ラマナ・マハルシによると、真我に目覚めるためには、「私」に意識を集中する必要があるらしい。
とにかく、「私、私」とひたすら集中し続ける。それも、強烈な意識の集中。他のことが少しも心に浮かばないほど、「私」という一点に意識を集中する。
いつも自分のことしか考えてない人たちなら大勢まわりに見てきただけに、これは意外(笑)。実は、そこが覚醒へのカギとなるポイントだったか。逆転の発想だ。
実際のところ、筆者はずっと「無我論」ひと筋だった。無我というのは、そのまんまだけど、「我は無い」ということ。自分という個別存在そのものが、錯覚の産物であり、文字通り「無い」のである。
ひとえに、「我は無い」というのがポリシー。「真我」という言葉すら嫌ってた。十年近くも精神世界ブログを書いてきたけど、「真我」という言葉は多分、今まで使ったことない。これだけ有名なラマナ・マハルシの本を、つい最近になるまで読んでなかったのも、ひとつにはそれが原因だった。
一方、「真我論」のほうは、「私は有る」(I AM)という世界。「私は有る」ということ、それ自体が真我なのだという。我あり。それこそが、究極の真実。
このように一見、正反対のことを言ってるみたいなんだけど、実は、無我と真我のあいだに、見た目ほどの違いはない。
というのも、いくら「仏教は無我の思想だ」と言ったって、前々回も書いたように、さすがに、「人は死ねば無になる。だから、生きてる間は精一杯に生きよう」なんてことを言うわけではない。それじゃ20世紀の実存主義哲学になってしまう。それは仏教ではない。「仏教は霊魂を否定した」とまでいうのは、ちょっと現代的な解釈が行きすぎている。
一方、「真我の思想」のほうも、これまた、世間の一般人が「これは自分の心だ」と思ってるもの、それが真我だというわけでは、もちろんない。それは錯覚の産物、つまり「偽我」。それを「破壊せよ」と言ってるんだから、実際には、「無我」とほとんど変わらない。
やっぱり、意識の覚醒とは、無我に目覚めること。そしてそれは、イコール「真我」に目覚めること。それに尽きると言っていいだろう。それぞれ、言葉による表現が違うだけで、実際には変わらない。
ただし、「真我」という概念には、ちょっと危険な匂いもある。というのも、「真我」というのは、言い換えれば、「神」に等しい。それも、聖書や神話に出てくるような人格神でなく、宇宙に偏在する究極の神。「我は神なり」と叫んで処刑された、昔のイスラム神秘家を思い出す。
自分が真我であることを認識するとは、最終的には、「我は神なり」という領域なだけに、使い方を誤れば危険思想。毒にもなれば薬にもなるとは、このことか。
といっても、普通はそこまで行こうったって行けるものじゃないのも事実。まずは、「一段上の、高次の自我意識に目覚める」というような、着実なステージ・アップを目指したい。
というより、もっと身近なところで、筆者の知る範囲で「真我」を唱える人たちに、どうもエゴの肥大した高飛車な人物が少なからずいた。精神世界を探求した結果、自我が強烈になったんじゃ本末転倒。それが「真我」への反感と、「無我」への信奉につながったのは否定できない(笑)。
まあ、「教えはすばらしいと思うけど、周囲がなんだか嫌な人たちばかりでした」といって教団を退会する、新興宗教の信者みたいなものか。しかし、たまたま運悪く、そういう人たちがいただけであって、それ自体に問題があるわけではない。
通常の瞑想行を通じて真我に目覚めようとするより、ラマナ・マハルシの説く、「私は誰? という真我探究」のほうが、ずっと安全な道のように思われる。
それはともかく、「私に意識を集中する」というのはつまり、「私という意識が本当は何であり、どこから出てくるのか」という観察に集中せよということ。
実際には、前回も書いたように、ラマナ・マハルシは、この質問に対する答を教えてくれている。でも、ここは自分自身で発見したい。言語による理解は、真の理解ではない。自分自身で観察することが重要だ。
それも、他人をいくら観察したところで、深く理解できるものではない。やっぱり、しょせん他人のことは分かりかねる。何年も同居したって、分からないものは分からない。
観察すべきものは、やっぱり、自分自身なのである。これも、古代インドからの伝統だ。
古代インド人は、現代のような医学などまだほとんどなかったのに、瞑想して自分の体内のエネルギーの流れを観察することにより、なんと、7つのチャクラを発見した。これらのチャクラは、現代医学が明らかにした内分泌系や神経系の中枢の位置と、驚くほど一致していた。これこそ、観察の威力。まさに恐るべし。
さあ、これからは、「私、私」と唱えよう。カラオケでも、「矢切の私」を歌おう。おっと違った、「矢切の渡し」でした。すいません、超つまんないダジャレで、しかもド古い歌でした・・・。
(この話はまだまだ続くけど、とりあえず今回は終了)
苦難によって魂が磨かれ、より高く進化するために何度も生まれ変わっていると考えれば、いまの苦しみにも耐える力が湧いてきます。
そういえば、いまここブログをほとんど毎日コピペして、「アセンション」という話題が出るたび反射的に怒り出す人が、何年か前からいたなあ。
アイツがまだいたのかよ。たぶん2012年より前からだから、いったい何年ここに住みついてるんだよ~? (><)
タカハシシン○なんていたかと思いが
覚えてる?
こんにちは。初めてだったか一度ぐらいコメントさせて頂いたか、、とにかくお世話になります。
と言うのは、10年ぐらい前とか?掲示板をよく見させて頂いてたんです。
今は同じgooのサハスラーラ新宿というブログに出没してます。
以前より変わらず幅広い方面を渉猟されているご様子。何故か今日ふとこっくりを思い出して検索してみました。
実はマハルシ師のことを殆ど知らないのですが、いずれ気付きが深まった時にこっくり、いやじっくりと書籍を読んでみたいものだと思います。
ところで、
>実際には、前回も書いたように、ラマナ・マハルシは、この質問に対する答を教えてくれている。でも、ここは自分自身で発見したい。言語による理解は、真の理解ではない。自分自身で観察することが重要だ。
>それも、他人をいくら観察したところで、深く理解できるものではない。やっぱり、しょせん他人のことは分かりかねる。何年も同居したって、分からないものは分からない。
>観察すべきものは、やっぱり、自分自身なのである。これも、古代インドからの伝統だ。
何気なく上記の部分を読んで思いが湧いたのは、
何だかんだで、やっぱり真我は真我によって導かれなくちゃならん、ってことです。
スワーミー・ヴィヴェーカナンダ師の著書ラージャ・ヨーガの日本語訳にもあったんですが、やはり直接の教師の存在は必須であると真剣に書かれていて、僕は本当にそれをもっともな事だと感じずにはおれません。
真我に到達した教師、ブラフマンの存在は何故そんなに必要かと言えば、自分自身の観察の仕方を現実には我々は誰も知らないからです。
だから実際に真我に到達した教師が側にいない生徒は、航海図も羅針盤もなく大海原に船出したも同然です。
当たり前だけど真我とは何かすら知識でしか知らないのだから(その知識も本当なの?って状態で)、言ってみれば目標もわ分からない、海図も無い、羅針盤も無い、ただあるのは風の噂で聞いた『真我ってお宝がどっかにあるらしい』って伝聞情報だけです。
上記、
>観察すべきものは、やっぱり、自分自身なのである。
自分自身の何をどのように観察するのか、この観察一つとってみても、やっぱり実際に真我であるブラフマンの導きが必要です。
優れた啓示を与える近代の覚者たちはもちろん善き導き手に違いないのですが、その言葉を伝聞で聞く我々は直接監督されて教えられていないので、かなり誤った解釈で自身に刷り込みを行っているのが現実と言えるでしょう?
なので、僕なんぞが言う資格は無いことではあるのですが、こっくりさんの真我到達の成就を願うものでありますから、今年一度ぐらいサハスラーラ新宿の受講をどうでしょうかとご進言申し上げざるを得ません。
ちなみに4月のセミナーは費用も今までより低いようです。蛇足。。
こっくりさんが読んで下されば結構ですのでコメント公開の必要はありません。
もし万一何かありましたらサハスラーラ新宿のコメント欄にでもお声がけ頂ければと思います。
では、こっくりさんの益々のご健勝をお祈り申し上げます。失礼致しました。<(_ _)>