tokushoを転勤してから3年が経過しようとしています。本当に早いものです。今年度は我がBOSSであるesk先生が定年退職を迎えられます。
一緒に競技指導をさせてもらって本当に多くのことを学ばせてもらいました。時には厳しく、時には守ってもらう。短距離だけに特化してやらせてもらえたことは今の指導のベースを作ることができたと思っています。トレーニング系ではかなりヒントをもらいながらやっていきました。最初の段階では比較的重いメディシンを使っていましたが短距離系に本当に必要なのか?と言われ考える。瞬発的な動きを求められているのに重くてゆっくり動き始めても繋がらないのではないか。その辺りのことを常に話ながら指導してきました。
また、同時期に長距離を専門とされているhry先生も一緒に指導していました。冷静に物事を見ておられて熱くなりすぎる部分も常に指摘してもらっていました。hry先生は私よりも数年早く転勤されていました。hry先生も今年で定年退職。かなり思うことがあります。
tokushoは私達が赴任した時には本当にジョギングクラブでした。商業と工業が合併する直前にesk先生が赴任されtokushoの1期生の時に初めて一緒にやるようになる。esk先生が赴任された時は工業側も本気で競技をやってはいなかったのでなかなか難しかったようです。明日からこの3倍やると伝えるとほとんどがいなくなったと言われていました。そんな中からのスタート。本当に何もないところからスタートしたかなと。
その年運良く中国大会に進みました。一緒にやるようになって4年目、esk先生が指導されていた円盤投げの選手が奈良インターハイへ。翌年はトラックの部は私が指導している選手が多くの種目で活躍してトラック優勝。フィールドの部はesk先生が指導している数名でフィールド優勝。何もないところから始まったチームが県総体で総合優勝しました。その年は沖縄インターハイ、私も指導者として初めてインターハイへ。
無名校がリレーでインターハイに進んだり中国大会の100mで複数入賞する。そこにはやはりBOSSであるesk先生の存在がありました。奈良インターハイから今年の山形インターハイまで短距離から跳躍、投擲で9年連続で出場することができました。地方の普通の学校でここまでできるというのはなかなかないと思っています。
私が転勤してからは短距離は募集せず。転換する時に「代わりを見つけてくる」という話だったのですがそれもなくesk先生一人になるため難しい状態になりました。そこからは一人で投擲中心に進んできました。本当にesk先生がいたから山口県の投擲は前に進んできたと思っています。
今回の定年退職に伴いesk先生も学校を去ることになりました。その後の人事はよく分かりませんがtokushoの陸上競技部の短いながら輝いていた歴史は一旦終止符を打つことになるのではないかと思います。もちろん今でも選手がいますからきっとesk先生がどのような形かでサポートされると思います。それでも寂しすぎます。強化指定をもらって二人でやっていましたが、基本投擲についてある強化指定だったと思っています。その部分はどうなるのか?全く先が見えないかなという気がしています。
今日の朝、その事をtokushoの卒業生に伝えました。彼ら彼女たちにとって高校時代の中心であった陸上競技部。どのような形になったとして活動を通じて学んだ事や身につけたことは失われません。誇りに思ってもらいたいなと思います。
寂し過ぎる。心からそう思います。今は陸上競技部ですがそのうち陸上部になるのか。競技を通じて選手たちが成長する姿を見てきた私たちとすれば本当に寂しい。楽しいという本当の意味。ここを理解することができるのは本気になった者だけだと思います。
一つの時代が終わろうとしているのかなと。tokushoのOBやOGの「想い」を背負ってやっていきたいなと思います。それを引き継げるのはみんなの姿を見ていた私かなと勝手に思っています。tokushoの選手達と少しだけでも一緒に練習してきたうちの選手がそれを引き継ぐ。実際にmihoやmakinoとは何度も一緒に練習をしてきました。何かしら感じ取るものがあったはずです。
想いを繋ぐ。前を向いていきたいと思います。それしか私には出来ません。
年度末の今日、複雑な想いを胸に時間を過ごしています。上手く表現できません。情けない。
一緒に競技指導をさせてもらって本当に多くのことを学ばせてもらいました。時には厳しく、時には守ってもらう。短距離だけに特化してやらせてもらえたことは今の指導のベースを作ることができたと思っています。トレーニング系ではかなりヒントをもらいながらやっていきました。最初の段階では比較的重いメディシンを使っていましたが短距離系に本当に必要なのか?と言われ考える。瞬発的な動きを求められているのに重くてゆっくり動き始めても繋がらないのではないか。その辺りのことを常に話ながら指導してきました。
また、同時期に長距離を専門とされているhry先生も一緒に指導していました。冷静に物事を見ておられて熱くなりすぎる部分も常に指摘してもらっていました。hry先生は私よりも数年早く転勤されていました。hry先生も今年で定年退職。かなり思うことがあります。
tokushoは私達が赴任した時には本当にジョギングクラブでした。商業と工業が合併する直前にesk先生が赴任されtokushoの1期生の時に初めて一緒にやるようになる。esk先生が赴任された時は工業側も本気で競技をやってはいなかったのでなかなか難しかったようです。明日からこの3倍やると伝えるとほとんどがいなくなったと言われていました。そんな中からのスタート。本当に何もないところからスタートしたかなと。
その年運良く中国大会に進みました。一緒にやるようになって4年目、esk先生が指導されていた円盤投げの選手が奈良インターハイへ。翌年はトラックの部は私が指導している選手が多くの種目で活躍してトラック優勝。フィールドの部はesk先生が指導している数名でフィールド優勝。何もないところから始まったチームが県総体で総合優勝しました。その年は沖縄インターハイ、私も指導者として初めてインターハイへ。
無名校がリレーでインターハイに進んだり中国大会の100mで複数入賞する。そこにはやはりBOSSであるesk先生の存在がありました。奈良インターハイから今年の山形インターハイまで短距離から跳躍、投擲で9年連続で出場することができました。地方の普通の学校でここまでできるというのはなかなかないと思っています。
私が転勤してからは短距離は募集せず。転換する時に「代わりを見つけてくる」という話だったのですがそれもなくesk先生一人になるため難しい状態になりました。そこからは一人で投擲中心に進んできました。本当にesk先生がいたから山口県の投擲は前に進んできたと思っています。
今回の定年退職に伴いesk先生も学校を去ることになりました。その後の人事はよく分かりませんがtokushoの陸上競技部の短いながら輝いていた歴史は一旦終止符を打つことになるのではないかと思います。もちろん今でも選手がいますからきっとesk先生がどのような形かでサポートされると思います。それでも寂しすぎます。強化指定をもらって二人でやっていましたが、基本投擲についてある強化指定だったと思っています。その部分はどうなるのか?全く先が見えないかなという気がしています。
今日の朝、その事をtokushoの卒業生に伝えました。彼ら彼女たちにとって高校時代の中心であった陸上競技部。どのような形になったとして活動を通じて学んだ事や身につけたことは失われません。誇りに思ってもらいたいなと思います。
寂し過ぎる。心からそう思います。今は陸上競技部ですがそのうち陸上部になるのか。競技を通じて選手たちが成長する姿を見てきた私たちとすれば本当に寂しい。楽しいという本当の意味。ここを理解することができるのは本気になった者だけだと思います。
一つの時代が終わろうとしているのかなと。tokushoのOBやOGの「想い」を背負ってやっていきたいなと思います。それを引き継げるのはみんなの姿を見ていた私かなと勝手に思っています。tokushoの選手達と少しだけでも一緒に練習してきたうちの選手がそれを引き継ぐ。実際にmihoやmakinoとは何度も一緒に練習をしてきました。何かしら感じ取るものがあったはずです。
想いを繋ぐ。前を向いていきたいと思います。それしか私には出来ません。
年度末の今日、複雑な想いを胸に時間を過ごしています。上手く表現できません。情けない。