宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

超能力ヨーガ瞑想 ~ 本山博氏

2014年07月26日 | ヨーガ瞑想

 
前回の「なんたって背骨が大事」を書いてから、もうだいぶ経ってしまったけど、本山博先生の話の二回目。

ここで取り上げた「自分でできる超能力」という本は、ほかの本山博氏の著書が通常、あまりにも分厚くて難解なのに比べて、本山ヨーガ理論の入門書として最適だ。
   

本山氏によると、超能力トレーニングとは、基本的には、「心のトレーニング」だという。

生まれてから現在まで、何十年かをかけて固めてきた心のカラを破り、心を自由にすることが本来の目的だ。それによって、眠っていた超能力が、目を覚ますのだという。 

そのために重要なのは、なんたって、背骨。

ヨーガでは、背骨をとても重視する。ヨーガのアーサナ(座法)には、背骨を伸ばしたり、曲げたり、左右にひねったり・・・というポーズが、とても多い。

これにはワケがある。というのも、背骨に沿って、「スシュムナー管」という、クンダリニーが通る通路があると考えられているからだ。だから、クンダリニーを昇らせるためには、通路が大事・・・ということになる。

とくに、背骨が「ゆがんでいる」というのは、大問題。もしも、背骨がズレてゆがんでいるようなら、これを矯正することが最初のテーマになる。

背骨がゆがんでいるかどうかは、人に指で触って診断してもらえば良い。自分でもできるけど、よほど腕が長い人でない限り、届かない範囲がある。

そこで連想するのは、「神の使者」の著者、ゲーリー・レナード氏。子供の頃から、セキツイ側わん症(背骨が曲がっている症状)に悩まされ、病院に通っていた。背骨をまっすぐにするために、いろんな手段を用いて、ものすごい努力をした。
 

本人は自覚していないが、これこそ、知らず知らずのうちに、ヨーガ行者のトレーニングをしていたようなものだ。それが超感覚的認識の開発につながり、ひいては現在の彼につながったとも考えられる。

 ちょうど筆者が、ADHD(注意欠陥・多動性障害)を克服するため、集中力を強化するトレーニングに取り組んだようなものだろう。修行せざるを得ないように、人生ができているのだ。昔の野球マンガに出てきた「大リーグボール養成ギプス」と同じで、これこそ、「災い転じて福となす」というもの。


>「心のトレーニングをするのに、なぜ背骨が関係あるのだろう?」という疑問の声が聞こえてくるような気がしますが、ここではただ、「背骨にゆがみがあると超能力開発がうまくいかない。そればかりでなく、身体に悪い影響をもたらすこともありうる」とだけ覚えておいてください。

背骨をまっすぐにするためのトレーニングは、ヨーガにはたくさんある。なんたって、最も根本的なテーマだけに、そういうメニューがたくさんある。

代表的な基本ポーズには、次のようなものがある。
 






それぞれのポーズには、意味がある。たとえば、上のポーズは、「飛び出した背骨を引っ込める」というのが目的で、真ん中のポーズは、「引っ込んだ背骨を、元に戻す」、下のポーズは、「左右にゆがんだ背骨を、まっすぐにする」というのが目的。

前にも書いたけど、筆者は身体に関することがどうも苦手で、ハタ・ヨーガの難しいアーサナのポーズには苦手意識がある。というより、まずムリだ。

上に挙げた画像も、こんなに深く曲げるなど、マネしようったって、到底できるものではない。

ただし、ここまでの域に達するのはムリでも、本来は、とても簡単なポーズばかりだ。しかも、難しいことをやるより、こういう簡単なポーズを繰り返すほうが、ずっと効果が高くて有意義だという人が多い。「継続は力なり」という、典型的な例だろう。
 


YOGA.jp ポーズ辞典 

(続く)


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13 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2014-11-04 17:31:13
足が痛い。

でも終わったあとのお風呂が楽しみ。(^_^)
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Unknown (Unknown)
2014-11-04 07:20:13
また今日も仕事だ。
長い一日が始まる
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Unknown (Unknown)
2014-10-31 17:27:14
本当に、良い世の中だと思います。

今が一番幸せ。(^_^)
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Unknown (Unknown)
2014-10-28 06:44:26
昨夜、ガマガエルが道を横断しているのを見ました。
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Unknown (Unknown)
2014-10-19 19:43:07
バビル2世ザリターナーを読んでいます。
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Unknown (Unknown)
2014-10-13 06:54:05
キジや地震雲が気になったが、茨城で地震があったようだ。
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Unknown (Unknown)
2014-10-12 19:54:09
台風どうなるかな
でもまあ、覚悟をきめた

起こるべきことが起こる

しかし今日の地震雲
キジが良く鳴くし
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Unknown (Unknown)
2014-10-11 18:19:50
お ま ん こ したいねえ

胸が痛い

もう死ぬのかな

うん、それもいいね
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真善美の探究 (Unknown)
2014-10-11 15:08:36
[真理と自然観]

《真理》

結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居らず, この世界・感覚・魂の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》

目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を再び具現させる基盤としての目的経路の原因・因子が再び具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。志向は複数あり意識中にある凡ゆる感覚的対象に支配される。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でも因子の具現に対応した感覚的対象(条件)がない場合はこの志向は生じない。但し意識を介さず機構に直接作用する物が存在する場合もある。


《生命観》

『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

『再具現性を与える機構としての己と具現の方向を決定する志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』


生命は過去の意識の有り様を何らかの形に変換し保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, この志向が再具現の機構としての肉体に作用して変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。


*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され, この志向が再具現の機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により然としてある意識と肉体を変革する存在である。

『志向(作用)→肉体・機構』



然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)



【世界創造の真実】

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。

愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。

しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」

神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。



【真善美】

真は空と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展と自分の理解。


善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。

△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)

千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。


美は活き活きとした生命の在り方。

『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』

予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, これを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。認識に囚われ自分の願望を諦めることなく認識と相互して願望を成し遂げようとする生命の在り方。

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死んだらどうなるのか (Unknown)
2014-09-18 04:00:57
人が死んだらどうなるのか?

いろんな人の話を総合してみると、第三段階まであるように思います。

まず第一段階は、良く臨死体験で聞く、お花畑や青い川があって…というもの。

これは死んだというより、死ぬ間際の脳の幻覚作用ではないだろうか?

続いて第二段階。
これは幽体離脱でしょうか?肉体を離れ自分の葬儀を見たり、念じることにより、思った場所や年代に瞬時に行けたりする。

第三段階。
第二段階の後に、純粋意識となり、大いなるひとつになる。(どう表現したらよいのかわからない)
宗教的に言えば四十九日が終わり、成仏するということでしょうか。

そこにはこちらの次元での私やあなたといった感覚はないらしい。

ここは臨死体験では行けないようで、見性体験をした人が語りついでいる。
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Unknown (Unknown)
2014-09-09 07:42:02
記事が更新されるかどうか不明ですが、いまのところブログを削除していないから、復活する気持ちはあるのかな?
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Unknown (Unknown)
2014-09-08 03:28:29
久保さん、今もダンスやってるの?(^_^)
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Unknown (306号室 久保恵輔)
2014-08-22 03:43:14
いきなりですが、
地球は、っていうか人生は地獄ですね。
魂が体に収まりきらない感じです。全てがちっぽけに感じられ、何の感動も面白みもなくなり、全てが茶番に思え、体も窮屈で、部屋も家も道路も街も、どこもせまく、そして逃げ場がない。空に逃げたくても体から抜けれず。自殺はこれまで経験してきた事を水に流すと聞くので、その選択肢はなく。周囲の人間は、キャラごとに決まった内容の事しか言わない、まるでゲームの中の街の住人の様で、もちのろん 釣り合う異性もなく。この様子だと、ツインソウルどころかソウルメイトも、多分この星にはいないだろう。
飛べない豚はただの豚、状態で詰んだ人生なのに残り4~50年ある。
は~ まいった。
時間が鬼!!! 

こっくりさん おたすけ~
はげましのお言葉を(/ω\*)
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