老子には、「柔弱は剛強に勝つ」、「上善は水の如し」と書かれている。
中国の武侠モノの時代劇には、超絶的な気功の達人が当たり前のように登場する。気功パワーで建物を吹っ飛ばす武芸者とか、なんでも治す仙人じみた漢方医だ。
あるとき武芸の師匠が、弟子にたずねた。「見よ。岩の間を、水が流れている。岩と水は、どちらが強い?」。弟子は、「それはやっぱり、岩でしょう」と答えた。師匠は答えた。「いや、水だ。水は、長い間には岩をも削ってしまう」。
さすがは、武芸の師匠だ。気功パワーを駆使する達人だけあって、道教の極意をしっかり会得していた(笑)。この、「天下の至柔」である水が、「天下の至堅」である岩をうがつ・・・という話は、繰り返し語られる、老子の思想のエッセンス。
老子といえば、釈迦と並ぶ、東洋思想の二大巨頭だ。これは、欧米の精神世界関係者も一様に認めている。
老子は、道教の祖と仰がれている。ホントは直接の関係はないんだけど、道教では老子を太祖と位置づけている。
道教のキーワードは、不老長生。
とある新宗教の教祖の代表作とされる「老子」の本では、「老子が目指す不老長生というのは、この世で長生きすることではなく、あの世で永遠の生命を得ることなのです」と書かれていたが、それは例によって、老子の思想ではない。まったく、日本の新宗教にかかると、釈迦も老子も、すべて復古神道の教えを説いていたことにされてしまう(笑)。
道教の不老長生は、あの世で永遠の生命を得ることではない。この世で仙人になり、仙境で悠々自適に生きること。イマ風にいえば、この世でアセンションして、ユートピア人生を送ることを目指している。
中国の仙人がどういうものかは、上に書いたような華流時代劇を見ると、よく分かる。たいてい白髪で、髪もヒゲも長くてボサボサ、白い着物を着ている(笑)。気功の達人で、気功パワーで空も飛ぶ。遠い田舎が本拠地だけど、平気で都会にも出てくる。ただし、都会生活には関心がない。
気のパワーが強いことと、人格が円満であることとは、関係がない。仙人は、必ずしも人柄が良いとは限らず、世俗の凡人をイジメることもよくある。そして、奇人変人が多くて、自分の奇妙なコダワリのためなら、人が死んでも平気なことが多い。
封神演義の姜子牙(きょうしが)は、あるとき、殷(いん・・・三千年前に滅んだ古代王朝)の都の朝歌に出てきた。それまでは崑崙山で仙人修行してたお爺さんなのに、都でヤリ手のおばさんと結婚するハメになった。
最初は、姜子牙を「怠け者で、商売しておカネを稼ごうともしない」と不満タラタラだった妻も、姜子牙の占いが「百発百中だ」という評判になり、行列のできる占い師になったので、「これで一儲けできる」と目の色を変えた。でも、やっぱりカネ儲けに無関心な姜子牙。中国では、講談その他で昔から有名なエピソードだ。
それはともかく、不老長生の基本は、気功の養生法。
よく言われる「無為自然」というのも、単に「何もしない」という意味ではなく、「自然治癒力」を重視する、東洋医学の基本思想なのだ。
よく、医者に行かず、クスリも飲まず、「オレは、自然治癒力で病気を治すのだ」とガンバってる人がいるけど、そういうのが「無為自然」のお手本だろう。
中国の武侠モノの時代劇には、超絶的な気功の達人が当たり前のように登場する。気功パワーで建物を吹っ飛ばす武芸者とか、なんでも治す仙人じみた漢方医だ。
あるとき武芸の師匠が、弟子にたずねた。「見よ。岩の間を、水が流れている。岩と水は、どちらが強い?」。弟子は、「それはやっぱり、岩でしょう」と答えた。師匠は答えた。「いや、水だ。水は、長い間には岩をも削ってしまう」。
さすがは、武芸の師匠だ。気功パワーを駆使する達人だけあって、道教の極意をしっかり会得していた(笑)。この、「天下の至柔」である水が、「天下の至堅」である岩をうがつ・・・という話は、繰り返し語られる、老子の思想のエッセンス。
老子といえば、釈迦と並ぶ、東洋思想の二大巨頭だ。これは、欧米の精神世界関係者も一様に認めている。
老子は、道教の祖と仰がれている。ホントは直接の関係はないんだけど、道教では老子を太祖と位置づけている。
道教のキーワードは、不老長生。
とある新宗教の教祖の代表作とされる「老子」の本では、「老子が目指す不老長生というのは、この世で長生きすることではなく、あの世で永遠の生命を得ることなのです」と書かれていたが、それは例によって、老子の思想ではない。まったく、日本の新宗教にかかると、釈迦も老子も、すべて復古神道の教えを説いていたことにされてしまう(笑)。
道教の不老長生は、あの世で永遠の生命を得ることではない。この世で仙人になり、仙境で悠々自適に生きること。イマ風にいえば、この世でアセンションして、ユートピア人生を送ることを目指している。
中国の仙人がどういうものかは、上に書いたような華流時代劇を見ると、よく分かる。たいてい白髪で、髪もヒゲも長くてボサボサ、白い着物を着ている(笑)。気功の達人で、気功パワーで空も飛ぶ。遠い田舎が本拠地だけど、平気で都会にも出てくる。ただし、都会生活には関心がない。
気のパワーが強いことと、人格が円満であることとは、関係がない。仙人は、必ずしも人柄が良いとは限らず、世俗の凡人をイジメることもよくある。そして、奇人変人が多くて、自分の奇妙なコダワリのためなら、人が死んでも平気なことが多い。
封神演義の姜子牙(きょうしが)は、あるとき、殷(いん・・・三千年前に滅んだ古代王朝)の都の朝歌に出てきた。それまでは崑崙山で仙人修行してたお爺さんなのに、都でヤリ手のおばさんと結婚するハメになった。
最初は、姜子牙を「怠け者で、商売しておカネを稼ごうともしない」と不満タラタラだった妻も、姜子牙の占いが「百発百中だ」という評判になり、行列のできる占い師になったので、「これで一儲けできる」と目の色を変えた。でも、やっぱりカネ儲けに無関心な姜子牙。中国では、講談その他で昔から有名なエピソードだ。
それはともかく、不老長生の基本は、気功の養生法。
よく言われる「無為自然」というのも、単に「何もしない」という意味ではなく、「自然治癒力」を重視する、東洋医学の基本思想なのだ。
よく、医者に行かず、クスリも飲まず、「オレは、自然治癒力で病気を治すのだ」とガンバってる人がいるけど、そういうのが「無為自然」のお手本だろう。
昨日のエピソードで、ついイラッきた話をしましたね。
そうしたら、怒りたいときは怒ってもいいのではという意見がありました。
人によっては、全くその通りだと思います。
いつも感情を内側に押し込んで、抑圧された怒りが蓄積されると、最後は鬱状態になってしまいます。
そうなる前に、何らかの形で感情を発散したほうが健康的です。
何事も極端は身体を壊してしまいますから。
だからと言って、対人関係の中で怒りを発揮していたら、その後始末は自分に返ってきます。
そんな人にお勧めしたいのは、瞑想とか、アロマとか、心からリラックスできる時間を持つことです。
特に的を射た瞑想は、溜め込んだ感情やカルマを解消してくれるので、数か月もすると人相が変わってきます。
そのような習慣が面倒だという人には、大声でわめき散らしてみるとか、いわゆる感情の解放も効果的です。
感情を出すこと自体は悪いことではありません。
人のいないところでわめき散らしても、自分が劣っているわけでも、醜いわけでもありません。
社会人はストレスにさらされているので、定期的に感情を発散させることは必用です。
実は僕と向和尚が方広寺でやっていたセミナーでは、必ず感情の解放の時間を持ちました。
部屋を暗くし、音楽のボリュームを最大限に上げて、誰が何をしているのか分からない状態で、性根尽き果てるまで、とことん怒りなどの感情を出し切るのです。
終わった後のみんなは、実に爽快でいい顔をしていました。
(06/04 17:14 megumin)
自分を救って欲しいと他人にすがっても、他人にはどうすることも出来ないのがカルマです。
カルマとは、自分自身の学びであって自分が気づくしか浄化できませんので、何とかしてあげたくでも、結局はその人個人の問題ということになります。
カルマの浄化については、「内観」「気づき」の連続です。
自分が納得しない限り、どんな人が忠告しようと、その人には伝わりません。
この納得こそが、「気づき」です。
「分かった!」と一瞬でひらめくこともあります。
しかし何年も掛かって辛い体験の中でしか気づけないこともあるのです。
これは自分が生まれて来る時に、どのような体験を通じて学ぶかを、自分で決めてきたことに由来します。
ですが、気づいた時点で終了しますから、より辛い体験のなかで、より大きな気づきを得たいときは、そのように成るだけです。
どう足掻こうと、誰が何を言おうと、結局は自分自身が納得しない限り、延々と気づくまで続きます。
ですから自分を救えるのは自分だけなのです。
今まで聞く耳を持たなかった人が、突然素直に聞き始めることもあるでしょう。
これは転換期でもありチャンスでもあります。
自分自身の心境の変化や開き直り、または考えることを止めることも、気づくためには必要です。
その切掛が、病気だったり、交通事故だったり、大きな失敗だったりするかもしれません。
でもその時に上手く心を切り替えられると、今までのことが嘘のように変化していくでしょう。
このような状態のことを「心の霧が晴れる」というのかもしれませんね。
暗中模索している間は、何もわからないのです。
でもある日突然、目の前にある霧が消えていきます。
今まで霧で隠されていた真実が見える時です。