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看板に偽り・・

 小谷野敦著「『こころ』は名作か」(新潮新書)を読んだ。書店でこの本を見つけた時、少し前に毎日新聞夕刊で、この本の題名と同じ主旨の記事が載っていたのを思い出した。確かこの本の作者のインタビューも載っていたと思うが、夏目漱石を敬愛し、多大なる影響を受けた私としては、徒に看過できぬ由々しき題名であり、すぐに購入して読み始めた。
 実を言えば、私自身「こころ」はあまり好きではない。かつて塾生の女子高生に頼み込まれて渋々感想文を書いたことがあったが、そこには漱石の視点が男中心のものであり、先生の奥さんは何も知らされないまま、夫を失ってしまうのだからあまりに可哀想だ、と不満を書いた覚えがある。フェミニストを気取ったわけではないが、その辺りが明治を生きた漱石と昭和生まれの私との感覚的な違いかな、と今でも思っているので、筆者の指摘する「こころ」の抱える現実との非整合性に納得する点はないわけではなかった。しかし、小説をそんなに現実と照合して、瑕疵をあげつらってみたところでどんな意味があるのか私には理解できない。筆者のように文学を研究している学者にはそれなりの発見なのかもしれないが、大多数の読者にとっては枝葉末節のどうでもいいことにすぎない。もちろん私も、なるほどとは思っても、だからと言って「こころ」が愚作だと断言しようとは思わない。筆者も繰り返し書いてるように、文学には普遍的な基準などないのだから、こうした見方もあるんだ、くらいに捉えておくのが無難なところだろう。
(そうは言っても、かつて私も大江健三郎の小説を読んでいて、まだ携帯電話がさほど普及していない時期であったのに、四国の山中奥深く入った人と携帯電話で話す場面に出会って、さすがにこれはありえないだろう、と一気に興が冷めてしまって、その先を読む気がまったく起こらなくなってしまったことがあるから、筆者の気持ちが理解できないわけではない・・)

 しかし、この本を読み始めて一番驚いたことは、題名に惹かれて読み始めた私に肩透かしを食らわすかのように、筆者が考える「こころ」が名作の名に値しない点を述べる箇所が余りに少なくて、大部分を筆者の厖大な読書遍歴の結果導き出した「読書案内」が占めていたことだ。確かに一人でそれだけの本を読み通したのはすごいと思う。私など足元にも及ばなく恥じ入るばかりだが、もし初めから本書が筆者の勧める必読の書を挙げたものだと分かっていたなら、きっと読み始めることはなかっただろう。そう思うと何だか題名に騙されたような気になった。確かにインパクトのある題名で読者を惹きつけるのも、著作を売るためには必要なのだろうが、ちょっとあからさまかなとげんなりしてしまった。それでも最後まで読み通せたのは、筆者が誰はばかることなく、名作の誉れ高い小説をバッタバッタと切っていく筆致の鋭さに感心したからだ。該博な知識の裏づけがあってこそ、これだけ思ったことを忌憚なく表明できるのだろうが、そんな筆者の姿勢が正直羨ましく思えた。
 そこで1962年生まれの筆者のプロフィールを少し調べてみた。色んな分野で著作を刊行しているようだが、中でも『もてない男――恋愛論を超えて』(ちくま新書)は彼の著作中最高の10万部を売ったそうだ。題名を見るとなかなか面白そうだし、本書の中でも自らを「恋愛評論家」と名乗っているから読んでみようかなと反射的に思ってしまったが、本書で少しばかり失敗した感は否めないので、もうちょっと調べてから読むかどうか決めようと思っている。まあ、自分のことを「かっこいい」と思い続けている私にはあまり理解できない世界のことかもしれないが・・。
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