【石室内の羨道発見で現地説明会】
この夏、横穴式石室内の羨道が見つかって飛鳥時代最大級の方墳の可能性が高まった奈良県明日香村の小山田古墳(7世紀中頃)で、26日発掘を担当している奈良県立橿原考古学研究所による現地説明会が開かれた。石室は古代の中央豪族、蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳に匹敵する規模とみられ、被葬者には天智天皇の父の舒明天皇(593~641)や、馬子の子の蘇我蝦夷(?~645)などの名前が挙がっている。
小山田古墳は蘇我蝦夷・入鹿の邸宅があった甘樫丘の南側に位置し、県立明日香養護学校の敷地内にある。3年前の発掘調査で貼り石のある掘割と、板石を階段状に積み上げた墳丘の裾部分が見つかり、その後の調査で一辺が約70mに達する大規模な方墳であることがほぼ判明した。さらに今年7~8月に実施した第9次調査の南調査区から、石室内部の通路である羨道(せんどう)跡が見つかった。
羨道は幅2.6m、長さ8.7mで、北側に隣接する校舎の地下に延びているとみられる。羨道の両側に側壁の巨石を抜き取った穴が4カ所ずつ計8カ所あったほか、築造時の基底石の据え付け穴2カ所や、羨道の中央部分を通る排水溝(長さ10.5m、深さ0.3m)も確認された。一部の抜き取り穴からはくさびを打ち込んだ矢穴がある巨石の破片も見つかった。その矢穴の大きさと形状から石が割られたのは江戸時代後半と推測されるという。
今回の調査では校舎を挟み北調査区でも同時に発掘が行われた。方墳のほぼ中心部と推定され、石棺を納めた玄室発見も期待されたが、残念ながら石室に関わる遺構見つからなかった。この点について橿考研では「もともと石室が北調査区まで及んでいなかったか、あるいは既に失われたか、二つの可能性が考えられる」としている。(下の写真は㊧2014年11月~15年3月の第5次調査で見つかった掘割と階段状の墳丘裾部分、㊨小山田古墳のすぐそばにある菖蒲池古墳の玄室内)
石舞台古墳は一辺が約50mの方形で、石室は全長19.1m。小山田古墳は一辺の長さがこの石舞台を上回り、羨道の幅はほぼ同じだった。有力被葬者の1人、舒明天皇は蘇我蝦夷の推挙で天皇に擁立され、崩御後には滑谷岡に埋葬され、翌年押坂(桜井市忍阪)に改葬されたとされる。その初葬墓が小山田古墳ではないかというわけだ。一方「日本書紀」皇極元年(642年)の記事に見える蝦夷・入鹿親子の双墓(生前に並べて造った墓)のうち、蝦夷の〝大陵〟をこの小山田古墳とする見方もある。これはすぐ近くにある菖蒲池古墳(一辺約30mの方墳)を入鹿の〝小陵〟とみて二つをセットで双墓ととらえたもの。墳丘範囲の確定や校舎下の遺構確認など小山田古墳の今後の調査が注目される。