環境哲学、環境倫理関係の入門書が2冊出た。
まず、近年共生思想研究センターなどを立ち上げて気を吐く東洋大の、『エコ・フィロソフィー入門』。私的な関心から、中国哲学の「"モッタイナイ"から"シノビナイ"へ」に目を通してみたが、読み進むうちに何となく気持ちが悪くなってきた。内容的には反対すべきところはないので、一体何が不快にさせるのか分からなかったが、終わり付近でそれが「圧倒的な自己肯定」にあると気付いた。つまり、一貫して「儒教にはこんなに素晴らしい思想がありますよ、世の中はこの教えの意味をよく吟味して、いろいろ考えなおさなきゃいけないんじゃないですか」という主張で書かれているのである。荘子による文明批判、儒教の知が自然の秩序を攪乱しているとの指摘などには一切触れられていない。中国が連綿と展開してきた環境破壊と儒教とはどんな関わりがあるのか、それほど共生的な倫理が〈自己実現〉できなかったのはどうしてなのかなど、まったく論じられていない。この書物の作成母胎である「東洋大学『エコ・フィロソフィ』学際研究イニシアティブ」の説明には、「西洋的価値観や科学技術が残した負の遺産に対して 東洋的な知の伝統がどのように関われるのかを検証し そこから新しい発想と価値観の創造を図る」とあり、非生産的な東洋/西洋の二項対立図式が示されている。ぼくは家族・親族に東洋大出身者が多いのであまり批判はしたくないが、倫理を考える前提となるべき、環境の歴史に対する問題意識が低すぎるといわざるをえない。
一方、『環境倫理学』は東大の教科書的内容だが、瀬戸口明久氏の「つまり「共生史観」の語り手たちは、過去の森林利用のあり方の一部だけを取り上げ、それが過去を通して存在したかのように歴史を単純化しているのである」(165頁)との一文に明らかなように、里山礼賛に代表されるエコ・ナショナリズムをきちんと批判していて心地よい。
東大の権威を助長するようで嫌なコメントになってしまったが、とにかくまずは自分の足下について深く考えたいものだ。
まず、近年共生思想研究センターなどを立ち上げて気を吐く東洋大の、『エコ・フィロソフィー入門』。私的な関心から、中国哲学の「"モッタイナイ"から"シノビナイ"へ」に目を通してみたが、読み進むうちに何となく気持ちが悪くなってきた。内容的には反対すべきところはないので、一体何が不快にさせるのか分からなかったが、終わり付近でそれが「圧倒的な自己肯定」にあると気付いた。つまり、一貫して「儒教にはこんなに素晴らしい思想がありますよ、世の中はこの教えの意味をよく吟味して、いろいろ考えなおさなきゃいけないんじゃないですか」という主張で書かれているのである。荘子による文明批判、儒教の知が自然の秩序を攪乱しているとの指摘などには一切触れられていない。中国が連綿と展開してきた環境破壊と儒教とはどんな関わりがあるのか、それほど共生的な倫理が〈自己実現〉できなかったのはどうしてなのかなど、まったく論じられていない。この書物の作成母胎である「東洋大学『エコ・フィロソフィ』学際研究イニシアティブ」の説明には、「西洋的価値観や科学技術が残した負の遺産に対して 東洋的な知の伝統がどのように関われるのかを検証し そこから新しい発想と価値観の創造を図る」とあり、非生産的な東洋/西洋の二項対立図式が示されている。ぼくは家族・親族に東洋大出身者が多いのであまり批判はしたくないが、倫理を考える前提となるべき、環境の歴史に対する問題意識が低すぎるといわざるをえない。
一方、『環境倫理学』は東大の教科書的内容だが、瀬戸口明久氏の「つまり「共生史観」の語り手たちは、過去の森林利用のあり方の一部だけを取り上げ、それが過去を通して存在したかのように歴史を単純化しているのである」(165頁)との一文に明らかなように、里山礼賛に代表されるエコ・ナショナリズムをきちんと批判していて心地よい。
東大の権威を助長するようで嫌なコメントになってしまったが、とにかくまずは自分の足下について深く考えたいものだ。
ぼやいてるだけでは芸がないので、前向きに批判した論文を書きました。今度、抜刷お送りします(^_^;)