仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

新作出ました。が…

2009-05-02 23:01:33 | 議論の豹韜
さて、ようやく昨年度下半期に書いた(もしくは校正した)原稿が活字になり出した。まずは「古代の神仏信仰」(『国立歴史民俗博物館研究報告』148)。何年もかかった共同研究「神仏信仰に関する通史的研究」に寄稿したもので、末尾にも書いてあるとおり、任に堪えない「古代神祇信仰の通史」を引き受けてしまい悪戦苦闘した論文である。歴史叙述のうち最もポピュラーでありながら、そのくせ最も恣意的で物語的傾向の強いのが通史だ。そのあり方についてはかつて方法論懇話会で議論したことがあるが、自分なりの方法論を構築する前に、もう2つも通史を書いてしまった(1作目は、「渡来人と宗教文化の形成」)。理論的枠組みがまったくできておらず、恥ずかしい限りである。乞うご批判。
もうひとつは、物語研究会のシンポジウム「亡霊とエクリチュール」で行った報告の論文化、「死者表象における想像力の臨界―祭祀を求める者は誰か―」(『物語研究』9)。無謀にも、古代中国の睡虎地日書「詰」篇を主要資料に、究極の他者である死者に対し、我々は回収でも排除でもない態度をとりうるのかを論じたもの(結局、工藤元男さんや池澤優さんの研究におんぶにだっこになってしまったが)。ぼくはモノケンの会員ではないが、雑誌『物語研究』の成果や、所属するラディカルな論者の方々にはずいぶんと影響を受けてきた。それだけにシンポに呼んでいただいたときは嬉しく、また恐ろしかったが、学恩を少しでもお返しできたかどうか不安でならない。しかも残念なことに、この論文、幾つかミスプリがある。なぜか校正が初校しか行われず、その際にかなりの訂正を行ったまま責了になってしまったために、こちらのアカが正確に反映されていないのである。また、英文要旨に至っては初校さえなく、急いでざっと書いたままのメモ的なものになってしまった(よってずいぶん直していただいたようなのだが、恐らくその際に訂正案として付していただいたのであろう単語が、()に括られて文中に挿入されているのである。これは体裁としてどうなのだろう? FAXかメールででも訊いていただければよかったのに)。確か1月には提出したのだから、何とか再校、せめて初校がちゃんと直っているかどうかだけでも確認させてほしかった。でも、もともとの〆切が11月だったからなあ。自業自得か(訂正はこちらにアップします)。こちらも乞うご批判。そうそう、何か文句をつけているようで大変申し訳ないのだが、この第9号、一柳さん・樋口さん・西野さん・ぼくの参加したミニ・シンポジウムがどんなものであったか、まったく記録がないのだ(西野さんの文章の注に簡単な言及あり)。コーディネーターである高木信さんの趣旨説明も載っていない。何か編集上の混乱があったのだろうか。特集名の「古典(学/知/教育)」とはまったく毛色の違った論文が並んでいるので、シンポの存在を知らない人には何のことか分からないと思うのだが。

ところで。今日2日(土)は、古代文学会連続シンポジウムの第2回目。新川登亀男さんと山下久夫さんの報告で、未だ自分の報告の構想がまったくまとまらないこともあり、議論の流れを掴み知的刺激を受けるために参加した。モノや空間への新たな意味づけによる世界表象の再編が扱われていたが、やはり、聖地なるものの神聖性がどのようにして出現するのかが腑に落ちない。宗教学の大命題でもあり容易に解答が得られる問題ではないが、そのあたりは、やはり自分自身で取り組まねばならないのだろう。会場では、久しぶりにenjunさんとも話ができたのでよかった(4年ぶり?)。増尾さんとは、ぼくらの議論がJ代文学会でウケるわけないよ、と首を傾げた。うーむ。

※ 上記『物語研究』掲載論文の訂正部分
p.21-l.23 「…為桑丈…」の「為」は旧字体
p.30注(34) 「「日本霊異記」」→「『日本霊異記』」
p.30注(36) 「属鬼」→「〓(雁垂+萬)鬼」、「「死生学研究」」→「『死生学研究』」
p.31注(50) 「「死生学研究」」→「『死生学研究』」
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