仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

進学やら就職やら:日常的交流圏の組み換え

2007-03-08 15:07:35 | 生きる犬韜
ちゃんと期日に決済できないので、負債が溜まりに溜まってきています。といってももちろんお金のことではなく、本や雑誌の原稿。今週は、『国文学』の原稿をメインに、歴博の作業を続行。それからなぜ始めたのか分かりませんが、なかなか邦訳の刊行されないブルデュー『世界の悲惨』の英訳本を、本当にちょっとずつ翻訳しています(やっぱりブルデューの本は、英訳がいちばん読みやすいんじゃないか)。
『国文学』の方は、2月の末から通勤・帰宅の電車のなかで、関連する本を読んだり、hTcZに文章を打ち込んだりしていたのですが(これ、ホームで電車を待っている間にも原稿が打てるからいいですよ。重宝しています)、ここへ来て、今年度怠けていた歴史をめぐる理論的動向の総ざらい。積み上げていた本を片っ端から開いてノートを取りつつ、原稿を出力しています。新しい動向を反映させているというより、自分の立ち位置を確認しながら書き進めている、という感じですね。テーマはなかなか絞れなかったのですが、やはり〈主体を問い、実存を語る〉歴史学の可能性を、文学との関係から照射する方向へ進んでいます。ベンヤミンに「歴史を逆なでする」という言葉があり、歴史学における脱構築のような意味で用いられているのですが(ギンズブルグの論集のタイトルにも使われています)、ポストモダン歴史学がナショナル・ヒストリーを〈逆なでする〉実践ならば、環境史こそはヒューマン・ヒストリー全体を〈逆なでする〉試みといえるでしょう。逆なでされると気持ちの悪いものですが、違和や不快こそは転回の兆候となる感覚です。いたずらにではなく、真剣に不快な情況を呼び起こしてゆきたい?ものですね。
写真は鹿島徹さんの『可能性としての歴史―越境する物語り論―』(岩波書店、2006-06)。この人の、「歴史を物語るとは、抑圧・排除された過去の可能性を救済する行為だ」というテーゼは単純に"好き"ですね。つまり、過去は〈歴史〉として顕現せずとも、可能態として遍在しているという…。ただし、この言明は救済する対象がマイノリティであることが前提なので、その顕在化がさらなる隠蔽を生むことには常に注意、自覚が必要です。

さて、世の中は年度末。J大では22日に卒業式が行われますし、希望の大学院へ合格して東京を離れる後輩や、ようやく専任職を得て近畿へ向かう友人、海外へ去ってしまう友人など、ぼくの周囲でも日常的交流圏の組み換えが起きています。しかし、学問の〈世間〉は驚くほど狭いもの。これからもよろしくお付き合いください。
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