真夜中から夜明けにかけて仕事をしていると、時々、今している作業が永久に終わらないんじゃないかと弱気になることがある。あれもやらねば、これもやらねばと考えていると、だんだん気が遠くなってくるのだ。それでも、一方では「どれを先にやる必要があり、どれを後回しにできるか」と冷静に判断して、その時点で甘えられるところに甘え、甘えられないところに義理を果たしている。まったく、ある意味では非常にいやらしい。しかし、ぼくにもキャパシティの限界があるので、そこは勘弁していただきたい。
現在いちばん後回しになっているのは、ゼミのホームページのリニューアル作業と、上智史学会のホームページのコンプリート作業である。後者はあまり甘えられないので、学生会員かRAに移管すべきかも知れない。前者はやり始めれば1日で終わりそうなのだが、その時間を確保する精神的余裕がないのだ。つまり、現役ゼミ生と、とくに卒業生に最も甘えてしまっているわけである(教員としては最低か?)。許せ。
原稿では、書評3本が後回しになっている。夏休みにすべて終わらせるつもりではいるが、現時点で勤務校の仕事により8月がほとんど潰れてしまうことが判明しており、他にも8月末〆切の論集の原稿があるので、もはや遂行は難しい雲行きになってきている。秦氏の書き下ろしの本も、骨格自体は作り始めているのだが、やはり1日数行でも書き進めていかないと上梓の日は来そうもない。7月、11月と、さらに12月にもシンポが入ってきそうなので、秋学期もかなりキツいスケジュールだ。数日前に、「依頼を受けたことは極力断らずにやってきた」と恰好のいいことを書いたが、その結果がこの為体である。
というわけで、関係の皆さん、今後いろいろご迷惑をおかけすることと思いますが、どうか予めご容赦ください。新緑の銀杏でもご覧になって、お怒りをお鎮めくださいませ。
ところで、前回も言及した2日(土)の古代文学会シンポの件。岡部さんがぼくの質問に触れてくださっているが、やはり神聖性の出所が問題である。コトバですべてを表すことができないのは承知のうえだが、その言明は、言語論的転回の議論を何らかの形で乗り越えたものでなければ意味がない(例えばそれは、言語論的的転回は問題設定自体が間違っていたのだ、という見解でもいいわけだ。説得的なら)。話が少々横道へそれるが、近年のモノ=実体へ注目する人文学の傾向は、そのあたりの思索がどうも安易な気がしてならない。以前に『国文学 解釈と教材の研究』の論文でも指摘したように、言語の外部性をブラックボックスへ丸投げした印象が強いのだ。みんな、そんなに実体論だったのか? 世界を関係の網の目として認識しているんじゃないのか? テクストとか表象とかいう言葉を使いながら、今さら言語や認識論を介在させずにモノを語るのはよしてほしい。今回のシンポの報告も、やはりこのあたりから始めなければならないか。厄介だな。
現在いちばん後回しになっているのは、ゼミのホームページのリニューアル作業と、上智史学会のホームページのコンプリート作業である。後者はあまり甘えられないので、学生会員かRAに移管すべきかも知れない。前者はやり始めれば1日で終わりそうなのだが、その時間を確保する精神的余裕がないのだ。つまり、現役ゼミ生と、とくに卒業生に最も甘えてしまっているわけである(教員としては最低か?)。許せ。
原稿では、書評3本が後回しになっている。夏休みにすべて終わらせるつもりではいるが、現時点で勤務校の仕事により8月がほとんど潰れてしまうことが判明しており、他にも8月末〆切の論集の原稿があるので、もはや遂行は難しい雲行きになってきている。秦氏の書き下ろしの本も、骨格自体は作り始めているのだが、やはり1日数行でも書き進めていかないと上梓の日は来そうもない。7月、11月と、さらに12月にもシンポが入ってきそうなので、秋学期もかなりキツいスケジュールだ。数日前に、「依頼を受けたことは極力断らずにやってきた」と恰好のいいことを書いたが、その結果がこの為体である。
というわけで、関係の皆さん、今後いろいろご迷惑をおかけすることと思いますが、どうか予めご容赦ください。新緑の銀杏でもご覧になって、お怒りをお鎮めくださいませ。
ところで、前回も言及した2日(土)の古代文学会シンポの件。岡部さんがぼくの質問に触れてくださっているが、やはり神聖性の出所が問題である。コトバですべてを表すことができないのは承知のうえだが、その言明は、言語論的転回の議論を何らかの形で乗り越えたものでなければ意味がない(例えばそれは、言語論的的転回は問題設定自体が間違っていたのだ、という見解でもいいわけだ。説得的なら)。話が少々横道へそれるが、近年のモノ=実体へ注目する人文学の傾向は、そのあたりの思索がどうも安易な気がしてならない。以前に『国文学 解釈と教材の研究』の論文でも指摘したように、言語の外部性をブラックボックスへ丸投げした印象が強いのだ。みんな、そんなに実体論だったのか? 世界を関係の網の目として認識しているんじゃないのか? テクストとか表象とかいう言葉を使いながら、今さら言語や認識論を介在させずにモノを語るのはよしてほしい。今回のシンポの報告も、やはりこのあたりから始めなければならないか。厄介だな。
それで、じゃないと思うけど、昨日、「もの」の逆襲に合いました。昔書いたある伝説についての文を読んだ方から、写真が送られてきたのです。挿絵で使った洞窟の画像をもう一度撮って、さらに、部分を拡大した写真が何枚も同封されています。その部分画像内には、小さな付箋が貼ってあって、ボールペンで矢印と、「女」とかいろいろ書いてあります・・・・・・・怪談を勉強している方に相談したら、「いわゆる霊視、したんでしょう」とのことでした。きゃああああ。ほら、「あなたの文章のとおりです」とか、「知る」ことは、霊にとってよいことというようなメモ帳の切れ端に書いたメッセージが同封されていました。怒っているんじゃなくてよかった・・・・
それにしても、霊視! でも、ぼくがいっても何も感じられないだろうことを考えると、具体的な物体や場との個別的な関係がまず重要でしょうね。それをどう一般化させて論じられるのか。最初からトータルな世界変容へ持ってゆくのは、議論としては飛躍があるのでしょう。