宇宙のこっくり亭

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「ほんとうの自分」とは何か ~ エックハルト・トール

2009年08月23日 | エックハルト・トール
 
エックハルト・トールの本には、「エゴの自分」と並んで、その奥にある「ほんとうの自分」というのが、よく出てくる。

でも、「ほんとうの自分」とは、いったい何なのか。実のところ、それを語るのは難しい。
  
エゴは、見せかけのアイデンティティを維持しようとしている。所有するモノ、自分の身体、さらには思考や感情・・・。社会的な立場や評価、所属する集団、家族や親戚なども、これに加わってくる。
 
「自分とは、○○なのである」、「自分とは、△△なのである」、「自分とは、××なのである」・・・というような思い込みがなければ、エゴという幻想は維持できない。エゴのアイデンティティは、そういう数々の定義づけから成り立っている。
  
これに対して、「ほんとうの自分」は、定義するのが難しい。というより、それは、すべての定義を取り除いたところにある。
 
モノや身体は、自分ではない。思考は、自分ではない。感情は、自分ではない・・・。こうした、「自分とは何か」という無意識の定義づけをひとつずつ取り除いていく中から、「ほんとうの自分」が浮かび上がってくる。
 
エックハルト・トールいわく、「自分が何者でないかを見きわめる中から、おのずと自分は何者かという現実が立ち現れる」。
 
このため、古代インドの昔から、「ほんとうの自分」は、いつも「○○は、自分ではない」、「△△は、自分ではない」、「××は、自分ではない」・・・といった、否定形で語られてきた。

「エゴ」を釈尊流に言えば、「五蘊仮和合」(ごうんけわごう)。五蘊とは、色・受・想・行・識。ざっくりと言えば、色は物質的な身体、他の4つはいろいろな精神のはたらきを意味する。これらは、人間を構成する5つの要素。いつも壊れては再生している。人間は、これらの要素の寄せ集めで出来ている。

これらを、「色(身体)は自分ではない」、「受(感受作用)は自分ではない」、「識(認識作用)は自分ではない」・・・と、ひとつひとつ否定していく。残るものは何もなく、カラッポ。
 
われわれが「自分」だと思い込んでいるもの。実は、それは自分ではなかった。これこそ、釈尊が繰り返し説いていた、「非我」。
 
エゴのアイデンティティを、ひとつひとつ取り除いていったら、後に残るものは何もない。このとき、エゴは消滅する。それが、ほんとうの自分。「ほんとうの自分」とは、「エゴの消滅」そのものだった・・・。
  
 
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