さて、ようやく卒業生を送り出したと思ったら、休む間もなく新年度が始まった。1・2日の学部入学式・大学院入学式と来て、3・4日は箱根でオリエンテーション・キャンプ。例年同じことを繰り返しているのだが、何だか最近疲れが溜まるようになってきた。気がついたら、来月にはもう40歳になるわけで、新1年生など息子・娘といってもまったくおかしくない。以前は学生も「後輩」という印象だったが、この頃は大きな距離を感じることもしばしばある。歳をとった証拠なのだろう。
授業開始は12日。それまではちょっと時間があるので、引っ越し荷物の整理もそこそこに原稿執筆に勤しんでいる。25日の御柱シンポは、地元ではテレビ中継をするらしいとの情報が入ったが、まだまるで準備できていない。早く現在の原稿を切り上げて取り組みたいところだが、細々した校務もあってなかなか集中できない情況である(『上智史学』の編集作業も動き出したし、久しぶりにHPも更新した。数年来関わっている初年次教育も、文学部共通・史学科科目とも正規カリキュラムとして構築できそうな気配で、嬉しいことだが忙しい。図書館運営委員、教授会書記の仕事も回ってきた)。相変わらず、玉稿をお送りいただいた皆さんにも不義理をしてしまっている。順々に対応してゆくしかない。
ここ数日の(すいぶんと短くなった)出勤・帰宅車内では、前エントリーにコメントいただいた八戒さんの「民国初期の武術と内丹―呼吸法の近代化をめぐって―」を拝読。民国初期における近代科学の摂取と西洋的体育の構築のなかで、前近代的な内丹の考え方がどのように捉え返されてゆくか。「古き迷妄」として全否定されてしまうものと考えがちだが、武術の体験を通じてその真実性に気付かされたり、逆に科学を証明のツールとしたりする場合もあるという。武術の人文学的研究はまったく進んでいないが、身体論との関係から注目される場合も増えてきた。記憶に新しいところでは、神奈川大学のCOEプログラムが、身体技法やナンバあるきに注目して詳細な報告書を作成している。八戒さん自身も八卦掌の使い手なので、研究にも武術修練における身体感覚が活かされているようだ。ぼくも禅行と物語との関係を身体論的視点から追いかけているし、5月には(これも日本史研究においては立ち後れている)兵法の論文を書かなければいけないので、大いに参考にさせていただきたい(その後、前エントリーの問題については、新たに「儒教の現代性はどのように語った方がよいか?―「孝」の思想、性善説、アーキテクチャ―」なる高論を送っていただいたので、またあらためて論じることにしよう。まずは御礼申し上げます)。
授業開始は12日。それまではちょっと時間があるので、引っ越し荷物の整理もそこそこに原稿執筆に勤しんでいる。25日の御柱シンポは、地元ではテレビ中継をするらしいとの情報が入ったが、まだまるで準備できていない。早く現在の原稿を切り上げて取り組みたいところだが、細々した校務もあってなかなか集中できない情況である(『上智史学』の編集作業も動き出したし、久しぶりにHPも更新した。数年来関わっている初年次教育も、文学部共通・史学科科目とも正規カリキュラムとして構築できそうな気配で、嬉しいことだが忙しい。図書館運営委員、教授会書記の仕事も回ってきた)。相変わらず、玉稿をお送りいただいた皆さんにも不義理をしてしまっている。順々に対応してゆくしかない。
ここ数日の(すいぶんと短くなった)出勤・帰宅車内では、前エントリーにコメントいただいた八戒さんの「民国初期の武術と内丹―呼吸法の近代化をめぐって―」を拝読。民国初期における近代科学の摂取と西洋的体育の構築のなかで、前近代的な内丹の考え方がどのように捉え返されてゆくか。「古き迷妄」として全否定されてしまうものと考えがちだが、武術の体験を通じてその真実性に気付かされたり、逆に科学を証明のツールとしたりする場合もあるという。武術の人文学的研究はまったく進んでいないが、身体論との関係から注目される場合も増えてきた。記憶に新しいところでは、神奈川大学のCOEプログラムが、身体技法やナンバあるきに注目して詳細な報告書を作成している。八戒さん自身も八卦掌の使い手なので、研究にも武術修練における身体感覚が活かされているようだ。ぼくも禅行と物語との関係を身体論的視点から追いかけているし、5月には(これも日本史研究においては立ち後れている)兵法の論文を書かなければいけないので、大いに参考にさせていただきたい(その後、前エントリーの問題については、新たに「儒教の現代性はどのように語った方がよいか?―「孝」の思想、性善説、アーキテクチャ―」なる高論を送っていただいたので、またあらためて論じることにしよう。まずは御礼申し上げます)。