先日、ブータン国王夫妻が来日して、改めて「国民の幸福度」が話題になった。ブータンといえば、「幸福度」だ。世界でも貧しい部類に属する国で、「今の生活に満足していますか?」という世論調査に、国民の6割が「満足している」、3割が「まあ満足している」と回答し、合計で9割に達した。
この国は、老子の理想とする国に似ている。人口は70万人しかいない。ヒマラヤ山脈の高地にあり、年中、霧や雲に覆い隠されている秘境。しかも、旅行者や移住者の入国を厳しく制限して、鎖国に近い体制にしている。国民の約半数は、教育を受けておらず文字が読めない。ほとんどが農民だ。
ただし、「幸福度が高い」というのは、ブータンの中でも、主に地方の農村の話。ある調査結果によると、都市部で調査すれば、様子はカナリ違うみたいだ。「幸福度」は5割を下回っている。鎖国体制のブータンだけど都会では、なぜか学校の授業を、すべて公用語の英語でやっている。海外に留学した経験のある人も多い。情報量が多い都市の住民は、自分たちの置かれた状況をよく知っている。こうなると、幸福度はグッと低下する。やはり、「知らぬが仏」という言葉のとおりなのか・・・。
ブータンに比べて、日本人の幸福度は低い。「今の生活に満足していますか?」という質問に、「満足している」という回答は、わずか一割だった。もっとも、日本の調査でも、「まあまあ満足している」という人も含めれば、「満足」が5割を超えている。その点、日本人の「不幸」ぶりは誇張されている。
それにしたって、アンケート結果からすれば、日本人はあまり幸福そうではない。ここで昔なら、「お金があって豊かでも、心は不幸な日本。お金がなくて貧しくても、心は幸福なブータン」という、オナジミの二項対立図式が登場するところなのだが(笑)、残念ながら、今の日本はそういう状況ではない。今の日本では、お金がなくて困っている人が多い。こんな世の中で「お金があって豊かでも・・・」というような話をしても、「ハァ?」という反応が返ってくる恐れがある。
それにしたって、狭い自給自足の農村社会で、外界の事情を知らない無知で無欲な村人たちの満足度が、目立って高いのは事実。同じブータンの国内でさえ、都市部と比べて農村部の満足度が高いことに、それがハッキリと表れている。老子の「小国寡民」は、やっぱり昔も今も真理なのだ。
でも、この先もそれが理想像であり続けるかと言えば、それはどうだろう。
やっぱり、「高い意識を持った人々による、理想の共同社会」というのが、次のステップとして見えてくるんじゃなかろうか。つまり、「無知で無欲な村人たちによる、幸福度の高い社会」から、プレイヤーを入れかえて、「高度に進歩した文明人による、幸福度の高い社会」を目指す。いつまでも、「次善」を目標にしてるわけにはいかない。「最善」を目指さなくてどうする・・・というわけだ。
そうなると、老子の「小国寡民」からは離れてくる。今度は、ヘーゲル大先生が登場する番だろう。それは、ヘーゲルが唱えた理想の市民社会、「人倫の共同体」に似てくる。
これは、今までの地球人類の意識レベルでは空理空論にとどまっていたが、意識進化の時代を迎えた今は、現実問題として再浮上してもおかしくない。
(続く)