仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

適材適所

2014-07-02 21:33:31 | 議論の豹韜
しばらく更新を怠ってしまっていた…と始まるのがもはや定式と化しているのは、非常に申し訳ない気持ちである。これまで何度か宣言をしつつも守れないまま現在に至っているわけだが、今後はできるだけ、1週間に1回は更新する形へ戻してゆきたいと考えている。というのは、ブログを書かない理由のひとつをなしてきたfacebookが、やはり刹那的なメディアにすぎず、ある程度の内容を持った長目の記事はブログへ載せる方が向いている、と思い至ったからである。

facebookは、SNSの代名詞になっているだけはあり、コミュニケーション・ツールとしてはブログより優れている。何か記事を書けば多くの人の目に触れるし、常に繋がっている「友達」にはコメントを付けてくれる人も多い。そこで意見交換ができたり、新しい「友達」ができることも少なくない。メッセージやグループの機能はチャット的に利用でき、離れた「友達」と簡単に会議することも可能だ。ぼく自身、さまざまな研究会を催し、またシンポジウムなどを企画・運営するなかで、非常にfacebookのお世話になってきた。facebookがなければ絶対に知り合えなかった異分野の人たちと、意見を交わせるようになったのも確かだ。しかし「友達」が多くなるに連れて、その「いま繋がっていること、繋がること」を重視するがゆえの刹那性がみえてきたことも、また確かなのである。例えば冒頭に書いたように、長目の文章。何人もの「友達」の記事が次々にアップされてゆくなか、長目の記事が現れたらどうだろうか。自分に時間的余裕があればゆっくり読んでもいいわけだが、何かの目的で閲覧をしている場合は、「とりあえず後回しに」と、「いいね」のみを押して放置しておくことが多いのではないだろうか。するとその記事は、次々にアップされるポストの奔流のなかで、どんどん過去のものになっていってしまう。facebookには、ブログのように記事の検索機能がないため、一度消えてしまった記事を見つけ出すのは、時が経てば立つほど非常に面倒になる。つまり、多くの人に「書いたこと」は周知されるものの、内容まで読んでくれているかどうかは極めて不透明なのだ。「ノート」の機能を使って提示しておくとという手もあるが、それではブログよりも機動性がない。また、長目のポストをし続けることは、かえって(本当は読んでいない)「いいね」のみを増やす結果となり、刹那的・表面的なコミュニケーションを助長するということになりかねない。それならば、ブログとfacebook、それぞれのツールの適性に応じた使い分けをしなければなるまい。

というわけで、これからは、ある程度まとまった内容はブログに書いてゆくことにしたい。facebookには、twitterに毛の生えたサイズくらいのものを。
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