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く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> ものと人間の文化史174「豆」(前田和美著、法政大学出版局発行)

2016年01月28日 | BOOK

【「ツタンカーメンのエンドウ」は捏造! 王墓副葬品にエンドウはなかった】

 市販中の「ツタンカーメンのエンドウ豆」の売り文句はエジプト王家のツタンカーメンの墓から豪華な副葬品とともに発見され3000年の時を経て発芽! なかなか夢とロマンのあふれた話で、一時は小学校で栽培ブームが起きるほど。ところが実際には王墓の副葬品の中にエンドウマメはなかったといわれる。本書は昨年11月30日に初版が発行されたばかり。第9章「虚構の主役になったマメ―エンドウ」で22ページを割いて「ツタンカーメンのエンドウ」の誕生やブームの背景を詳細に論じている。(写真㊨は昨年自家栽培した「ツタンカーメンのエンドウ豆」の花)

   

 著者がこのエンドウマメの由来について研究を始めたのは今から約30年前の1987年。内外の多くの文献に当たった結果「9世紀ごろの欧州における『ミイラのコムギ』や『ミイラのオオムギ』の話の『書き替え』であることを確認できた」という。「ツタンカーメンのエンドウ」は「科学的根拠のない虚構」だったわけだ。

 元となった「ミイラのコムギ」はエジプトの墳墓から見つかった種子が時を超えて発芽したというもの。だが古植物学者らによると、その種子は炭化し胚が壊れて発芽は全く不可能で、まさに根も葉もない作り話とか。種子の寿命は貯蔵の条件にもよるが、それでも数百年ということは決してあり得ないという。普通コムギ(パンコムギ)とは別種のコムギの種子を「奇跡のコムギ」「ミイラのコムギ」と称して売った業者もいたそうだ。捏造話の裏には一儲けしようという欲があった。

 「ツタンカーメンのエンドウ」が捏造された背景について、著者は「エンドウの種子が3000年も生きていた」ことを信じた植物や作物の専門家とともに、ブームの火付け役となったマスメディアに大きな責任があると指摘する。農林水産省のホームページ「消費者の部屋」(2006年)でさえ「ツタンカーメンのエンドウ」を「えんどう豆は発芽能力の維持が難しいといわれていますが、発見されたものは約3000年の年月を超えて発芽しました」と紹介していたという。著者は「専門家や国が科学的根拠を示さずに『事実』として、いわば『お墨付き』を与えている『ツタンカーメンのエンドウ』の話が、今もなお生き続けている」ことに警鐘を鳴らす。

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<BOOK> 「円空の生涯」

2016年01月26日 | BOOK

【長谷川公茂著、人間の科学新社発行】

 江戸前期の遊行僧円空(1632~95)は生涯に12万体の木彫りの仏像を作ったという。これまでに全国各地で発見されたのは約4500体。彫刻を始めたのは32歳のときといわれ、64歳のとき即身仏として入寂した。ということは単純計算でもこの間の30年余に毎日10体以上彫らないと12万体に達しない。超人的な数の仏像を彫り続けたのはなぜなのだろうか。

       

 著者は1933年愛知県生まれ。20代前半の55年秋、江南市の寺で円空作の護法神を目にしたのが円空仏にのめり込むきっかけになった。71年に「円空学会」を旗揚げ、81年から2013年まで理事長を務めた。全国で見つかった円空仏はこれまでに全て訪ねたという。著書に『底本円空上人歌集』『東海の円空を歩く』『円空微笑みの謎』など。

  円空仏の最大の特徴は何と言っても慈愛に満ちた微笑みだろう。観音菩薩や地蔵菩薩だけでなく、いかめしい表情が一般的な仁王像や不動明王、役行者でさえも笑みをたたえる。彫刻家棟方志功を名古屋の鉈薬師に案内したとき、棟方志功が突然須弥壇に駆け上がり「こんな所に俺の親父がいた」と円空仏にしがみついたそうだ。著者は「円空仏の微笑みは円空その人の微笑み」とみる。

 円空は多くの和歌も残している。著者は1960年、岐阜県関市の高賀神社で「大般若経」の表紙裏に貼り付けられた膨大な数の円空自作の和歌を発見した。「この『円空歌集』こそが円空仏の微笑みと美の謎を解く鍵なのではないか」と胸が高鳴ったという。その中にこんな1首があった。「作りおく神の御影の円(まどか)なる浮世を照すかがみ成けり」。私が作るのは円満なる神の像であり仏の像である。これらの像は浮世の人々を救う神・仏であり、私はその鏡を作っている……。

 円空は岐阜県の出身。出家後、愛知や長野など近隣だけでなく東北や北海道、関東、近畿など全国を行脚し仏像を刻んだ。1971年には奈良・法隆寺に立ち寄り、大日如来像を彫って「万代(よろずよ)に目出度き神の在(ましま)して名を九重のいかるがの寺」の歌を残した。また大和郡山市の松尾寺には大峰山での修行中に彫ったといわれる役行者像が安置されている。

 かつて岐阜県内で何度か目にした円空仏は高さ数十センチの粗削りの像がほとんどだった。このため不勉強のほどが知れるが、円空仏といえば小ぶりで簡素な造形というイメージを持っていた。本書で初期の作品は丁寧な造りだったこと、高さは1~2m、中には3mを超える大作もあったことなどを初めて知った次第。円空は幼少時に母を長良川の洪水で失ったといわれる。円空が即身仏入定の素懐を遂げたのも自坊前の長良川河畔だった。岐阜県関市のその場所には「円空上人塚」が立つ。

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<BOOK> 『娘になった妻、のぶ代へ 大山のぶ代「認知症」介護日記』

2016年01月21日 | BOOK

【砂川啓介著、双葉社発行】

 NHKラジオ深夜便の21日午前4時台の「明日へのことば」。語り手はかつて「体操のお兄さん」として人気を集めた俳優の砂川啓介さん(78)だった。この日のタイトルは「妻が認知症になったら」。10日ほど前に砂川さんが綴った本書を読み終えたばかりだったこともあって興味深くラジオに耳を傾けた。

         

 砂川さんの奥様は「ドラえもん」で有名な声優大山のぶ代さん(82)。舞台での共演をきっかけに結婚した2人はおしどり夫婦として知られ、共著の料理本を出したことも。だが大山さんは60代後半以降、次々に病魔に襲われる。直腸がん、脳梗塞、そしてアルツハイマー型認知症。2012年秋の発症以来、砂川さんの認知症との闘いが始まった。

 「ドラえもん」のイメージを壊すことを恐れた砂川さんはほとんど誰にも知らせず自宅で介護を続けた。しかし、70代後半の身には肉体的にも精神的にもこたえる。自身も13年秋、胃がんの摘出手術を受けた。「カミさんの介護を辛いと感じてしまう僕は、夫失格なのだろうか」。砂川さんは日々、自責の念にさいなまれたという。

 ラジオ番組で公表に踏み切ったのは昨年5月のこと。60年来の親友「マムシ」こと毒蝮三太夫さんの「1人で全部抱え込んでいたら、お前のほうが参っちゃう」「公表したほうが絶対に、お前も楽になるって」という助言からだった。反響は凄まじかった。同じように介護に苦闘している全国のリスナーから「勇気が出ました」など多くのメッセージが届いた。

 公表によって砂川さんにももう嘘をつかなくていいという安堵感が生まれ、「さまよい続けた暗い森に一筋の光が差したような……そんな気がした」。大山さんの症状も少しずつ落ち着いてきているそうだ。今心掛けているのは「彼女に対して決して声を荒らげないこと、怒らないこと」。そして「意識して彼女の容姿を褒めるようにしている」。

 さらに「公表後、友人に会せるようにしたことも、カミさんに良い影響を与えているのでないかと思う」。昨年7月には東京・六本木の店で、大山さんは長年の親友黒柳徹子さんと再会を果たした。その食事会に駆けつけた「マムシ」は大山さんの元気に笑う姿を見て驚いたそうだ。本書の表紙を飾るのは昨年8月に自宅で撮ってもらった1枚。2人の輝くばかりの笑顔と、砂川さんの右肩にぎゅっと置かれた大山さんの右手が印象的。それにしても大山さんは血色も良く実にお若い。砂川さんはラジオの「明日へのことば」で今後やりたいことを問われ、認知症の介護に携わる人たちの役に立つ体操を考えたいと答えていた。

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<BOOK>中公新書「ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か」

2016年01月09日 | BOOK

【對馬達雄著、中央公論新社発行】

 ヒトラー政権が誕生したのは1933年1月。深刻な経済危機の中で、アウトバーンの建設などで大量失業問題を解決したヒトラーに、ドイツ国民は熱狂し拍手喝采を送った。そして6年後、ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦へ。ヒトラー独裁は自身が自殺し、連合軍に無条件降伏する45年5月まで約12年間続いた。この間、ホロコーストで虐殺されたユダヤ人は600万人以上ともいわれる。

       

 本書は圧倒的多数の国民大衆がヒトラーを支持する中で、ユダヤ人の救援やナチ体制の打倒に取り組んだ有名無名の人々の活動の軌跡をたどる。多様な職業人によるグループ「ローテ・カペレ」や「エミールおじさん」、大学生による反ナチグループ「白バラ」……。それらのグループのメンバーには摘発され獄死した人も多い。「ローテ・カペレ」の場合、戦後も長らくソ連のスパイ網と誤解されていた。

 ヒトラー暗殺の計画・未遂は40件余に上る。1939年9月、ヒトラーが演説するミュンヘンのビアホールの演壇に時限爆弾が仕掛けられた。だが演説を早めに切り上げたヒトラーは僅かな時間差で難を免れる。容疑者ゲオルク・エルザーは終戦の1カ月前、ナチ親衛隊員によって射殺された。44年7月20日には国防軍の反ヒトラー派による暗殺と軍事クーデターが決行されるが、失敗し7000人の逮捕者と200人の処刑者を出した。

 この「7月20日事件」はドイツの敗戦がほぼ確実になった段階での出来事だったが、なお国民の大半がヒトラーを支持しており、「このニュースはヒトラーへの同情と、事件を起こした人びとへの憤激を呼んだ」。事件の遺族や生存者は戦後も「裏切り者」「反逆者」という烙印に苦しめられる。そこに「英雄視された被占領地のパルチザンやレジスタンスとの大きな違いがある」。

 終戦6年後の51年に行われた全国世論調査でも「反ヒトラーの抵抗運動がなかったら、ドイツは最終的に戦争に勝ったか」という問いに、「勝った」または「多分勝った」と答えた人がまだ36%もいたという。52年の〝レーマー裁判〟の判決で裁判長は「7月20日事件」についてこう判じた。「確認できるのは、祖国愛と無私の自己犠牲の精神に基づいて国家と国民を救おうとする、行動の倫理的要素だけである。したがって国家への裏切りという誹謗中傷は許さない」

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<BOOK> 朝日新書「京大式おもろい勉強法」

2015年12月24日 | BOOK

【山極寿一著、朝日新聞出版発行】

 著者山極氏は1年前の2014年秋、京都大学総長に就任。人類の進化を研究テーマとする霊長類学・人類学者で、約40年前京大理学部に入って以来、主にアフリカのジャングルで暮らすゴリラの研究を続けてきた。著書に『ゴリラとヒトの間』『家族進化論』『「サル化」する人間社会』など。本書は「『おもろい』という発想」「考えさせて『自信』を育てる」「相手の立場に立って『信頼』が生まれる」など6章で構成する。

      

 野生動物の調査手法としては餌付けが一般的だが、山極氏らがゴリラの調査で採ったのは「人付け」。自由に動き回るゴリラの群れを追っかけて間近で観察する。当初何度も突進されたりドラミングで威嚇されたりしたが、そのうち警戒心をほどいて、そばにいることを許してくれるようになったそうだ。調査には現地の人たちの情報と案内が欠かせない。そのとき「対人力」や「対話」の重要性を痛感させられ、その術をアフリカの人々から学んだ。

 ゴリラ目線で人間を見ると「人間がとても不思議な動物に見えてきて、いつもとは違う発想がどんどんあふれ出てくる」。学長就任時に掲げたキャッチフレーズは「おもろいことをやりましょう!」。その後事あるごとに「大学はジャングルだ!」と口にしてきた。学内では様々な研究分野に取り組む多彩な研究者が共存する。それが生物多様性の象徴でもあるジャングルに酷似しているというわけだ。「研究者たちは各々ジャングルで暮らす猛獣。猛獣たちを一つの方向に向かわせるなど、しょせん無理な話。それなら彼らに互いに切磋琢磨してもらいながら、新たな考えや技術、思想を生み出してもらえばいい」

 アフリカでの調査は試行錯誤の連続だったが、悩んでいるとき現地の人から「There is no problem. There is a solution」と声を掛けられた。どんな困難に直面しても必ず解決策がある――。人間がゴリラやチンパンジーと違うところは目標を持つことや諦めないこと。「だからこそ、人間はいくつになっても変われる」。夢中になれるものと出合ったら「あの手この手を使ってその道を突き進む」こと。ただし、そのときは①相手の立場に立って物事を考える②状況に即して結論を出す③自分で決定する――の3点を道しるべにすべきだと強調する。

 ゴリラやチンパンジーはサルと違って餌を分け合って食べるそうだ。ゴリラのドラミングはまるで歌舞伎の見得とそっくりに見えたとか。アフリカに最初に行ったとき日本人というだけで空手家と思い込まれ噂に「ブルース・リーと同じ師匠についていたらしい」という尾ひれまで付いた。そんな愉快な話も盛り込まれている。

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<BOOK> 『日本と中国の絆』

2015年12月15日 | BOOK

【胡金定著、第三文明社発行】

 著者胡金定さんは1956年中国福建省生まれ。国立廈門(アモイ)大学卒業、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。現在、甲南大学国際言語文化センター教授。1985年に来日し30年にわたって中国と日本の文化の比較研究を続けてきた。著書に『郁達夫研究』、『アクティブ中国』(共著)、中国語教科書など。幅広い交友関係を持ち「こきんちゃん」の愛称で親しまれている。(写真㊨は達筆な胡金定さんの署名)

        

 日中関係は領土問題や歴史認識などで1972年の国交正常化以降最悪ともいわれる。双方の国民の間でも反中、反日感情がかつてなく高まっている。日本の大学生の中国語選択者数は2~3割も減少しているそうだ。筆者は今こそ「以民促官(いみんそくかん)」の精神で民間交流を重ね友好の絆を深めていくべきだと指摘する。「民間先行、以民促官」はまだ国交がない時代に中国の周恩来総理が提唱したといわれる。

 序章「日本と中国の共通点」に続いて5つの章で日中友好や親善の懸け橋となった人々を紹介する。見出しの一部を列挙すると――。岡崎嘉平太の「刎頚の交わり」、魯迅と「藤野先生」の師弟関係、孫文を支えた梅屋庄吉、親善の橋かけた棋聖・呉清源、砂漠緑化に懸けた遠山正瑛、日中友好の先駆者・鄭成功の魂……。朱鷺(とき)が結ぶ日中の友好、友好の使者・高倉健、赤穂浪士・武林唯七、楊貴妃伝説、文化交流の創始者・徐福などもある。

  鄭成功(1624~62)は長崎生まれで母親は日本人。近松門左衛門の「国性爺(こくせんや)合戦」では「和藤内」の和名で知られる。明皇帝から名前を賜ったため人々から「国姓爺」と呼ばれた。鄭成功はオランダの植民地だった台湾を開放した英雄。東日本大震災の際、台湾から200億円もの義援金が寄せられたが、筆者はその背景の1つに台湾で「開発始祖」と崇められている鄭成功の母が日本人だったこともあるのでは、と推測する。赤穂浪士の武林唯七は祖父が中国人で、日本には漂流し流れ着いたといわれる。父と2代にわたって赤穂浅野家に仕えた。義挙後、幕府の命で切腹、享年32。辞世の句「仕合や死出の山路は花ざかり」。

 高倉健は文革直後の1979年に公開された主演映画「君よ憤怒の河を渉れ」(中国の題名は「追捕」)で一躍人気を集めた。当時大学生だった筆者はこの映画を通じて「日本に対する憧憬の念を一層強くした」そうだ。健さんは映画だけでなく、2006年に北京電影学院の客員教授に就任し、11年の雲南省の地震の際には被災地にヒマワリの種を送って村民を感動させたという。昨年11月訃報が伝わると中国でも大々的に報じられ、テレビは特集番組を組み新聞は追悼記事を載せた。筆者は健さんを「まさに日中友好の体現者」と称え、「日中両国に多くの高倉健が出現することを願ってやまない」と記す。

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<BOOk> スポーツ学の射程 「身体」のリアリティへ

2015年12月09日 | BOOK

【井上邦子・松浪稔・竹村匡弥・瀧元誠樹編著、黎明書房発行】

 収録しているのは主に大学に籍を置くスポーツ史や身体論、健康文化論などの研究者を中心とする18人による論考18編。「<競争>を問う」「<歴史>を紐解く」「<民俗>をみつめる」「<身体>を感じる」の4章構成で、既存の見方に捉われることなく独自の視点で「スポーツとは何か」という根源的な問題に切り込む。体育教育やスポーツに携わる人だけでなく、広くスポーツを愛する一般の人にとっても興味深い読み物になっている。

         

 第1編目の『スポーツにおける判定を考える』(筆者松本芳明)はスポーツ界全体で導入が進むビデオ判定について「生身の肉体の生き生きとした動きやダイナミックな流れといった人間のもつ豊かな内実の多くが捨象され……『モノとしての肉体』の動きのみによる判定ということにならざるをえなくなる」として疑問を投げかける。同時に体操やフィギュアスケートでの審判の分業制度の問題点も指摘する。

 『「無気力試合」を「問題」とする問題』(筆者鵤木千加子)は2012年ロンドン五輪のバドミントン女子ダブルスで中国などの4ペア8選手が意図的に負けたとして失格になった問題の背景を探る。当時、選手の倫理観や大会運営システムの問題がクローズアップされたが、筆者は国家間のメダル競争こそが根源にあると強調する。『体罰の起源を探る』(筆者松浪稔)は近代学校制度開始以降、学校での集団秩序の維持のために軍隊経験者の体操教師らによって体罰が持ち込まれたと指摘する。

 『戦時下のプロ野球』(著者玉置通夫)は戦時下にスポーツ大会が次々と休止する中、プロ野球の公式戦が終戦前年の1944年まで可能だった理由を推論する。筆者は用語の日本語化、軍需産業などに従事しながら試合を行うといった軍当局への迎合、親会社が鉄道や新聞社など国民生活を支える重要産業で当局が介入しにくかったことなどを挙げる。『生きる/動く,からだ』(筆者井上邦子)はモンゴルの伝統的な暮らしとスポーツ文化の関わりに触れ「モンゴルでは、生きることはからだを動かすことであり、からだを動かすことは生きることである」「牧畜の身体技法が相撲の技と一つながりになっている」と指摘する。

 他に『レースは過酷だったのか アムステルダム五輪女子800m走のメディア報道がつくった「歴史」』『集団体操時代の「変な体操」日本体操(やまとばたらき)とその周辺』『野見宿禰は河童なのか 「橘」と兵主の関係から探る』なども。

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<BOOK> 「ネットで見かけた信じられない日本語」

2015年11月19日 | BOOK

【三條雅人著、社会評論社発行】

 〝ネット誤植ハンター〟というのが著者三條氏の肩書。情報源は主にインターネットとテレビで、ネットはRSS(更新情報)を大量登録して一気読みし、テレビは録画しチェックしているという。本書には2004年以降に拾い集めた約700の〝珍言葉〟が検索例や件数、「もしかして○○」(正解)とともに収められている。

        

 それらの中から件数が多かった一部の〝珍言葉〟を列挙すると(カッコ内が正解?)――。クレーン射撃(クレー射撃)、割り合いさせていただきます(割愛させて…)、目尻が熱くなった(目頭)、間逆(真逆)、時代交渉(時代考証)、一過言ある(一家言)、コテンパ(こてんぱん)、屈折○年(苦節)、心身代謝(新陳代謝)、源泉たれ流し(源泉かけ流し)、容姿淡麗(容姿端麗)、手持ちぶたさ(手持ちぶさた)、進化が問われる(真価)、先見の目がある(先見の明)

 担当直輸入(担当直入)、過分にして知らない(寡聞)、ちんちんかんぷん(ちんぷんかんぷん)、覚醒の感(隔世の感)、そうは問屋が許さない(卸さない)、常道手段(常套手段)、排水の陣(背水の陣)、目に鱗(目から鱗)、心臓から口が…(口から心臓が…)、生活週間病(生活習慣病)、大意はありません(他意)、著作権表記All nights reserved(rights)、人肌脱ぐ(一肌)、CUP NEEDLE(CUP NOODLE)、私服のひととき(至福)、禁煙可(喫煙可)

 著者は「私はこの本を、言葉を知らない人を笑う為に書いたわけではありません」と強調する。本書によってネット上に変換ミスや勘違い、うろ覚えなどによる間違いがいかに多いか、改めて思い知らされるとともに他山の石としなければ、との思いも強くした。ただ言葉は生きている。古語が消える一方で新語が次々と生まれる。著者もあとがきにこう記す。「変な言葉を使って笑われている人達は、もしかしたら新しい言葉を先取りしている人達なのかもしれません。そして、それらの言葉は何年後かに……国語辞典に載るかもしれません」。

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<BOOK> 「戦闘報告書」が語る日本中世の戦場

2015年11月14日 | BOOK

【鈴木眞哉著、洋泉社発行】

 鉄砲が普及する以前は刀や槍を振り回す白兵戦が主体で、織田・徳川連合軍の鉄砲隊が武田方の騎馬軍団を滅ぼした長篠の戦い(1575年)が大きな転機となった――。これが中世の戦闘に対する一般的なイメージではないだろうか。だが、著者は武士たちが戦いでの自らの功績を申告した「軍忠状」や「合戦注文」といった戦闘報告書の詳細な分析から、そんなイメージが錯覚または幻想であり「実態とかけ離れたものである」と指摘する。

            

 著者鈴木眞哉氏(1936年生まれ)は歴史研究家として「歴史の常識」を問い直すことに主眼を置いて研究活動に取り組んできた。著書に『戦国時代の大誤解』『鉄砲隊と騎馬軍団』『NHK歴史番組を斬る!』など。本書は「軍忠状」など戦闘報告書に記された死傷の原因を解明することで中世の戦いぶりに迫った。

 調査の対象期間は鎌倉時代の最末期から江戸時代初期までの約300年間。これを①南北朝期=「軍忠状」が最初に現れた鎌倉最末期の1333年から1387年まで②戦国前期=1467年(応仁元年)から1561年までの約100年間③戦国後期=鉄砲による負傷者が初めて報告書に登場した1563年から1638年まで――の3つに分けて分析した(①と②の間の80年間は戦闘報告書がほとんどない空白期間)。

 その結果、最初の南北朝期は弓矢が支配した時代で、負傷者581人のうち86%に当たる500人が弓矢による「矢疵・射疵」だった。戦国前期になると引き続き「矢疵・射疵」が全体の61%を占めるが、槍の普及によって「槍疵・突疵」が19%と急増し「石疵・礫疵」も16%とかなり多かった。「石疵・礫疵」については城の上などから落としかけられたものか、石弾を撃ち出す粗製の小銃によるものなのかなどは不明。戦国後期は鉄砲全盛時代で「鉄砲疵」が死傷者全体の45%を占める。次いで「槍疵・突疵」21%、「矢疵」17%。

 戦国時代を通して見ると、死傷者の74%超が弓矢や鉄砲など〝遠戦兵器〟によるものだった。それらの数字から「中世の人たちが遠戦主義つまり飛び道具主体の戦いをしていたことは、まず疑いの余地がない」とし、「当時の主武器であったかのように誤解されることの多い刀剣類には、ほとんど活躍の場がなかった」と指摘する。では、戦いの主流が接近戦の白兵主義だったように信じられてきたのはなぜか。

 著者は南北朝の戦乱を描いた『太平記』が火元だったのではないかとにらむ。『太平記』では騎馬武者が馬上で刀を振り回すのが戦闘の基本という見方で書かれており、それが後の軍記物などにも大きな影響を及ぼしたという。時代劇といえば必ずチャンバラの場面が登場するが、その時代がいつなのかもっと注視する必要がありそうだ。

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<BOOK> 「人生に役立つ都々逸読本 七・七・七・五の法則」

2015年10月14日 | BOOK

【柳家紫文著、海竜社発行】

 著者柳家紫文は三味線演奏家として歌舞伎座などに出演後、1995年に柳家紫朝に弟子入りし演芸に転向。その傍ら、全国各地で都々逸講座を開くなど都々逸の普及に努めてきた。著書に『紫文式 都々逸のススメ』など。都々逸の基本形は「七・七・七・五」。江戸時代の終わりに都々逸坊扇歌という芸人が寄席ではやらせたため「都々逸」と呼ばれるようになったという。

       

 「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は 百合の花」。最初に出てきたのがこの有名な文句。えっ、これが都々逸? 続いて「ざんぎり頭を 叩いてみれば 文明開花の 音がする」。少し遠い存在のように思えていた都々逸が、意外と身近なことにびっくり。「人生の機微が乙に洒脱に『二十六文字』の中に表されており、そのエッセンスは現代を生きる私たちも深く共感し思わずうなずいてしまうものばかりです」(『はじめに』から)。

 序章「知っておきたい名作都々逸」のトップバッターは「惚れた数から 振られた数を 引けば女房が 残るだけ」。続く「三千世界の 鴉(からす)を殺し 主(ぬし)と朝寝が してみたい」はあの高杉晋作の作とか。1~4章から印象に残ったものを以下に列挙――。「ガキの頃から イロハを習い ハの字を忘れて イロばかり」「三味線の 三の糸ほど 苦労をさせて いまさら切るとは ばちあたり」「こぼれ松葉を あれ見やしゃんせ 枯れて落ちても 二人連れ」「案ずるな 炊事洗濯 それだけできりゃ きっと見つかる 婿の口」「親の意見と なすびの花は 千にひとつの 無駄もない」

 各章の間に「コラム」を挟む。それによると「全国の民謡の80%以上は七・七・七・五で都々逸と同じ」とか。歌謡曲にも多いとして、「リンゴの唄」「無法松の一生」「高校三年生」などを挙げる。落語の中に登場するのは「医者の頭に 雀がとまる とまるはずだよ ヤブじゃもの」「落語家殺すにゃ 刃物はいらぬ あくび一つで 即死する」などなど。最後のコラムは「寅さんだって、七・七・七・五」。フーテンの寅さんの口上は「けっこう毛だらけ 猫灰だらけ 尻のまわりは クソだらけ たいしたもんだよ 蛙の小便 見上げたもんだよ 屋根屋の褌……」。

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<BOOK> 「なぜ、日本人は横綱になれないのか」

2015年09月27日 | BOOK

【舞の海秀平著、ワック発行「WAC BUNKO」】 

 日馬富士に続き白鵬の序盤休場で、悲願の日本出身力士の優勝が期待された大相撲9月場所。だが、終わってみれば賜杯を手にしたのは1人横綱の鶴竜。大関照ノ富士は右膝靱帯損傷にもかかわらず本割で鶴竜を下し決定戦まで持ち込んだのはさすが。次期横綱候補の最右翼が照ノ富士であることは間違いない。〝モンゴル4人横綱時代〟の到来がいよいよ現実味を帯びてきた。

       

 「なぜ、日本人は横綱になれないのか」。日本人なら相撲ファンならずとも忸怩たる思いを抱いていることだろう。日本人横綱の誕生は1998年の3代目若乃花が最後。2003年に弟の貴乃花(現貴乃花親方)が引退してからは日本人横綱不在が10年以上も続く。日本出身力士の優勝は2006年初場所の大関栃東(現玉ノ井親方)が最後で、以来9年余にわたって優勝なし。これじゃ〝国技〟の名も廃るというものだろう。

 著者舞の海は現役時代〝平成の牛若丸〟の異名を執り、今はNHK解説者やテレビCM、タレントなどとして活躍中。日本人横綱が出ない背景について「相撲界だけの問題ではなく、日本人全体の問題もあるのではないか」とし指摘する。まず教育や躾の問題。小見出しを拾うと「権利だけを主張する最近の親が教育を悪くしている」「子どもには勝ち負けや順位が励みになる」「『ハングリー精神って何ですか?』」「言葉で傷つく、ひ弱な若者が多くなっている」……。

 加えて収入の問題。プロ野球は1億円以上のプレーヤーが70人近くいるのに大相撲は白鵬1人だけ。夢=金という風潮が強い中で、「日本人の若者が力士になりたいという夢は持ちにくい」。一方、同じ収入でもモンゴル人にとっては生活レベルから10倍の価値がある。ハングリー精神があり、モンゴル相撲の伝統から大相撲にも馴染みやすい。最後に「日本相撲協会は短期的な相撲人気に左右されずに、大相撲のこれからを見据えて、長い目で相撲文化の継承・普及に取り組んでもらいたい」と注文する。

 舞の海のテレビ解説は歯切れがよくなかなか好評のようだ。ただ今年7月場所では「白鵬の力は落ちている」とずばり発言し、これに対し白鵬が優勝後のインタビューで「もう少し温かい言葉を頂ければうれしい」と話す場面も。その伏線と思われるエピソードが本書(5月発行)の中にあった。

 舞の海が引退後、春日野部屋に稽古を見て行ったときのこと。宮城野親方(白鵬の師匠)が来ていて「白鵬が稽古に来る」というので待っていたが、一向に姿を現さない。そのうち白鵬の付け人がやって来て親方に「今日はこちらには来ませんよ」と。舞の海はその1件について「自分の部屋の力士の行動も知らないのです。そんなことでは親方は笑いものになってしまいますが、師匠の指導が問題なのです」と手厳しい。

 さらに白鵬の取り口についても「品格のない面もある」と指弾する。「(肘を相手の顔にぶつけるような)威嚇行為をすること自体、余裕がなくなっていることを示し……」「横綱にもかかわらずしばしば張り手をします。白鵬が尊敬する大鵬は、横綱になってから張り手はしたことがないと思います」。白鵬は本書でのこうした親方批判や取り口批判にもカチンと来ていたのではないだろうか。

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<BOOK> 「天皇家と生物学」

2015年09月20日 | BOOK

【毛利秀雄著、朝日新聞出版発行】

 生物学に携わる世界の優れた研究者に与えられる賞に「国際生物学賞」がある。30年前の1985年(昭和60年)、昭和天皇の在位60年と長年にわたる生物学の研究を記念するとともに生物学の奨励を図る目的で創設された。内外のメンバーで構成する審査委員会で選ばれた受賞者(毎年1人)には今上天皇・美智子皇后ご臨席の中でメダルと賞金1000万円が与えられる。

            

 本書は昭和天皇、今上天皇、秋篠宮さまを中心に天皇家の方々と生物学の関わりに焦点を当て、その背景や研究内容、内外での評価などについて詳しく紹介する。著者毛利氏(1930年生まれ)は元日本動物学会会長、理学博士。東京大学教養学部学部長の後、放送大学副学長や国立基礎生物学研究所長、岡崎国立共同研究機構長を務めた。著書に『日本の動物学の歴史』(共編著)、『生物学の夢を追い求めて』など。

 序章「君主と学問」に続いて第1章「初代 昭和天皇」、第2章「第二代 今上(明仁)天皇と常陸宮」、第3章「第三代 秋篠宮と黒田清子さん」、第4章「国際生物学賞について」で構成。昭和天皇の主な研究テーマは海産無脊椎生物ヒドロゾア類と変形菌だった。この2分野で多くの新種を発見しており、「国際生物学賞」で授与されるメダルも新発見のキセルカゴメウミヒドラの群体が図案化されている。カニやウミウシ、ヒトデなどでも多くの新種を発見している。ハタグモガニ、ヒノマルクラゲ、コトクラゲ、エノコロフサカツギ……。

 昭和天皇が「雑草という名の植物はないよ」とお側の者をたしなめられたという逸話は有名。皇居の吹上御苑では草刈りなどを中止させ、自然に近い野草園とした。植物に関する最後の著書『皇居の植物』には1470種もの植物について記されている。和歌山・田辺湾の神島で1929年、博物学者で変形菌研究者の南方熊楠からキャラメルの箱に入った標本の献上があった。「筆者のような戦中派にとっては当時の感覚として、きわめて不忠・不敬なことであったと映る」とは筆者の感想。その箱は今でも昭和記念公園の昭和天皇記念館で見ることができるそうだ。

 今上天皇の主要研究分野はハゼの分類学。クロオビハゼ、コンジキハゼなど日本産の6新種を発見し、日本での新記録種や新たに和名を付けたものも20種近い。新たな和名のうちアケボノハゼとギンガハゼは美智子さまが、シマオリハゼは紀宮さま(黒田清子さん)が名付けられたそうだ。ハゼの研究は海外でも高く評価され、リンネ協会の外国会員に選ばれている。生物学分野の研究は秋篠宮さまにも引き継がれ、主にナマズやニワトリに関する論文を発表されている。悠仁さまも昆虫など生き物への関心が高いという。いずれ生物の研究に携わることになるのだろうか。

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<BOOK> 「大相撲 知れば知るほど」

2015年09月17日 | BOOK

【ベースボール・マガジン社発行、「相撲」編集部編著】

 大相撲人気が続いている。今年は1月場所から4場所続けて15日間「満員御礼」。この9月場所も前売り券が既に千秋楽まで完売しており、5場所連続の大入りが確実とか。ところが第一人者白鵬が初日からよもやの2連敗・休場で、日馬富士も含め横綱3人のうち2人が休場という異常事態。前売り券を買った相撲ファンは肩透かしを食ったような気分に違いない。

          

 本書発行日は7月の名古屋場所が始まる直前の7月11日付。表紙はもちろん圧倒的な強さを誇ってきた横綱白鵬が飾る。4章構成。第1章「大相撲歳時記」では1月の明治神宮奉納土俵入りに始まって12月の冬巡業まで、関取たちの1年間をカラー写真を中心に紹介する。第2章は「大相撲ものしり帖」。賜盃(しはい)や優勝額、土俵入り、行司や呼出し、明け荷(開け荷)、弓取式、決まり手などについて詳しく触れる。

 その中には知っているようで知らないことも数々。賜盃は千秋楽の表彰式後どうなるのか。記念撮影がすむと相撲協会が預かって保管し、優勝者には後日、小型のレプリカが贈られるそうだ。優勝額は一見カラー写真に見えるが、もともとはモノクロ写真に油絵の具で彩色したもの。62年間担当していた彩色家が85歳で引退したため、昨年の1月場所からはデジタル写真技術によるカラー写真になったという。

 他にも▽「国技館」という名称がヒットしたから相撲は「国技」といわれるようになった▽番付に呼出しや床山の名前が行司のように常に載るようになったのは2008年の初場所から▽稽古廻しは汚れても洗わず、干して日光消毒するのが基本▽明け荷の重さは空で10キロ、荷物を詰め込んだら50キロ以上▽江戸時代の名横綱谷風が上覧相撲で将軍からもらった弓を手に舞ったのが弓取式の始まり――など相撲界の様々なエピソードなどを満載している。

 第3章は「人気力士 オフショット名鑑」。番付上位の力士を中心に出身地や体格、得意技などに加え「寸評」を添えている。白鵬は「東日本大震災の際の慰問など土俵外での貢献も大きい」、照ノ富士は「入門前は数学オリンピックの金メダルに輝いたことも」。エジプト出身の大砂嵐の本名は「シャーラン・アブデラハム・アラー・エルディン・モハメッド・アハメッド」と実に長い。貴ノ岩の身長が「1182cm」になっているのはご愛嬌か。第4章「大相撲を楽しむための徹底ガイド」では様々な疑問にQ&A方式で答えている。タイトル通り「知れば知るほど」相撲のテレビ観戦がより楽しくなってきた。

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<BOOK> 「仰げば尊し 幻の原曲発見と『小学唱歌集』全軌跡」

2015年09月12日 | BOOK

【櫻井雅人、ヘルマン・ゴチェフスキ、安田寛共著、東京堂出版発行】

 卒業式の定番曲として親しまれてきた名曲『仰げば尊し』。約130年前の明治10年代に文部省によって編纂・出版された「小学唱歌集」の第3編に初めて収録されたが、作曲者・作詞者をはじめ誕生のいきさつが全く分からない謎の曲だった。その原曲が米国の歌集の中から見つかったという大ニュースが流れたのは4年前の2011年のことだった。

        

 発見したのは本書共著者の1人で一橋大学名誉教授の櫻井雅人(1944年生まれ)。その年の1月、米国の「Song Echo(ソング・エコー)」という歌集の中に『仰げば尊し』と旋律が全く同じ『Song for the Close of School(卒業の歌)』(作詞T.H.ブロズナン、作曲H.N.D)を見つけた。「今こそ別れめ」のフェルマータの位置まで同じだった。櫻井はそのときの心境をこう記す。「『君はこんなところに隠れていたのか』と、喝采をさけんだというよりは肩の荷が下りた気分だった」。その大発見について櫻井は奈良教育大学名誉教授の安田寛(1948年生まれ)にメールを送る。安田は19~20世紀の環太平洋地域の音楽文化の変遷を研究する〝メル友〟だった。

 さらに、このニュースを安田が「歴史的認知音楽学研究会」のメーリングリストに投稿した。すると、会員の1人で東京大学准教授のヘルマン・ゴチェフスキ(1963年ドイツ生まれ)から早速こんな投稿があった。「この歌がどういう経緯で『小学唱歌集』に取り入れられたのか、アメリカではまったく歌い継がれなかった歌がなぜ日本でこんなに長く歌い継がれたのか、これから解明しなければならないことが沢山ありそうです」。この3人が『仰げば尊し』の原曲発見を契機に結ばれて本書につながった。

 3人の共同研究は「小学唱歌集」3冊に掲載された91曲全ての原曲を突き止めることから始まった。それまで原曲が分かっていたのは半分にも満たなかった。それが①民謡説=唱歌集の曲はスコットランドやアイルランドの民謡から採用された②賛美歌説=多くが賛美歌から採られた③唱歌説=文部省に雇われ唱歌集編纂にも携わった米国人W.メーソンなどの音楽教科書から採用された――という諸説を生んだ。民謡説を支持する人たちは『仰げば尊し』もスコットランド民謡と主張していた。

 原曲追跡を基に3つの説の真偽を検証した。民謡はスコットランド民謡が8曲、アイルランド民謡が1曲で全体の1割弱しかなかった。そのため「民謡説は偽である」と判断した。賛美歌については厳密に讃美歌といえるのは10曲だが、広く捉えると22曲あった。そのことから「賛美歌説は真である」とみた。賛美歌が多く含まれた背景には「メーソンにキリスト教伝道に貢献する意図があった」。また唱歌についてはドイツの学校教材から34曲、英米の学校教材から25曲が採用され過半数を占めたことから「唱歌説は真である」と結論づけた。

 原曲追跡の作業は膨大な時間と根気を要した。「あとがき」で〝灯台下暗し〟のエピソードを紹介している。最後まで原曲が分からなかったのが唱歌集最後の第91曲『招魂祭』。『仰げば尊し』を発見した櫻井自身もこの原曲だけが分からないとお手上げだった。ところがゴチェフスキから程なく「見つけた」という報告が届いた。その原曲はなんと、櫻井が『仰げば尊し』を見つけた米国の歌集「Song Echo」の中に載っていたのだ。巻末には「小学唱歌集」全曲の原曲リストが掲載されている。

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<BOOK> 「なにわことば遺跡 名歌・名表現からみる大阪の歴史」

2015年09月09日 | BOOK

【山本正人著、清風堂書店発行】

 「またも負けたか八連隊」。6日午後、大阪・西成の「ジャンジャン横丁」の居酒屋。テレビ中継の阪神・中日戦で、阪神が0対5で完封負けした瞬間だった。女性経営者の口からこの言葉がごく自然に飛び出した。年の頃70代後半とお見受けした。つい先日、本書『なにわことば遺跡』の中で見かけたばかりの表現だったから、驚くやら感動するやら。この言葉、決して〝遺跡〟ではなくて、まだまだ〝現役〟だった!

        

 著者は1957年大阪・島之内生まれ。高校で30年以上〝受験地理〟を指導する傍ら、趣味のフィールドワーク、大阪ものの古書探しなどを生かして地域史研究家としても活躍中。古文書や和歌、辞世の句、歌謡曲、小説などから大阪にまつわる名歌や名言、名呼称などを、時代を追って紹介する。1番目は大阪市内で初めて発掘された縄文時代の人骨の名称【大阪市民第一号】、最後の108番目は大阪発超小型人工衛星の【まいど1号】。

 【またも負けたか八連隊】は93番目に登場する。八連隊は1874年に創設された大阪の歩兵第八連隊のこと。弱いものの代名詞として使われてきた俗謡で、この後【それでは勲章九連隊(くれんたい)】と続く。日中戦争中には中国側の八路軍からスピーカーで「こら~八連隊、あまえら弱いいう評判や、無理せんで降伏せえ」となまりの強い日本語でからかわれたとか。だが、なぜ弱いと揶揄されるようになったか、その理由は不明とのこと。実際には西南戦争で活躍して明治天皇からお褒めのことばを賜ったり、太平洋戦争でもフィリピンのバターン・コレヒドール攻略戦で奮戦したりするなど数々の戦功を挙げたそうだ。

 【露と散る涙に袖は朽ちにけり都のことを思い出ずれば】。この歌は菅原道真が大宰府左遷時に曽根崎で詠んだもの。与謝蕪村は天王寺の情景を【名物や蕪(かぶら)の中の天王寺】と詠んだ。【天野屋利兵衛は男でござる】は「忠臣蔵」で有名になった浪花商人の名ぜりふ。辞世の句も多く登場する。細川ガラシャの【散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ】、石川五右衛門の【石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ】など。ほかに【われ、幻の大極殿を見たり】(難波宮の大極殿跡が発掘された時の山根徳太郎博士のことば)、【グラウンドには銭が落ちている】(南海ホークス監督鶴岡一人のことば)、【おれについてこい!】(女子バレーボール監督大松博文の名言)なども取り上げている。

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