仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

連休の狭間2:小雨降る江戸を歩きつつ

2008-05-04 12:41:56 | 議論の豹韜
再び連休の狭間、憲法記念日である。前日から小雨の降り続くなか、朝から四ッ谷に出て、工藤健一さん、佐藤壮広さんと待ち合わせ、5/24(土)に予定されているコミカレ「異界」講座野外散策の下見に出かけた。イグナチオ教会から喰違、紀国坂へ抜け、迎賓館の前を通って鮫ヶ橋に下り、須賀町・南寺町・左門町へ入るルートだが、だいたい1時間半から2時間ほどで回って来られるコースだろう。終了後は3人揃って、共立女子大で行われる古代文学会の連続シンポジウムへ参加することにしていた。

さて、まずはイグナチオ教会。実はぼくも、新しくなってからは入ったことがなかったのだ。マリア聖堂の方では結婚式の真っ最中であったが、我々は迷わず礼拝堂へ。二重の扉を開けてなかへ入ると、外とはまるで雰囲気の違う荘厳な空間が広がった。シャーマニズムの研究者である佐藤さん、パワースポットに敏感な工藤さんもしばし言葉を失う。やはりイエズス会は凄かった、と最初から大いに盛り上がる(実は、工藤さんと佐藤さんの2人は、友人の研究者のなかでもとくにスピリチュアルな志向を持っている。彼らと歩くと見慣れた風景も姿を変える)。江戸城と旧尾張藩邸の風水的位置関係を考えながら、今度は喰違へ。以前にも書いたが、ここは現在でも境界としての機能を縦横に発揮する恐ろしい場所である。光と闇、解放と閉鎖、喧噪と静寂、車と人、様々なものごとが交差する。そりゃ幽霊も出るわな、と一同納得。緩やかにみえるのに見渡しがきかない不思議なカーブを体験し、今度は「狢」の紀国坂へ。車は頻繁に通るものの、一気に人気がなくなってしまう。現代でも空気の肌触りが違う。そそり立つ東宮御所の外塀に圧倒されながら、迎賓館の表門へ出て、かつての紀伊藩下屋敷がいかに広大であったのかを実感。ここで怪異が語られる意味を考える。
迎賓館の角を、いま話題の学習院初等科の門前で左折し、坂を下って鮫ヶ橋跡へ。周辺は、江戸期は葦原の繁茂する湖沼地帯、つまり低湿地で、低階層の人々が暮らしていた地域であった。坂の上下でまったく雰囲気が変わる。ここもまた境界であろう。
公園化している跡地を右折して須賀町方面へ歩いてゆくところで、写真の「鮫ヶ橋せきとめ神」を発見。実はすぐ近くに母の実家の寺(浄土真宗本願寺派林光寺)があり、この公園にも何度も足を運んだことがあったのだが、今までまったく気づかなかった。周囲の環境から治水神かと想像したが、後で林光寺の住職を務める叔父に訊いてみたところ、紀州藩邸を造る際に川を堰き止め、その堰を守るために置かれた神社だという。しかしその後人死にが出るような水害は起こらず、「堰き止め」は病の「咳止め」に転訛して周辺住民の信仰を集めたそうだ。京都の仲源寺目疾地蔵といい、なぜか病に関係するスポットはもともと治水に関わっていることが多い。
須賀町へ抜ける通りは狭く庶民的な路地で、一般住宅や昔ながらの商店街が並ぶ。かつてこの付近には、徳川の諜報部隊であった伊賀同心が集住していた。目の前に服部半蔵の墓のある西念寺、塙保己一の墓のある愛染院をみて左折、戒行寺坂を登ると、低湿地への斜面をすべて墓に造成した寺々が立ち並ぶ地域に入る。お寺の関係者の方にご挨拶しつつ、刀匠源清麿・水心子正秀の墓のある宗福寺、最後の剣客榊原健吉の墓のある西応寺、動物供養墓のある本性寺などを回り、締めは四谷怪談関係の陽運寺・田宮稲荷神社とした。これらの寺院は、ほとんどが浄土宗・曹洞宗・日蓮宗の3派。前二者が江戸の裏鬼門を守っているのだ、とは叔父の談。
半ばは昨年夏に四谷会談で巡見したルートを逆からなぞる形であったが、それでも大いに収穫があった。時間的にもぴったりである。当日は、幕末の古地図もコピーして配布し、参加者に当時の景観を想像しつつ歩いてもらうようにしたい。

さて、その後は四谷三丁目のそば弁天庵で昼食を摂り、地下鉄を乗り継いで共立女子大学へ。古代文学会の連続シンポジウム「神話を考える」に参加した。5月の報告は、小川豊生さん「日本における〈霊性〉の起源と神学のメチエ」、山口敦史さん「『蘇民将来』の〈神話〉と経典」。「霊性」の使用を中世に限定しようとする小川さんと会との間で齟齬が生じていたが、現在宗教学や人類学で使用されている「霊性」はヒストリカル・タームではないわけで、古代文学も操作概念として用いればいいだけではないかと感じた(とくにキリスト教的環境で日常的に「霊性」に接しているとそう思う)。小川さんは中世的な語としての「霊性」を何らかの実体を持つものと認識しているようだが、仏教的言説としては明らかに意味が異なる。小川さんの資料に挙がっていた『沙石集』では、華厳的な一念三千・依正不二の境地を覚知する情況、かつ根拠を「霊性」と称していて、それを実現する情のありようが「仏性」だといっている。そうした主体と客体の相即する境地へ導く観相行の物語として(『観無量寿経』の王舎城物語、山林修行のテキストだった『高僧伝』などのように)神話が用いられたとすれば、それは隋唐仏教の道宣がこだわった〈感通〉と等しいものではないか。戒律学者であった道宣が神秘体験を重視し、志怪小説を博捜して怪異譚を渉猟してゆくのは、物語を通じて仏と直接交流する境地へ至ろうとしたからと考えられる。恐らくは『霊異記』や『三宝絵』もその路線を踏襲するもの、まさに〈霊性〉研究の真骨頂だろう。報告には疑問も多かったが、大いに刺激をいただいた。やはり道宣はちゃんと研究せねば。
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2 Comments

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お久しぶりです (ながおさ)
2008-05-12 09:53:28
久々ではありますが、書き込みをさせていただきます。

先生もフィールドワークのように江戸・東京の街中を歩かれることがあるのですね。
私は、神社、寺院だけでなく比較的近代の洋風、和風の建築を見ることも好きなのですが、そうした建築は日を追って少なくなって、ビルに変わりつつあるのが何ともさびしく感じます。

小川さんのいう「日本的霊場の建設」で鎌倉時代に生まれたものだという意見が興味深かったです。
霊場ではなく (ほうじょう)
2008-05-14 19:34:33
霊場ではなく霊性ですね。この言葉は『法苑珠林』なんかにも出てくるので、ぼくは中世的文脈でも古代的文脈でも使えると思っています。確かに神道説の周辺で現れてくるものには中世固有の特徴があるでしょうが、古代にも言葉として用いられている限りは何らかの形で意味が創出されている。そこらあたりを、道宣の感通と絡めて語るのは可能と思いますね。

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