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6 無罪が確定したものの,なぜ自分が逮捕され起訴されたのか合点が行かなくて,事件の真相を知りたいと考えた村木さんは,国と検察官個人を被告として損害賠償訴訟を提起したところ,被告らは非を認め,請求を認諾してしまい,村木さんの請求する金額が全て認められたため,事件の真相を審理するに至らず,またもや真相は分からないままで終わったのだそうである。検察庁も困って異例の対応をしたものであろう。
7 多くの事件で,検事は筋書を作って,その筋書の内容に沿った調書を作成しようとする。その筋書はどのようにして作られるかは明らかではないが,検事はその筋書を正しいものと決めてしまい,それに沿った供述をさせようとし,それに反する内容の供述を虚偽であると決め付けるのである。その筋書が正しければ格別問題はないかも知れないが,共犯事件などでは,自分の立場を有利にしようとして,他の共犯者を悪者にするために事実に反する供述をすることも少なくない。検事からみてその虚偽の内容が,検事にとって都合がよい場合には,その虚偽の話に飛びついて,それに反する内容を虚偽として受け付けないという対応をすることになり易い。しかし事件の真相は,立場の異なる多くの人の話を聞かなければ分からない筈であるのに,検事が都合のよいように勝手に筋書を作って,それに合致する内容で調書を作成しようとすると,調書の内容も間違うことになるし,誤判の原因ともなる。
8 村木さんの事件でも,検事の取調べにはいろいろと問題があったようである。例えば証明書を発行するように口利きをしたとされる国会議員が,肝心な時刻にはゴルフをしていたため,口利きなどは不可能であったこととか,当時の村木課長が証明書を交付したとされているが,現実には机の位置や周囲の構造から,筋書どおりには証明書の交付が不可能であるなど,検事の捜査は甚だ杜撰(ずさん)で裏付けを取っていないというのである。一体法律実務家としての検察官の生甲斐はどのようなものなのであろうか。
9 本書では,検事が「事実を認めて,早く事件を終わらせた方がよいのではないか。」とか,「共犯者はみんな認めているのに,なぜあなただけが認めないのか。」とか,事実に反する調書の訂正の申し出に応じず,署名押印を迫るなどの手法が書かれている。
 共犯者が認めたのは,否定しても聞き入れられず,やむなく事実に反する検事の筋書を認めされられた結果に過ぎないのであるから,「真実は何か」を追求するという視点からすると,何とまあ危うい手法が行われていることかと唖然とする。
 検事は,取り調べの対象者に,自らの筋書を認めさせるのではなく,真実を正直に話すことを求めて,それらを総合して真実に迫るべきであろう。
10 被疑者の供述を安易に信用して,易々と真犯人を取り逃がすようでも頼りないが,的確な捜査は現実にはなかなか困難な作業であろう。「例え十人の真犯人を逃すとも,一人の無辜(むこ)を処罰するなかれ」という法格言もある。
11  昭和60年ころ,刑事法の大家であった平野竜一元東大教授が,わが国の刑事裁判は「調書裁判」であるとして,「わが国の刑事裁判はかなり絶望的である。」と書かれた。その意味は,警察や検察で作成される被疑者の調書は,弁護士の立ち会いもなく密室で作成され,警察や検察が描く被疑者を有罪とする事件の筋書を証明する内容として作成されるために,真実に反する内容となっていることが少なくないので誤判の原因になっており,その状況は「かなり絶望的である。」と述べたものである。(ムサシ)



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