きんちゃんのぷらっとドライブ&写真撮影

「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

原発とテレビ① 妖精が運んだ安全神話

2011-09-23 21:08:53 | 原子力発電・放射能汚染・自然エネルギー
原発とテレビ① 妖精が運んだ安全神話

 ピーターパンの物語に登場する妖精のティンカー・べル。キラキラと魔法の杖を軽やかに振るい、ディズニーランドヘいざなっていく。ディズニーのテレビ映画「わが友原子力」の、冒頭シーンです。
 1957年1月にアメリカABCテレビで放送。制作を依頼したのはアメリカ海軍とジェネラルダイナミックス社。ジェネラルダイナミックスは、54年に原子力潜水艦ノーチラス号を製造していました。



日本テレビは街頭テレビを設置。世論形成に大きな影響を及ぼしています(『大衆とともに25年~日本テレビ沿革史・写真集』から)


新聞もエール
 この「わが友原子力」が、日本テレビで1958年の元日に放送されます。当日の新聞は、テレビラジオ欄で「原子力の歴史、原理、未来について、漫画、動画、実写をまじえて、わかりやすく解説したもの」「大作」(「朝日」)と、エールを送る紹介記事を掲載しています。
 隅井孝雄・元京都学園大学教授は、日本テレビ出身。1958年4月に入社しました。「わが友原子力」の再放送を見たといいます。
 「日本テレビが字幕を作りました。まだ珍しかったカラー放送でした。ウォルト・ディズニーと科学者が出てきて解説するんです。原子力がいかに素晴らしいか、そして新しい時代が始まると」
 NHKでテレビ放送が始まったのは1953年2月。8月に日本テレビが開局したとき、テレビは、全国で3千台でした。大学卒の初任給が8千円だった時代、テレビはなんと17万5千円。日本テレビは街頭にテレビを設置して、プロレスやプロ野球を中継します。テレビは55年に約5万3千台、58年には90万9千台、62年に1千万台を突破します。
 日本テレビが、原子力の平和利用の大キャンペーンを始めたのは1955年のことでした。初代社長だった正力松太郎氏が政治家を目指して、その年の2月、衆院選に立候補して初当選。「原子力の平和利用」が公約でした。11月には原子力担当の国務大臣に就任。12月、原子力基本法が成立。翌年1月には初代の原子力委員長になります。

番組や中継で
 それと呼応するように、日本テレビは原子力番組に力を注いできました。報道部制作の「原子力の平和利用」(55年2月)、アメリカ空想科学映画「原子未来戦」(同3月)。5月にアメリカから「原子力平和利用使節団」が来日すると、連日にわたって、その講演会を中継しました。
 隅井さんは言います。「原子力を発電に利用することは、核兵器とは対極の平和利用、人類の未来を照らす、とテレビが大宣伝したことは確かです。それによって、原発は安全だという考え方が国民の中に広がりました」(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2011年9月22日付掲載



原発を日本に売り込むのになんとディズニーのティンカー・ベルまで使ったんですね。


イルカの歌に『いつの日か船を』があります。その歌詞の中に「ティンカー・ベル」が出てきます。

「むずかしい本をすて この家もすてて
飛んで行きたいな 机の前のまどから

さみしい夜には 空の彼方から
ティンカーベルみたいな 女のコが来ないかな

・・・・・

自由な心を とりもどしたら
きっと帰って来るよ 朝日と共に

みんな出かけないか すばらしいぼうけん旅行へ
ぼくだけじゃないよね こんなにさみしいのは

・・・・・」



イルカの歌には、さみしい少年の心を励まし、自由な心を取り戻させる積極的な役割を果たしています。
その「ティンカー・ベル」をよりによて原発に使うとは・・・。許せません!



また、日本テレビはまだサラリーマンの給料でテレビが買えなかった時代に、街頭にテレビを設置して原子力のキャンペーンをやったんですね。すごい執念ですね。
コメント
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