く~にゃん雑記帳

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<橿考研付属博物館> 秋季特別展「蘇我氏を掘る」

2016年11月23日 | 考古・歴史

【書紀や出土品から権勢を誇った蘇我氏の全体像を浮き彫りに】

 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)で10月8日から開かれていた秋季特別展「蘇我氏を掘る」もきょう11月23日が最終日。蘇我氏は飛鳥時代、稲目―馬子―蝦夷―入鹿の4代にわたって大臣(おおおみ)を輩出するなど権勢を誇った。「乙巳の変」で蘇我本宗家は断絶するが、代わって傍系の蘇我倉家を中心に権力を保持し続ける。企画展は日本書紀の記事や出土品などを基に蘇我氏の系譜と全体像を浮き彫りにするもので、橿考研ならではの好企画だった。(写真は蘇我馬子の墓とみられる石舞台古墳)

 蘇我氏の本拠地は橿原市曽我の地とされる。もともとの出自には河内国石川郡説、渡来人説など諸説あるが、葛城地域の勢力から派生したとの見方が有力。日本書紀には馬子が推古天皇に「葛城県は蘇我の本拠」として割譲を要求したことなどが記されている。蘇我氏は娘たちを天皇の妃として送り込み天皇の外戚となることで、政治的な立場を不動のものにした。稲目は3人の娘を欽明、用明天皇の妃とし、馬子は娘の刀自子郎女を厩戸皇子(聖徳太子)の妃とした。

 

 蘇我氏は仏教を受容し積極的に寺院を建立した。馬子は日本最初の本格的な寺院・法興寺(飛鳥寺)を造営。その塔心楚付近からは勾玉や管玉、トンボ玉、金銅製鈴など多くの埋納物が出土した(上の写真㊧)。「仏教的なものと古墳的なものとが融合し、蘇我氏の権勢や時代性をよく表す」という。法隆寺蔵の「釈迦如来及脇侍像」(重文、写真㊨)の後背裏側には「戊子年…為嗽加大臣誓願敬造…」と刻まれる。「嗽加大臣」は2年前に没した馬子を指すとみられ、馬子のためにこの金銅仏が造られたと考えられている。蘇我倉山田石川麻呂が創建した山田寺跡からは平安時代の地崩れによって倒壊した東回廊がそのまま埋没した状態で発見された。(下の写真㊧は山田寺跡、㊨は飛鳥資料館で復元・展示されている山田寺の東回廊)

 

 蘇我氏の墓については石舞台古墳が馬子の「桃原墓」であるとみられている。横穴式石室内からは須恵器・土師器・鉄鏃などが出土した。父稲目の墓はその南東約400mにある都塚古墳や五条野丸山古墳が候補に挙げられている。ただ丸山古墳の被葬者については欽明天皇とする説も。蝦夷・入鹿の墓は日本書紀に「双墓を今来(大和国高市郡)に造り、一つを大陵といい蝦夷大臣の墓とし、もう一つを小陵といい入鹿の墓とした」という記事が見えるものの、双墓に該当する古墳がどれかまだ結論が出ていない。候補として挙がるのは橿原市五条野町の五条野宮ケ原1号墳・2号墳と菖蒲池古墳。

 企画展では「蘇我氏に排除された人々の墓を掘る」として、皇位継承などで対立し蘇我氏が殺害した穴穂部皇子や崇峻天皇、山背大兄皇子の墓についても触れた。これらの殺害された人物も蘇我氏の血を引く身内の人々だった。法隆寺の西側にある大型の円墳、藤ノ木古墳の被葬者として有力視されているのが馬子の命により殺害された穴穂部皇子と宅部皇子。その後、穴穂部皇子の弟の泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位するが、その崇峻天皇も4年後に暗殺される。崇峻天皇陵には赤坂天王山1号墳が有力視されている。

 入鹿が暗殺され蝦夷も自害した「乙巳の変」後も蘇我氏は朝廷内で有力な地位を保ち続け、蘇我倉山田石川麻呂は右大臣に任命される。その石川麻呂も謀反の罪で自害に追い込まれるが、兄弟の蘇我連子や赤兄らは大臣、左大臣などとして地位を継承し、連子の娘・蘇我娼子は藤原不比等に嫁いで武智麻呂・房前・宇合をもうける。こうして蘇我氏系皇族は奈良時代の聖武天皇まで続いた(聖武天皇の父、文武天皇は石川麻呂の娘・蘇我姪娘の孫)。奈良時代以降、藤原氏は蘇我氏の〝伝統〟を受け継ぐように娘を天皇の妃として勢力を拡大していった。

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