢が目立つ、強引な力攻めの国ばかりだ。「中庸」が書かれた頃と、本質的に変わっていない。

それに対して、同じ中国でも上海あたりから南の地域と、日本や沖縄・台湾・東南アジア諸国は、南の文化圏に属する。

老子の思想は、そういう南方の文化の考え方なのだ。

古来から中国では、剛強な騎馬民族や狩猟民族が、北から力まかせに攻めてきた。柔弱な南の人間は、それに押されて、だんだん日本や東南アジアに広がっていった。

今の中国人や韓国・朝鮮人は、老子の時代の「中国人」の子孫ではなく、そういう北から入ってきた民族の子孫なんで、見た目よりずっと歴史が浅いし、剛強がポリシーなので危なっかしい。

老子を読んで、「やっぱり、中国人の思想ってのは、根っからの平和主義なんだな。日中友好万歳!」と思ったとしたら、そこを見誤ることになる(笑)。

中国の仙人 ~ 道教ワールド

2013年06月03日 | 東洋思想
老子には、「柔弱は剛強に勝つ」、「上善は水の如し」と書かれている。


中国の武侠モノの時代劇には、超絶的な気功の達人が当たり前のように登場する。気功パワーで建物を吹っ飛ばす武芸者とか、なんでも治す仙人じみた漢方医だ。

あるとき武芸の師匠が、弟子にたずねた。「見よ。岩の間を、水が流れている。岩と水は、どちらが強い?」。弟子は、「それはやっぱり、岩でしょう」と答えた。師匠は答えた。「いや、水だ。水は、長い間には岩をも削ってしまう」。

さすがは、武芸の師匠だ。気功パワーを駆使する達人だけあって、道教の極意をしっかり会得していた(笑)。この、「天下の至柔」である水が、「天下の至堅」である岩をうがつ・・・という話は、繰り返し語られる、老子の思想のエッセンス。


老子といえば、釈迦と並ぶ、東洋思想の二大巨頭だ。これは、欧米の精神世界関係者も一様に認めている。

老子は、道教の祖と仰がれている。ホントは直接の関係はないんだけど、道教では老子を太祖と位置づけている。

道教のキーワードは、不老長生。

とある新宗教の教祖の代表作とされる「老子」の本では、「老子が目指す不老長生というのは、この世で長生きすることではなく、あの世で永遠の生命を得ることなのです」と書かれていたが、それは例によって、老子の思想ではない。まったく、日本の新宗教にかかると、釈迦も老子も、すべて復古神道の教えを説いていたことにされてしまう(笑)。

道教の不老長生は、あの世で永遠の生命を得ることではない。この世で仙人になり、仙境で悠々自適に生きること。イマ風にいえば、この世でアセンションして、ユートピア人生を送ることを目指している。

中国の仙人がどういうものかは、上に書いたような華流時代劇を見ると、よく分かる。たいてい白髪で、髪もヒゲも長くてボサボサ、白い着物を着ている(笑)。気功の達人で、気功パワーで空も飛ぶ。遠い田舎が本拠地だけど、平気で都会にも出てくる。ただし、都会生活には関心がない。

気のパワーが強いことと、人格が円満であることとは、関係がない。仙人は、必ずしも人柄が良いとは限らず、世俗の凡人をイジメることもよくある。そして、奇人変人が多くて、自分の奇妙なコダワリのためなら、人が死んでも平気なことが多い。

封神演義の姜子牙(きょうしが)は、あるとき、殷(いん・・・三千年前に滅んだ古代王朝)の都の朝歌に出てきた。それまでは崑崙山で仙人修行してたお爺さんなのに、都でヤリ手のおばさんと結婚するハメになった。

最初は、姜子牙を「怠け者で、商売しておカネを稼ごうともしない」と不満タラタラだった妻も、姜子牙の占いが「百発百中だ」という評判になり、行列のできる占い師になったので、「これで一儲けできる」と目の色を変えた。でも、やっぱりカネ儲けに無関心な姜子牙。中国では、講談その他で昔から有名なエピソードだ。


それはともかく、不老長生の基本は、気功の養生法。

よく言われる「無為自然」というのも、単に「何もしない」という意味ではなく、「自然治癒力」を重視する、東洋医学の基本思想なのだ。

よく、医者に行かず、クスリも飲まず、「オレは、自然治癒力で病気を治すのだ」とガンバってる人がいるけど、そういうのが「無為自然」のお手本だろう。