く~にゃん雑記帳

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<帝塚山大学付属博物館> 特別展示「東アジアの塼(せん)―その連続の美」

2015年12月02日 | 考古・歴史

【日本には6世紀末の仏教建築の導入とともに朝鮮半島から】

 帝塚山大学付属博物館(奈良市)で特別展示「東アジアの塼(せん)―その連続の美」が開かれている。塼は煉瓦の一種で、粘土を型に入れて成型し、乾燥または焼成したもの。中国での塼の歴史は古く、少なくとも紀元前4世紀頃まで遡る。日本には6世紀末に仏教建築の導入と同時に朝鮮半島から伝えられた。博物館所蔵の塼を通して、中国から朝鮮半島、日本への流れを辿る。19日まで。(下の写真2枚は中国・三国~西晋時代の採画文塼)

 

 塼は中国・漢代に大きく発達した。初期の塼は構造材として墓や城壁、家屋などに用いられたが、次第に様々な文様が施され装飾としての役目も担ってくる。楽浪郡(前漢の武帝が紀元前108年に朝鮮半島・平壌付近に設置)出土の塼には、長方形の側面に幾何学文や動物・銭貨などの文様が見られる。墓室を飾った塼には型ではなく採色で文様を描いた〝採画墓塼〟もあった。後漢時代に入ると、人物や花鳥、物語の一場面を表した塼も多く作られるようになる。(下の写真上段の2枚は朝鮮半島・楽浪の文様塼、下段は㊧中国・北宋時代の騎馬文塼、㊨統一新羅時代の宝相華文塼)

 

  

 朝鮮半島でも百済・武寧王(462~523)の墓や百済最後の都、扶餘の寺院跡などから蓮華文や幾何学文、獣身文などの文様塼が出土している。日本には百済から派遣された瓦博士によって塼も導入されたとみられる。ただ、わが国最初の本格的寺院、飛鳥寺(奈良県明日香村)から文様塼は出土していない。また飛鳥周辺には7世紀以降多くの寺院が建立されたが、川原寺の緑釉波文塼や岡寺の飛天・鳳凰文塼などごく一部を除き、文様塼の使用は確認できていない。同博物館では「百済の技術者が伝えた塼は建物の床や壁の材料として使う実用的な無文塼だけだったのかもしれない」と推測する。

 塼の一種で、型で仏像を浮き彫りにした塼仏(せんぶつ)は中国・唐の時代に本格的に流行した。火付け役は『西遊記』で有名な唐の高僧、玄奘三蔵(602~64)といわれる。玄奘がインドから持ち帰った仏像や経典の保管のため長安(現在の西安)に建立された大雁塔(大慈恩寺)付近からは多数の塼仏が出土している。塼仏が日本に伝わったのは7世紀後半頃。ただ、日本に塼仏を伝えたのは玄奘の弟子、道昭(629~700)とみる説もあるという。

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