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く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 『北の富士流』

2017年01月08日 | BOOK

【村松友視著、文芸春秋発行】

 北の富士(勝昭さん)は幕内優勝回数10回を誇る第52代横綱。現役引退後は九重部屋の親方として名横綱千代の富士と北勝海(現日本相撲協会理事長)を育て上げた。2人の優勝回数は合計39回(千代の富士31回、北勝海8回)。1985~87年には九重部屋10連覇という黄金時代を築いた。まさに名伯楽である。日本相撲協会退職後の1998年からはNHK専属の相撲解説者としてお馴染み。テレビ中継での粋な着物姿と、歯に衣着せぬ辛口の解説が評判を呼ぶ。この3月28日には75歳の誕生日を迎えるが、歳を感じさせない若々しさだ。

       

 著者の村松氏は出版社勤務を経てフリーとなり『時代屋の女房』で直木賞を受賞。北の富士と初めて顔を合わせたのは同じ直木賞作家で作詞家の山口洋子さんが経営する銀座のクラブ「姫」だった。北の富士の人間味に魅せられた村松氏は店に行くたび、常連の北の富士向けにコースターに「北天祐は横綱になれますでしょうか」といった質問やメッセージを書いて店の人に託した。次回行くと必ず北の富士が返事を書いたコースターを店から渡された。それが数年続いた。初対面から30年後、知人を介して北の富士との初めての食事会が開かれた。床の間に白い紙が納まったガラス張りの額があった。その白い紙は村松氏が「姫」で北の富士宛てに書いたコースターだった!

 村松氏は北の富士を〝謎の生命体〟と形容する。北の富士が北海道から上京して入門したのは中学卒業直後。力士最高峰の横綱まで昇りつめ、2人の横綱を育て、今なお相撲解説者として人気を博す。「自身の魅力や努力もさることながら、その個性の輝きを評価する存在にも折々に恵まれなければ、かくも長く〝現役〟が持続するはずもない……〝魅力〟〝人気〟〝運〟というものをくるみ込んだ北の富士流が、いかなる絵柄の彩りによって構成され、どのようなものがたりを紡いできたのだろうか」(「前書のようなもの」から)。北の富士の友人、力士仲間、弟子などへの幅広い取材を通じて、「比類ない華、粋、男気、そして色気などをキーワードとして」(「後書のようなもの」から)北の富士流の〝謎〟を探った。

 入門後、同じ出羽海部屋の若手力士だった松前山(渡辺貞夫さん)によると、北の富士は「いつ横綱になっても困らないように」と、いつも土俵入りの真似をしていたという。「その真似事が現実化したというわけで、〝夢〟は〝見る〟ものではなく〝手にする〟ものであるという証しを身をもって示して見せた」。北の富士は歌がうまく、大関時代には『ネオン無情』というレコードも出している。マスコミからは〝夜の帝王〟というニックネームを献じられた。村松氏は「北の富士本来のセンスが、遊びの場で出会う人々によって、さらに肥やされ、磨かれ、洗練され、醸成されていった」とみる。2人の名横綱を育てた手腕については「他の名伯楽とのちがいは、その〝人間味満開の男道〟による指導スタイルの師匠というところにあるのではなかろうか」。そして「派手な〝求心力〟と、その裏側にある求心的な〝実〟との一体化によって、北の富士流は成り立っているにちがいない」。

【追記】1月8日から始まった2017年初場所、初日のテレビ解説者は北の富士とともにNHK専属解説者の舞の海秀平さんだった。ということは2日目の9日は北の富士? そう思いながら9日の朝刊スポーツ面を開いたところ片隅に「北の富士さんが心臓を手術」という小さな記事。それによると、12月末に心臓手術を受け現在療養中のため初場所の出演は見合わせることになったとのこと。今場所でも味のある名解説を期待していただけに残念。3月大阪場所ではまた元気な着物姿を見せてほしいものだ。

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<BOOK> 「外国人がムッとするヤバイしぐさ」

2016年12月29日 | BOOK

【ジャニカ・サウスウィック、晴山陽一共著、青春出版社発行】

 ジャニカ・サウスウィックさんは米国のユタ州出身。上智大学を卒業後、15年以上にわたってNHKの「基礎英語」「えいごリアン」などに出演する傍ら、タレント事務所、キッズ英会話教室なども経営。著書に『ジャニカの5秒で返信!英会話』などがある。共著者の晴山陽一氏は早稲田大学卒業後、出版社に入り英語教材の開発を手掛け、1997年に執筆活動のため独立。著書に『たった100単語の英会話』『英単語速習術』など。

       

 ジャニカさんは本書執筆の狙いを「はじめに」の中で「日本のよさを知らない外国人たちから、いわれのない誤解を受けないための『必要最小限のアドバイス』をしたいと思い」と記す。ジャニカさんが英語で書いたそれらのアドバイスを晴山氏が訳し編集した。誤解を招きやすい日本人の「ヤバイしぐさ」全73項目を、危険度別に「絶対ダメ!」レベルから「私なら許すけど!」レベルまで5段階に分けて紹介する。

 危険度レベル5の「絶対ダメ!」は全部で15項目。その一部を列挙すると――「中指使い」は見るのもイヤな危険なしぐさ▽鼻をすする日本人に、心の中で「オェ~」▽弱々しい握手は印象最悪…ホントに気持ち悪いんです▽ゲップをするくらいなら、オナラのほうがまし!▽日本人の「OKサイン」にドキッ!▽外国人の子どもの頭は、なでてはいけません!▽約束の時間より前にやってくるのは迷惑です!――など。危険度レベル4の「やめてください!」には▽なぜ、笑うとき口を手でふさぐの?▽写真を撮るときに、ピースサインって…▽声をかけずに、人の前をスッと横切る▽「すみません」「すみません」と言いすぎ!▽愚妻や愚息など、家族のことを悪く言う▽下ネタ連発もNG! まだまだ見かけるセクハラ行為――など。

 レベル3の「以外かもしれないけれど!」、レベル2の「気をつけて!」には▽プレゼントをもらっても、その場で開けないのはナゼ?▽ブランドものを見せびらかしすぎます▽パーティーなどに夫婦同伴で来ない▽「つまらないものですが」は日本人同士に限って▽音を消すためにトイレの水を2回流す▽なぜ日本人は、人前であんなに酔っ払うの?▽目が合ったのに、挨拶せずにスルーって…▽混んだ電車の中で人に触れてもダンマリ――などが並ぶ。「私なら許すけど!」のレベル1は、▽乾杯するとき、グラスをカチンッと合わせる▽会席のとき、座る位置に異常にこだわる▽食べるとき皿や器を持ち上げる――など。

 本書を通じて何気ない日本人の仕草や行動の中に、欧米人の目には奇異や不快に映るものが実に多いことに改めて気づかされた。日本人の美徳の一つとされてきた謙遜する態度も欧米人には分かりにくく、逆に自信のなさや弱々しさを感じさせているようだ。日本と欧米の文化や風習、生活習慣などの違いもあるけど、率直な指摘にはやはり謙虚に耳を傾けるべきだろう。

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<BOOK> 「江戸時代人物画帳 シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀の描いた庶民の姿」

2016年12月06日 | BOOK

【小林淳一編著、朝日新聞出版発行】

 江戸時代後期に長崎・出島のオランダ商館付き医師として来日したドイツ人医師・植物学者シーボルト(1796~1866)。在日中に多くの植物を採集し『日本植物誌』を著したが、その写生原画の多くを描いたのは川原慶賀(1786~没年不詳)らのお抱え絵師だった。川原は〝シーボルトの眼〟になって風俗画や風景画、肖像画なども描いた。本書は1826年にオランダ使節の江戸参府に同行した川原が描いた109点の人物画を、服飾史や民俗学の学者、シーボルト研究家たちの解説付きで1点ずつ詳しく紹介する。

       

 オランダ商館長らの江戸参府は11代将軍徳川家斉に拝謁するのが目的で、1826年2月15日に江戸に向けて長崎を出発した。総勢57人の日本人の随員も同行した。往路55日、江戸滞在37日、復路51日という全143日の旅程。この間に川原が描いた人物画109点は全て紙本着彩で1冊の画帳に閉じられていた。描かれたのは女房、花魁(おいらん)、花嫁、力士、農夫、猟師、獅子舞、人形遣い、大道芸、煙草売り、醤油売り、老若男女の旅姿など実に多彩。ただ武士は一人も登場しない。

 109人の中に大井川の「川越人足」の刺青(いれずみ)姿を描いたものが6点もある。刺青はシーボルト来日前後の文化・文政年間(1804~30)に最も隆盛を極めたという。シーボルトにとってもとりわけ興味深いものだったのだろう。描かれた刺青の絵柄は雲竜・雷神・桜など様々だが、中でも「幽霊と卒塔婆」の刺青は不気味でおどろおどろしい。右腕に墓石と卒塔婆、左腕に南無阿弥陀仏、尻に髑髏(どくろ)、背中に笑う幽霊が彫られている。熊の毛皮をまとって小熊を連れた行商の「熊の胆(くまのい)売り」や「鯨取り」「鳥刺し」「盲目の三味線弾き」などもシーボルトの目を引き付けたのだろう。

 女性の帯に蝙蝠(こうもり)の図柄が描かれたものが2点ある。「身づくろいをする遊女」と「長崎の髪結い」。蝙蝠は西洋では不吉な動物。ただ日本ではかつて蝙蝠の蝠の音が福に通じることから吉祥の意味を持つとして浴衣などの模様として好まれ、錦絵などにも描かれた。シーボルトはこの蝙蝠の模様を珍しく思って川原に描かせたのだろうか。シーボルト研究家の宮坂正英氏が「人物画帳」の中で出色の出来栄えと評するのが「長崎の芸者」。左手に三味線を持ち極上の着物を身に着けた芸者が優美に描かれている。江戸時代唯一貿易を許された長崎には高価な嗜好品や贅沢品が多く運び込まれ、特に織物は豊富で長崎の遊女や芸者の装いは流行の先端を行く豪華なものだったという。

  「川原慶賀は時として多分に想像を交えた絵をシーボルトのために描いた」(民俗学者の小林淳一氏)。画帳の中に着物を盗み出した黒覆面・黒装束姿の「泥棒」があるが、この絵についても「盗賊を見つけて写生したのではなく、(当時の人々に共有されていた)そのイメージを描いたと考えるべきである」(日本近世演劇研究者の武井協三氏)。裕福な商家の若い女性を描いた「娘」では晴れ着の裾から赤い蹴出しと素足がのぞき、美しい年増の女性を描いた「女房」では裾がはだけ不自然な形で赤い色が見える。「子守の娘」や「古着屋の女」には日傘が描かれているが、「この時代、贅沢をするのは禁止されていて、日傘もその例外ではなかったのだが」(民俗学者の近藤雅樹氏)。川原が描いた「109態」は190年前の庶民の姿を振り返るうえで貴重な資料だが、専門家の目にはちぐはぐな点が気にかかる〝研究者泣かせ〟の作品も多く含まれているようだ。

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<BOOK>中公新書 「ショパン・コンクール 最高峰の舞台を読み解く」

2016年12月01日 | BOOK

【青柳いづみこ著、中央公論新社発行】

 5年に1回ショパンの故郷ポーランドのワルシャワで開かれる「ショパン国際ピアノコンクール」。ポリーニ、アルゲリッチ、ブーニン……。優勝者には錚々たる名ピアニストが名を連ねる。ただ日本人は内田光子の第2位(第8回=1970年)が過去最高。直近の2015年の第17回では小林愛実が10人のファイナリストに残ったが、残念ながら入賞(6位以内)を果たせなかった。著者はピアニスト兼文筆家で、日本ショパン協会の理事も務める。第17回コンクールでは春の予備予選から秋の3週間にわたる本大会まで、現地で世界中から集まった若きピアニストたちの熱演に耳を傾けた。本書はその観戦記。

       

 著者がこのコンクールに興味を持ち本書執筆のきっかけにもなったのが2010年第16回大会での〝予備予選追加招集事件〟。この年は書類・DVD審査でいったん予備予選参加者が応募者のほぼ半数に当たる160人に絞られた。ところが実力者が含まれていないというある審査員の抗議で、その人物を含め55人が追加された。審査員たちの言い訳は「DVDの画質・音質が良くなかった」。そして激戦を制し優勝したのはこともあろうにその実力者、ユリアンナ・アヴデーエワ(ロシア)だった。女性としてはアルゲリッチ以来2人目という快挙。スポーツのような客観的な勝敗の基準がない音楽の審査の難しさを象徴する出来事だった。

 第17回は下馬評の高かった韓国のチョ・ソンジンが優勝した。15歳の若さで「浜松国際ピアノコンクール」を制した実力者。日本での知名度も高い。ところが結果発表の数日後に明らかになった審査員の採点表が物議を醸した。ある審査員がチョに対し10点満点で最下位の1点しかつけていなかった(他の審査員は10点2人、9点12人、8点1人、6点1人)。しかもこの審査員は第3次予選(セミファイナル)でもチョに対し唯一人次のファイナルには進めないという「NO」の裁定を下していた。ファイナルの1位と2位の合計得点の差は僅か5点。不当に低い点数をつける審査員が複数いたら、どう転んでいたか分からなかった。

 ファイナリスト10人はオーケストラとの協演でショパンのピアノ協奏曲第1番か第2番を弾く。第2番を選んだのは2位のシャルル・リシャール=アムラン(カナダ)だけ。そのリハーサルのとき、第1楽章を通したところでオーケストラの部分練習が始まったという。著者は「コンテスタントにとって貴重なリハーサルの時間をオーケストラの練習に使うとは、権威あるコンクールの場で起きることだろうか」と疑問を呈す。そして本番は「オーケストラに気を使うあまりソロのときの伸びやかさをやや欠く演奏になった」。もしアムランがみんなと同じ第1番を選んでいたら……。

 入賞にいま一歩届かなかった小林愛実については「ラウンドごとに進化した姿をみせ、ファイナルの協奏曲では、小さな身体でオーケストラを包みこむような演奏を聴かせてくれた。ツボにはまったときのアイミ・コバヤシのすごさを見る思いだった」。昨年秋、著者は横山幸雄(1990年の第12回に3位)とコンクールを振り返った。そこで2人は「楽譜に忠実」であるのは必要だが日本人はもっと自分の解釈に積極的に関わる努力も必要、手が小さいことを悟られないような奏法や選曲を工夫する必要もある――などで意見が一致したそうだ。「あとがき」の書き出しがおもしろい。「よく仲間うちで冗談に、もしショパンがショパン・コンクールに出場していたとしても絶対に一次予選で落ちるね……と言い合うことがある」

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<BOOK> 「愛の讃歌 エディット・ピアフの生きた時代」

2016年11月08日 | BOOK

【加藤登紀子著、東京ニュース通信社発行】

 今年はフランスの国民的歌手、エディット・ピアフの生誕100年に当たる(正確には2015年12月19日からの1年)。パリの路上で生まれたピアフは売春宿を経営していた父方の祖母に引き取られ、赤貧の中、10代半ばで街頭で歌い始める。その境遇は同じ年の1915年に生まれた米国のジャズシンガー、ビリー・ホリディと重なる。薬物中毒、結婚・離婚の繰り返し、4度の自動車事故、ナチスドイツのパリ侵攻……。ピアフは数々の苦しみを乗り越えて力強い魂の歌声を残し、1963年10月11日短い生涯を閉じた。享年47。

     

 そのピアフを加藤登紀子心から敬愛する。1965年に日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝。以来、歌手活動は半世紀にわたるが「ピアフに魅せられた50年」と振り返る。ピアフは加藤が20歳になる直前に亡くなった。「繰り返し流れたピアフの『愛の讃歌』、ステージ上で倒れながらも歌う姿…。刺激された私は大あわてで恋をし、一気にその恋にのめりこんだ」と激白する。今年はピアフ生誕100年の記念公演「ピアフ物語」を6~7月に山形、大阪、高崎、東京で開催、さらについ最近11月3日にはパリでも21年ぶりに公演を行った。加藤自ら脚本、演出、日本語訳の全てを手掛け、ピアフに捧げるオリジナル曲『名前を知らないあの人へ』なども披露。パリ公演では『私は後悔しない』などピアフの代表曲を作ったシャルル・デュモンも駆け付けたそうだ。

 本書は「ピアフの誕生」「ヒトラーの時代」「戦後のピアフ」など5章構成で、ピアフの激動の生涯を辿る。読み進む中で、ピアフがいかに多くの名高い音楽家を掘り起こし世に送り出したかを知った。イブ・モンタン、シャルル・アズナブール、ジョルジュ・ムスタキ、ジルベール・ベコー…。加藤はそこに「不思議な共通点」があると指摘する。その共通点とは「みんな異国の人、移民の子供」ということ。「彼らのシャンソンはその異民族の血の素晴らしい開花と言えます」。ピアフ自身の中にもベルベル族の血が8分の1入っていたという。

 ピアフの代表曲として有名なのが『愛の讃歌』や『バラ色の人生』。これらの名曲が生まれたときの秘話も興味深い。『愛の讃歌』(作詞ピアフ、作曲マルグリット・モノー)は最初イヴェット・ジローに進呈していた。だが当時の恋人でボクサーのマルセル・セルダン(元世界ミドル級王者)が飛行機事故で突然亡くなった後、自らレコーディングすることを決めイヴェットに発売の延期を求めたという。ピアフ作詞・作曲の『バラ色の人生』はイブ・モンタンとの恋を歌ったものといわれるが、レコーディングしたのはモンタンと別れた後だった。この歌も周りからピアフが歌うには平凡で陳腐と言われ、最初は別の女性歌手にあげてしまっていたそうだ。

 ピアフが亡くなったとき、200万人もの人たちが霊柩車を見送ろうとパリの沿道を埋め尽くしたという。最も棺の近くにいたのがハリウッドスターのマレーネ・デートリヒ。14歳年下のピアフと、ヒトラーの帰国命令を拒否し連合軍の兵士としてナチスに立ち向かったマレーネは生涯深い友情で結ばれていた。「戦争と破壊の20世紀を果敢に生き抜いた二人の人生と歌。マレーネの生き方が、ピアフの歌が、人々をどれだけ励まし、力づけてきたのか」。

 ピアフが亡くなった1963年の秋には米国公演が控え、ホワイトハウスでJ.F.ケネディの前でも歌う予定だったという。そのケネディもピアフの死から約1カ月に暗殺されてしまう。加藤は「ピアフの人生を歌うことは、悲しみの中から生きる気力が燃え上がる、その炎を体の中に感じること」という。(わが家唯一のピアフのCDは「EDITH PIAF SPECIAL COLLECTION」。ヒット曲14曲入りで、1曲目が『愛の讃歌』、最後の14曲目が『バラ色の人生』。そのCDを聴きながら)

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<BOOK> 「江戸の悪 浮世絵に描かれた悪人たち」

2016年09月27日 | BOOK

【渡邉晃著、太田記念美術館監修、青幻舎発行】

 正義の味方や英雄が輝きを放つのも、存在感を発揮する悪役がいてこそ。それは江戸時代の歌舞伎や人形浄瑠璃でも、現代の映画やテレビドラマでも相通じる。浮世絵は江戸時代の有力な情報媒体。三代歌川豊国(国貞国芳)、月岡芳年ら浮世絵師も競って悪役たちを描いた。「当時の人たちは現実、虚構を問わず、『悪』の持つ魅力に好奇心を抱き、時に酔いしれた」(本書「はじめに」から)。

        

 本書の原型は1年前に太田記念美術館で開かれた「江戸の悪」展。出品作に図版を追加し、解説を加筆してまとめ上げた。取り上げた悪人は〝多士済々〟。大盗賊の石川五右衛門や鼠小僧次郎吉から、忠臣蔵の敵役吉良上野介、四谷怪談の民谷伊右衛門、放火犯の八百屋お七、飛鳥時代の豪族蘇我入鹿まで、実に多彩な人物が登場する。ユニークなのは〝悪人度〟を星一つから極悪の星五つまで5段階で評価していること。

 悪人度最高ランクの1人に民谷伊右衛門。三代歌川豊国の浮世絵「東海道四谷怪談」が添えられている。戸板の両側に括り付け川に流したお岩と小平の死骸が早変わりする〝戸板返し〟の仕掛け絵。解説でも「多く登場人物を躊躇(ためら)いもなく殺す、悪人中の悪人と言える」と断じる。その他の星五つには蘇我入鹿、菅原道真を讒言で大宰府に左遷させた藤原時平、極悪非道の町医者村井長庵、歌舞伎の伊達騒動物に登場する仁木弾正、お家乗っ取りのため後家をはじめ大勢を手に掛けた立場の太平次ら。

 ちなみに石川五右衛門や「仮名手本忠臣蔵」の高師直(吉良上野介)、「播州皿屋敷」で知られる浅山鉄山は星四つになっている。石川五右衛門の釜茹で場面を描いた歌川国芳の「木下曽我恵砂路」は燃え盛る炎と煮えたぎる熱湯の描写が迫力満点。その釜の中で五右衛門が倅の五郎市を頭上高く掲げる。暴君のイメージが強い平清盛や放火の罪で火炙りとなった八百屋お七は星三つ。本能寺の変の明智光秀、義賊的に描かれることが多い鼠小僧、国定忠治、雁金五人男、毒婦高橋お伝、「安珍・清姫伝説」の清姫は星二つ、侠客の元祖ともいわれる幡隋院長兵衛や「清玄桜姫物」の清玄は星一つになっている。

 悪人度の判定基準となったのは殺した人数や反省の有無など。昨年の展覧会でも悪人度を表示したが、盗んだ金額の多さから星5つを付けた鼠小僧について「義賊だから、そんなに悪くない」という意見が来場者から多く寄せられた。また星2つの「安珍・清姫」の清姫については逆に「これは五つだ」という声があったそうだ。著者も本書の「おわりに」で、悪人に対する見方は「個人の体験や価値観によっても大きく左右される」と認める。悪人の評価は時代によっても変化する。結局、悪の程度を測る尺度は人それぞれで構わないということだろう。それでも悪人度として数値化する試みはユニークであり痛快でもある。本書に登場した悪人の一部からは「俺が星五つでなく、なぜ三つだけ」といった不満の声が聞こえてくるようだ。

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<BOOK> 「明日に向かって 病気に負けず、自分の道を究めた星奈津美のバタフライの軌跡」

2016年09月21日 | BOOK

【田坂友暁著、ベースボール・マガジン社発行】

 日本競泳女子のバタフライの第一人者、星奈津美。200mバタフライでは日本選手権を7連覇、まさに敵なしだ。今夏のリオデジャネイロ五輪でもロンドンに続いて2大会連続銅メダルを獲得した。日本の女子競泳界で五輪2大会連続メダルはあの前畑秀子と中村礼子だけ。史上3人目の快挙だ。星は決勝後のインタビューで涙ぐみながら「最後はもう腕もかけなくなる、足も蹴れなくなるというぐらいまで初めて出し切れたと思うので、本当に悔いはない」と語った。メダルは完全燃焼の結果だった。

       

 本書の初版発行日はリオ五輪開幕直前の2016年7月30日。200mバタフライ決勝が日本時間8月11日だったので、その僅か10日ほど前ということになる。8章構成。スイミングスクールに通い始めた2歳の頃から、リオ五輪直前の今年6月の大会ヨーロッパグランプリまで、二十数年の水泳人生を星自身のその時々の思いを盛り込みながら辿る。8つの章のタイトルは「出会い」に始まり「病魔」「くやしさ」「飛躍」「苦難」「転機」「責任感」と続き、最終章の「未来」で終わる。その軌跡はまさに「山あり谷あり」だった。

 星は悔しさを飛躍のバネにしてきた。その悔しさは数知れない。中学時代の2度の4位、高校3年生で出場した北京五輪の準決勝敗退、100分の1秒差でメダルを逃した2010年上海世界水泳選手権での4位……。星はその結果を「神様が与えた試練なんだ、って考えるようにした」。そして迎えたロンドン五輪。銅メダルを獲得したものの、自己ベストに及ばない記録での結果に納得できなかった。2013年バルセロナ世界水泳選手権ではまたも4位。2年後の2015年夏、カザン(ロシア)世界水泳選手権でようやく悲願の金メダルに輝く。そしてリオ五輪の代表内定第1号に。五輪のちょうど1年前のこと。ところが、それがかえってプレッシャーに。長くモチベーションを保つのも容易ではなかった。

 星にはもう一方で病魔との闘いも続いた。初めてバセドー病と診断されたのは高校1年生の冬。以来、定期的に検査を受けホルモン値を調整する薬を飲み続けた。だが、2014年夏、ホルモン値のバランスが崩れて病状が悪化。星は甲状腺全摘出を決断し、同年11月手術を受けた。最終目標のリオ五輪から逆算すると、ぎりぎりのタイミングだった。2015年シーズンからは平井伯昌コーチの指導を受け始め、練習環境も一変。さらに今年5月には腰痛も発症した。6月のヨーロッパグランプリの記録が振るわない中、平井コーチが胸の内をじっくり聞いてくれた。平井コーチは星の悩みや不安を聞いたうえで「リオ五輪までの残り2カ月は俺に任せろ」と言ってくれた。「それですごくホッとしたというか、結構前向きな気持ちになれた」という。

      ☆☆☆      ☆☆☆      ☆☆☆     

 そして迎えたリオ五輪。200mバタフライの星の記録は予選が2分07秒37、準決勝は全体の4位の2分06秒74。2012年の日本選手権で出したベストタイム2分04秒69(現日本記録)には遠く及ばない。星は準決勝まで「思うような動きが出せなくて、すごく不安な部分が出てしまった」と決勝後のインタビューで振り返った。決勝を迎えるまでに母真奈美さんをはじめ多くの人から応援メッセージをもらった星は「改めて自分がやるべきことはこの決勝の舞台でしっかり自分の力を出しきることだと思った」。決勝タイムは2分05秒20。前回のロンドン五輪後ではベストタイムだった。メダルの色はロンドンと同じだが、4年前に感じたような悔しさはもうない。表彰台の表情は実に晴れやかで充実感にあふれていた。決勝レースから10日後の8月21日。26歳の誕生日を迎えたその日、星は会社員の男性と結婚した。母親同士が親友という。男性は星がバセドー病手術で入院したとき連日通って力づけるなど星を支え続けてきたそうだ。

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<BOOK> 「大和のたからもの」

2016年07月20日 | BOOK

【岡本彰夫著、写真・桂修平、淡交社発行】

 著者岡本氏は1954年奈良県生まれ。国学院大学文学部神道科を卒業後、春日大社に奉職し2001年から権宮司。15年退職し、現在は奈良県立大学客員教授。日本文化、とりわけ奈良の伝統文化への造詣が深く、著書に『大和古物散策』『大和古物拾遺』『神様にほめられる生き方』などがある。

       

 「大和のいのり」「大和のいとなみ」「大和のたくみ」の3章構成で、長い伝統の中で生まれた神具や彫像、書や絵画、焼き物などの美術・工芸品を、制作者の匠の技とともに紹介する。岡本氏が本書を執筆した背景には「(大和は)古代の文化遺産に恵まれ過ぎて近世・近代をかえって軽んじてしまう」(あとがき)風潮への危惧がある。「大和の近世・近代の匠や物の研究はまだまだ不充分」と指摘する。

 本書には奈良にゆかりのある各分野の著名人が登場する。俳人の會津八一、文人画家の柳里恭、赤膚焼の奥田木白、彫刻師の森川杜園、陶芸家の富本憲吉……。その一方で、日の当たらない人や忘れ去られた人たちにも焦点を当てた。

 画家・堀川其流(きりゅう)は一畳ほどの画面いっぱいに無数の鹿を配置した「千疋鹿(せんびきじか)」を描いた。その大胆な構図と一匹一匹異なる容態につい見入ってしまう。師匠は「鹿を描けば右に出るものなし」といわれた内藤其淵(きえん)。その内藤の絵の師匠だったといわれるのが菊谷葛陂(かっぴ)。『大和人物志』(1909年)の紹介は「圓山應擧に就きて畫を學び、花鳥を善くせりといふ」と短いが、岡本氏は菊谷について「実はとんでもなお四条派の画家」とし「今後研究すべき奈良の画描きの一人」と強調する。

 岡橋三山は極小の〝細刻職人〟。自作の茶杓に、ルーペで見ても読みづらいほどの文字で般若心経などを刻んだ。しかもなんとか彫ったというのではなく達筆というから驚く。かの有名な彫刻家、市川銕琅(てつろう)をして「あの技は誰にもマネ出来ん」と唸らせたそうだ。安井出雲はかつて「三国一の土人形師」と称されたが、今では忘れ去られた存在。富士山が好きだったらしく、富士をかたどった置物・香炉などを残した。陶芸家の黒田壷中(こちゅう)は沖縄で父と「琉球古典焼」を始め、故郷の大和に戻ってからは人形などの作陶に励んだ。清貧に甘んじ余技として土産物の埴輪や土鈴を作って糊口を凌いだという。

 画家や文人、陶芸家らの中で1人異色の人物が取り上げられている。「孝女もよ」。生まれてすぐ農家の養女になり9歳から病身の養母の看病に当たった。薬代を賄うため農作業や看病の合い間には、奈良晒用の麻糸紡ぎにも精を出した。村役人たちが孝行ぶりを領主に知らせたことから、11歳のときに藩侯からごほうびを授かる……。江戸中・後期の心学者、鎌田一窓はその行いを後世に伝えようと『和州和田邑孝女茂代傳』(1781年)を上梓した。その1ページ目の写真と、もよが書いた「唯」一字の墨書が添えられている。岡本氏は「こんな世の中でこそ、再び孝子や孝女に思いを馳せたい」と思いを記す。

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<BOOK> 「野生動物は何を見ているのか バイオロギング奮闘記」

2016年05月06日 | BOOK

【佐藤克文・青木かがり・中村乙水・渡辺伸一共著、丸善プラネット発行】

 「バイオロギング」。最近この言葉を目や耳にすることが増えてきた。つい最近5月1日付の日本経済新聞でも「魚に発信器、生態の謎探る」の見出しで、ほぼ1ページを割いてバイオロギングの最新情報を紹介していた。「バイオ(生物)が」「ロギング(記録する)」の合成語。野生動物の体に記録計やカメラなどを取り付けて、動物と同じ目線で行動を観察する手法を指す。日本はその先進国の1つ。2003年には東京で「第1回国際バイオロギングシンポジウム」も開かれた。

       

 本書はウミガメ、マンボウ、水鳥のオオミズナギドリ、マッコウクジラ、チーターを取り上げる。巨大なクジラや草原を疾走するチーターにどうやって記録計やカメラを取り付けたのか。そんな興味から、まず第5章のマッコウクジラ、次いで第6章のチーターから読み進めた。クジラの調査は小笠原諸島周辺で、捕食行動の解明を目的に行われた。装置の取り付けは長い棒で車のルーフキャリア用の吸盤を使って行う。やはり悪戦苦闘の連続だったが、3年目に深い海で餌を捕獲した〝痕跡〟の撮影に成功した。世界初という。撮影した2万枚弱の写真の中にイカの触腕やスミと思われるような写真が20枚あった。いずれもクジラが猛ダッシュした時に撮影されていた。相手はダイオウイカだったのだろうか。クジラ同士が潜水中、一緒に潜降したり体を触れ合ったりボディーコンタクトする様子もカメラで初めて捉えることもできた。

 チーターの観察場所はアフリカ南部のナミビア共和国の野生動物保護区。チーターにはGPS(全地球測位システム)、加速度計、ビデオカメラを付けた首輪をはめた。保護区のチーターは人に馴れており装置の取り付けは比較的容易だったようだ。10日間の調査でチーターは70回狩りをし7回成功した。そのうちの1回の様子がカメラに映っていた。その時の最高時速は25キロ、疾走時間はわずか8秒。衝撃で画面はその後真っ暗になったが、カメラには悲鳴のような激しい獲物の鳴き声が記録されていた。加速度計にはその後2時間以上かけて獲物を食べる様子も記録されていた。時速100キロともいわれるチーターだが、広々した草原ではなくブッシュでの狩りということもあって70回の狩りの平均時速は31キロ、最高でも61キロだった。

 マンボウに光源付きカメラを取り付けた調査では、主食がクラゲの中でも深い海中にいるクダクラゲ類ということが初めて明らかになった。クダクラゲは個虫と呼ばれる独立した個体が数珠つなぎになっている群体性のクラゲ。マンボウはその長いクラゲの群れをすするように食べているらしい。さらに体が大きいマンボウほど深い所に長くとどまって餌を探し食べることができることなども分かった。日経新聞の特集ではクニマス、ニホンウナギ、カブトガニ、沖縄本島周辺海域にすむヒロオウミヘビなどの研究事例を取り上げていた。バイオロギングの広がりによって、これまで観察が難しかった様々な動物の知られざる生態が今後次々に明らかになっていくに違いない。

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<BOOK> SB新書「認知症をつくっているのは誰なのか」

2016年04月20日 | BOOK

【村瀬孝生・東田勉共著、SBクリエイティブ発行】

 共著者の村瀬氏は「宅老所よりあい」(福岡市)代表で、著書に「ぼけてもいいよ『第2宅老所よりあい』から」などがある。一方、東田氏は介護や認知症、薬害を主要テーマとするフリーライター兼編集者。主な編著作に「認知症の『真実』」「介護のしくみ」など。本書は「『よりあい』に学ぶ認知症を病気にしない暮らし」を副題に掲げ、介護の現場を知り尽くした2人が対談を通じて認知症高齢者を取り巻く環境やケアの問題点などを鋭く浮き彫りにする。

        

 「認知症は国や製薬会社や医学会が手を組んでつくりあげた幻想の病」「2004年に認知症という病名が厚生労働省によってつくられた」「認知症と診断されると抗認知症薬が投与され、興奮や徘徊といった副作用が出たら、それを抑えるために向精神薬が投与される。そのことによって、お年寄りは本物の認知症にされてしまう」――。「はじめに」に綴られた東田氏の刺激的な表現に引き込まれるように、続く6章+終章(三好春樹「生活とリハビリ研究所」代表の特別寄稿)を一気に読んだ。

 厚労省は今年1月、国内の認知症患者が10年後の2025年に現在の1.5倍の700万人になると発表した。村瀬氏は「認知症は制度的に増えて当たり前」と指摘する。「公的介護サービスを受けようと思って申請する際、認知症がないと要介護度が高く出ない」ため、「加齢による物忘れやそこから生まれる勘違いを認知症にした方が、給付が受けやすくなっている」からだ。

 「認知症」という言葉が使われる以前は広く「ぼけ(呆け)」や「痴呆」という言葉が使われた。「呆」の字の成り立ちは赤ん坊がオムツをされるときに両手両足を開いている状態を表すそうだ。だから「お年寄りがぼけたからって慌てる必要はない。子どもに戻ったようなものだから」と村瀬氏は言う。東田氏も「痴呆やぼけという言葉を刈り取った結果、年相応にぼけていたお年寄りまでも全部、認知症にさせられてしまった」と指摘する。

 第1章「介護保険制度と言葉狩りが認知症をつくっている」に続く第2章「あらゆる形の入院が認知症をつくっている」では「病院の白い無機質な空間は……健常なお年寄りでさえ見当識障害を起こしかねない」として入院の怖さに触れる。第3~第5章では認知症をつくっている主体として「厚生労働省のキャンペーン」「医学会と製薬会社」「介護を知らない介護現場」を挙げ、さらに第6章では「老人に自己決定させない家族」にも責任の一端があると指摘する。東田氏は第4章で他の薬剤に例を見ない増量規定など抗認知症薬の問題点も列挙する。

 村瀬氏は多くの認知症高齢者らと接してきた体験から「人は『できる自分』と『できなくなる自分』を精神的にも肉体的にも『行ったり来たり』しながら老いていくように思える。そこにどう具体的に付き合い、支援していくのかが問われている」という。終章の寄稿で三好氏も「私たちの仕事は老いと障がいという、アイデンティティを失いそうな危機に直面している人を支えること」「アイデンティティを支えているものの一つが生活習慣である。チューブやオムツや機械浴といった特別なやり方をしたのでは、老人の生活習慣を根こそぎ壊してしまう」と指摘。そして「いい介護とは何か。高度な専門性でも、やさしさやまごころでもなくて、『老人がイヤがることはしない』ということではないか」と自問自答する。

 本書を読んでいて、何度かつい笑ってしまった。その1つが村瀬さんの目の前で、認知症予防のための脳トレとして92歳の夫が82歳の妻から掛け算をやらされる場面。「1かける1はなんぼね」。夫が答えると「2かける2は?」。夫が正しく答えるたびに妻の顔が輝く。ところが「2かける5」になると、なかなか答えが出てこない。妻は「ほら、言うてごらん。2・5たい」と繰り返す。「2・5はどうなっとるとね」。そしたら、夫がパッと顔を挙げて「10」ではなくこう答えた。「俺には二号はおらん」。「もうびっくりです」と村瀬氏は当時を振り返る。

 

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<BOOK> 「正岡子規と明治のベースボール」

2016年04月05日 | BOOK

【岡野進著、創文企画発行】 

 「球うける極意は風の柳かな」「若人のすなる遊びはさわにあれどベースボールに如くものはあらじ」――。俳人・歌人の正岡子規(1867~1902)はアメリカから日本に入ってきて間もないベースボールに熱中し、新聞で取り上げたり俳句・和歌を作ったりした。2002年には野球の普及に尽くした功績から〝野球殿堂〟に入っている。著者はその殿堂入りの新聞記事で、初めて子規が自ら野球をやっていたことを知り、その後、子規と野球の関わりの調査・研究に没頭した。

       

 「子規とベースボールの関係を巡って」「明治と子規のベースボール(野球)を検証する」「夏目漱石、秋山真之とベースボール(野球)」の3部構成。巻末の7ページにもわたる引用・参考文献一覧が、子規がベースボールに関わった全体像を探るため、いかに多くの関連資料や文献を渉猟したかを物語る。子規は1890年(明治23年)、本名の「升(のぼる)」をもじった「野球(の・ぼーる)」の雅号を使い始めた。ただし子規が「やきゅう」と発音したことはない。ベースボールを最初に「野球(やきゅう)」と訳したのは中馬庚(ちゅうまん・かのえ)だった。中馬は1899年に一般向けの野球解説書『野球』も出版している。野球殿堂入りは1970年で子規より随分早い。

 アメリカの南北戦争(1861~63)は誕生したばかりのベースボールが全土に広がるうえで大きな役割を果たした。戦闘の合間に兵士によって頻繁に行われ、戦争後は各地に帰郷する兵士たちによって鉄道の建設とあいまって瞬く間に広まったという。日本には明治時代の初め、1870年代前半に伝来した。子規は初めてベースボールに出合うのは1884年、17歳のときに東京大学予備門に入学してから。23歳のときには故郷松山に帰省した折、バットとボールを持ち帰り、高浜虚子ら松山中学の生徒たちにバッティングを披露した。

 ただ当時のベースボールは今の野球の方式やルールなどとは大きく異なっていたという。投手はアンダーハンドから打者が打ちやすい所に投げる、捕手や野手は素手でワンバウンド捕球する、打者はナインボールで出塁する、アンパイアは定位置が決まっておらず投手の後方に立つこともあった――。「子規は左利きだった」というのが半ば定説だが、著者は様々な根拠を挙げて「子規は右利きで、右投げ右打ちだった」とみる。その根拠として、幼少の頃に左利きを右利きに直されていたこと、腕力が左手より右手のほうが強かったこと、子規の写真や子規が描かれた絵図は全て右手を使ったものばかりであることなどを挙げる。

 子規はベースボールを題材にした俳句を9句作り、結核で病床にあった1898年(明治31年)にはベースボール短歌9首を詠んだ。その1つに「久方のあめりかびとのはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」がある。「天(あめ)」にかかる古い枕詞を「あめりか」にかけた万葉調の歌。そこにはベースボールが楽しくて夢中になっていた青春時代の熱い思いがあふれている。

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<BOOK> 「大大阪」時代を築いた男 評伝・関一(第7代目大阪市長)

2016年03月17日 | BOOK

【大山勝男著、公人の友社発行】

 大阪市がかつて「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれた栄光の時代があった。大正後期から昭和初期にかけて。市域の拡張で人口は日本一、商工業でも国内随一の隆盛を誇った。昭和初めの人口約225万人はニューヨーク、ロンドン、ベルリン、シカゴ、パリに次いで世界第6位。工業生産額も全国の14%弱を占め東京を凌いでいた。

        

 その「大大阪」づくりを牽引したのが第7代市長の関一(せき・はじめ、1873~1935)。東京高等商業学校(現一橋大学)教授から大阪市の助役、市長に転進し、約20年を市勢発展に尽くした。功績としてよく挙がるのが御堂筋の拡幅整備や地下鉄梅田―心斎橋間の開通だが、そのほかにも関が成し遂げたものは多い。中央市場の開設、大阪港の拡張整備、大阪商科大学(現大阪市立大学)の開校、大阪城天守閣の再建、橋梁・上下水道の整備……。まさに今の大阪の礎を築いた第一人者である。

 御堂筋の整備は当時6mほどだった道幅を7倍以上に広げ、その下に地下鉄を走らせるという大事業。まだ車が少ない時代。市議会では「飛行場でもつくる気か」というヤジが飛んだ。用地買収の前には船場など沿線の地主や商人たちの頑強な抵抗が立ちはだかった。その壮大な事業が実現したのはなぜか。昭和天皇の大阪行幸が大きな転機になったという。「天子さまのお通りになる道路も造れなくては商都大阪の中心たる船場の恥」。誰からともなくこんな声が沸き上がったそうだ。そして全長4キロの御堂筋は難産の末、昭和12年(1937年)に開通する。着工から約11年、関が没して2年後のことだった。

 本書を通じて関の先見の明には改めて驚かされた。「東の後藤新平、西の関一」。後藤は東京市長で、関東大震災直後には「帝都復興院」の総裁として東京復興に尽力した。関はその後藤と並び称された。著者は多くの文献や学者へのインタビューを通して、関の都市政策の底辺に流れる思想・信念を探り求めた。「関一研究会」代表の宮本憲一氏(大阪市大名誉教授)は関を「日本都市史上、理論と実践を統一した最高の市長」と評する。

 「上を見て煙突を数えるだけでなく、下を見て労働者の状態を見よ」。本書には関の口癖だったというこの言葉が度々登場する。著者が関の評伝をまとめたいと思ったのもこの言葉を知ったのがきっかけという。関はハード(社会資本)の整備とともに住環境の改善や福祉、緑化、文化振興などソフトにも力を注いだ。「アメニティ」。この言葉を国内で最初に使ったのも関だったという。著者は関の都市政策の目的を「一口で言えば『住み心地よき都市』つまり現代の市民が理想とする『アメニティのある街』をつくることであった」とみる。病に倒れ志半ばで没して80年。関がもし大阪の現状を知ったら、どんなふうに評するのだろうか。

   

 著者大山勝男氏は大阪日日新聞記者の傍ら、ノンフィクションライターとして活躍中。友人や記者仲間からは「勝ちゃん」と慕われている。主に「人権」や「差別問題」をテーマとし、著書に孤高の棋士坂田三吉の素顔を追った『反骨の棋譜 坂田三吉』、戦後8年間アメリカ占領下に置かれた奄美諸島の祖国復帰運動を描いた『愛しのきょら島よ―悲劇の北緯29度線』、庶民史として父の行きざまを綴った『あるシマンチュウの肖像 奄美から神戸へ、そして阪神大震災』などがある。

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<BOOK> 岩波新書「日本にとって沖縄とは何か」

2016年02月25日 | BOOK

【新崎盛暉著、岩波書店発行】

 約450年間続いた琉球王国を廃し、明治政府が強制的に日本に統合した〝琉球処分〟から130年余。沖縄戦では県民の4人に1人が戦死し、戦後の米国統治は27年間も続いた。沖縄には日本全体の7割強の米軍基地が密集する。沖縄は戦中・戦後、過酷な時を刻んできた。そして、いま政府と沖縄県は辺野古での新基地建設を巡って鋭く対峙する。本書はタイトル通り「日本にとって沖縄とは何か」を探るものだが、それは同時に「日本人1人1人にとって沖縄とは何か」を問う1冊でもある。

       

 著者は1936年東京生まれ。東大卒業後、東京都庁勤務の傍ら「沖縄資料センター」の活動に携わり、74年に沖縄大学に赴任。専門は沖縄近現代史で、学長・理事長を経て現在は沖縄大学名誉教授。新崎氏は戦後の日米の基本的枠組みを「対米従属的日米関係の矛盾を沖縄にしわ寄せすることによって、日米関係(日米同盟)を安定させる仕組み」と指摘する。その仕組みは「戦勝者=占領者であるアメリカによって作り出され、日本の独立後も引き継がれた」。

 その背景にあるものを「構造的沖縄差別」と呼ぶ。辺野古新基地建設は「単に米軍基地の建設をめぐる問題ではなく、戦後70年の日米沖関係史の到達点」。そして建設阻止の闘いは「戦後70年、軍事的な意味での『太平洋の要石』としての役割を押し付けられてきた沖縄が、構造的沖縄差別を打ち破り、自らを、平和な文化的経済的交流の要石に転換させるための『自己決定権』の行使にほかならない」と意義付ける。

 沖縄では一部県民の中で繰り返し〝琉球独立論〟が唱えられてきた。2013年には「琉球民族独立総合研究学会」という学会まで旗揚げした。本書でも最後に「沖縄独立論をどう考えるか」という小見出しを立てて独立論に触れる。2015年の琉球新報と沖縄テレビによる世論調査では「現行通り日本の中の一県のままでいい」が最も多く66.6%、次いで「日本国内の特別自治州などにすべきだ」が21.0%で、「独立すべきだ」は8.4%だったという。この10人に1人近い数字を少ないとみるか、多いとみるか。

 著者は「『自立』は必ずしも『独立』ではない」と指摘する。そして辺野古で海上抗議活動に参加する芥川賞作家、目取真俊氏の言葉を紹介する。「米軍基地は必要だが自分たちの所にあると困るので沖縄に押しつけておきたい、というヤマトゥンチュー(日本人)の多数意思が、安倍政権の沖縄に対する強権的な姿勢を支えている……辺野古や高江で起こっている問題すらウチナンチュー(沖縄人)が自己決定できずして、独立など夢物語にすぎない」

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<BOOK> 「語られた自叙伝 遠山一行」

2016年02月13日 | BOOK

【遠山一行著・長谷川郁夫編、作品社発行】

 遠山一行(1922~2014)はクラシックを中心とする音楽評論の第一人者として長年健筆を振るった。一昨年12月の逝去から1年余り。本書は生い立ちを辿った聞き書きの「語られた自叙伝」と2002年以降に様々な媒体に寄稿した随筆の「未刊エッセイ」の2部で構成する。自叙伝の聞き書きは2009年に行われたもの。生前あまり触れられることのなかった私生活を回想しながら、最後は「最近の音楽、特に演奏が気に入らない」と苦言を呈しているのが印象的だ。

      

 遠山は日興証券(現SMBC日興証券)の創業者で初代会長の遠山元一の長男として生まれた。東大在学中の1943年には学徒出陣で入隊し、45年9月の復員まで内地で軍隊生活を送る。その後、フランス留学などを経て、日本近代音楽財団理事長、東京文化会館館長、桐朋学園大学学長などを務め、96年には文化功労者に選ばれた。

 また日本音楽コンクール委員長を務めるなど内外でのコンクールとの付き合いも長かった。ただ自叙伝でコンクールには「複雑な気持ちを持っていた」と告白し「これは一種の必要悪だと思う」と吐露している。「今の音楽界の技術偏重や演奏の画一化はコンクールに大いに関係がある」とも。文学の芥川賞のように審査員の間で議論がなく、点数だけで機械的に決まる状況に疑問を抱いていた。

 主として西洋音楽に携わった遠山は日本の音楽をどう見ていたのだろうか。エッセー『音楽深邃(しんすい)―音楽その合理性と幽邃なるもの』には、能の楽器演奏に強く魅かれるとし「これ程純粋な音楽はないだろう」と綴る。「つづみが打ち鳴らされる。笛が鳴りひびく。それは、西洋音楽の算術的なリズムや音程とはちがって、極めて自由で即興的な時間と空間の感覚に満ちている。そしてそれでいて厳密な秩序が支配する世界である」

 エッセー『八十歳の幸福』の中では再び「最近は、音楽会に行っても気に入らずに帰ることが多い……音楽の商品化の勢いのなかで、腕前を見せびらかすような演奏が氾濫しているので」とぼやく。だが続いて「本物の演奏家」に出会ったとして、バイオリニスト塩川悠子さんの名前を挙げる。「豊かな情熱にあふれた演奏はいまではほとんど聴くことのできない世界である」

 ノーベル賞受賞者でモーツァルトファンの小柴昌俊さんの半生を連載した日本経済新聞の「私の履歴書」(2003年2月)にこんなくだりがあった。「特に気に入っているのが遠山慶子さんの演奏……お祝い事があると遠山さんは友人のバイオリニストの塩川悠子さんといっしょに私のためにモーツァルトを演奏してくれる」。遠山慶子さんは遠山一行が渡仏時代に知り合って結婚した夫人で、国際的なピアニストでもある。

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<BOOK> PHP新書「無電柱革命」

2016年02月05日 | BOOK

【小池百合子・松原隆一郎著、PHP研究所発行】

 だいぶ以前にテレビで見た光景だが、京都で外国人観光客が林立する電柱と蜘蛛の巣状の電線を物珍しげにカメラに納めていた。なぜ?の質問には「芸術的だから」と皮肉たっぷり。1カ月近く前の日本経済新聞の特集「FT(英国フィナンシャル・タイムズ)記者と歩くニッポン」。ここでもFT記者は「電線や電柱がむき出しじゃないか」と驚きを隠さなかったという。京都を訪れるのが夢だったが、その景観は期待を裏切り奇異に映ったようだ。

    

 日本には3500万本を超える電柱があるという。桜の木も3500万本といわれるので、ほぼ同数の電柱が林立しているわけだ。しかもなお毎年7万本のペースで増えているという。無電柱化比率は最も高い東京23区内で7%、大阪市内でも5%にすぎない。観光客に人気の高い京都市内は僅か2%で、幹線道路から一歩脇道に入るとご覧の通り(写真は京都・5花街の1つの先斗町。昨年12月中旬、無電柱化に向けて関係者の調印式が行われた)。では海外はどうか。ロンドンやパリでは戦前から100%、ニューヨークでも83%に達する。アジアでもソウル46%、北京34%と着実に無電柱化が進む。世界の主要都市では電線の地中化は今や常識になっているわけだ。

 電柱・電線は多くの日本人にとって見慣れた景色。だから不感症になって何にも思わない。だが、いったん気になると不快で仕方がないという人も多い。こんな日本の状況を、『失われた景観』などの著書がある社会経済学者、松原隆一郎氏は「伝染病」ならぬ「電線病」と名付けた。小池百合子氏は松原氏と同じ兵庫県出身の衆議院議員。阪神大震災で倒壊した電柱が救急車や消防車の行く手をさえぎる光景を目にした体験から、景観だけでなく防災・通行の安全という観点からも無電柱化を推進すべきだと立ち上がった。

 小池氏には「ガス管は地中なのに、なぜ電線は空中なのか」という素朴な疑問もあった。松原氏も「機会の平等に反している」と指摘する。小池氏らの呼びかけで2009年「美しい国:電柱の林を並木道に!議員連盟」が発足。ところが政権交代もあってまもなく開店休業状態に。4年後の2013年秋「無電柱化議員連盟」として再スタートした。小池氏は勉強会などを通じて、複雑な「連立方程式」無電柱化の前が立ちはだかるのを痛感したという。電力・ガス・通信・水道の各業界、縦・横割りの関係省庁、国・県・市町村に分かれる道路管理などだ。

 議員連盟は2014年「無電柱化の促進に関する決議」を採択し、さらに15年には議員立法として「無電柱化の推進に関する法律案」をまとめた。国の責務や推進計画の策定などに加え国民啓発の一環として「無電柱化の日(11月10日)」も盛り込んだ。「林立する111(電柱)を0(ゼロ)に」という意味合いが込められているそうだ。ただ安保関連法案が最大の審議案件だった先の国会での提出は見送られた。開会中の今国会に法案は提出されるのだろうか。

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