今日(7月11日)も蒸し暑く、梅雨明けが待ちどうしいです。
さて、先日投稿した香取神宮の続きです。
写真は、6月17日撮影のものです。
香取神宮の創建は、神武18年と伝えられています。『神宮』の社号を持つ下総の国の一宮です。
現在の社殿は、元禄13年(1700)徳川綱吉によって造営されたもので、本殿、楼門は国の重要文化財の指定を受けています。
祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)で「出雲国譲り」神話(日本書紀)に出てくる神様です。
下の写真の左側が拝殿で、右が本殿です。本殿に経津主神が祀られております。
本殿屋根の端の所で、交差し高く突き出ている部分を「千木(ちぎ)」といいます。
千木は、高天原(たかまのはら・後述)へ通信するアンテナの意味を持つともいわれています。
出雲国譲り神話
はるかなる昔、世界は、天照大御神が支配する高天原(天上界)と葦原の中つ国(豊葦原瑞穂の国・日本・地上)、そして根の国・底の国(黄泉の国・地下)の三重構造と考えられていた。
高天原の神々は、葦原の中つ国を天孫[天照大御神の孫・邇邇藝の命(ににぎのみこと)]が治める国と決めた。
そして第一次、二次と神々を派遣して、葦原の中つ国を支配する大国主神に国譲りを迫るが失敗。
三度目として、武勇の誉れ高い経津主神と鹿島神宮の祭神である建御雷之男神(たけみかづちのかみ)を地上に送った。
二神は出雲の伊那佐の浜に降り立ち、剣を逆さまに突き立て、その切っ先の上にあぐらをかいて、大国主神に国譲りを迫った。
これに対し、大国主神は返事をしぶったが、その息子八重言代主神は国譲りを承知した。ところがもう一人の息子建御名方神(たけみなかたのかみ)は、「国がほしいなら勝負しろ」と挑戦した。しかし勝負はすぐつき、敗れた建御名方神は、諏訪まで逃げ降参した。(建御名方神は、諏訪大社の祭神となっている。)
こうなると大国主神はしかたなく承諾する。
こうして強談判は成功し天孫邇邇藝の命は、筑紫の日向の高千穂の峰に降臨した。なぜ出雲をさけて高千穂の峰に降臨したのか記紀神話最大の謎となっている。
邇邇藝の命の曾孫が初代神武天皇である。
真偽の詮索よりも、小生日本神話のロマンが好きです。
下の写真は、楼門です。右側に2本の木があります。左の木は、昭和48年昭和天皇のご親拝記念の植樹です。右の木は、水戸光圀が参拝の折、植樹奉納したと伝えられる黄門桜です。
香取神宮、鹿島神宮の祭神が武道の神様ということで、今でも柔道、剣道等武道の試合前に必勝祈願に来る人が多いと聞きます。