ビビッド能里子トーク・サロン

心身両面の指導者として感じたこと

世田谷梅ヶ丘に住む幸せ

2015年01月28日 | えっせー
 シニアスクールの講義は「なぜ世田谷に美術家が多いのか」と言う題で
区立世田谷美術館の課長橋本善八氏の講演だった。
 私達は長年世田谷に住む区民として、大変興味深く、楽しく聞いた。
昔世田谷区は郊外で、銀座、上野、浅草などが都心だったが、都心は家賃が
高かったため、お金がない芸術家は、環境のよい武蔵野にある、世田谷に
移り住んだのがどうも本当の理由らしい。
 まただんだん交通網が発達してきて、新しい電車がどんどん開通した。
    小田急線 1927年
    京王線  1928年
    井の頭線 1933年
    玉電(世田谷線)そのため、だんだん便利がよくなったようだ。
大正9年には画家、作家、美術家など20名が在住だったが、昭和8年
には何と220名と、10倍以上に膨れ上がったそうだ。
 その頃世田谷に住んでいた、有名な芸術家の一覧が出たが、また現在は
世田谷に住んでいたすべての芸術家の経歴や住んでいた場所などを詳しく
調べそのすべて、世田谷美術館にを記録するという大変な作業をしている
ようだ。
 私の大好きな彫刻家の「佐藤忠良」さんは、戦前まで梅ヶ丘に住んでいた
ようだ。兵役に行くために、やはり芸術家の人に留守宅を守るために貸したが復員してきて、その人があまり住み心地が良さそうなので、自分は梅ヶ丘から杉並に越したと知った。私が結婚した頃には、彫刻家の「本郷新」さんが梅ヶ丘に住んでいて、その息子さんが俳優の本郷淳さんで、奥さんが
女優の柳川恵子さんだったのはよく覚えている。
 
 梅ヶ丘にはあの有名な吉永小百合さんも住んでいたし、また都知事の
舛添要一さんも長年梅ヶ丘の住人で、一度引っ越したが、現在もまだ我が家からも近いところに住んでいる。今でも芸能人も大変多く、また作家、音楽家,デザイナーなど芸術に関係する職業の人が大変多く、家の近くにある有名な作曲家も住んでいる。また大学教授も大変多い。
 世田谷区は、美術館、文学館、劇場など多く、現在でもいわゆるアーティストと言われる人種が住んでいるのは日本一らしい。
 どうも世田谷区は、人為的な効果が、大変多い土壌のようだ。
また「日本のハリウッド」と言われるほど、映画産業も盛んだったが、撮影所も6か所もあるそうだ。そのため映画に携わる人達は、ほとんどその近くに住んでいたので、演出、衣装、擬音、音響効果など、いわゆるアーティ
ストと言われる住人は大変多かったそうだ。
 友人は経堂に住んでいるが、棟違いの母屋には、その頃有名だった
「谷口千吉監督」大スター「若山セツ子」さんご夫妻が住んでいたそうだ。

 これは余談だが、東宝映画「火の鳥」手塚治虫原作「火の鳥」撮影の時
私は市川昆監督から、主演の大女優で女王卑弥呼役の高峰三枝子さんに
その頃大ブームだったヨーガを取り入れた「ヨーガ式舞踊」を指導して
欲しいと依頼があった。しかし、その頃でも市川昆監督は大変気難しいと
有名だったので、面白そうだけれど、ちょっと躊躇していたが、「ぜひ
やった方が良いから」と、友人からアドバイスされてお引受けした。
 それから東宝の撮影所に何度か通って、私が振りつけた「ヨーガ風
ダンス」を、卑弥呼役の大スター高峰三枝子さんに、指導したことが
あった。毎日黒塗りのハイヤーが迎えに来て、現場に行くと、撮影風景
は大変面白かったし雲の上の大スターの高峰さんや、市川昆監督に丁重
に扱われ、誇らしかったし、とても楽しかったのは今でも忘れない。

 など昔を思い出しながら楽しく聞いたが、我がクラスメートの出席は男性5人、女性3人出席したが、改めて世田谷区に住む誇らしさを感じ、皆な大変良い気分で嬉しそうだつた。ことに梅ヶ丘は交通の便が良く、どこにでも行くのが便利だし・・・いずれにしても、講演は大変有意義で楽しかったし
外はまるで春のように暖かく、気分がウキウキした日だった。


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