仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

平塚らいてうの「太陽」

2016-11-29 11:52:28 | 議論の豹韜
ちょっと気になることがあって、不勉強をさらしながらも書いておく。平塚らいてうの有名すぎる『青鞜』創刊の辞、「元始、女性は実に太陽であった」なのだが、この「女性」は誰を念頭に置いているのかということだ。あまりものごとを深く考えていなかった頃は、単に古代の女性全般を曖昧に指しているのかな、という程度に解釈していた。しかし、自分なりに日本近現代史を整理してゆくようになって、これはやっぱりアマテラスだよなあ、しかも時代情況を明確に反映して…と考えるようになったのだ。
上記の有名な冒頭の一文のあとには、「私どもは日出ずる国の東の水晶の山の上に目映ゆる黄金の大円宮殿を営もうとするものだ。女性よ、汝の肖像を描くに常に金色の円天井を撰ぶことを忘れてはならぬ」といった記述もある(何となく『霊異記』みたいだけど)。これが何を指すかも議論があり、近年は仏教、禅の思想などの影響も指摘されているが、太陽をめぐる観念複合もアマテラスの平塚的表現かもしれない。
近現代史研究者には自明のことだが、1882年、明治天皇を担ぎ出した伊勢派の前に出雲派が敗退し、明治初年まで神道・国学の支配的学説であった平田国学はもちろん、顕幽論さえもが公式に否定された。神道の最高権威は平田国学の奉じるオホクニヌシではなく、皇祖神アマテラスへと確定されてゆくことになったのだ。我々などは、これを境に忘却の彼方へ消え去ってゆく近世的神話世界に宗教的な豊かさ、多様性をみるのだが、1911年に『青鞜』を起ち上げた平塚らには、かかる江戸時代的国学こそ自分たちを縛る旧弊の象徴であり、新たに近代国家大日本帝国の価値の源泉となった女神アマテラスこそ、女性を解放する光そのものにみえたのかもしれない。このあたりのことは、牟田和恵さんの指摘しているような、平塚が最終的に国権へ吸収されていってしまうことと、何らかの繋がりがあるのではなかろうか。
まだ本当に不勉強でこれから調べねばならないと思っているのだが、初期社会主義者たちのパブリック・ヒストリー的位置づけとも関わってきそうだ。
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