この世は、よくできた仮想現実である。仮想といっても、きわめて壮大、かつ精緻にできている。あまりにも良くできているので、本物の世界のように思える。でも、やっぱり仮想現実でしかない。このことは、いまや広く知れ渡ってきた。
最近は、この世を、コンピュータのゲーム内世界に例えるのが流行している。実際のところ、これほどピッタリな例えは他にない。共通点を挙げたら、たくさんある。いろんな面で、驚くほど似ている。「この世は仮想現実」という話は、コンピュータと切り離しては成り立たない。
この世は、一見、切れ目なくつながったアナログの世界に見える。でも、本当はデジタルの世界だ。物質は、原子と分子でできている。原子と分子は、とても小さい。自分も、身の回りの物質も、小さな小さな粒子が集まってできているということを、日頃は意識することがない。だけど、原子や分子はレッキとした粒であり、数を数えることもできる (数えるのは大変だけど)。
物質だけでなく、宇宙空間にも、これ以上の小ささはないという最小単位がある。それはプランク長と呼ばれる。具体的には 0.0000000000000000000000000000000000016 メートルくらいらしい。
時間にも、これ以上の短い時間はないという最小単位があって、プランク時間と呼ばれる。それは、約 0.0000000000000000000000000000000000000000000539121 秒だそうな。
物理の話にはいろんな異論がつきものだけど、とにかく、宇宙には最小単位がある。
コンピュータの画面も、いくら滑らかに動いているように見えたとしても、ドットが集まってできている。ドット数が少なければ画面が荒くなるから分かるけど、細かくしていけば、画面は限りなく滑らかになっていく。それでも、ドットの集まりであることに変わりはない。
こういうのが、この世とコンピュータが似ているところ。
われわれは、仮想現実の中を生きている。でも、自分を取り巻く現実には圧倒的なリアル感があり、本物としか思えない。仮想現実だからといって、「そこで何が起きても関係ない」ということはない。それとこれとは、話が別だ。
それは、コンピュータのゲームを考えても分かる。ゲームの中で起きる出来事は、客観的に見れば意味がない。ゲームをやってる間は重大事に思えるのだが、ゲームをやめてしまえば、まったくどうでもいい。
筆者も、最近はあまりやらないけど、以前はよくゲームをやっていた。たとえば、「艦隊これくしょん」というゲームで、せっかく育成した艦をうっかり轟沈させてしまったときには、凄まじい衝撃を受けたものだ。「うぎゃあー、やっちまった」という感じ。あのときは、マジで精神的に打ちのめされた。
今にして思えば、それは、まったくどうでもよいことであった。しかし当時は、きわめて重大な出来事に思えた。他のゲームでも、大なり小なり、そういう思い出がある。
いくら仮想現実といったって、ゲームでさえそうなのだから、リアルの日常生活の出来事がシリアスに受け止められるのは仕方がない。
ただし、それも時間がすべてを解決する。当時としては重大な出来事に思えても、時間がたつにつれて意義が薄れてくるのが普通だからだ。最終的には、この世を去ってしまえば、すべてが思い出になる。
地球の物質世界での出来事は、すべて、ここにいる間だけの問題。いったん離れてしまえば、なんの意味もない。
「いや、そんなはずはない。こんな苦労をするからには、何か意味があるはずだ」と、必死になって「人生の意味」を探す人もいる。気持ちはわかるが、もともと無いものを、探しても見つかるわけがない。
でも、意味がないからこそ、かえって面白いのである。ハマるほど真剣になる。それも、ゲームと同じだ。
今日も、いろんなことが起きるだろう。また地球が回って、日本の夜が明け、朝が来た。もっと寝ていたかったが、仕方がない。また、起きて出かける自分がいる。数時間後には、この世が仮想現実であることなど、まったく念頭にも浮かばないほど、また目前の「現実」にハマッていることであろう(笑)。
(つづく)
コンサルさんにとっては、知ってる話に終始するかもしれませんが(笑)