【中国の「銭弘俶八万四千塔」や法隆寺所蔵の「百万塔」など】
奈良文化財研究所飛鳥資料館(奈良県明日香村奥山)で秋期特別展「祈りをこめた小塔」が開かれている。日本では奈良時代、称徳天皇が国家鎮護や滅罪の祈りを込めて「百万塔」の造立を発願し、中国では10世紀に「銭弘俶(せんこうしゅく)八万四千塔」と呼ばれる小塔が大量に造られた。土製素焼きの「泥塔」も含め国内に伝わる小塔類を集めて展示し、それぞれに込められた当時の祈り・願いを振り返る。12月4日まで。
中国の「銭弘俶八万四千塔」は唐滅亡後の五大十国時代に、江南の呉越国最後の王(第5代)銭弘俶(在位948~978年)が955年頃から約10年かけて造らせた青銅製の法舎利塔(仏教の経典を納めた仏塔)。この王は仏教への信仰が篤く、八万四千塔はインドのアショカ王(阿育王)が8万4000塔を造立したという故事にならったといわれる。これまでに中国と日本で50基ほどが確認されており、日本には12点が伝わっている。今展ではそのうち一部分も含め9点が展示された。
京都・金胎寺所蔵のものは国の重要文化財。舎利龕(がん)などが江戸時代に追加荘厳されたとされ、塔を納めた箱にはその舎利が「弘法大師御請来」とする墨書銘文が入っている。大阪・来迎寺所蔵のものは塔の形が金胎寺と極めて似ており、明治期の文書によるとこの塔も元は金胎寺にあったらしい。塔身部の4面には釈迦が前世に飢えた虎に自らの体を捧げたという「捨身飼虎(しゃしんしこ)」などの場面が彫られている。他に奈良、京都両国立博物館や大阪・金剛寺所蔵のものなども展示中。
一方、日本の「百万塔」は奈良時代後半に称徳天皇(孝謙上皇が重祚)の発願によって造られたもので、高さ20cm余りの木製の三重塔。塔身部と相輪部に分かれ、内部に「陀羅尼」の写経が納められた。この小塔には764年に天皇が寵愛する僧の道鏡を巡って起きた「恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱」の犠牲者を弔う意味も込められていたといわれ、東大寺や興福寺など奈良の十大寺に10万基ずつ安置された。250人ぐらいの工人が僅か6年で造ったという。ただ現在では法隆寺だけに塔身部約4万6000点と相輪部約2万6000点が伝わるのみ。平城宮跡からは塔身部や笠の破片など失敗作とみられるものも出土している。