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「劔岳 点の記」

 「劔岳 点の記」を見た。明治時代に日本地図を完成させるため、誰も登頂していない劔岳に三角点を立てようとした測量技師たちの物語であるのは知っていた。出演者も浅野忠信、香川照之、松田龍平らだというのも知っていた。だが、それ以上の知識はないまま、例えば「劔岳」がどこにあり、高さがどれくらいあるのかという、技師たちの直面した困難さを知るためには最低不可欠な知識は持たないまま、見てしまった。確かに映画を見ていれば、どれだけのことを成し遂げた人々の記録かは、十分分かった。出演者が実際に自らの足で何度も登頂し、CGなどを使わずに撮影したという話も聞いていたから、迫力あるシーンの連続であるのも納得できた。よくもまあ、こんな危険な映画に出演したものだ、と生来臆病な私には彼らの映画作りに賭ける熱い思いも並大抵ではないのが痛感できた。
 でも、何だか今ひとつ心にこみ上げるものがなかった。主役の浅野忠信が重要な任務を任された責任者にしては軽すぎる印象を持ったのも事実だが、最後まで映画の中にすっぽりと感情移入ができなかったように思う。何故だろう。
 それは私に想像力が欠けているからだろうか。人間の接近を厳しく拒む峨峨たる劔岳の映像は迫力に満ちていた。米粒のようにちっぽけな人間が山裾を歩く姿は、遥か高みから俯瞰した図柄のようで、まるで神の視点のようにさえ思えた。だが、スクリーンを見ていて、足がすくむような感覚を一度も味合わなかった。私は高いところが苦手だ。屋根ほどの高さでも足がすくんでうまく歩けない。それなのに、劔岳の岩場を行く者たちの姿を見て足元が覚束なくなるような感覚がこみ上げてきて震えるようなことはなかった。思えば、不思議だ・・。
 

 この写真を見ながら、ふっと気づいたことがあった。それは、出演者の誰もが劔岳に登ることを恐れているようには見えなかったことだ。前人未到の劔岳、しかも聖地として土地の者は誰も登ろうとしない劔岳に登ろうとするのに、一点の迷いもないように見えた。もちろん地図を作らねばならない、という使命に燃えている者たちだというのは分かる。だが、登山の専門家たちでもない測量技師たちが人を寄せ付けない2999mの断崖絶壁の頂に立とうとするのになんらの恐怖を感じなかったはずはなかっただろう。死に対する恐怖に苛まれながらも、それでも一歩一歩進んでいく、そんな心の葛藤は常にきっとあっただろうが、それがこの映画からは伝わってこなかったように、私には思える。もし人間の本能が生きることにあるのなら、死に対する恐怖も本能だろう。生と死の狭間を進んでいくような劔岳登頂を描くにしては、そうした死への恐怖の描き方が薄かったのではないか、そんな気がしてならない。
 もちろんこれは私の勝手な印象であり、まったく映画の価値を損ねるものではない。隣で見ていた妻は泣いていたし、朝一番の上映にもかかわらず満員の館内からは、エンドロールを見ながら惜しみない賞賛を送っていた人もいた。出演者たちは役者の域を超えたまさに超人的な演技をしていたように思う。結局は、監督の演出が私の望むものとは違っていたということなのだろう・・。

 でも、松田龍平って時々松田優作に似すぎていて、ドキッとしてしまう。彼が出演する「蟹工船」の予告編も流されていたが、見に行こうかどうしよう・・。
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