宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

解き明かされた、輪廻の秘密

2009年10月21日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
   
どうやら「十二因縁」というのが、お釈迦さまの悟りの核心部分だったようだ、というのは分かった。次は、「十二因縁って何・・・?」ということになるだろう。
 
ひらたく言えば、「十二因縁」とは、人が生まれてから死ぬまでの、原因と結果の連鎖のこと。・・・と言ってしまえば、なんでもないようだが、ここにはブッダが初めて解き明かした、重大な「輪廻の秘密」が含まれているのである。でなきゃ、二千数百年前のインドで、ブッダがあれほど有名になるはずもない。現代人にとっても、目からウロコが落ちる発見だ。
 
十二の因縁を並べると、下記のようになる。並べる順番もキッチリと決められていた。この順番を入れ替えることは、仏弟子にあるまじき大罪。仏弟子たるもの、絶対に順番を入れ替えてはならない。
 
無明 → 行 → 識 → 名色 → 六処 → 触 → 受 → 愛 → 取 → 有 → 生 → 老死
 
これを順番に観ずることを、「順観」と呼ぶ。これは、原因と結果が生じる順番。「これがあるから、あれがある」という話。無明があるから、行がある。行があるから、識がある。・・・生があるから、老死がある、という調子で続く。
    
順観の逆を、「逆観」と呼ぶ。今度は、「あれがないから、これがない」という話。老死がないから、生がない。生がないから、有がない。・・・行がないから、無明がない、という具合に続く。順番は、さっきと逆になる。これまた、順番を勝手に入れ替えることは厳禁。仏弟子にとっては、人を殺める(あやめる)以上の大罪だ・・・(!)。
 
ここで、ひとつひとつの内容について検討しはじめたら大変なことになる。そういうことは、仏教理論の専門家にオマカセだ。
  
ここは、仏教に詳しくなることより、ブッダが解き明かした「輪廻の秘密」を知ることに意義がある。これこそ、精神世界ファンならではの強みが生きるところ。なんたって、古代インド人と同様、輪廻思想に空気や水のごとく慣れ親しんでいるのだから(笑)、古代インド人の話を理解する上で、これほどの強みは他にない。
 
ここは、要点をザックリとつかむに限る。そこで、「十二因縁」が持つそれぞれの意味をザックリ書けば、こんな感じ。
 

1. 無明(むみょう)     何も分からないこと。これが、すべての苦しみの原因  
 
2. 行(ぎょう)        前世のカルマ
 
3. 識(しき)         生まれる前の、人間のモトができた
  
4. 名色(みょうしき)    母の胎内にあって、胎児が成長
 
5. 六処(ろくしょ)     母の胎内で、目鼻がついた。さあ出よう

6. 触(そく)        赤ちゃん誕生。 o('@')oバブウ  あちこち触って、この世にコンニチワ!! 

7. 受(じゅ)        ものごころついて、感受性が発達

8. 愛(あい)        性欲が目覚め、異性を求める  
 
9. 取(しゅ)        自分の求めるものに執着

10. 有(う)         執着こそ、生きる原動力!! また、カルマを作っちまったい  

11. 生(しょう)       この人生のカルマのおかげで、また将来、生まれ変わる トホホ  

12. 老死(ろうし)      楽しいときは、ホンの一瞬だった・・・。人は老いて死ぬ、ああ苦しい  
 
 
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ブッダの最終結論

2009年10月21日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
     
ブッダが菩提樹下で考えていたことは、何だったか。これについては、いろんな人が、いろんなことを言ってきた。
   
でも、仏典を読んで額面どおりに受け取るならば、わざわざ議論するまでもなく、一目瞭然なのである。解脱したブッダが菩提樹下でやっていたのは、「十二因縁を順逆に観ずる瞑想」だった。
 
十二因縁。「縁起の理法」(原因と結果の法則)の神髄だ。これこそが、ブッダの悟りの核心部分。
 
これに対して、禅僧は(もちろん、全員がそうだというわけではないが・・・)、異論を唱える。いわく、「学者は、何かといえば『縁起の理法』がどうのというが、釈尊の悟りは、そんな小難しい理屈などではないのである」。
 
彼らは、釈尊が菩提樹下でやっていたのと同じように、ひたすらに座禅を組んで瞑想してきた。そこで到達する「心境」を、何よりも重視する。禅の道は、真剣勝負。過去も未来もなく、この一瞬に全存在を賭ける。やがて到達するのは、「無我」の境地だ。「自分」がみるみる小さくなり、やがて消え失せる。残るのは、大いなるすべて・・・。
 
でも、仏典を素直に読めば、たしかに釈尊の悟りとは「縁起の理法」であること、少なくとも、それが核心部分であることに疑う余地はない。これは、どちらが正しいかということではなく、両方とも真実なのだろう。すなわち、釈尊が悟った内容は、「縁起の理法」。悟ったときの心境は、「無我」。この2つは別々のものではなく、深いところでつながっている。

ただ、「縁起の理法」というのは、名前からして、なんだか小難しい理屈に見えるというのも事実だ。実際にはそれほどでもないのだが・・・。中身は、いたってシンプル。

もっとも、こんなエピソードがある。あるとき、釈尊は、仏弟子のアナンに聞いた。「どうだ、『縁起の理法』は難しいか?」。アナンは、「いえ、別に。難しくはないですよ」と答えた。すると釈尊は、「いや、あれは難しいのだ。甘く見てはいけないよ」と言ったとか。
 
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